一定に、かつ突然と鳴る、柔らかく波のように広がるという竹の音。耳をすませば、静かに、か細く流れる水の音も聞こえる。ここは秋庭家別邸。言わずもがな、この帝国最大の財閥だ。
「お父様ぁ!これ見てください!」
「おお!杏華、また1位かぁ!すごいなぁ!」
「えへへ、ありがとうございます!」
その1人娘、杏華は誰もが思う『お嬢様』であった。小学校では皆が羨む優等生、勉学も礼儀作法も完璧で、心優しく1人として差別するようなことさえしなかった。
ただ、1つを除いて……
その日の夜、屋敷が眠りにつき静まり返った真夜中に、杏華は抜け出した。誰にも気づきかれぬように抜き足……差し足……忍び足……
敷地を出れば、思い切り走ってある場所に向かった。街灯もない、星々と満月の輝きだけが頼りの田舎道。彼女の目は生き生きとしていた。
屋敷から少々離れた農村。その外れにある水車に、杏華は来ていた。
「銀郎さん!」
「ん?あぁ、杏華さん。こんばんわ、今日はどうしましたか?」
そこには分厚い本を読む20歳前後の男がいた。名は銀郎、水車の見張り番である。2人は密かな付き合いであった。
「見て?また1位を取ったの!」
「流石です、杏華さん。偉いですね。」
優しく頭を撫でる手は、杏華よりもずっと大きい。この大きく温かい手が、杏華は大好きだった。
2人の出会いは3年前に遡る。当時5歳の杏華は、母親との喧嘩の末、家出していた。行く宛てもない、知りもしない、孤独を走り続けた。
ふと、気づいた時には目の前には水車があった。俄雨か、体を濡らし始めてしまったので、仕方なく水車の中で雨止みを待つことにした。
『うわぁ、結構降ってきた……これは…水量も増えるし、見とかないとな。』
誰か入ってきた。男の声だ。孤独とはまた違う、杏華には知らない恐怖が襲ってきた。
『おや?ふふ、雨止みさんですか?』
ただ、その『恐怖』はすぐに解けた。優しい声だった。陽だまりような、心から暖まる安心する声。その声の持ち主こそ、銀郎だった。当時13歳である。
しかし、厳格かつ己が嫁いだ家柄に誇りを持つ杏華の母親は、彼女と銀郎との面会を禁止した。あくまで、銀郎は農村に住む庶民。杏華とは山頂と谷底ほどの身分の差があった。
それでも、杏華はこんな真夜中にまで抜け出して、銀郎に逢いに来ていた。
「銀郎さん、また難しい本を読んでらっしゃるのね。」
「ふふ、杏華さんには難しいかもしれませんね。」
両親とは違う、杏華を見る目。彼女にとって銀郎の隣は心地よく、楽だった。
「ねぇ、銀郎さん……女の子は勉強してはいけないの?」
「なぜそう言うのです??」
「お母様が言うの。『勉強なんてしないで、お稽古しなさい』って。」
「そうですか……私はそう思いません。」
「え、?」
古びた、いかにも昔から使ってそうな栞を分厚い本に挟み、杏華に顔を向けた。
「いいですか?杏華さんの人生なんですよ?好きに生きて、生きて、それでいて杏華さんの人生です。」
あぁ、やっぱり好き。そう杏華は実感した。きっと叶うことの無い、一端の恋にすぎない。けれど、それでいい。
「ふふふ!ありがとう、銀郎さん。」
「杏華さんのためになれたならば、嬉しいです。あ……月があんなに傾いてます。そろそろお帰りになった方がいいですね。」
「あ……はい。」
また、頭に手がくる。髪を撫でるように、そのまま頬を突かれた。
「ふえっ、!もう……///!」
「ははは、可愛らしいですね。ほら、お帰り?また逢いましょう。」
「約束よ?」
「ええ、約束します。」
また、空気が揺れないように、そんな足運びで屋敷に戻って、寝床につく。また……また、逢える日に心を馳せて……
籠の中の鳥、そう居たくない。それなのに、大きくなるにつれ、屋敷の外にさえ出してもらえなくなった。学校から家庭教師に、稽古も家の中で。自然と銀郎とも逢わなくなってしまった。
杏華が15になる頃、父親とその知り合いが話していた。
「近くの村の青年が、帝都の大学の助手になるらしいな。」
「ほぉ、それは興味深いな。誰なんだ?」
「銀郎という青年だな。何も、外れにある水車に見張り番のようで。」
「随分信頼されているんだな。」
水車の見張り番は、とても重要な役割だ。田の水張りにとても関わる、日照りが続けば水車をよく回し、雨季に入れば水車を止める、そんな役だ。
杏華はその話を聞いてしまった。もうしばらく逢えていない、未だ慕う彼に逢えなくなってしまう。
(そんなの……嫌よ……!)
その日、杏華は初めて昼時に屋敷を飛び出した。
「お嬢様、お待ち下さい!お嬢様!!」
「杏華!!待ちなさい!」
めいどに母に、杏華を止める声は、彼女に届くことはなかった。
西洋の靴は踵が少し高くなっていて、思うように走れない。ついには道の窪みに足をかけ転んでしまった。膝が擦れて、すかぁとが掠める度に傷んだ。道端の紫陽花に雨粒が流れる。いつも、いつも……もう歩く気力さえ残っていなかった。
地面に座りこむ。布に少しずつ、泥が滲んで肌に張り付く。一滴一滴、濡れた髪から露が垂れてくる。体の芯から冷えていく感覚があった。
途端、雨が止んだ……
「風邪を引いてしまいますよ、杏華さん。」
驚いた。その声は、陽が射したように暖かかったから。
「ぎん、ろ、さん……!」
今まで抑えてきたことが、全て込み上げてきた。みっともなく声を上げて泣いた。
銀郎に連れられて水車に来ていた。
「私、今日で見張り番を辞めるんです。明日の夜明けにはここを発ちます。」
「っ……!!それって……」
「どうやら、私が新聞に投稿した意見文を、帝都の大学の教授様が読んでくださったようなんです。それで、『ぜひ、うちの大学へ。』とお誘いを受けました。」
それはそれは嬉しそうに銀郎は話した。
「それじゃあ……今日でお別れなのね……」
「そうなってしまいますね。ここには新しい見張りが置かれますから、安心してくださいね。」
彼は私の気持ちなんて知らない。私が言わない限り気づくことはないだろう。
でも……
「行かないで……」
「え、?あぁ…うーん…申し訳ありません。それはできません。」
「そ、それはそうよね…ごめんなさい。さっきのは忘れ」
「ただ、必ず帰ってきます。その時、また会いましょうね。」
この優しい笑顔が本当に好きだった。
「はい……」
前が多少なり弱まったとき、杏華は屋敷へ帰った。
それから、街に出ても、水車に行っても、銀郎に会うことはなかった。
「私、帝都の大学に行くわ!!」
そう豪語して帝都の本邸に住み始めた。杏華が18になる年のことだ。散々、母親には反対されたが、「世間を見る」名目と父親の言葉にやっと折れてくれた。
毎日毎日研究に論文に忙しないが、今まで以上に楽しかった。
「秋庭くんよ。少しいいかい。」
「はい、教授。」
「この資料を物理学の梢くんに届けてくれないかね。」
「はい。わかりました。」
杏華が所属しているのは経済学。それ故、物理学の人とはまず関わりが無かった。物理学、物理学、と忘れぬように小さく呟きながら校舎を歩く。
三回、戸を叩く音。
「経済学の秋庭と申します。梢様はいらっしゃいますか?」
少しばかり待って、床を強く踏む音とともに戸が開いた。
「申し訳ありません、梢です。教授からの資料ですよね?最近忙しくて行けなくて……ありがとうございます。」
目を疑った。梢の姿に見覚えがあるからだ。ただ、その彼よりも程よく肉付きがあり、眼鏡をかけていた。
「銀郎さん……?」
「ん、?っ!!!杏華さん!?!どうしてここに……?」
「母の反対を押し切って大学に……銀郎さんは……ここで助手を?」
「はい。今では助教授にまでなれました。」
相変わらずの笑顔に杏華は安心した。同時に心臓が速くなったのを自覚する。
未だ冷めることのない恋……もうとっくに忘れていると思っていた。
すべて思い返す前に、立ち去ろう。
「私はこれで……!」
「あ、待ってください!!その……私、昼食がまだなんです。もし杏華さんもまだでしたら、一緒に食べませんか?」
昼食の誘いなんて反則だ。顔が火照り赤くなったのが、恥ずかしい。悔しい。
「私ばかり遊ばれてる気がします……///!」
「っふふ……!!杏華さんは誂いがいがありますからね。」
「もう///!!」
杏華さんは変わりませんね、と頭を撫でられた。
気になってしまえば最後、心が漫ろで仕方ない。定期的に昼食に誘われ、二人の時間を過ごした。のんびり、かつ穏やかな時間だった。
突然鳴り出す電話。何事かと、手に取った。
「はい、もしもし。」
「杏華!貴女今何処にいるの!?!」
電話の向こうは、母親。その奥に父親と教授の声があった。母親が、大学に来ている……
「せっかく大学に通わせてあげてるっていうのに、遊び歩いているなんてないでしょう!?」
右手が細かく震える。母親が怖いのだ。
「え、っと……その……」
「はっきりしなさい!!!」
怒鳴り声のあと、電話は切れた。いや、銀郎が切ったのだ。急に銀郎は杏華の手を取り、車に乗り込んだ。
「代金は支払いましたのでお気にせず。大学に戻ります。」
「え、!!でも、今行ったら母が……!!」
「大丈夫ですよ、杏華さん。私を信じてください。」
いつもより強い口調に驚くも、安心して信じる事ができた。杏華は静かに頷く。
「ありがとうございます。」
10分程して大学に着く。
「杏華!!!」
名を叫ぶ母に思い切り頬を叩かれた。膝を擦りむいたような痛さが、頬を走る。
「なんのために大学に通わせてやったと思ってるのよ!!この不良娘!!私をなんだと思ってるの!!」
もう1発来ると、目を瞑り身構えた。が、来ることはない。
「彼女を食事へ誘ったのは紛れもない私です。彼女は何も悪くありません。……申し訳ありませんでした。」
母の手を銀郎が止めたのだ。そして深々と頭を下げている。そんな彼を母は強く蹴飛ばした。ひぃるが腹に食い込み、銀郎は痛みに耐えるような唸り声を上げた。
「この……野良犬が!!あんたみたいな庶民が!!杏華と食事!!?巫山戯るも大概に!」
「はぁ……巫山戯てるのは君だ、椿。」
父が母の名を呼んだ。
「え、……え、?どうしてですか!旦那様!!私は何も悪くありません!」
なお、母は父に心酔しているが、父は母に対して冷酷だ。
「ほう、そうか。では、離婚だな。杏華の束縛も、罪のない青年を傷つけるのも。君は全てにおいて、やり過ぎだ。これ以上は看過できん。」
そんな……の如く膝から崩れ落ちる女性。それを横目に父は言った。
「先に屋敷に帰っていなさい。荷物を纏めるのに時間がかかるだろうから。」
女はひたすらもがいていたが、がたいのいい男達に連れられ、帰っていった。
「お父様……」
「ごめんね、杏華。もっと早くこうしていれば良かった。そうすれば、あんな夜な夜な銀郎くんに逢いに行かなくて済んだのにね。ね、銀郎くん。」
父親は知っていた。杏華が幼い頃夜な夜な家を飛び出し銀狼に逢っていたこと。そして、今杏華の隣にいる青年が銀郎だということを。
「杏華、僕は君を縛ったりしないよ。好きなように生きなさい。ただ1つ、秋庭家の娘だということは忘れないでね。」
優しい眼差しで杏華を見つめる。それは銀郎によく似ていた。
「銀郎くん。これから杏華をよろしくね。頼んだよ。」
優しく肩を叩かれる銀郎。頬を恥ずかしそうに掻いた。
「わ、私は杏華さんの何でもありませんから…」
「え、!!恋仲じゃないのかい?」
「ちちち違います!何を仰るのです、お父様///!!」
何気に必死に抵抗する杏華。大学の外、風に揺れる紅葉は紅く彩付いていた。あまりに否定するものだから、銀郎は少し落ち込んだ。
「私は……構いません。」
誠実な瞳で杏華を見る。少しだけ距離が近くなった顔を合わせた。
「私は帝都に来て、杏華さんがいなくて…寂しかったです。貴女の声が恋しかった。そう思ってたのは私だけですか……?」
悲しげな顔を向けた。人懐っこい大型犬のようだ。杏華には犬特有の垂れた耳と毛むくじゃらな尾が見えた。
「私は……ずっと銀郎さんが好きです……」
幾度となく縁談を申し込まれた杏華だったが、一度として彼女の首が縦に振ることは無かった。ある1人の男、銀郎に絶えず思いを馳せていたから……
「私でいいのですか?」
「そのままお返ししますよ、杏華さん。私で宜しいですか?」
「……うん。私は銀郎さんがいいの。」
そうですか、と杏華の大好きな柔らかい笑みを浮かべた。耳と尾が上がる。尾に関しては振っている…気もする。
「うんうん!これでよしっと!」
杏華の父も満足気だ。窓から日が差して、陽だまりに揺れる。
「じゃ、ふたりとも仲良くねぇ。」
杏華は清々しい気持ちで満たされていた。苦手としていた母との別れ。そして銀郎との交際が認められた。
「これからよろしくお願いしますね?……ん?杏華さん?っ!?」
泣いた。がしかし、これは嬉し涙だ。拭っても擦っても、止まりそうにない。
「あぁ……そんなに擦っては駄目ですよ。ほら、せっかくの綺麗なお顔が台無しです。」
「ふぇ……///!むぅ……そうゆうところですよ。」
さて、何でしょうか?、と返された。
それから少し経ったころ、銀郎は杏華に告白した。卒業式当日のことだった。
「杏華さん、ご卒業おめでとうございます。」
「ありがとうございます、銀郎さん。」
大きな花束は、父親から受け取った物。銀郎も彼女に贈り物を用意していた。
「本当に私でいいのですか?如何せん、私は庶民です。貴女とは生きる舞台が違う。歳も貴女とは10近く離れているはずです。」
「そんなこと、関係ありません!寧ろ身分を気にするのであれば、権力乱用して無理やりでも私の旦那にします……!」
頬を河豚のように膨らませ威嚇した。銀郎は唖然としたが、すぐ乾いた笑みを浮かべた。
「そんなことさせられませんね。全く……」
銀郎は杏華の前で跪いた。掌には小さな箱が1つ、中には月光のように神秘的に輝く金剛石の指輪があった。
「僕と結婚してくださいませんか?僕の隣で貴女の笑顔を見せてください。」
杏華は泣いた。その顔を銀郎の肩に埋めた。嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。
「もちろんです!銀郎さんの隣で笑わせてくださいな!」
薬指に輝く指輪は杏華によく似合っていた。
その半年後、2人は盛大な結婚式を挙げた。
「お父様ぁ!これ見てください!」
「おお!杏華、また1位かぁ!すごいなぁ!」
「えへへ、ありがとうございます!」
その1人娘、杏華は誰もが思う『お嬢様』であった。小学校では皆が羨む優等生、勉学も礼儀作法も完璧で、心優しく1人として差別するようなことさえしなかった。
ただ、1つを除いて……
その日の夜、屋敷が眠りにつき静まり返った真夜中に、杏華は抜け出した。誰にも気づきかれぬように抜き足……差し足……忍び足……
敷地を出れば、思い切り走ってある場所に向かった。街灯もない、星々と満月の輝きだけが頼りの田舎道。彼女の目は生き生きとしていた。
屋敷から少々離れた農村。その外れにある水車に、杏華は来ていた。
「銀郎さん!」
「ん?あぁ、杏華さん。こんばんわ、今日はどうしましたか?」
そこには分厚い本を読む20歳前後の男がいた。名は銀郎、水車の見張り番である。2人は密かな付き合いであった。
「見て?また1位を取ったの!」
「流石です、杏華さん。偉いですね。」
優しく頭を撫でる手は、杏華よりもずっと大きい。この大きく温かい手が、杏華は大好きだった。
2人の出会いは3年前に遡る。当時5歳の杏華は、母親との喧嘩の末、家出していた。行く宛てもない、知りもしない、孤独を走り続けた。
ふと、気づいた時には目の前には水車があった。俄雨か、体を濡らし始めてしまったので、仕方なく水車の中で雨止みを待つことにした。
『うわぁ、結構降ってきた……これは…水量も増えるし、見とかないとな。』
誰か入ってきた。男の声だ。孤独とはまた違う、杏華には知らない恐怖が襲ってきた。
『おや?ふふ、雨止みさんですか?』
ただ、その『恐怖』はすぐに解けた。優しい声だった。陽だまりような、心から暖まる安心する声。その声の持ち主こそ、銀郎だった。当時13歳である。
しかし、厳格かつ己が嫁いだ家柄に誇りを持つ杏華の母親は、彼女と銀郎との面会を禁止した。あくまで、銀郎は農村に住む庶民。杏華とは山頂と谷底ほどの身分の差があった。
それでも、杏華はこんな真夜中にまで抜け出して、銀郎に逢いに来ていた。
「銀郎さん、また難しい本を読んでらっしゃるのね。」
「ふふ、杏華さんには難しいかもしれませんね。」
両親とは違う、杏華を見る目。彼女にとって銀郎の隣は心地よく、楽だった。
「ねぇ、銀郎さん……女の子は勉強してはいけないの?」
「なぜそう言うのです??」
「お母様が言うの。『勉強なんてしないで、お稽古しなさい』って。」
「そうですか……私はそう思いません。」
「え、?」
古びた、いかにも昔から使ってそうな栞を分厚い本に挟み、杏華に顔を向けた。
「いいですか?杏華さんの人生なんですよ?好きに生きて、生きて、それでいて杏華さんの人生です。」
あぁ、やっぱり好き。そう杏華は実感した。きっと叶うことの無い、一端の恋にすぎない。けれど、それでいい。
「ふふふ!ありがとう、銀郎さん。」
「杏華さんのためになれたならば、嬉しいです。あ……月があんなに傾いてます。そろそろお帰りになった方がいいですね。」
「あ……はい。」
また、頭に手がくる。髪を撫でるように、そのまま頬を突かれた。
「ふえっ、!もう……///!」
「ははは、可愛らしいですね。ほら、お帰り?また逢いましょう。」
「約束よ?」
「ええ、約束します。」
また、空気が揺れないように、そんな足運びで屋敷に戻って、寝床につく。また……また、逢える日に心を馳せて……
籠の中の鳥、そう居たくない。それなのに、大きくなるにつれ、屋敷の外にさえ出してもらえなくなった。学校から家庭教師に、稽古も家の中で。自然と銀郎とも逢わなくなってしまった。
杏華が15になる頃、父親とその知り合いが話していた。
「近くの村の青年が、帝都の大学の助手になるらしいな。」
「ほぉ、それは興味深いな。誰なんだ?」
「銀郎という青年だな。何も、外れにある水車に見張り番のようで。」
「随分信頼されているんだな。」
水車の見張り番は、とても重要な役割だ。田の水張りにとても関わる、日照りが続けば水車をよく回し、雨季に入れば水車を止める、そんな役だ。
杏華はその話を聞いてしまった。もうしばらく逢えていない、未だ慕う彼に逢えなくなってしまう。
(そんなの……嫌よ……!)
その日、杏華は初めて昼時に屋敷を飛び出した。
「お嬢様、お待ち下さい!お嬢様!!」
「杏華!!待ちなさい!」
めいどに母に、杏華を止める声は、彼女に届くことはなかった。
西洋の靴は踵が少し高くなっていて、思うように走れない。ついには道の窪みに足をかけ転んでしまった。膝が擦れて、すかぁとが掠める度に傷んだ。道端の紫陽花に雨粒が流れる。いつも、いつも……もう歩く気力さえ残っていなかった。
地面に座りこむ。布に少しずつ、泥が滲んで肌に張り付く。一滴一滴、濡れた髪から露が垂れてくる。体の芯から冷えていく感覚があった。
途端、雨が止んだ……
「風邪を引いてしまいますよ、杏華さん。」
驚いた。その声は、陽が射したように暖かかったから。
「ぎん、ろ、さん……!」
今まで抑えてきたことが、全て込み上げてきた。みっともなく声を上げて泣いた。
銀郎に連れられて水車に来ていた。
「私、今日で見張り番を辞めるんです。明日の夜明けにはここを発ちます。」
「っ……!!それって……」
「どうやら、私が新聞に投稿した意見文を、帝都の大学の教授様が読んでくださったようなんです。それで、『ぜひ、うちの大学へ。』とお誘いを受けました。」
それはそれは嬉しそうに銀郎は話した。
「それじゃあ……今日でお別れなのね……」
「そうなってしまいますね。ここには新しい見張りが置かれますから、安心してくださいね。」
彼は私の気持ちなんて知らない。私が言わない限り気づくことはないだろう。
でも……
「行かないで……」
「え、?あぁ…うーん…申し訳ありません。それはできません。」
「そ、それはそうよね…ごめんなさい。さっきのは忘れ」
「ただ、必ず帰ってきます。その時、また会いましょうね。」
この優しい笑顔が本当に好きだった。
「はい……」
前が多少なり弱まったとき、杏華は屋敷へ帰った。
それから、街に出ても、水車に行っても、銀郎に会うことはなかった。
「私、帝都の大学に行くわ!!」
そう豪語して帝都の本邸に住み始めた。杏華が18になる年のことだ。散々、母親には反対されたが、「世間を見る」名目と父親の言葉にやっと折れてくれた。
毎日毎日研究に論文に忙しないが、今まで以上に楽しかった。
「秋庭くんよ。少しいいかい。」
「はい、教授。」
「この資料を物理学の梢くんに届けてくれないかね。」
「はい。わかりました。」
杏華が所属しているのは経済学。それ故、物理学の人とはまず関わりが無かった。物理学、物理学、と忘れぬように小さく呟きながら校舎を歩く。
三回、戸を叩く音。
「経済学の秋庭と申します。梢様はいらっしゃいますか?」
少しばかり待って、床を強く踏む音とともに戸が開いた。
「申し訳ありません、梢です。教授からの資料ですよね?最近忙しくて行けなくて……ありがとうございます。」
目を疑った。梢の姿に見覚えがあるからだ。ただ、その彼よりも程よく肉付きがあり、眼鏡をかけていた。
「銀郎さん……?」
「ん、?っ!!!杏華さん!?!どうしてここに……?」
「母の反対を押し切って大学に……銀郎さんは……ここで助手を?」
「はい。今では助教授にまでなれました。」
相変わらずの笑顔に杏華は安心した。同時に心臓が速くなったのを自覚する。
未だ冷めることのない恋……もうとっくに忘れていると思っていた。
すべて思い返す前に、立ち去ろう。
「私はこれで……!」
「あ、待ってください!!その……私、昼食がまだなんです。もし杏華さんもまだでしたら、一緒に食べませんか?」
昼食の誘いなんて反則だ。顔が火照り赤くなったのが、恥ずかしい。悔しい。
「私ばかり遊ばれてる気がします……///!」
「っふふ……!!杏華さんは誂いがいがありますからね。」
「もう///!!」
杏華さんは変わりませんね、と頭を撫でられた。
気になってしまえば最後、心が漫ろで仕方ない。定期的に昼食に誘われ、二人の時間を過ごした。のんびり、かつ穏やかな時間だった。
突然鳴り出す電話。何事かと、手に取った。
「はい、もしもし。」
「杏華!貴女今何処にいるの!?!」
電話の向こうは、母親。その奥に父親と教授の声があった。母親が、大学に来ている……
「せっかく大学に通わせてあげてるっていうのに、遊び歩いているなんてないでしょう!?」
右手が細かく震える。母親が怖いのだ。
「え、っと……その……」
「はっきりしなさい!!!」
怒鳴り声のあと、電話は切れた。いや、銀郎が切ったのだ。急に銀郎は杏華の手を取り、車に乗り込んだ。
「代金は支払いましたのでお気にせず。大学に戻ります。」
「え、!!でも、今行ったら母が……!!」
「大丈夫ですよ、杏華さん。私を信じてください。」
いつもより強い口調に驚くも、安心して信じる事ができた。杏華は静かに頷く。
「ありがとうございます。」
10分程して大学に着く。
「杏華!!!」
名を叫ぶ母に思い切り頬を叩かれた。膝を擦りむいたような痛さが、頬を走る。
「なんのために大学に通わせてやったと思ってるのよ!!この不良娘!!私をなんだと思ってるの!!」
もう1発来ると、目を瞑り身構えた。が、来ることはない。
「彼女を食事へ誘ったのは紛れもない私です。彼女は何も悪くありません。……申し訳ありませんでした。」
母の手を銀郎が止めたのだ。そして深々と頭を下げている。そんな彼を母は強く蹴飛ばした。ひぃるが腹に食い込み、銀郎は痛みに耐えるような唸り声を上げた。
「この……野良犬が!!あんたみたいな庶民が!!杏華と食事!!?巫山戯るも大概に!」
「はぁ……巫山戯てるのは君だ、椿。」
父が母の名を呼んだ。
「え、……え、?どうしてですか!旦那様!!私は何も悪くありません!」
なお、母は父に心酔しているが、父は母に対して冷酷だ。
「ほう、そうか。では、離婚だな。杏華の束縛も、罪のない青年を傷つけるのも。君は全てにおいて、やり過ぎだ。これ以上は看過できん。」
そんな……の如く膝から崩れ落ちる女性。それを横目に父は言った。
「先に屋敷に帰っていなさい。荷物を纏めるのに時間がかかるだろうから。」
女はひたすらもがいていたが、がたいのいい男達に連れられ、帰っていった。
「お父様……」
「ごめんね、杏華。もっと早くこうしていれば良かった。そうすれば、あんな夜な夜な銀郎くんに逢いに行かなくて済んだのにね。ね、銀郎くん。」
父親は知っていた。杏華が幼い頃夜な夜な家を飛び出し銀狼に逢っていたこと。そして、今杏華の隣にいる青年が銀郎だということを。
「杏華、僕は君を縛ったりしないよ。好きなように生きなさい。ただ1つ、秋庭家の娘だということは忘れないでね。」
優しい眼差しで杏華を見つめる。それは銀郎によく似ていた。
「銀郎くん。これから杏華をよろしくね。頼んだよ。」
優しく肩を叩かれる銀郎。頬を恥ずかしそうに掻いた。
「わ、私は杏華さんの何でもありませんから…」
「え、!!恋仲じゃないのかい?」
「ちちち違います!何を仰るのです、お父様///!!」
何気に必死に抵抗する杏華。大学の外、風に揺れる紅葉は紅く彩付いていた。あまりに否定するものだから、銀郎は少し落ち込んだ。
「私は……構いません。」
誠実な瞳で杏華を見る。少しだけ距離が近くなった顔を合わせた。
「私は帝都に来て、杏華さんがいなくて…寂しかったです。貴女の声が恋しかった。そう思ってたのは私だけですか……?」
悲しげな顔を向けた。人懐っこい大型犬のようだ。杏華には犬特有の垂れた耳と毛むくじゃらな尾が見えた。
「私は……ずっと銀郎さんが好きです……」
幾度となく縁談を申し込まれた杏華だったが、一度として彼女の首が縦に振ることは無かった。ある1人の男、銀郎に絶えず思いを馳せていたから……
「私でいいのですか?」
「そのままお返ししますよ、杏華さん。私で宜しいですか?」
「……うん。私は銀郎さんがいいの。」
そうですか、と杏華の大好きな柔らかい笑みを浮かべた。耳と尾が上がる。尾に関しては振っている…気もする。
「うんうん!これでよしっと!」
杏華の父も満足気だ。窓から日が差して、陽だまりに揺れる。
「じゃ、ふたりとも仲良くねぇ。」
杏華は清々しい気持ちで満たされていた。苦手としていた母との別れ。そして銀郎との交際が認められた。
「これからよろしくお願いしますね?……ん?杏華さん?っ!?」
泣いた。がしかし、これは嬉し涙だ。拭っても擦っても、止まりそうにない。
「あぁ……そんなに擦っては駄目ですよ。ほら、せっかくの綺麗なお顔が台無しです。」
「ふぇ……///!むぅ……そうゆうところですよ。」
さて、何でしょうか?、と返された。
それから少し経ったころ、銀郎は杏華に告白した。卒業式当日のことだった。
「杏華さん、ご卒業おめでとうございます。」
「ありがとうございます、銀郎さん。」
大きな花束は、父親から受け取った物。銀郎も彼女に贈り物を用意していた。
「本当に私でいいのですか?如何せん、私は庶民です。貴女とは生きる舞台が違う。歳も貴女とは10近く離れているはずです。」
「そんなこと、関係ありません!寧ろ身分を気にするのであれば、権力乱用して無理やりでも私の旦那にします……!」
頬を河豚のように膨らませ威嚇した。銀郎は唖然としたが、すぐ乾いた笑みを浮かべた。
「そんなことさせられませんね。全く……」
銀郎は杏華の前で跪いた。掌には小さな箱が1つ、中には月光のように神秘的に輝く金剛石の指輪があった。
「僕と結婚してくださいませんか?僕の隣で貴女の笑顔を見せてください。」
杏華は泣いた。その顔を銀郎の肩に埋めた。嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。
「もちろんです!銀郎さんの隣で笑わせてくださいな!」
薬指に輝く指輪は杏華によく似合っていた。
その半年後、2人は盛大な結婚式を挙げた。