私はずっと、灰色の世界にいた。
空は一時も晴れることはなくて、いつだって雨が降っていた。
傘を持っていない私は、ずぶ濡れのままその世界に晒されている。
水は私に、ねっとりとまとわりつくようで。
だから、雨は大嫌いだった。
君に出会うまでは――。
* * *
新しい学び舎にも少しずつ慣れてきた六月初め。
中学に入って初めての中間テストが終了したその日、私はさっさと教室を出る支度をしていた。
クラス内の喧騒が耳朶を叩く。テスト直後の教室内は、開放感が凄まじい。
中学のテストは小学校とは違って結果や順位が張り出されるし、特にうちのような名門の私立中学は成績重視なところがあるから、みんなかなり努力したのだろう。
もちろん、それは私も例外ではない。
とにかく、テストは終わった。あとは結果を待つのみだ。
ようやくピアノを弾ける。鞄を手に椅子を引き、いそいそと教室を出ようとすると、前の席の友人、田辺あいに声をかけられた。
「あー夏恋! 今日カラオケ行かない? 中西たちも来るの」
中西とは、中西陽太。クラスで女子から一番人気の男の子だ。
スポーツが得意で、とりあえずいつも騒いでいる。
私は正直どこがいいのかまったく分からないけれど、あいは彼が好きなのだから、その想いを無下にするようなことを言うのはご法度だ。
なにごとも相手を否定することは良くない。
私は顔の前でパン、と両手を合わせて嘘の顔を作る。
「ものすごく行きたいんだけど……ごめん! 今日は……」
そっと視線を床へ流す。あいはなにかを察したようににやりと笑った。
「ははん。もしかして、また音楽室? 好きだねぇピアノ」
「えへへ」
「……ま、夏恋からピアノ取ったらなんにも残んないしね。仕方ない。また今度行こうね」
さりげなくひどいことを言われた気がするが、まぁいいだろう。
「うん。次は行くから」
「絶対だからね! じゃ、また明日ね」
「うん。バイバイ」
笑顔であいと別れる。
クラスメイトとは、そこそこちゃんとやっている。
いじめの標的になるのはごめんだし、かといっていじめる側につくのも嫌だから、ほどほどの距離感を保つのは必須だ。
創設が大正と古く、家柄や芸術的分野に重きを置くエリート校のクラスメイトたちは、プライドの塊が服を着ているようなもの。
子供だけでなく親も繊細だから、対応は気を付けなければならない。
あいや他のクラスメイトたちに、にこやかに手を振って教室を出ると、私は職員室へ向かった。
中学に入学してさっそく、私は音楽室に入り浸っている。
私が通う私立霞原中学校は、吹奏楽部などの芸術系の名門校でも知られる。
そのため、文化部にはそれぞれ特別に作られたホールが練習場所として与えられている。
つまり放課後の音楽室は、担任に許可さえ取れば一個人でも独占できるのだ。
今日は午前で授業が終わりだったから、下校の規定時刻まで六時間もある。弾き放題だ。
職員室の扉を叩いて、中を覗く。
「失礼します」
「あら、音羽さん」
私の声に気付いた担任が、にこやかに手招きをした。まっすぐ先生の元へ向かう。
担任教師の北角雪子だ。
北角先生は温厚な性格の年配女性で、彼女自身もこの学校の卒業生だという。お金持ち学校の出身らしく、話し方も雰囲気もおっとりとした人だ。
「テストお疲れ様。今日も音楽室?」
「はい。いいですか?」
「もちろんよ」
頷くと、北角先生は人の良さそうな顔に微笑を浮かべて鍵がしまわれている鍵棚へ向かう。
「音羽さんは本当に音楽が好きなのねぇ。そんなに好きなら、吹奏楽部とか入ればいいのに。今からでもどう?」
鍵をもらいながら、私は愛想笑いを浮かべる。
「いえ、私は自由に弾くのが好きなので」
「あらそう。あぁ、もちろん無理に誘ってるつもりはないのよ。でもなんかもったいない気がしちゃってついね。いやだわ、歳かしらね」
北角先生は私の家の事情を知っているからか、割と気楽に話すことができる。
よく気にかけてくれるし、今までの担任の中では一番好きだった。
「下校時刻までには返しに来ます」
「はい。よろしくね」
担任に鍵をもらって職員室を出る。
渡り廊下を抜け、三階に上がって一番右奥が音楽室である。
中に入ると、少し埃の匂いがした。でも、それすら私にとっては心地いい。
誰もいない音楽室では、時計の音とモノクロームの音だけが響く。生き物の音は私の呼吸音しかしない。なにより落ち着く空間だ。
友だち同士のおしゃべり、女子会、カラオケ。考えただけでも吐き気がする。
私は、人付き合いが苦手だ。
友だちはそれなりにいるけれど、友だちと過ごすよりもひとりでいた方がいい。
その口実としてやっているのが音楽――ピアノだった。
音楽は好きだけど、のめり込むほどでもない。
私は、なにをとっても本気になれない人間なのだ。
ピアノ椅子に腰掛け、ふうっと息を吐く。
やっとひとりになれた。
(……って、そもそも私はひとりだった)
既に両親を失っている私に本物の家族はいない。
いるのは仮初の友だちと、同情で私を飼った変わり者の親族。
資産家だったその人の養子になった私は、偽物のお嬢様になっていた。
グランドピアノの鍵盤を優しく叩いて、私はひとり音の余韻を楽しむ。
今日は頭が冴えている。
(何曲か作れそう)
窓の外から聞こえてくるのは、スパイクが地面を蹴る音。金属バットが球を打ち上げる音。歓声にかけ声。風に乗って聞こえてくる音は、とてもみずみずしい。
インスピレーションが湧き上がってくる。
流れるように動き出す指先と、弾む鍵盤。メロディが耳を突き抜けて、全身の血をふつふつとさせる。
無我夢中で、白紙の楽譜におたまじゃくしを書き込んでいく。
「……よし。できた」
完成した譜面をもう一度弾き、耳で感じた違和感を修正していく。それを何度も繰り返す。
「はぁー……楽しい」
一曲が完成して、私はごろんとピアノの下に転がった。
集中し過ぎたせいか、瞼が重い。そういえば、しばらくテスト勉強で睡眠時間を削っていたのだった。
眠いわけだ。
私は散らばった楽譜を片付けることもせずに、そっと目を閉じた。
* * *
「――君。ねぇ、君」
体が直に触れていた床が、とんとんと小さく揺れる。誰かがすぐそばの床を叩いているのだと気付いて、私はゆっくりと瞼を開ける。
目の前に、見知らぬ男子学生がいた。私を心配そうに見下ろしている。
まだ寝惚けた頭のまま、むくりと起き上がる。前髪をかきあげながら、眉をひそめた。
今何時だろう。
(……というかここ、どこだっけ……)
「よかった。床に倒れてるから、急病人かと思ったよ」
私を見て心底ホッとしたような顔をするこの人は、一体誰なのだろう。
床に手を置き、身を起こすと、手のひらになにかが触れた。視線をやると、それは楽譜だった。
すぐ真横には、光沢感のあるグランドピアノ。開け放たれた窓から聞こえてくる声。
ようやく、ここが音楽室であることを思い出す。もう陽はすっかり傾いているようだった。
「……ねぇ君、本当に大丈夫?」
低く、柔らかい声だった。顔を上げると、思いの外すぐ近くで視線がかち合った。
息を呑む。
夕暮れの強い西陽が、その人の輪郭を鋭く照らしている。
さらさらの黒髪。少し長めの前髪から覗く、飴色の瞳はくっきりとした二重をしていた。
鼻筋はすっと通っていて、目元には長く優雅な睫毛の影ができている。
まるでそういう景色のように美しい人だった。私は美術館にいるような心地でその人を見つめた。
「……?」
「……あ、あの?」
男子学生は眉を八の字にして、私を見つめていた。
私は、目の前のその人を見つめて思う。
「……誰?」
眉を寄せて私が視線を返すと、男子学生はおどおどとした様子で私から離れる。
「……あ、いや、僕は怪しい者じゃないよ」
「……?」
だから誰なんだ、となにも言わず眉を寄せていると、男子学生は私が怒っていると勘違いしたのか、
「だ、だって、誰もいないと思ってた音楽室で人が倒れてたら、誰だって驚くでしょ」
と、引き気味に言う。そこで私はハッと我に返った。
「……もしかして、ここ、これから使いますか? それならすぐ片付けます」
北角先生から鍵を借りたときは、終日空いてるから下校時刻までは好きにしていいと言われたはずだが。
楽譜を拾い集めていると、声が降ってきた。
「いや……ただ扉が少し開いてたから、入ってみただけだよ」
「……使わないんですか?」
「うん」
なんなんだ、と思い、楽譜を拾い集めていた手を止めた。用事がないならさっさと出ていってほしいのだが。
「……ねぇ、それよりさっきピアノ弾いてたのって、君だよね?」
「……そうですけど」
そもそも私以外に誰もいないのに、他に誰が弾くというのだ。
馬鹿なのだろうか。見たところ、私より歳上な気がするが。
「……校庭を歩いてたら綺麗なピアノの音が聞こえてきたから気になって来たんだけど……音が止んだなって思ったら、君が倒れてるものだから驚いたよ」
そういうことか。
「……楽譜が完成したら眠くなっちゃって」と、私は目を合わせないまま答えた。
「えっ! じゃああの曲、もしかして君の手作りなの?」
音楽に興味があるのだろうか。食いついてきた。
「……まぁ」
正直に頷くと、男子学生は嬉しそうにはにかんだ。
「ねぇ君、名前は? 僕、白木響介」
「…………はぁ……」
なぜ名乗る。そしてなぜこちらまで言わなければならないのだ。私は白い視線を送る。
「ねぇ、名前教えてよ」
ずいっと顔を寄せられた。近い。私は眉を寄せた。
「……音羽……夏恋です」
押され気味に答えると、
「音羽さん。もう一回聞きたいなぁ」
「……は?」
ぽかんとする私とは対照的に、白木さんはにこにこしていた。
「さっきのピアノ、僕めちゃくちゃ好き」
ため息が出た。なぜ見ず知らずのあんたのために、と、内心ツッコむ。
それからはひどかった。
音羽さんって何年生なの? どこ小? ピアノはいつからやってるの? ……え、独学? すごいね。作曲家は誰が好きなの?
……など、しばらく彼の質問攻めを受け止める羽目になった。我ながらついてない。面倒な人に捕まった。
かく言う白木さんは、三年生だった。二組で、外部受験を検討している。理由は今の学校に飽きたから、だそうだ。聞いてもいないのに、ぺらぺらとよく喋る。
とりあえず私はこの人のことを先輩と言わなくちゃならないのか、と思いながら隣の彼をちらりと窺い見た。
すらりと細く、長い体躯。少し幼げな印象の二重。唇は薄めで、鼻筋はすっと通っている。きっと、誰が見ても好青年と呼ぶだろう風貌。
歳がふたつも違うと、こうも違うものなのか。というか、元々持ち合わせた素質が違うのか。
学ランを着ているからまだ学生だと分かるけれど、多分私服だったら、大人の男の人のように見えるだろう。
背も高いし声も低くて、クラスの男の子と全然違う。
なんというか、品がある。さすがお金持ち校のおぼっちゃまだ。
白木先輩はなぜか私を気に入ったらしく、その後もずっと音楽室に居座って喋り続けていた。
「ねぇねぇ、君って家この近く?」
「……まぁ」
「ひとりっ子?」
「……はい」
「僕、三つ下に妹がいるんだけどさ、まだ小学生なのにこれがもうすごい生意気で」
いつまで続くのだろう、これ。これではピアノも弾けないし、ひとりにもなれない。
「…………あの」
「ん? なになに?」
「一体なんなんですか」
「……なんなん……って?」
白木先輩はきょとんとした顔で首を傾げた。なんだか腹が立つ顔だ。
「用がないなら、もう帰ったらどうですか」
「え、どうして? 君がいるじゃん」
「……はぁ?」
ぽかんとする。
「……もういいです」
ダメだ。こういうタイプは話しても無駄だ。
ため息をつく。家に帰ろうか、でも、早く帰ってもやることもないし、と悩む。
しばらく適当に相槌を打っていると、下校を促すチャイムが鳴った。
私は、これ幸いと楽譜をまとめる。
「……あ、そろそろ帰る?」
気付いた白木先輩が言う。
「そうですね。チャイム鳴ったんで」
おかげでせっかくのひとりの時間が台無しだ。
「じゃあ僕も帰る。一緒に帰ろう」
片付けていた手が止まった。思わず真顔で白木先輩を見る。
「ん?」
「……いえ、べつに」
とほほ、と思う。
帰る準備をすれば、さすがに察してくれるかと思ったのだが。まさか一緒に帰る羽目になるとは。
本当はもう一曲くらい作りたかったのに。
私は仕方なく楽譜を拾い集めてファイルにしまった。
帰り道、白木先輩はやはり当たり前のように私の隣を歩いていた。
座っていると気付かなかったけれど、白木先輩は随分と上背がある。ぴっと姿勢を正しても、私の頭は白木先輩の胸の辺りの高さしかなかった。
歩きながらふと思う。
(そういえば私、もう中学生なんだなぁ……)
踏切に差し掛かる。
警報が鳴り響く踏切のバーの前で立ち止まると、白木先輩は少し顔を寄せて話しかけてきた。
「ねぇ、さっきのってなんていう曲なの?」
たぶん聞こえやすいようにという彼なりの配慮なのだろうが、突然鼻先に顔が現れたこちらからすると驚き以外のなにものでもない。
吐息まで触れそうな距離感に、どきりとする。後退り、不機嫌を隠さずに言う。
「近いです、白木先輩」
「あ、ごめん」
白木先輩は慌てて顔を離しながら謝った。少し頬が赤い。照れるならやらなきゃいいものを。
「で、なんて曲なの?」
「なんてって……」
なんだってよくないか。ど素人が作った譜面なんて。
と、内心ボヤく。
「曲名だよ。普通あるだろ?」
いや、普通ないだろ。
こちとら独学なのだ。ぼんぼん世界の普通など知らないし、曲名なんてこれまで考えたこともなかった。
「名前なんてないですよ」と、私はツンとした口調で答えた。
「え、そうなの? どうして?」
白木先輩は心底驚いた顔をする。
「……べつに。ノリで作った曲なので」
と、答えると、白木先輩は瞳をキラキラとさせて、私にぐっと顔を寄せた。
「じゃあ付けようよ!」
「は?」
「オリジナルなら、それこそ名前があった方がいいじゃん!」
「いやいや……」
笑顔が眩しいというか、ウザいというか。とりあえず、私の一番嫌いなタイプだった。
「べつに、自己満足で作ってるだけですし」
「えぇ……あんなに綺麗な音なのにもったいない……誰にも聞かせたことないの? 一度も?」
「……ネットに上げたりはするけど、曲名なんていちいち付けてませんよ。プロでもあるまいし」
「自分の子には、名前付けてあげなきゃダメじゃない?」
「……はぁ。そういうものですかねぇ」
アホくさ、とか思いながら踏切を見やる。遮断機のバーが降りてからだいぶ経つというのに、電車はまだ来ていなかった。
「あの曲、すごい爽快感だったけど。なにをイメージして作ったの?」
「なにをって言われても……」
線路に落としていた視線を、空へ向けた。
見上げると、抜けるような青空があった。端の方にひとつ、すっと筆を流したような薄い雲がある。
太陽を視界に入れなければ、ソーダのような淡い青だ。
「……強いて言えば、部活してる生徒の声を聴きながら、部活をイメージして作ったかな……」
「おぉ。じゃあ、まさに青春だね」
「青春……」
たしかにそうかもしれない。
「青春か……青春……」
白木先輩はなにやら考えるように黙り込んだ。
「あっ! 青の音、とかどうかな? 青春だとまんまだし」
「青の……音」
すっと顔を線路に戻した。
直後、電車が大きな音を立ててレールの上を流れていく。
プツッと車両が消えると、波が引くように音が止む。遮断機のバーが上がった踏切の先には、大きな夕陽があった。
眩しい光に目を細めながら、肩にかけていたスクールバッグの持ち手をぎゅっと握った。
なんだか小っ恥ずかしくなってきた。白木先輩の付けた名前を、ちょっといいかも、なんて思ってしまった自分に。
「……なんですか、それ。付けませんよ、今さら」
ふん、とそっぽを向くと、白木先輩はちょっとだけ嬉しそうに私を見た。
「でも今、ちょっと悩まなかった?」
「悩んでません!」
遮断機のバーが上がる。私は白木先輩を追いてけぼりにして、すたすたと歩を進めた。
「……結構いいと思ったんだけどなぁ」
しかし、足の長さが違い過ぎた。白木先輩は涼しい顔ですぐに追いついてきた。
「青の音」
「音に色なんてありません」
「ちぇっ! 真面目だな。つまんない」
「白木先輩がふざけ過ぎてるんじゃないですか」
「イメージだよ、イメージ! 芸術にイメージは重要だろ? 僕たち一応、芸術系の学校の生徒なんだから」
「……白木先輩って、お気楽でいいですね」
「お、お気楽……」
ついいらいらして、思わず口からそんな言葉が飛び出した。
言ってからハッとする。自分の時間を邪魔されたとはいえ、彼は一応先輩だ。対応は気をつけなければ。
「……あ、あの、ごめんなさ……」
「あ、ねぇ、音羽さんってもしかして、朝とかも音楽室にいる?」
「……は?」
謝ろうと口を開くと、被せるように尋ねられた。全然気にしていないようだ。気にして損した。
「明日の朝」
ピタリ、と足が止まる。嘘だろ、と、思わず振り向いた。
「……まさか、また来る気ですか」
思わずそう尋ねると、白木先輩はキョトンとした顔で頷いた。
「そうだけど? まさかってなに?」
「……いや、だからなんで来るんですか」
今日が初対面なのに、懐かれる意味が分からないのだが。
「なんでって好きだからだけど」
そう、白木先輩はきょとんとした顔で言った。
「好き?」
「うん。音羽さんのピアノ」
意味が分からない。頭を抱えたくなった。
「……白木先輩、外部受験を考えてるってことは受験生ですよね。勉強とかしなくていいんですか」
「うーん、勉強も大事だけど、息抜きも大事じゃない? それに僕、勉強にはそこそこ自信あるし、たぶんこのままの学力でも志望してる公立校は受かると思うんだよね」
石を投げてやろうかと思った。これが嫌味でないというのならなんだというのだろう。
「……そもそも、なんで私が白木先輩の息抜きに付き合わなくちゃいけないんですか」
ぴしゃりと言う。直後、沈黙が落ちた。
「それは……」
しょんぼりと捨てられた子犬のようになっている白木先輩を見て、しまった、と思った。
ため息が漏れる。
「……いや、そんな落ち込まないでくださいよ」
「……べつに落ち込んでないし」
言い返しながらも、白木先輩の語句には覇気がなく、歩く姿もリストラ通告を受けた直後のサラリーマンのようでいたたまれない。
私はため息をついた。
「……朝と昼休みと放課後は、だいたい音楽室にいます。邪魔しないならまぁ……べつに来てもいいですよ」
ぼそりと言うと、白木先輩はびゅん、と音がしそうなほどの勢いで私を見た。
「いいの!?」
やっぱり犬のようだ。私は飼い主ではないのだけど。
「……邪魔はしないでくださいよ」
「うん! ありがとう」
白木先輩は私よりふたつも歳上なのに、まるで弟の相手をしているようだと思った。
その日、苛立ちのような胸焼けのような、よく分からない感情が、私の胸を支配していた。
それから、人知れず私たちの交流は始まった。
早朝の音楽室と昼休み、それから放課後。
白木先輩は、七色パレットのように表情がころころと変わる人だった。
白木先輩は私がピアノを弾くと、いつだってうっとりとしていた。
「……やっぱりいいなぁ。音羽さんのピアノ」
「だったら、楽譜くらい読めるようになったらどうですか」
白木先輩はすっと窓の外を見た。なにやら考え込むように黙り込んで、視線を私に流す。
「うーん。でも、読めるようになったら音羽さんにくっつけなくなるからやめておく」
どういう理屈だ。
「意味分かりませんし、読めなくてもくっつかないでください。気持ち悪い」
ぴしゃりと言う。
「気持ち……悪い……」
ずぅんという効果音がしそうなほど、白木先輩は肩を落とした。
「……あ、いや、さすがに今のは言い過ぎましたけど……ていうかいちいち落ち込まないでくださいってば」
「……べつに落ち込んでないもん」
「どーだか」
外科医の両親のもとで何不自由なく育った白木先輩は、世間知らずでお人好しのおぼっちゃま、というのが彼に対しての印象だった。
まっすぐで、嘘なんて一度もついたことがないような顔をして、隣にいる自分がひどく汚れて見えた。
人柄の違いを突き付けられているようで、そばにいればいるほど、私は自分が嫌になった。
「ねぇ、それってなに?」
あるとき、白木先輩は私の手の中のミルクティーをまじまじと見て言った。
「ミルクティーですけど」
「へぇ……それって温かいの?」
まるで初めてミルクティーを見たかのような反応だ。
「ペットボトルなんだから、冷たいに決まってるでしょう」
「冷たいのって美味しいの?」
白木先輩は真顔で尋ねてくる。
「…………まさか、飲んだことないんですか」
「ミルクティー自体飲んだことないかも」
ため息が出る。
「……白木先輩ってそういうところありますよね」
「そ、そういうところ?」
少したじろいだ様子で、白木先輩が私を見た。
「悪気なく嫌味を言えるところ。まぁ、この学校の人は割とみんなそうですけど」
「……僕、嫌味なんて言ってないよ?」
「でしょうね。でもそういうところが庶民からしたら嫌味に聞こえるんですよ」
「でも、君だってこの学校に入ってるってことはそれなりの家庭だろ?」
たしかに、私の今の家はお金持ちだ。
でも、
「……私は偽物ですから」
ぼそりと言うと、白木先輩はかすかに首を傾げた。
「小学生のとき、両親が事故で死んで、私は母の妹に引き取られました。母の妹は資産家の男と結婚していましたが、事故の前の年に事故で旦那さんのことを亡くしていて子供もいなかったから、ちょうどいいって私は連れてこられたんです。おかげで二年前からはなに不自由なく暮らしてますけど、それまではむしろ貧乏な方だったので。私は生まれも育ちも庶民です」
早口で吐き出すように言った。
「ついでにいえば、友だち付き合いが苦手でひとりになりたくてやってたピアノを、叔母にピアノが好きなのだと勘違いされて音楽系の学校を勧められました。断る理由もないし、というか断る方が面倒だったので、素直にこのお金持ち学校に入ったってところです」
「…………そう」
白木先輩はそれ以上なにも言わなかった。
(……引かれたかな)
最初からそうだった。
嫌味がなく、悪態の付き方すら知らない。皮肉も通じない。
白木先輩からは、育ちの良さからくる品性が溢れ出ている。表裏があって人嫌いで性格の悪い私とは大違いだ。
(……まぁいっか。どうせ元から住む世界が違うんだし)
これで、白木先輩も私から興味を失くすだろう。
しかし、私の予想に反して白木先輩は言った。
「ねぇ、今度の休み会わない? どこか行こうよ」
「…………はぁ? いや、今の私の話聞いてました? 」
「うん、聞いてたよ?」
「だったら……」
「僕は君が好きだよ。だからもっと仲良くなりたい。……あ、もちろん君のピアノも好きだけど」
白木先輩は、どうして私なんかにかまうのだろう。こんなちっとも可愛げのない人間に。
「私はべつに好きじゃないです」
「…………」
白木先輩はまたずぅんとなっている。よくもまぁ飽きもせずにそう落ち込めるものだ。
「……そもそも、なんで休みの日にまで白木先輩に会わなくちゃいけないんですか」
「それはその……あ、水族館とかどう? 女の子はそういうの好きだろ?」
「だから、なんで私が白木先輩と水族館に行かなくちゃならないんですか」
キッと眉を釣り上げて言うと、白木先輩は狼狽えたように私から目を逸らした。
言い過ぎた、と思いながらも次に続ける言葉を見つけられないまま黙っていると、
「……水族館嫌い?」
白木先輩は、小さな声で言った。さすがにこれ以上痛めつけるのは良心が痛む。
「……嫌い……ではないですけど」
「よかった!」
と、白木先輩はおもむろに私の手を掴んだ。そのまま帰り支度を始めて、ずんずんと歩き出す。
「えっ? ちょっとなにするんですか」
「休日に会いたくないっていうなら、今から行こう。まだ開園してるはずだから」
白木先輩はそう言うと私の手を引いて、音楽室を飛び出した。
市内の海辺にある緑ケ浜水族館は全国でも割と大きく、ジュゴンやマナティなどの珍しい海洋生物を飼育していることで有名である。
水族館なんて小学校の遠足以来だった。
闇に包まれた空間に、青白い光がぽつぽつと光っている。
水槽を観ながら白木先輩は、あの魚の習性は、とか、あの魚はこんな海の中にいて、とか、まったく興味のない話をしてきたので、私はあからさまにつまらない顔をして受け流した。
「……知識をひけらかす人ってウザいですよね」
白木先輩は苦いものを噛んだような顔をして、黙った。
「……まぁでも、たまに来ると楽しいですね、水族館」
ちろっと白木先輩を見ながら言うと、彼はぽっと頬を染めて唇を引き結んだ。
私はかまわず、水槽を眺める。
鮮やかな色をした魚たちが流れるように泳いでいる。黄色と黒の縞模様や深い青色に黒斑の魚、ゆったりとたゆたう亀。
水の中をゆうゆうと泳ぐ魚たちは自由だった。
私はそっとガラスに手を添える。
この中にも、カーストはあるのだろうか。それを感じさせない魚たちは優雅だ。
「……羨ましい」
呟いた直後、隣から視線を感じた。けれど、白木先輩はなにも言わなかった。
しばらくぼけっと泳ぐ魚を鑑賞していると、ふと白木先輩が立ち止まった。
「……ごめん。やっぱり帰ろうか」
私はきょとんと白木先輩を見上げる。
「……え、なんでです?」
「……音羽さん、全然楽しそうじゃないし……その、無理やり連れてくるようなところじゃなかったよね……」
その言葉に、すうっと心が冷えていく心地がした。
(……やっぱりこの人は)
どこまでも人がいい。
白木先輩と話をするたび、自分のことをどんどん嫌いになっていく。
「……このぼんくら」
私は眉をひそめたまま、次の水槽へ進んだ。
「……今さらですし、そもそも入館料払ったのに途中で帰るとか有り得ないんですけど」
「……そ、そう……だよね」
あからさまにホッとした顔でついてくる白木先輩に、私は強い罪悪感を覚えた。
どうして、この人はこんなにもまっすぐなんだろう。打算とかないのだろうか。
どんな人の笑顔にも裏を探ってしまう私は、白木先輩は眩しくて、どうしようもなく羨ましかった。
そして、嫌いだった。
いくら邪険にしても、白木先輩は怒るどころか子犬のようにしょんぼりと落ち込むばかりで。
――だから私は、白木先輩からの告白に、あんなふうに言ってしまったのだ。
* * *
出会って三ヶ月が経った、九月のことだった。
白木先輩は相変わらず私にべったり懐いていて、私は塩対応ながらも純朴な白木先輩を突き放せずにいた。
「夏も終わりだね」
「そうですね」
抑揚のない声で答えながら、私は窓の外を見つめた。
音楽室の窓の向こうでは、静かに雨が降っていた。まるで髪の毛のような細く頼りない雨だ。
空は灰色で、霞んでいる。
音楽室に来たはいいが、こうも暗くて湿気がひどいとピアノを弾く気にもならない。とはいえこうして灰色の空をじっと見ていても、気分が下がるだけなのだが。
「もうすぐ卒業かぁ」
珍しく白木先輩は感傷的になっていた。受験に怖気付いたのだろうか。
「はぁ……まだあと半年ありますけどね」
「半年なんて、あっという間だよ」
「……というか、その前に受験じゃないですか」
「あ……うん。まぁそうなんだけど」
白木先輩はすっと窓の外を見上げた。私もつられるようにその視線を辿った。
そうか。暖かくなる頃にはもう、白木先輩はこの音楽室にはいないのか。
喉がきゅっと詰まるような、よく分からない感情が胸に広がった。
「……合格するといいですね」
「でも、落ちたらエスカレーター式で霞原附属高校に進級することになるよ。すぐ隣の敷地だし、もしかしたら登下校で会えるかもしれないよ?」
「べつにいいです。会いたいと思ったことないんで」
つっけんどんに言うと、白木先輩は少しだけ言い返そうと考えたようで、けれどやっぱりなにも浮かばなかったらしく、しゅんと口を閉じた。
懲りない人だと思った。そして私もまた、懲りない。
「……だって、会いたいって思う前に、いつもいるじゃないですか」
なに言い訳してるんだと呆れながら、私は白木先輩から目を逸らした。
どうして私は、この人のこういう顔に慣れないのだろう。自分でも自分がままならなくて、妙に腹が立つ。
もう一度窓の外に視線を流すと、ふと顔に影が落ちた。顔を上げると、すぐ近くに白木先輩が立っていた。
驚きに瞬きをする。
「……音羽さん」
すっと手を取られ、顔を上げる。白木先輩はまっすぐに私を見下ろしていて、ほんの少し頬が赤かった。
白い頬にさっと薄い桃色が乗って、まるで女の人のようだ。
「あの……僕、好きなんだけど」
息が詰まった。
「……ピアノがですか?」
いらいらした。しどろもどろな白木先輩にも、心拍数が上がっている自分自身にも。
「ピアノじゃなくて……君のことが」
「……だからなんです?」
「だ、だから……その、付き合ってくれないかな?」
人生で、初めてされた告白だった。
「……私は、白木先輩といるといらいらします」
「……え」
白木先輩は青ざめた。
「私が失礼なこと言っても白木先輩はなにも言い返してこないし、そのくせ落ち込むし。ボンボンで苦労なんてしたことないって顔して、しれっと失礼なことを言って、空気もまるで読めなくて……」
そういう育ちの良さが、私はどうしても……。
ぎゅっと拳を握った。
「……そっか。それはその……ごめん」
白木先輩は俯きがちに呟いた。
堪らず私は立ち上がり、白木先輩から離れる。
「……どうせ、卒業したらもう会わなくなるんですし、付き合うとか無理です」
「……そっか」
吐き捨てるようにそう言うと、白木先輩はそのときだけはなぜか悲しそうな顔はしなくて、ただ小さく笑った。
「……分かった」
もう少ししつこくされるかと思ったけれど、白木先輩は思いの外あっさりとしていた。
そして鞄を肩にかけると、
「……また、明日」
と言葉を残して、音楽室を出ていった。
* * *
告白を断ってからというもの、白木先輩はぱったりと音楽室に来なくなった。
ひとりきりの音楽室は、なんだか色を失ったように霞んでいた。
白木先輩が来なくなって初めて、私は雨の中にいたことを思い出した。
(……静かな場所だと思っていたのに)
随分と雑音が耳の奥で響いていた。
濡れるのもかまわず窓を開けて、雨の音で雑音を消す。雨粒混じりの風がふわっと私を包んだ。
(……ピアノ、弾く気にならないなぁ……)
今までは、あんなにひとりきりになりたいと思っていたはずなのに。
ひとりきりになる口実で来ていた音楽室。気付けばそこにはもうひとりの住人がいて、いつの間にか私はそれを受け入れていた。
「……帰ろ」
鞄を持って音楽室の鍵を閉める。
次第に私の足も、音楽室から遠のいていった。