母が倒れた。
この秋田に来て3年目の事。
父が急逝し、慣れない土地で気を張りながら表向きはのんびりとしているかのように思わせながら……心労がたまっていた。
病魔はそんな母を少しづつ侵していた。
子宮筋腫、甲状腺機能低下症、高血圧症、もうすでに中高年といわれる年代になっている母、気さくでなんにでも興味を示してまっすぐに進むような性格の母だったけど、こっちに来てから、いいえお父さんが亡くなってからは何か一つの支えを失いその支えを自ら作ろうとしていたようにも感じる。
「子宮筋腫なんだって。それも結構大きいらしいの。だから子宮ごと摘出しないといけないみたい」
「うん、訊いた。良性だから切除すれば問題はないって言っていたよ」
「そうね。悪性じゃなかったことが救いかなぁ。でも、もう子宮なくなちゃうんだよね」
「何よ今更、まだ子供作る気でいたの?」
ちょっとからかいながら言ってみた。
「………そ、そんなわけじゃないけど。何となくね」
「何となくって」
「だってあなたがこの子宮の中で育って、そしてこの世に産まれたのよ。それがなくなっちゃう。何となくね……あなたはもうこんなに立派に育ったんだけど……私にとっては沢山の想いがあるの」
お母さんはおなかのあたりをそっとなでるように手を添えた。
そして……。
「あなたにもわかる時が来ると思う。この気持ち」
「そうぉ……」
「そうよ、早く雅哉さんの子供宿しなさい。そうしたらわかるから、あなたにもこの気持ち」
少し顔を赤らめて。
「そ、そんな、今雅哉は研修中よそれに私だって今は仕事……。そんなこと言ったら、お母さんおばあちゃんって呼ばれるようになるのよ」
「あら、私は大歓迎よ。おばあちゃんて呼ばれるの。いつになるんでしょうね歩実香」
「ばか、変なこと言わないでよ。それよりオペは明後日だからね。今は薬で落ち着いているからベッドの上でおとなしくしていてくださいね辻岡さん」
「はーい。怖い看護師さんです事」
「まったく!」
母のオペは予定通り行われた。
雅哉にもこのことは連絡しておいた。
「本当か。大丈夫なんだろうな」
「大丈夫よ。筋腫も良性だったし、摘出さえ出来ればあとは大丈夫だって」
「そうか、俺もそっちに行ってあげたいけど……」
「ううん、雅哉はお仕事、研修頑張って、こっちは私がいれば大丈夫だから」
「……なぁ歩実香」
「何?」
「医者になるって大変なことなんだな」
「どうしたの雅哉。あなたらしくないこと言っちゃって」
「いや何でもない。ごめん変なこと言っちゃって」
「大丈夫よ。あなたは本当に頑張っている。そして良《い》い医師になれると思う。私は信じている。私も看護師の業務についたときは本当に大変だった。でも医師と呼ばれる人はその何倍も大変だっていうことをこの目でちゃんと見てきているから。大丈夫きっと雅哉はやり遂げられる。だから頑張って……雅哉」
「あ、ありがとう……歩実香」
少し涙ぐんだようなかすれ声が返ってくる。
雅哉も今、かなり苦しいところにいるんだと感じた。
出来ることなら、彼の傍にいてあげたい。
その苦しみを少しでも癒してあげたい。
でもそれは今は出来ない。
だから私はあえて……。
「雅哉、あなたもしかして泣いてんの? 医者になることそんなに簡単だと思っていたの? 苦しいでしょ。苦しいのよ、人の命を預かるのって。甘くないのよ」
「そうだね……甘くないよ。人の命を預からなきゃいけないんだから。ごめん、こんな時なのに歩実香にまた心配かけさせたね。励ましてくれてありがとう」
電話は切れた。
ため息が出るのと同時に後悔の思いも沸いてきた。
キツイ事言っちゃったなぁ。
本当はもっと優しいこと言ってあげたかったんだけどなぁ。
一人、家の窓から夏の夜空を眺めていた。
スーと一筋の流れ星が目に入る。
流れ星に三回願い事を言えればその願いが叶う。
三回なんて無理なこと。目にした時はすでに流れ星は消えているんだから。
目にしたときにはその姿は、もうすでに……消えている。
オペから一週間後お母さんは退院した。
経過は良好。本人は意外とけろっとしているんだけど、ちょっと心配だったから連休をもらった。本当は婦長が気を使ってくれて休みにしてくれた。
家に帰るなり。
「ああ、今年の夏野菜だめね」
何のことはない。何の心配を一番していたかと思えば、畑の野菜たちの事を心配していたようだった。
「仕方ないでしょ。春に植えたのはちゃんと実ってるんだからいいじゃない」
「何言ってんの、ちゃんと世話してあげないと野菜って正直よ。雅哉さんの大好きなピーマン、ほら、こんなに実が固くなっちゃってる」
「あーほんとだぁ。でもいいのもあるじゃない」
「送ってあげるの?」
「できれば……」
「まったく素直じゃないんだから。持って行きたいって言えばいいのに」
我が母親ながら、私の素直な気持ちを代弁してくれた。
「ダメでしょ。婦長もお母さんの事心配して私に休みくれたんだから、お母さんをほっといて雅哉の所なんかには行けないでしょ」
「フフフ、ありがとう。でも歩実香、あなた無理しないでね。自分の気持ちに無理しないで、あなたはいつも自分の気持ちに自分で蓋をしてしまう癖があるから。そして我慢できないくらいその思いをため込んでその蓋を壊してしまう。雅哉さんと付き合う前の事だって、あなたずっとため込んでいたんでしょ。そしてのため込んだ思いがあなたの蓋を壊した。だからあんなにも熱があるのに飛び出しちゃったんでしょ」
「もぉ、そんな昔の事今さら言わないでよ」
少し照れながらすねたように言う
「今のあなた。あの時のあなたの様に見えるのよ」
我慢している。
母には、お母さんはわかっていた。私が我慢していることを……
本当は、本当はものすごく我慢している。
素直に雅哉に会いたい。そう思う心に……寄り添うかのようにわたしを引き留める気持ち。
そのはざまで私は今揺れ動いている。
結局、雅哉の大好きな? 《《ピーマン》》は他の野菜たちと一緒に送ってやった。
お返しというのだろうか? 数日後一枚の写真がSNSから送られてきた。
去年、この家でおいしそうに苦手なピーマンをまるかじりしていたあの時と同じ、少し顔がひきつった《《ピーマンまるかじり》》のその姿の写真。
思わず噴き出したけど……。
変だな、涙がこぼれてくる。
その姿、その表情、スマホの中にいる雅哉に触れる……冷たさだけが私の心の中に残る。
雅哉の影が私の中でささやく。
「歩実香……、歩実香一緒に……」
彼の影が私を呼んでいる。
いいえ、私が彼を呼んでいた……。
雅哉のいない夏は稲の生長を見るかのように過ぎ去っていく。
近づく8月の第4土曜日。
稲穂が実り頭《こうべ》を下げ始める季節。
まだ夏の暑さはこの秋田にとどまっている。でも、もう時期夏が過ぎ去る季節を迎える。
青々とした木々の葉も少しづつその役目を終えようとしている。
時はゆっくりと着実に流れ過ぎ去る。
そして、雅哉のいない夏の終わりの花火。
8月の第4土曜日、大曲の花火は夜空に花開いた。
その日、私の目に映る夜空は黒い闇のような空だった。吸い込まれそうな黒い闇の中に、私の心は飲み込まれてしまった。
災害はいつやってくるかわからない。そして忍び寄る心の闇は私の心の隙間に入り込んでいく。
足音も立てずに静かにひっそりと……。
窓から流れる少し冷たさを感じる風にどこから聞こえてくるのだろう。
鈴虫の声がわたしをその音色のもとにいざなう。
向かうはずのない、私の思うこともない世界に。
私は知らない。
雅哉とあと花火を一緒に見ることが出来ないことを。
彼の幻影を私は追い続けていく。
いつまでも、永遠に……。
想像を絶する災害が私たちを襲い、恐怖と悲しみの中に生きなければいけなくなることを。
私は知らない。
その渦中に私の愛する雅哉が巻き込まれ、彼の人生が変わりゆく事も……。
私は……知らない。
この秋田に来て3年目の事。
父が急逝し、慣れない土地で気を張りながら表向きはのんびりとしているかのように思わせながら……心労がたまっていた。
病魔はそんな母を少しづつ侵していた。
子宮筋腫、甲状腺機能低下症、高血圧症、もうすでに中高年といわれる年代になっている母、気さくでなんにでも興味を示してまっすぐに進むような性格の母だったけど、こっちに来てから、いいえお父さんが亡くなってからは何か一つの支えを失いその支えを自ら作ろうとしていたようにも感じる。
「子宮筋腫なんだって。それも結構大きいらしいの。だから子宮ごと摘出しないといけないみたい」
「うん、訊いた。良性だから切除すれば問題はないって言っていたよ」
「そうね。悪性じゃなかったことが救いかなぁ。でも、もう子宮なくなちゃうんだよね」
「何よ今更、まだ子供作る気でいたの?」
ちょっとからかいながら言ってみた。
「………そ、そんなわけじゃないけど。何となくね」
「何となくって」
「だってあなたがこの子宮の中で育って、そしてこの世に産まれたのよ。それがなくなっちゃう。何となくね……あなたはもうこんなに立派に育ったんだけど……私にとっては沢山の想いがあるの」
お母さんはおなかのあたりをそっとなでるように手を添えた。
そして……。
「あなたにもわかる時が来ると思う。この気持ち」
「そうぉ……」
「そうよ、早く雅哉さんの子供宿しなさい。そうしたらわかるから、あなたにもこの気持ち」
少し顔を赤らめて。
「そ、そんな、今雅哉は研修中よそれに私だって今は仕事……。そんなこと言ったら、お母さんおばあちゃんって呼ばれるようになるのよ」
「あら、私は大歓迎よ。おばあちゃんて呼ばれるの。いつになるんでしょうね歩実香」
「ばか、変なこと言わないでよ。それよりオペは明後日だからね。今は薬で落ち着いているからベッドの上でおとなしくしていてくださいね辻岡さん」
「はーい。怖い看護師さんです事」
「まったく!」
母のオペは予定通り行われた。
雅哉にもこのことは連絡しておいた。
「本当か。大丈夫なんだろうな」
「大丈夫よ。筋腫も良性だったし、摘出さえ出来ればあとは大丈夫だって」
「そうか、俺もそっちに行ってあげたいけど……」
「ううん、雅哉はお仕事、研修頑張って、こっちは私がいれば大丈夫だから」
「……なぁ歩実香」
「何?」
「医者になるって大変なことなんだな」
「どうしたの雅哉。あなたらしくないこと言っちゃって」
「いや何でもない。ごめん変なこと言っちゃって」
「大丈夫よ。あなたは本当に頑張っている。そして良《い》い医師になれると思う。私は信じている。私も看護師の業務についたときは本当に大変だった。でも医師と呼ばれる人はその何倍も大変だっていうことをこの目でちゃんと見てきているから。大丈夫きっと雅哉はやり遂げられる。だから頑張って……雅哉」
「あ、ありがとう……歩実香」
少し涙ぐんだようなかすれ声が返ってくる。
雅哉も今、かなり苦しいところにいるんだと感じた。
出来ることなら、彼の傍にいてあげたい。
その苦しみを少しでも癒してあげたい。
でもそれは今は出来ない。
だから私はあえて……。
「雅哉、あなたもしかして泣いてんの? 医者になることそんなに簡単だと思っていたの? 苦しいでしょ。苦しいのよ、人の命を預かるのって。甘くないのよ」
「そうだね……甘くないよ。人の命を預からなきゃいけないんだから。ごめん、こんな時なのに歩実香にまた心配かけさせたね。励ましてくれてありがとう」
電話は切れた。
ため息が出るのと同時に後悔の思いも沸いてきた。
キツイ事言っちゃったなぁ。
本当はもっと優しいこと言ってあげたかったんだけどなぁ。
一人、家の窓から夏の夜空を眺めていた。
スーと一筋の流れ星が目に入る。
流れ星に三回願い事を言えればその願いが叶う。
三回なんて無理なこと。目にした時はすでに流れ星は消えているんだから。
目にしたときにはその姿は、もうすでに……消えている。
オペから一週間後お母さんは退院した。
経過は良好。本人は意外とけろっとしているんだけど、ちょっと心配だったから連休をもらった。本当は婦長が気を使ってくれて休みにしてくれた。
家に帰るなり。
「ああ、今年の夏野菜だめね」
何のことはない。何の心配を一番していたかと思えば、畑の野菜たちの事を心配していたようだった。
「仕方ないでしょ。春に植えたのはちゃんと実ってるんだからいいじゃない」
「何言ってんの、ちゃんと世話してあげないと野菜って正直よ。雅哉さんの大好きなピーマン、ほら、こんなに実が固くなっちゃってる」
「あーほんとだぁ。でもいいのもあるじゃない」
「送ってあげるの?」
「できれば……」
「まったく素直じゃないんだから。持って行きたいって言えばいいのに」
我が母親ながら、私の素直な気持ちを代弁してくれた。
「ダメでしょ。婦長もお母さんの事心配して私に休みくれたんだから、お母さんをほっといて雅哉の所なんかには行けないでしょ」
「フフフ、ありがとう。でも歩実香、あなた無理しないでね。自分の気持ちに無理しないで、あなたはいつも自分の気持ちに自分で蓋をしてしまう癖があるから。そして我慢できないくらいその思いをため込んでその蓋を壊してしまう。雅哉さんと付き合う前の事だって、あなたずっとため込んでいたんでしょ。そしてのため込んだ思いがあなたの蓋を壊した。だからあんなにも熱があるのに飛び出しちゃったんでしょ」
「もぉ、そんな昔の事今さら言わないでよ」
少し照れながらすねたように言う
「今のあなた。あの時のあなたの様に見えるのよ」
我慢している。
母には、お母さんはわかっていた。私が我慢していることを……
本当は、本当はものすごく我慢している。
素直に雅哉に会いたい。そう思う心に……寄り添うかのようにわたしを引き留める気持ち。
そのはざまで私は今揺れ動いている。
結局、雅哉の大好きな? 《《ピーマン》》は他の野菜たちと一緒に送ってやった。
お返しというのだろうか? 数日後一枚の写真がSNSから送られてきた。
去年、この家でおいしそうに苦手なピーマンをまるかじりしていたあの時と同じ、少し顔がひきつった《《ピーマンまるかじり》》のその姿の写真。
思わず噴き出したけど……。
変だな、涙がこぼれてくる。
その姿、その表情、スマホの中にいる雅哉に触れる……冷たさだけが私の心の中に残る。
雅哉の影が私の中でささやく。
「歩実香……、歩実香一緒に……」
彼の影が私を呼んでいる。
いいえ、私が彼を呼んでいた……。
雅哉のいない夏は稲の生長を見るかのように過ぎ去っていく。
近づく8月の第4土曜日。
稲穂が実り頭《こうべ》を下げ始める季節。
まだ夏の暑さはこの秋田にとどまっている。でも、もう時期夏が過ぎ去る季節を迎える。
青々とした木々の葉も少しづつその役目を終えようとしている。
時はゆっくりと着実に流れ過ぎ去る。
そして、雅哉のいない夏の終わりの花火。
8月の第4土曜日、大曲の花火は夜空に花開いた。
その日、私の目に映る夜空は黒い闇のような空だった。吸い込まれそうな黒い闇の中に、私の心は飲み込まれてしまった。
災害はいつやってくるかわからない。そして忍び寄る心の闇は私の心の隙間に入り込んでいく。
足音も立てずに静かにひっそりと……。
窓から流れる少し冷たさを感じる風にどこから聞こえてくるのだろう。
鈴虫の声がわたしをその音色のもとにいざなう。
向かうはずのない、私の思うこともない世界に。
私は知らない。
雅哉とあと花火を一緒に見ることが出来ないことを。
彼の幻影を私は追い続けていく。
いつまでも、永遠に……。
想像を絶する災害が私たちを襲い、恐怖と悲しみの中に生きなければいけなくなることを。
私は知らない。
その渦中に私の愛する雅哉が巻き込まれ、彼の人生が変わりゆく事も……。
私は……知らない。