秋田の冬は一面が雪で覆われてしまう。

 今まで私はこんなに多く降り積もった雪を見た事は無かった。 

「ねぇ今日ほんとに冷えるわよね」

 看護師さんが私にそう問いかける。

 それでも何だろう今日はあまり話したくない気分だった。

 「巳美ちゃん今日はちょっと元気ないねぇ」

 「そうですか?」

 「うん、元気ないよ」

 「そうですか?」

 「そうですよ、やっぱり3日も逢っていないと気も落ちるかもねぇ」

 「え、何の事ですか?」

 「またぁ、杉村先生。今日で3日目でしょう。いないの」

 そう私の担当医「杉村先生」は出張でここのところ私の診察にも表れない。  


 「寂しいよね。愛しの先生と逢えないのは」


 「そんな事……」とごまかしたがすでに私の顔は赤くなっていたようだ。

 「はい、大丈夫そうね。それだけ顔赤く出来るんだったら。まぁ心の栄養は少しづつ取って行けばいいからね」

 とにこっと笑顔で看護師さんは私に言う。

 心の栄養かぁ……

 もうすぐ3月を迎えるこの日、私は外の雪を見ながら頭の中に浮かんでくるある人の事を思い出そうとしていた。

 でも、どうしてもその人の事を思い出そうとすると何故だか頭が物凄く痛くなってくる。

 誰だったんだろう……何となくぼやけてくるあの面影、そして優しく投げかけてくれるあの瞳。

 思い出そうとしても今はまだ思い出してはいけない様な、それでいていつも胸の中が苦しくなって……

 そんな時いつも杉村先生の顔を見るとその苦痛から解放されるように気持ちが落ち着いてくる。

 見えなくて思い出せない物凄く私にとって大切な人。でも今、私に安らぎと安心感を与えてくれるのは主治医の杉村先生だけだ。

 彼の姿を見ているだけで私は物凄く気持ちが落ち着く。

 その人とはもう3日も逢っていない。

 薬の影響なのだろうか、私はある一部分の記憶をすっぽりと失くしてしまっている。

 それはもう、思い出してはいけない部分なのかもしれない。だからその部分を私は消してしまったんだろう。

 思い出すと言う事は今の私には禁忌なことであるのだろう。

 結局杉村先生とまた顔を合わせることが出来たのは、それから2日後の事だった。

 「蒔野さん、ちょっとの間不在でしたけど大丈夫でしたか?」
 私はわざと無視をした。

 「ひどいなぁ、無視するなんて」

 杉村先生はちょっと困った様に言う。

 「すねないでくださいよう。仕方がないじゃないですか出張なんですから」

 その横でいつもの看護師さんがクスクスと笑い出した。

 「巳美ちゃん、いい加減許してあげたら。先生本当に困った顔してるわよ」


 そんな、私はそんなに杉村先生を困らせたいわけじゃないのに……


 「ン、もう。そんなに怒ってない」

 「いや怒ってる」

 「怒ってないったら」

 「ほんとに?」

 杉村先生が私の顔を覗き込むようにして言う。


 「うん……ただ寂しかっただけ」
 顔が見る見るうちに赤くなっていった。


 「それじゃ今度お詫びにお茶でもいかがですか。お姫様」

 「いいの?」

 「いいですよ。でも、院内のカフェですけど」

 この病院の中にそんなカフェなんかあったかな……ちょっと思ったけど

 「うん」と返事してやった。

 杉村先生は私の頭を軽くなでて病室を後にした。

 その時見た先生の目は……瞳は何だろうどことなく寂しそうに見えた。


 「蒔野さんの親戚の方でしたかしら、ずっとお見舞いにも来ていませんよね」

 一緒に病室を出た看護師がそれとなく僕に語り掛けてきた。

 確かに、彼女の身よりはあの親戚しかいない様だ。

 その親戚も見舞いどころかこちらから彼女の状態について連絡しても何となく怪訝そうに返事をするばかりだった。

 症状もある程度安定してきている。体力も回復している。

 今はまだ2月、秋田は寒い盛りだ。だがこのまま順調にいけば3月中には退院は可能だろう。

 しかし、彼女をあの親戚にまた預けてもいいものだろうか。

 どんなに彼女の入院を引き延ばしたにせよ3月一杯が限度だ。

 それまでに彼女が帰る先での受け入れ態勢を整えておいてもらわなければいけない。だが、あの受け答えでは何となくその対応も期待は出来そうにもないように感じた。

 年齢は18歳、まだ未成年であるのだから彼女に対しては保護者と言う存在が必要になる。

 何となくいやな予感がする。

 数日後その予感は的中してしまった。

 彼女の身元引受人である親戚の方から退院後彼女の身元を引き受けることを拒否してきたのだ。

 これ以上の負担は負いかねると……

 そうなれば後はどうすればいいのだろうか。事務課からの指示では児童福祉事務所に対応を委ねるしかないと言う意見だった。

 しかし、福祉事務所の担当とのヒヤリングに対しても光の矛先は見えてきそうもない。通常であるなら18歳という年齢は児童として扱われなくなってしまうからだ。

 重度の精神疾患を患い、現在入院中でありその症状は落ち着いてきているが、環境の変化においてはまた再発、症状が逆行する可能性もある。


 一番いいのは彼女が落ち着いてそして安心できる場所こそが望ましいのだが……


 そんな時僕は助教授に呼び出された。

 「杉村先生、蒔野巳美さんについてですけど」

 やはりその事だったか。

 「その後何か進展はありますか」

 「いえ、特に。彼女の退院後の受け入れについてはまだはっきりとした見通しは立っていません」

 「そうですか、それは困りましたね。福祉事務所の方ではなんと言ってきているんですか」

 「彼女の状況を説明しての返事なんですが、受け入れには難色を示していますね。すでに18歳である事と、委託する施設での適応ができるかどうかが不安であるとのことでした」

 「そうですか……時に杉村先生」

 「はいなんでしょうか?」

 「最近いえ、彼女蒔野巳美さんが回復するにつれ、君もかなり明るくなりましたね」

 少し下を俯きその答えには返さなかった。


 「いや深い意味はないんですよ。ただ蒔野さん似ていますね彼女に」


 助教授は歩実香の事をよく知っていた。今でも彼女の家で一人暮らしている母親の事を気にかけ足を運んでいるようだ。

 「これは私から言うべきことではないのだが、どうでしょう彼女蒔野さんと辻岡さんがもしよければの事なんですが、彼女を辻岡さんのところにおいてもらうと言うのはどうでしょうかね。

お母さんも一人で暮らしていらっしゃるのにも、そろそろ限界が来ている頃じゃありませんか」

 確かに僕も何度も歩実香の家には足を運んでいる。そのたびに見るお母さんの姿は年ごとに寂しさを募らせている様に思えた。

 そう彼女、蒔野巳美は歩実香によく似ている。今でも思い出す。

 歩実香と付き合い始めたあの頃のことを。彼女はその頃の歩実香にそっくりと言ってもいいだろう。

 去年の花火の日、偶然に彼女と出会いそして運命の様に彼女は僕の患者となった。

 そして彼女が背負う心の傷は思いのほか深刻で深い心の傷を背負っていた。
 その傷を僕は……僕が背負う傷に向けさせていた。

 そうすることで何故か僕自身が背負う傷が少しずつ癒されている事にも感じ始めていた。蒔野巳美と言う女性が僕の近くにいることで僕は自分のあの傷を……いや、僕は、彼女に助けられていた。

 「ありがとうございます。お気を使って頂きまして。早々に辻岡さんにも相談をさせていただきます」

 「そうですか、良い方向に話が進めばいいですね。それと杉村先生」

 「はい」

 助教授は少し表情を変え

 「このような提案を言って言うのも何なんだが……君と蒔野巳美さんとの関係はまだ医師と患者の関係であることには変わりないことを覚えておいてください。現状は君は蒔野さんの主治医でもあるですからね」


 何か一つ釘を刺されたような感じがした。


 「はい、それにつきましては踏まえております」

 「そうですか、ならばあとは何も申し上げる事は無いでしょう」


 その後すぐに助教授の部屋を後にした。