柔らかい陽の光にほほをさする暖かい風。
ようやくここ秋田にも遅い春の風が吹く季節になった。
雅哉は大学を卒業し、すでに内定していた病院への勤務に入っていた。
医師になるためには、医大で6年間の講義に単位を取得し、卒業見込みを得られたものだけが、目標である医師国家試験を受験できる。
三日間にわたりその試験は行われ、医学に関するすべての項目が幅広く出題される。
そしてこの医師国家試験に合格した者が、いわゆる医師免許といわれる医療行為を行える資格が与えられる。
だが、それだけではほんとうに医師になったとは言えない。
大学で教える講義は、あくまでも卓上での理論にしかならない。実際の医療の現場とは全く違う。
大学を卒業し医師国家試験を得た者たちは、まだ本当の医療の現場を知らない。
そのため2年間の初期研修制度を受けることが必須となっている。
「辻岡さん」
私はある医師に呼び止められた。
「君の彼氏、初期研修中なんだって」
ちょっと私に対してはなれなれしい感じもするが、それは私に限らず他の女性看護師に対しても同じように接する医師。
正直看護師の中ではあまりいい印象を持つものは少ない。
「そ、そうですね。今年の春からなんですけど、やっぱり何をやったらいいのかわからないことばかりで大変そうですよ」
「はははは、そうだろう。懐かしいなぁ、僕もあの当時は本当に大変だった思い出しかないなぁ。でも楽しかったことは楽しかったなぁ」
「先生の場合、初期研修かなり優遇されていたんじゃないですか」
「はぁん? 優遇? そう見える?」
「ええ、何となく」
「どうして?」
「どうしてといわれましても……ただそんな気がしただけなんですけど」
「それは僕のこの性格のせいかな? 知っているんだよ、君たちナースが僕の事あまりよく思っていないことをね」
「そんなことを言っているんではないですけど……」
「まぁいい、それより君の彼、これからが一番大変な時期だろうから、ちゃんと手綱《たづな》をつかんでおかないと君も捨てられるかもしれないよ」
「え、ま、雅哉に限ってそんなこと絶対にありませんから」
頭に血がのぼるのを感じる。
「雅哉君ていうんだ君の彼氏。そうか、まぁたった2年間の間に研修という名目で、あらゆる診療科をたらいまわしにされて、雑用を先輩から押し付けられて、うまくかわす奴は楽しく2年間を過ごせるんだろうけど、不器用な奴ほど苦労するからなぁ」
「先生は不器用じゃなかったんですね」
「あ、わかる。うちの病院にいる研修生でも、いるよね。がむしゃらに何でもやってやろうとする奴と、そこそこ楽しくやっている奴とね。さて、君の彼氏はどちらのタイプなんだろうね」
そう聞かれると雅哉は楽して乗り切るタイプじゃないなぁ……と頭の中にささやく声が聞こえてくる。
ちょっと心配になった。
「おいおい、そんな深刻な顔されちゃ困るなぁ。そんなに心配かい彼氏の事。大丈夫だよ、今は昔と違ってちゃんとしてるから。最もこの医者不足の時代一人でも脱落者は出したくないからね。僕だって研修医にはそれなりに気を使って指導しているんだよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。この目を見てごらん嘘偽りはないだろ」
そんなことを言われても信じろと言う方が難しいかもしれない。
「そうだ、前々から誘おうと思っていたんだけど、今度一緒に食事でもどうお?」
あ、そうかこの人はこうやって誘い文句を切り出すんだ。
「僕が部長の息子だからなんて関係ないよ。ただ君とゆっくりと話をしたいと思っていただけなんだけどね。もちろん変な下心なんてないよ」
白い歯をちょっと見せながら、軽く微笑みながら言うその姿。まぁ確かにちょっとはいける姿に見えるけど、雅哉ほどじゃない。
返事に困っていると私のピッチが鳴った。
「はい辻岡です………わかりました」
「すみません、呼び出されましたのでこれで失礼します」
なんとタイミングのいい呼び出しだったんだろうか。あのままいたら多分ごり押しされて断り切れないような状態になりかねなかった。
ナースステーションに戻ると。
「歩実香、危ないところだったみたいね」
ニコニコしながら秋ちゃんが言う。
「もしかしてさっきの呼び出し秋ちゃんだったの?」
「そ、ちょっとお願いして私の担当の患者さんのところお願いしたのよ」
やっぱり持つべきは頼りになる友。
「助かったわ。ありがと、秋ちゃん」
「どういたしまして、何せあんなにいい彼氏がいるんだもの、あんな変な奴に落とされちゃ雅哉さんだっけ? 今頑張ってるんでしょ、彼裏切られないでしょ」
「うん……そうだね」
危ない危ない……。いくら寂しいとはいえ雅哉を裏切ることなんて私には出来ないし、考えることさえないんだもん。
今日は確か雅哉当直はないはずだった。
電話してみよっかな……雅哉の声、聞きたくなってたまらない。
大学を卒業するまでは、医師国家試験を合格するまでは、我慢をしていた電話。雅哉の声を聴きたくても我慢した。合格するまでは。
雅哉が勤める病院に入るまでは本当に毎日、ううん、我慢していた分休み時間もメッセージ送ったりしていた。
でも……いざ務める病院で雅哉の仕事が始まると、お互いに思った以上に時間にずれが生じていた。
私が時間がある時、雅哉には時間がない。
雅哉が休みの時、私が忙しい。
二人の勤務表を重ね合わせてもお互いに重なる日はほとんどなかった。
たまに狙って電話をしてもコール音が返ってくるだけで雅哉の声は帰ってこないことが多い。
たまに雅哉からの着信があって、仕事終わりにかけなおしても繋がらない。
ようやく雅哉と繋がっても……雅哉の声は物凄く疲れているように感じる。
「そんなことないよ」
彼はそういうが聞こえてくる雅哉の声一つ一つがとても疲れているように感じる。
「無理しないで……」そう私には言うことしかできないけど。
「大丈夫だよ。歩実香こそ無理すんな」って私の事を気遣ってくれる。
私はただ雅哉の声が聴ければ、それで雅哉と繋がっているという安心感が持てるから大丈夫。そう返すけど、本当はそれだけではもうおさまりは付かない。
ほんとうに出来ることなら……今すぐ雅哉に会いたい。
雅哉の姿をこの目でじかに見たい。雅哉の手のぬくもりを、彼の体の暖かさを私はこの躰すべてで感じたい。
でも……今、私が雅哉の所に行けば、多分もうここには戻ってこれないかもしれない。多分会ってしまえば、もう離れることは出来なくなるかもしれない。
いま、彼は研修の身。その研修の支え……ううん、違う。
甘えてしまう。
私は雅哉に甘えてしまう。雅哉の支えなんかにはならないそれどころか重荷になってしまいそうだ。
そんなのはいやだ。雅哉には今は……会えない。
我慢しないといけない。
その我慢がいつまで続くかは今の私にはわからない。でも今は……お互いに耐えなければいけない。
ねぇ、雅哉………私、いつまであなたを待っていないといけないの?
いつまで……私は………。
季節は柔らかな風が照りつく太陽の陽の光に包まれ、薄緑の葉が青々とした葉に色を染める季節になった。
そうまた夏がこの秋田にやってきた。
この夏の終わり、今年も大曲の花火は開催される。
去年の花火……雅哉と一緒に初めて見た大曲の花火。
今年は……見れない。
雅哉は休みは取れない。取れるわけがない。
だから雅哉は今年こっちに来ることはない。
雅哉も「残念だけど今年は行けそうにもないな……」悲しそうな声で言う。
そんな悲しそうな声なんか聞きたくなんかない。
雅哉の疲れた声なんかそんな姿なんか見たくなんかない。
訊く声でわかる。雅哉は本当に頑張っていることを。自分のためだけじゃなく。多分私の自意識過剰な想いかもしれないけど。
私のためにも頑張っているんだ。
そう思い自分の今にでも湧き出そうなこの想いを押し込める。
そんな7月の終わり……母が倒れ入院した。
ようやくここ秋田にも遅い春の風が吹く季節になった。
雅哉は大学を卒業し、すでに内定していた病院への勤務に入っていた。
医師になるためには、医大で6年間の講義に単位を取得し、卒業見込みを得られたものだけが、目標である医師国家試験を受験できる。
三日間にわたりその試験は行われ、医学に関するすべての項目が幅広く出題される。
そしてこの医師国家試験に合格した者が、いわゆる医師免許といわれる医療行為を行える資格が与えられる。
だが、それだけではほんとうに医師になったとは言えない。
大学で教える講義は、あくまでも卓上での理論にしかならない。実際の医療の現場とは全く違う。
大学を卒業し医師国家試験を得た者たちは、まだ本当の医療の現場を知らない。
そのため2年間の初期研修制度を受けることが必須となっている。
「辻岡さん」
私はある医師に呼び止められた。
「君の彼氏、初期研修中なんだって」
ちょっと私に対してはなれなれしい感じもするが、それは私に限らず他の女性看護師に対しても同じように接する医師。
正直看護師の中ではあまりいい印象を持つものは少ない。
「そ、そうですね。今年の春からなんですけど、やっぱり何をやったらいいのかわからないことばかりで大変そうですよ」
「はははは、そうだろう。懐かしいなぁ、僕もあの当時は本当に大変だった思い出しかないなぁ。でも楽しかったことは楽しかったなぁ」
「先生の場合、初期研修かなり優遇されていたんじゃないですか」
「はぁん? 優遇? そう見える?」
「ええ、何となく」
「どうして?」
「どうしてといわれましても……ただそんな気がしただけなんですけど」
「それは僕のこの性格のせいかな? 知っているんだよ、君たちナースが僕の事あまりよく思っていないことをね」
「そんなことを言っているんではないですけど……」
「まぁいい、それより君の彼、これからが一番大変な時期だろうから、ちゃんと手綱《たづな》をつかんでおかないと君も捨てられるかもしれないよ」
「え、ま、雅哉に限ってそんなこと絶対にありませんから」
頭に血がのぼるのを感じる。
「雅哉君ていうんだ君の彼氏。そうか、まぁたった2年間の間に研修という名目で、あらゆる診療科をたらいまわしにされて、雑用を先輩から押し付けられて、うまくかわす奴は楽しく2年間を過ごせるんだろうけど、不器用な奴ほど苦労するからなぁ」
「先生は不器用じゃなかったんですね」
「あ、わかる。うちの病院にいる研修生でも、いるよね。がむしゃらに何でもやってやろうとする奴と、そこそこ楽しくやっている奴とね。さて、君の彼氏はどちらのタイプなんだろうね」
そう聞かれると雅哉は楽して乗り切るタイプじゃないなぁ……と頭の中にささやく声が聞こえてくる。
ちょっと心配になった。
「おいおい、そんな深刻な顔されちゃ困るなぁ。そんなに心配かい彼氏の事。大丈夫だよ、今は昔と違ってちゃんとしてるから。最もこの医者不足の時代一人でも脱落者は出したくないからね。僕だって研修医にはそれなりに気を使って指導しているんだよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。この目を見てごらん嘘偽りはないだろ」
そんなことを言われても信じろと言う方が難しいかもしれない。
「そうだ、前々から誘おうと思っていたんだけど、今度一緒に食事でもどうお?」
あ、そうかこの人はこうやって誘い文句を切り出すんだ。
「僕が部長の息子だからなんて関係ないよ。ただ君とゆっくりと話をしたいと思っていただけなんだけどね。もちろん変な下心なんてないよ」
白い歯をちょっと見せながら、軽く微笑みながら言うその姿。まぁ確かにちょっとはいける姿に見えるけど、雅哉ほどじゃない。
返事に困っていると私のピッチが鳴った。
「はい辻岡です………わかりました」
「すみません、呼び出されましたのでこれで失礼します」
なんとタイミングのいい呼び出しだったんだろうか。あのままいたら多分ごり押しされて断り切れないような状態になりかねなかった。
ナースステーションに戻ると。
「歩実香、危ないところだったみたいね」
ニコニコしながら秋ちゃんが言う。
「もしかしてさっきの呼び出し秋ちゃんだったの?」
「そ、ちょっとお願いして私の担当の患者さんのところお願いしたのよ」
やっぱり持つべきは頼りになる友。
「助かったわ。ありがと、秋ちゃん」
「どういたしまして、何せあんなにいい彼氏がいるんだもの、あんな変な奴に落とされちゃ雅哉さんだっけ? 今頑張ってるんでしょ、彼裏切られないでしょ」
「うん……そうだね」
危ない危ない……。いくら寂しいとはいえ雅哉を裏切ることなんて私には出来ないし、考えることさえないんだもん。
今日は確か雅哉当直はないはずだった。
電話してみよっかな……雅哉の声、聞きたくなってたまらない。
大学を卒業するまでは、医師国家試験を合格するまでは、我慢をしていた電話。雅哉の声を聴きたくても我慢した。合格するまでは。
雅哉が勤める病院に入るまでは本当に毎日、ううん、我慢していた分休み時間もメッセージ送ったりしていた。
でも……いざ務める病院で雅哉の仕事が始まると、お互いに思った以上に時間にずれが生じていた。
私が時間がある時、雅哉には時間がない。
雅哉が休みの時、私が忙しい。
二人の勤務表を重ね合わせてもお互いに重なる日はほとんどなかった。
たまに狙って電話をしてもコール音が返ってくるだけで雅哉の声は帰ってこないことが多い。
たまに雅哉からの着信があって、仕事終わりにかけなおしても繋がらない。
ようやく雅哉と繋がっても……雅哉の声は物凄く疲れているように感じる。
「そんなことないよ」
彼はそういうが聞こえてくる雅哉の声一つ一つがとても疲れているように感じる。
「無理しないで……」そう私には言うことしかできないけど。
「大丈夫だよ。歩実香こそ無理すんな」って私の事を気遣ってくれる。
私はただ雅哉の声が聴ければ、それで雅哉と繋がっているという安心感が持てるから大丈夫。そう返すけど、本当はそれだけではもうおさまりは付かない。
ほんとうに出来ることなら……今すぐ雅哉に会いたい。
雅哉の姿をこの目でじかに見たい。雅哉の手のぬくもりを、彼の体の暖かさを私はこの躰すべてで感じたい。
でも……今、私が雅哉の所に行けば、多分もうここには戻ってこれないかもしれない。多分会ってしまえば、もう離れることは出来なくなるかもしれない。
いま、彼は研修の身。その研修の支え……ううん、違う。
甘えてしまう。
私は雅哉に甘えてしまう。雅哉の支えなんかにはならないそれどころか重荷になってしまいそうだ。
そんなのはいやだ。雅哉には今は……会えない。
我慢しないといけない。
その我慢がいつまで続くかは今の私にはわからない。でも今は……お互いに耐えなければいけない。
ねぇ、雅哉………私、いつまであなたを待っていないといけないの?
いつまで……私は………。
季節は柔らかな風が照りつく太陽の陽の光に包まれ、薄緑の葉が青々とした葉に色を染める季節になった。
そうまた夏がこの秋田にやってきた。
この夏の終わり、今年も大曲の花火は開催される。
去年の花火……雅哉と一緒に初めて見た大曲の花火。
今年は……見れない。
雅哉は休みは取れない。取れるわけがない。
だから雅哉は今年こっちに来ることはない。
雅哉も「残念だけど今年は行けそうにもないな……」悲しそうな声で言う。
そんな悲しそうな声なんか聞きたくなんかない。
雅哉の疲れた声なんかそんな姿なんか見たくなんかない。
訊く声でわかる。雅哉は本当に頑張っていることを。自分のためだけじゃなく。多分私の自意識過剰な想いかもしれないけど。
私のためにも頑張っているんだ。
そう思い自分の今にでも湧き出そうなこの想いを押し込める。
そんな7月の終わり……母が倒れ入院した。