早朝。
空は青紫色のグラデーションの中を、赤い傘を手に、僕は足早に駅へ向かっていた。
ホームで足を止め、少し早まった心臓を落ち着ける。電車のベルが鳴り止んだ頃、ようやくお目覚めの太陽の気配が背中を叩いた。
電車で四駅。
約、一時間。目的の駅に着くと、外は雨が降っていた。
灰色の街に赤い傘を広げて、一歩を踏み出す。
歩きながらちらちらと視界を染める赤を見て、ふと、あれ、と思った。
「……この傘、どうしたんだっけ」
よく覚えていないけれど、とても大切なものだった気がする。誰かにもらったものだろうか。
そういえば、今朝僕はどうしてあんなに急いでいたんだっけ。こんなに朝早く学校に行っても、特に用事なんてないはずなのに。
いくら考えても答えは出ない。
ふと思い付いた疑問について僕は、諦めるしか選択肢を持たない。
その理由を僕は知っていた。
生まれ落ちた瞬間に立ち上がろうとするわけを知らず、それでも懸命に足を踏ん張る小鹿のように、ただそういうものなのだと遺伝子に刻まれているのだ。
ふと、サラリーマン風のスーツを着た男性とすれ違う。すれ違った一瞬見えたその男性の横顔は、少し焦っているようだった。
そのとき、脳裏にビジョンが弾けた。
珈琲店のレジで、男性がバッグから財布を取り出す。財布を出すと同時に、なにかが落ちた。
なにかのチケットだろうか。
僕は振り向いた。「あの」と、男性に声をかけつつ、考える。
「なにか探し物ですか?」
「え? えぇ、まぁ」
男性は目を泳がせながら頬を掻いた。
「……僕、さっきパン屋さんに寄ったんですけど、落し物を拾ったんです。店員さんに預けてあるので、確認してもらえるといいかもしれません。なにかのチケットのようなものだったと思います」
そう言うと、男性の顔色が変わった。
「そうか、パン屋か……ありがとう、助かったよ」
男性は安堵して来た道を戻って行った。
――僕は、人にはない別の力を持っている。
過去や未来を残像として視ることができるのだ。
過去を視た場合は僕の体に特に異常は起こらないが、未来を視てしまった場合はべつだ。
未来を視ると、その代償に脳に設置された思い出の棚の鍵がゆるくなる。つまり僕は未来を視たことと引き換えに、なにかひとつ大切な記憶を失うのだ。
駅から歩くこと、約二十分。
赤信号の向こう側。坂の上に、大きな校門と校舎が見えてきた。
まだ閑散とした昇降口に入り、使っていた傘を傘入れに入れる。
傘入れには既にひとつ、透明のビニール傘があった。
「早いな……」
どうやら、先客が一人いるらしい。こんな朝早くから、自習か部活だろうか。ご苦労なことだ。
下駄箱にスニーカーを突っ込み、サンダルに履き替えて階段を昇る。
教室に入ると、たくさんの木机が整然と並んでいる。
自分の席に鞄を置いて、中身を机の中に乱雑に突っ込むと、とりあえずなにをしようかと悩んだ。
教卓の真上の壁に掛けられた時計は、六時十五分を指している。授業が始まるまでは、まだまだ時間があった。
ため息をつく。
本当に、僕はなんでこんなに朝早く学校に来たんだろう。
昨日、僕はたぶん未来を視たのだろう。そして、未来を変えた。その代償に、今朝なにかの記憶を失った。
失った記憶は、今日の予定か。予定が体に染み付いていて、こんな朝早くに来てしまったのか。
だが、一体どんな予定だったのだろう。部活には入っていなかったはずだが。
まぁ、考えたところで分からないものは分からないのだ。諦めよう。
結局自習などする気はまったく起きなかったので、人気のない廊下に出た。
頬を優しく撫でられたような感覚に窓の外を見ると、ちょうど雨が止んだらしく、雲の隙間からはかすかな陽光が差し込んでいる。
タイミングがいい。屋上でのんびり二度寝でもしてよう、と階段に足を向けるが、残念ながら屋上へ続く扉には硬い南京錠がかかっていて、外へは出られなかった。
ちぇっと思う。やはり現実はドラマのようにはいかない。
仕方なく三階に降りる。
図書室もまだ司書が来ていないためか、鍵がかけられている。
困った。時間を潰せる場所が見当たらない。
そう思ったとき、半開きの扉に気がついた。扉の上のアクリル表札には、『音楽室』とある。
その文字を見た瞬間、どくん、と心臓が大きく鳴ったような気がした。
僕は導かれるように足を踏み出し、音楽室の扉に手をかけた。
「失礼しまーす……」
その瞬間。夏の朝の澄んだ風が、ふわっと僕を優しく包んだ。
息が、止まる。
視界には、黒光りするグランドピアノ。そのピアノ椅子に、一人の少女が腰を下ろしていた。
窓から吹き込んだ夏風に揺れる、長い黒髪。
お人形のような黒々とした瞳と、真昼の空のように青白く澄んだ白目。
雨上がり特有の薄い陽の光が、彼女のシルエットを女神のごとく照らしている。
ピアノの上に無造作に置かれていた楽譜が、風に舞ってはらりとぼくの足元に落ちる。
少女と夏風に舞う楽譜。
なんだろう、この違和感。どこか、懐かしいような――。
その光景はやけに鮮明に、スローモーションのように僕の脳裏に焼き付いた。
「……君、前に僕とどこかで会ったこと、ある?」
気が付けば、口が勝手にそう言葉を紡いでいた。
口にしてから、ハッと我に返る。
いや、なにを言っているのだろう。これではまるでナンパではないか。
「あ……いや、ごめん、なんでもない」
慌てて前言を撤回していると、
「っ……」
呻くような声を漏らしたあと、少女は僕を見つめて――なぜか、涙を流していた。
大きな目から溢れ出したまるまるとした雫が、綺麗な卵形の輪郭をなぞり、顎先からぽとりと落ちる。いくつもいくつも、ぽっぽっと落ちていく。
「えっ!?」
突然の涙に、僕は文字通り慌てた。
「え、え!? ご、ごめん。今の冗談だから、僕、変な奴じゃないから泣かないで!!」
慌てて弁明しながら駆け寄ると、少女はさらに泣き出した。
声は出さず、ただそれでもわんわんという表現が正しいと思うくらいに泣き続ける。そして、とうとう両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
「あの、な、泣かないで……」
突然泣き出した少女に、僕は頭を抱えた。
(や……やってしまった……)
とりあえずハンカチを渡し、彼女が泣き止むのを傍らで待つ。
ひっく、と時折しゃくりあげながらも、ようやく少女の涙が落ち着いてきた頃。
「あの……」
おずおずと口を開いた。
「ごめんね? 驚かせたみたいで」
すると、少女はぶんぶん、と首を横に振った。
雨上がりの音楽室には、僕と少女しかいない。深い海の底のような、ひそやかな沈黙が流れている。
というか、なぜ喋らないのだろう。疑問を抱いたと同時に、少女が立ち上がった。
そのままとことこと黒板の前まで行くと、チョークを手に取り、カツカツとなにやら書き出した。
『驚いただけ』
「ん……?」
『君が、いきなり来たから』
彼女が黒板に書いた言葉を繋げて、ようやく理解する。
「あぁ……僕?」
僕が自分を指さすと、少女はこっくりと頷く。
そういうことか。
「えっと……もしかして、君って」
疑問を尋ねてみようと口を開くが、上手く言葉にできず、口を噤む。
すると、少女はまた黒板に文字を書き出した。
『耳は聞こえる。喋れないだけ』
「なるほど……」
さらに、少女は手を進める。
『音羽夏恋』
チョークの白い粉を手で払いながら、少女はぼくを振り返った。
「……君の名前?」
少女は頷く。
「僕は、白木響介」
こうして僕たちは、雨上がりの陽が差す音楽室で人知れず出会った。
夏恋は僕より二つ年下の一年生だった。彼女は口が聞けないだけでなく、いくつかの色も分からないという。
赤は分かるが、青や緑、黄色の識別ができないらしい。けれど、そんなハンデを感じさせないくらい、夏恋は明るく無邪気な少女だった。おまけにすごく懐っこい。
休み時間や昼休みに顔を合わせると、夏恋はぱたぱたと駆け寄ってきては僕のノートにいたずらして帰っていく。
最初は落書きだったそれが、連絡先に変わって、いつしか二人で会う待ち合わせの場所や時間になった。
最寄り駅が同じだと知ったときは、思わず笑ってしまった。夏恋もにこにこしていた。
僕たちは、たぶん出会うべくして出会ったのだ。そんな馬鹿げた言葉を心から信じられるくらいに、お互い強く惹かれ合った。
好きだと言ったのは、夏恋と出会って二ヶ月が過ぎた残夏だった。
夏休みに入ると、僕たちは毎日のようにカフェや図書館で勉強したり、映画館や水族館に行ってデートしたりした。
まさに青々とした日々を送っていた。
夏休み最後の日、僕たちはふたりで海辺の街へ行った。
波打ち際で裸足になってきゃらきゃらとはしゃぐ夏恋は、やっぱり可愛くて、どうしようもないくらいに愛おしいと思った。
近くのハンバーガーショップに入って、ポテトとナゲットを分け合いながらノートを広げて、勉強したり勉強に飽きたら会話したり落書きして遊んだ。
その後は、手を繋いで人気の商店街を観光した。
夜になって海に戻ってくると、辺りはすっかり真っ暗で、人気はなくなっていた。
藍色の帳の下では、波の音しか聞こえない。まるでこの世界にふたりきりになってしまったようだった。
夏恋の手には、ついさっき商店街で買った花火セット。
ぱちぱちと小さく爆ぜる線香花火を、ぼくたちは隣り合ってぼんやりと見つめていた。
「…………」
沈黙はもう慣れたものだったのに、お互いどこかそわそわしていた。
まあるい火球が、僕の指先からぽっと落ちる。夏恋のはまだぽとぽとと灯っていた。
顔を上げる。言うなら、今しかない。
「……夏恋、あのさ」
名前を呼ぶと、夏恋が僕を見た。
澄んだ泉のような瞳の中には、淡い火花が咲いていた。
「夏恋、僕……」
――好きだ。
そう言おうとして、言葉が途切れた。唇にあたたかな感触が広がって、僕は目を瞠る。
夏恋に、キスされていた。一瞬にも満たないくらいの、ほんのわずかな触れ合いだった。
ぽっと、光が落ちる。
ハッとして夏恋を見た。その瞬間、息が詰まった。
夏恋は泣いていた。
帰りの電車で、夏恋はずっと僕の手を握っていた。
僕は夏恋の手を握り返しながら、悶々としていた。
(これは、どっちなんだろう……)
告白を遮られて、キスされて。
(夏恋も同じ気持ち……? いや、でも……あぁ、分からない……!)
車窓には眉間に皺を寄せた僕と、僕の手を握ったり離したりして遊ぶ夏恋が写っていた。
(……ダメだ。このままじゃダメだ。やっぱり聞くしか……)
「夏恋、あの……」
隣を見ると、頭一つ分小さい夏恋がパッと顔を上げた。思いの外距離が近くて、どきりとする。
『なに?』と、夏恋が口パクで尋ねてくる。
あまりの可愛らしさに、頭が真っ白になった。
「あ……うん、あの……今度また、ふたりで来ようね、海」
夏恋はじっと僕を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをする。
どんどん顔が熱くなる。
断られたら、と嫌な予感が過ぎって俯きかけたとき、夏恋がぎゅっと僕の手を握って、微笑んだ。
夏恋は再び口を開いた。そして、『や、く、そ、く』と口を動かす。
その笑顔に僕は心からホッとして、口元を緩めた。
「……うん、約束」
それから駅に着くまで、僕はほとんど喋らなかった。喋れなかった、というのが本音だけれど。
駅に着き、電車から降りて外に出ると、
「……雨」
しとしとと、糸のような雨が降っていた。すぐに止みそうだ。
「……止むまで少し待とうか」
その雨に、僕は少し救われたように思えた。誰もいない待合室に並んで座ると、夏恋の手が離れる。
僕の手を離した夏恋が、パッとノートを見せてきた。
『初めて会ったときも、雨だった』と書かれている。
「あのときは上がってたよ。陽が出てたじゃん」
思わず彼女の文字に突っ込むと、夏恋はくすくすと吐息混じりに笑った。
『そうだったっけ? よく覚えてるね』
「そりゃ……や、普通でしょ」
墓穴を掘りはぐって、ハッと口を噤む。夏恋はくすくすと肩を揺らしている。僕はつんとして、夏恋から視線を逸らした。
時計の音がやけに大きい。雲が厚いせいか、通り過ぎる電車の音もいつもより近くに感じる。
ふと窓の向こうを見ると、雨は止んだようだった。
今にも止みそうだったもんな、と心の中でボヤく。もう少し降っててくれてもいいのに。
「……そろそろ帰ろうか」
僕の言葉に夏恋は小さく頷くと、椅子に置いていたバッグを手に取った。
夏恋の家は僕の家から二十分くらい離れたところにある。
初めて夏恋を送りに来たとき、案外近いんだな、と思った。
夏恋とは中学校が被っていた。
僕が通っていた中学は私立霞原中学校という、都内でも有名な音楽系の名門校である。
当時のクラスメイトたちは、僕以外全員附属の高校へそのまま進学した。外部受験をしたのは僕だけだった。
外部受験自体珍しいのに、夏恋も同じ中学からの外部受験組だなんて、逆に運命を感じてしまう。
夏恋を自宅に送り届けると、僕は少しの間空の下に突っ立って、灰色の雲に覆われたぼやけた空を眺めていた。
どれくらいそうしていたのだろう。ぽつ、と一雫の雨が頬に当たって我に返る。
そろそろ帰らないと怒られるな、と親の顔を思い出し、僕はひとりきりの夜道を歩き出した。
夏休みが明けて、学校が始まった。
僕と夏恋は相変わらず仲良くやっているが、距離感がいまいち掴めないままでいる。
九月の初め。放課後、僕はひとり、音楽室で雨のそぼ降るグラウンドを眺めていた。
視線の先では、青春の音が弾けている。
小雨とはいえ濡れるだろうに、運動部が部活を中断する気配はない。
何気なく昇降口を見ていると、透明のビニール傘を差した女子学生が一人、駅の方へ向かう姿が見えた。遠くても分かる。
夏恋だ。
夏恋は今日他校の友達と用事があるからと言って、僕たちは別々に帰ることになっていた。
夏恋の後ろ姿を眺めていると、胸がふっと締め付けられるような感じになった。
たまに、遠くにいる夏恋を見るとこういうふうになる。
これは、なんなのだろう。
彼女に対して、ずっと感じていた違和感。
(僕はもしかしたら……夏恋と前に、会ったことがある……?)
心の奥の柔らかいところが、かたりと音を立てた。
僕はスマホを取り出した。
『夏恋。音楽室見て』
歩いていた夏恋が、ブレザーのポケットを気にして立ち止まる。ポケットからスマホを取り出して、そして――僕の方を振り向いた。
かちりと目が合った……気がする。
夏恋はぴょんぴょんと飛んで手を振ってくれた。
可愛い。文字にして伝えようかとも思ったが、きりがないのでやめておいた。
僕も手を振り返しながら、メッセージを送った。
『また明日ね』
彼女の姿が見えなくなると、僕は鞄を手に取り、音楽室を出る。
歩きながら、妹の詩織に連絡を取った。
妹の詩織は今中学三年生で、僕と夏恋が通っていた私立霞原中学校に通っている。
夏恋とは一歳差だ。僕の能力のことを知る詩織なら、もしかしたらなにか知っているかもしれない。
『もしもし、なに? お兄ちゃん』
「あ、あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
『聞きたいこと?』
「音羽夏恋、って知ってる?」
スマホの向こうで、詩織が息を呑んだ。
『……お兄ちゃん、もしかして思い出したの?』
「……え」
とぼとぼと廊下を歩いていると、クラスメイトの中堂裕翔と出くわした。
「おっ、響介! なにしてんの」
裕翔はクラスのお調子者担当男子である。
「……今から帰るところ」
「あれ、今日彼女は? というかなんか暗くね?」
きょろきょろとしながら、中堂が言う。
「今日は別々。友達と会う約束してるんだって」
すると、中堂はにやっと笑いながら、楽しそうに尋ねてきた。
「へぇ。なに、もしかして別れた? ふられた?」
「別れてないし、ふられてもない」
そもそも付き合っているかどうかすら怪しいところだ。中堂には絶対、口が裂けても言わないけれど。
「なんだ、つまんねー」
「なんだよ、つまんないって」
僕は足を早めて階段に向かった。しかし、中堂はまだ話したいらしく、僕についてくる。
「そういえばお前ってさ、知ってんの? 彼女の噂」
「噂?」
足が止まった。振り向き、尋ねる。
「噂ってなんだよ?」
「俺も部活の後輩から聞いた話だから、詳しくは知らないけど」
「なんだよ、今さらもったいぶるなよ」
「彼女ってさ、魔法使いなんだって」
「……は? 魔法使い?」
思考が停止する。けれどそれはほんの一瞬で、僕はすぐに我に返った。再び足を前に踏み出す。
「……真面目に聞いて損した。じゃ、また明日な中堂」
「ちょちょ、待って! マジなんだって! 俺の後輩が彼女と同中だったらしいんだけどさ、中一のときは彼女、全然普通に喋ってたんだって」
そういえば、僕は夏恋がどうして喋れないのか、理由を聞いたことがなかった。
何度も聞こうと思った。
でも、聞いたところで夏恋が喋れるようになるわけでもないし、夏恋が嫌がるかもしれないと思うと怖くて、聞けなかった。
「じゃあ、なんで」
中堂は声をひそめた。
「それがさ、あるとき突然喋れなくなったんだって。その子と仲が良かった子に後輩が聞いたら、大切な人を助けた代償……って、言ってたらしいぜ」
「大切な人を助けた代償……?」
眉を寄せる。
意味がわからない。分からないけれど、それはとても恐ろしいことのような気がした。
「それからさ、今度は色がひとつずつ識別できなくなっていったんだって。最初は黄色、次は緑……って感じで。さすがに彼女の親が心配して、いろいろ病院に連れていったみたいだけど……治る見込みはないんだってさ。可哀想だよな。あんなに可愛いのに」
「…………」
指先まで通っていた血がすうっと冷えていく心地がした。
「でもさ、彼女、好きな人が染めてくれたから寂しくないんだって、笑ってたらしいぜ」
「好きな人……?」
「そう。好きな人」
僕はもやもやとした嫌な気分のまま階段を降りて、昇降口の傘立てに差しておいた赤い傘を掴んだ。
そのときだった。
脳内にビジョンが弾けた。
灰色の雨空。大きなトラックと、響くクラクション。歩行者用の青信号、透明のビニール傘と、舞う血飛沫……。
ハッとして、赤い傘から手を離す。
ビジョンが消えたあとも、心臓は激しく打っていた。手が震えている。
なんだ、今のは。
いや。なんだ、じゃない。
これは、これから起こるであろう未来。これから起こる悲劇の前兆だ。
「……夏恋」
舌が痺れて、うまく言葉が出てこない。
しかし、次の瞬間。
ぼくは弾かれたように、タイルの地面を蹴って走り出した。
校門を出て、長い坂を下る。はるか前方に夏恋の姿が見えた。
「夏恋っ!」
しかし、雨と脇を通り過ぎていく車のせいで、僕の声は夏恋には届かない。
僕は必死に走った。走るたび、振動が脳に伝わる。
あぁ、僕はまた記憶を失うのか。きっと失うのは夏恋の記憶だ。でも、今回ばかりは心から未来を視られてよかったと思う。
夏恋を助けられるなら、記憶くらいいくらでも差し出してやる。
「夏恋っ! 止まれ!」
しかし、夏恋は僕に気付かない。
夏恋の前には大きな交差点の横断歩道。歩行者用の信号は、赤だ。
景色が加速する。
信号が、パッと切り替わった。灰色の街の中に、鮮やかな青が咲く。
信号機から赤が消えたことを確認した夏恋が、足を踏み出す。
「夏恋っ!!」
上がる息の中で必死に叫ぶと、ふと夏恋が立ち止まり、振り返った。
きらり、と夏恋の顔半分を、車のライトらしきものが照らす。
僕は力の限り地面を蹴り、夏恋を押し倒した。
次の瞬間。
大きなクラクションが夕方の街中に響き、数羽の鴉が空に舞い上がった――。
遠くで雨の音がした。
全身が水に浸かっている。海の上に浮いているような感覚ではなく、水溜まりの中に寝そべっているような感覚だった。
『――先輩!』
知らない声がする。明るく弾む、可愛らしい声だ。まるで、花がそよぐような……。
知らないはずなのに、どうしてか懐かしい。すごく、耳触りのいい声だった。
夏恋がもし話せたら、きっとこんな声をしてるのかな、なんて場違いなことを考えた。
『――響介くん』
今度は悲しそうな声だ。今にも泣きそうで、放っておけない。ずきん、と直接脳を突き刺すような痛みが、突然僕を襲った。
(この声は、誰……?)
* * *
ジリリリ、と無機質な目覚ましの音が耳朶を叩く。重い瞼を開けると、見慣れた天井がぼやけた視界に映った。家だ。
(あれ……僕ってば、いつの間に帰ってきたんだろう……)
目覚ましを止めたとき、ふと、昨日の記憶が蘇った。
青信号の横断歩道。猛スピードで向かってくるトラック。
けたたましいクラクションの音に重なって響く、急ブレーキの音。驚いて飛び立つ鴉の群れ――。
「夏恋っ……!!」
弾かれたように飛び起きる。
行かなくちゃ。
急いで制服に着替え、玄関に置いてあった赤い傘を手に、家を飛び出した。
青紫色の雨が降る早朝の街を傘も差さずに駆け抜け、電車に飛び込む。
ぽろぽろと、指の隙間からなにかがこぼれ落ちていく。けれど、なにが零れていったのか、分からない。
学校の最寄り駅で下車すると、空は霞んでいた。土砂降りだ。
傘はない。けれど僕はなぜか、迷うことなく走った。そして、交差点の前で立ち止まる。制服が水を吸って体が重い。
瞬きをした。
視界は白く煙っている。雨に打たれながら、僕はあれ、と首を傾げる。
スマホのロック画面には、六時三十二分とある。
「……コンビニで傘買えばよかったかな」
こんなにびしょ濡れになって学校に来る必要なんて、なかったのに。
とはいえ今さら傘なんて買ってもしょうがないから、僕は小走りで長い長い坂を昇った。
二○三一年、九月十七日のことである。



