燐砂宮(りんさきゅう)が雪景色に覆われる頃、佳南(かなん)紫貴帝(しきてい)の御子を身ごもった。
 紫貴帝の喜びようは大変なもので、すぐさま国内外から滋養に良い食べ物を取り寄せるよう臣下に命じた。
 もちろん佳南には、紫貴帝自ら彼女の手を取ってその身を労わった。
「佳南、君はどれだけ私の望みを叶えてくれるのだろう。何でも欲しいものを言ってごらん。君が心安いでいられるなら、天人の果物だろうと取り寄せてみせるよ」
 紫貴帝は数日前から、佳南のためだけに燐砂宮中を花で飾らせていた。だから燐砂宮は、冬だというのにそこだけ天人の世界のように華やいでいた。
「佳南? どうしたの?」
 喜び湧き立つ燐砂宮で、佳南だけは寝台で身を小さくして所在なさげにしていた。
「具合が悪いのか。医師を呼ぶか?」
 紫貴帝が表情を硬くすると、佳南は首を横に振って紫貴帝を見上げた。
「元は侍女でしかない私が……陛下の御子を産んでよいのでしょうか」
「何を言うの」
 紫貴帝は佳南の言葉に驚いて、その肩に触れながら言う。
「天から授かった、宝物のような子だ。生まれる前から愛している。君には初めてのことだから、不安に思うのも無理はないが……」
 紫貴帝は佳南の目をのぞきこんで、不安に揺れた瞳をみつめながら諭した。
「私がどのようなものからも君と子を守るから。どうか君は私の腕に、愛しい子を抱かせてくれないか」
 紫貴帝は佳南に告げた言葉を違えなかった。その日から、佳南の身の回りは皇帝並みの身辺警護がなされて、佳南に害なすものは鳥の一羽も燐砂宮に入れないほどの徹底ぶりだった。
 佳南の身に触れるものは女官一人一人から絹の一本まで選別され、佳南に不安を与えるものは潮が引くようにすぐさま遠ざけられた。
 紫貴帝は佳南の身を労わるかたわら、生まれてくる子のためにも次から次へと支度を始めていた。
「衣は百着、(くつ)も五十は揃ったが……宮は一つでは足りないかもしれないな。男児だったら良い馬も必要だし、女児だったら髪飾りや宝石もたくさん贈ってやらなければ」
 佳南はうろたえて、喜び話す紫貴帝にたずねる。
「陛下、まだ歩けない子に沓は必要でしょうか……。それに馬に乗れるのもずいぶん後なのでは」
「子どもの成長は早いんだよ、佳南。今は惜しむときではないんだ」
 紫貴帝には王妃と側妃たちの間に、既に五人の皇子と三人の姫がいる。けれども紫貴帝自ら衣装を選ぶなど聞いたことがなかった。子は産まれるまでその様子を報告させていただけで、育てるのも臣下たちに任せていた。
 紫貴帝は寝台に横たわる佳南のお腹に耳を当てながら、繰り返し話しかける。
「父君だよ、わかるかい? 君と会える日を焦がれるように毎日待ってるんだ」
 紫貴帝はふいに佳南を見上げて笑う。
「あっ。今、少し動いたよ。賢い子だ。父君がわかるんだよ」
「はい……私も感じました」
 佳南もお腹の中の存在に日に日に愛おしさを感じながら、不安も抱いていた。
 男児であったら、将来既にいる御子たちと争いになってしまうのではないか。女児であったとしても、何かの政略に巻き込まれてしまわないかと憂えていた。
 佳南の憂いが体調に影響したのか、佳南のつわりは安定期を過ぎてもひどいままだった。
「佳南?」
 朝、佳南は目覚めてすぐに枕元に手を伸ばす。身の回りのものは絹しかなくてもったいないと思いながら、佳南は少し吐いた。
 紫貴帝も隣で起き上がって佳南の背中をさすると、佳南が落ち着くまで腕に抱いていた。
 紫貴帝は医師を呼んで佳南を診せてから、二人きりになったときに心配そうにたずねた。
「子は大きく、元気に生まれてほしいが、佳南はずいぶん痩せてしまった。何か心配事があるなら、どんなことでも私に話してほしい」
 佳南は紫貴帝の腕の中で、どう言うべきか迷った。
 里下がりをして、密かに生まれた子を遠くに養子に出すことも考えた。
 生まれた子が政争に使われないためには、また紫貴帝のためには自分もいない方がいいのではないかと思った。
「……私は君が側にいないと、暴君になってしまうよ?」
 ふいに紫貴帝は美しい瞳に危うい光を宿して言った。
「君との子も、同じだ。皇家のために成した子とは何もかもが違う。私は君の子を、いつも愛していたい。私と君にも、愛されていると感じていてほしい。……もしそれを妨害するような者があったら」
 紫貴帝はそれ以上のことを口にしなかったが、佳南は彼の言おうとしたことを理解した。
 佳南と子が紫貴帝の前から消えるようなことがあったら、そうさせた者を紫貴帝は決して許さない。
 紫貴帝はこつんと佳南と額を合わせて、願うように告げる。
「私を信じる、それだけの強さを君には持っていてほしい。必ず君も子も、無事に私の腕に抱いてみせるから。燐砂宮は昔から、そういう妃だけが住むところなんだよ」
 佳南は紫貴帝の頬に自分の頬を寄せて、その口づけを受け入れた。
 時は巡り、燐砂宮に初夏が訪れる頃、佳南は出産のときを迎えた。
 子を産むのは大変な負担と時を必要とするが、幸いにも安産だった。夜が明ける頃には、佳南の元に元気な産声が聞こえてきた。
 紫貴帝は夜中起きて待っていて、産声を聞くなり部屋に飛び込んできた。
「佳南、佳南っ。子は……!」
 控えていた産婆はそっと赤子を抱くと、紫貴帝に差し出す。
 生まれてきた子は、女児だった。少し小さいが、元気に声を上げていた。
 紫貴帝はまだ血で濡れている赤子の頬に迷わず頬を寄せると、声を震わせて喜ぶ。
「可愛い……こんな可愛い子は見たことがない。天人に連れていかれないよう、大事に大事に育てなければ。佳南、よくやってくれた」
「はい……」
 佳南も疲れてはいたが、出血は少なく、予後もいいだろうと言われた。
 佳南は紫貴帝と一緒に赤子を抱いて、頬を緩めて笑う。
「陛下と共に……大切に育ててまいります」
 紫貴帝は佳南の言葉にうなずいて、愛おしそうにその体を引き寄せた。


 その後にも紫貴帝と佳南との間には、五人の皇子と三人の姫が授かった。
 子はみな互いに仲良く、成長して燐砂宮を出て行ってからも時折一同に会し、茶菓を楽しむほどだった。
 佳南は生涯燐砂宮から出ることはなかったが、子どもたちと、紫貴帝の揺るがない寵愛に守られて平穏に暮らした。
 紫貴帝の腕の中で最期の時を迎えた佳南は、まるで日々の眠りにつくように安らかな表情をしていたという。
 紫貴帝は佳南亡き後妃を迎えることはなく、孫たちを腕に抱く喜びを楽しんだのち、静かに佳南の待つ天の国に向かった。