歩実香から花火大会の事を知らされたのは6月の末の頃だった。

 まだすっきりとしない季節、雨はひとしきり降り続いていた。

 ムッとする外気と雨に濡れる街並み。

 朝の電車の車内も嫌気がさすほど不快な状態だった。

 大学に着くとすぐさま白衣をまとい講義に臨む……


 昨日までは系列する病院での実習講習講義だった。今日は大学でその講義のレポートの作成と教授との面談もある。


 後わずかに残る医学部学生としての生活。

 実際もうすでに卒業に対する見込みの査定は大方ついていた。

 僕は将来の専攻する診療科を絞り込んでいなければならい。僕はその当時内科及び外科、大きな分類ではあるがその方面を目指していた。

その診療科は人気というか一般的に志望する人数も多い。特に外科等の分類診療科は花形的な存在として人気が高いことは言うまでもないだろう。

 できる事なら、この両面から僕は将来についての診療科を絞りたかった。
 幸いなことに僕の場合卒業後の就職先というのだろうか、初期研修医としての赴任先はほぼ内定をもらっていた。

 まぁ、教授や先輩臨床医師から一目を置かれていたのかどうかはわからないが、後押しもあり大学に付随する系列病院二つから内定をもらっていた。


 そのうちの一つは歩実香が看護師として勤務していた病院だった。


 迷った挙句僕は歩実香が元いた病院を選択した。

 歩実香がいたからその病院にした訳では……その……あの病院の研修カリキュラムが僕が専攻しようとしている診療科に重点を置いているのが理由……今思えばどちらも同じと言えばそう言えたかもしれないのだが……


 歩実香は「ほんと?」と喜んでいたが

 「ああ残念、せっかく杉村先生と一緒に仕事できると思っていたのになぁ」と秋田に行くことを決めてから本当に残念がっていた。


 「でもうちの病院、研修医の先生たち本当に大変そうにしてたわ。よく指導医に怒られて怒鳴られたり、休む暇もなく雑用してたり……人気(ひとけ)のない所で泣いている姿よく見てたもん。今思えばよかったのかもしれないね」


 「どうして……」

 「だって……私だってまだ新米看護師なのに、そんな将哉の姿見ながらだったら仕事なんか手につかなかったかもしれないじゃない……」

 「…………」
 返す言葉がなかった。

 その後ぼっそりという歩実香の言葉に

 「それでもね、指導医の先生も本当は大変なのよ。自分が受け持つ患者さんと病棟。それに外来の診察もこなさないといけないし、ましてね研修医の指導もしていかないといけないから……ただね、ある先生言っていたわ」

 「なんて……」


 「僕ら悪気があって研修医を虐めている訳じゃないだってね。一人でも早く一人前のしっかりとした医師になってもらいたいから強く言うんだ。

人の命を預かる仕事。命を委ねられるそのプレッシャーに負けないようにね。って言ってたなぁ。それって物凄くわかるもん」


 「どうして……」

 「ある時ね、私が受け持っていた病棟の患者さんが亡くなったの。まだ本当に幼い子だったわ。

その時……その先生「助けられなかった……まだこれからなのに……その命を保ってやることが出来なかった。

今できることは全てやった、それでもあの子を助けることが出来なかった」そう言って涙流していたわ。

その子のご両親も辛かったんだろうけど……同じくらいに自分に何かを言い聞かせるように、その先生も何かまた一つ大きな重いものを背負った感じだったから……」


 すでに看護師として医療という現場で働く歩実香の言葉はその時の僕に重くのしかかった。

 そう僕はこれからその重いものを常に背負わなければならない世界に入ろうとしている。人の命という儚きも大きくそして偉大なものを……

 のちに初期研修に入った僕は、この病院に歩実香がいなくてほんとによかったと思った。実際、僕も……リネン室の片隅でよく涙を流していたのだから……



 あのじめじめとした淀んだ空気はいつの間にか、息がむせるほどの暑さを感じる季節に移り変わっていた。



 空を見上げれば、恨めしくなるくらいの青い空に白い雲がはっきりと描かれている。かと思えば、急速にその色は変わり真黒な雲がその強すぎる光のすべてを遮った。


 その後に舞い上がる強い風と共にやってくる、滝の様に降り注ぐ雨の大群。
 正直このゲリラ豪雨には困憊(こんぱい)気味だ。


 電車は遅れる止まるし、傘なんかまるでさしていないのと同じで全く役に立たない。


 だが悪いことばかりでもなかったかもしれない。


 ある日の事、まいどの様に急に雲行きが怪しくなったと思ったらお決まりの様にゲリラ豪雨に見舞われてしまった。

 案の定、電車は増水のため運休や区間運転となり駅には乗り込める電車を待つ人で溢れていた。そんな中、一人の少女に目が留まった。


 その姿に僕はハッと目を奪われたからだ……


 似ていた本当にそっくりに感じた。

 あの頃、付き合い始めた歩実香によく似た髪の長い色白の顔つき、そして背丈もほとんど同じくらいの歩実香を思わせる面影の彼女に……僕は目を奪われてしまった。


 その時、一瞬僕はタイムスリップしたかのようにあの頃を思い出していた。


 高校2年の冬休み、僕は朝から晩まで塾三昧の日々を過ごしていた。もうすでに進路は決まっていた。


 医学部を目指す事。


 そのための僕の戦いは始まっていた。

 学校での成績もそんなに……まぁ確かに学年ではいつもトップ5の顔ぶれの中にはいた。

 小学校の頃から始めたバスケも好きで高校に入ってからもバスケ部に入り続けていたが医学部に進学を決めた時、好きだったバスケも未練なくやめた。


 自分の人生の方向性を決めるとき、何かがきっかけになってその向きを見定めるという考えもあるが、僕は医師になる事がその時の目標として自分が捉えた方向性だった。それがどんなきっかけであったかは未だ分からない……


 実際まだ漠然としたものであることは確かだったが、医師になる為に必要な事は調べ上げた。それでもその気持ちが変わらないと思うには、もう既に自分の向かうべき行き先を決めていたんだと思う。

 だから好きだったバスケ部も決めたその翌週には退部届を出していた。

 両親にも自分の進むべく先を相談した時、物凄く大変な事ではあるが自分でそう決めたのならしっかりと前に進めと後押しをしてくれた。


 でもそんな最中、歩実香と付き合う事になるとは思いもしなかった。


 実は歩実香は僕と同じ高校の一年上の先輩。冬休みが終われば自分が志望する国立の看護大学への願書を出すと言う、彼女にとっても大変な時期だった。


 そんな時……


 夕方ようやく今日の塾の講義が終わり、帰り支度をしていると

 「そう言えば将哉、さっき下のロビーに行った時、すんげぇ可愛い子にお前何時ころ終わるかって訊かれたけど、もしかしてその子ってお前のこれか?」と小指を立てて同じ塾仲の奴がにやけながら僕に言い寄って来た。


 思わず「はぁ?」と言ってしまったがそれもそのはず、その時特定の彼女なんかいなかったから、そんなこと言われても何とも応えようがなかった。

 誰だろうと、急いで下のロビーに向かったがそこには思い当たる人の姿を見る事は無かった。

 「なんだよ彼奴(あいつ)」と玄関を出ると扉のすぐ横で、白い毛糸の手袋に真っ赤なマフラーをした髪の長い、確かに可愛らしい子が僕を呼び止めた。

 「杉村君」

 「はい」と答えたが、その時はその子を見る限り僕の知る人の中に該当する人ではなかった。

 「良かった……随分待ったのよ」

 彼女はこの寒空の下、一時間ほど僕を待っていたらしい。


 「あのぉ、済みません……誰でしたっけ」


 ちょっと照れ隠しに頭を掻くふりをしながら訊くと、その彼女は少しㇺッとして、鞄から黒縁の眼鏡を取り出しそれをおもむろにかけた。

 それを見て、思わず「あ!」と声を上げてしまった。

 何とそこに居たのは、夏休みの直前で3年のバスケ部員と一緒に引退した元バスケ部のマネージャーだった。


 「せ、先輩……な、なんで」
 「ようやく気が付いたか……」


 そう彼女こそが歩実香、今では僕に取って一番大切な人だ。


  帰宅する塾生で玄関前は混雑し始めた。ハッと気が付くと僕ら二人を見つめる視線が物凄いことになっていた。

 その時歩実香は僕の手を取りすたすたを僕を引っ張るように歩き出した。

 「将哉がんばれよぉう」と激励にもやじにも聞こえる声を後に僕らは足早にその場を立ち去った。

 ようやく足を止めたのは駅の前の広場だった。

 そこで歩実香は鞄から一通の封筒を僕に手渡した。物凄く真剣な顔でそして今でも忘れない。彼女のその力強い視線を……


 「杉村君それ必ず家に着いてから読んで……お願い」


 そう言って彼女は急いで改札を抜けた。

 渡された封筒……ピンク色のちょっと可愛らしい封筒。

 そうそれは何処のだれが見ても……その……ラブレターというものだった。
 こういう手紙……いわゆるラブレターは古典的だけど、よく僕の下足棚に置かれていることがしばしばあった。


 「必ず家に着いてから読んで」


 なぜか彼女のあの言葉がこだましている。

 家に着くなりすぐさま自分の部屋に入り、カバンを投げ出し内ポケットに仕舞い込んでいた歩実香からの手紙を読んだ。

 今でも彼女のあの力強い目力はこの目に焼き付いていた。


 そこには……