「陽芽乃さんとお付き合いさせていただいている、神宮寺慎です。ご挨拶が遅れてすみません」

 頭を下げても返答はなかった。
 ぶん殴られるのだろうか、と恐る恐る顔を上げると、

「じん……ぐう、じ?」

 陽芽の母親は、怪訝そうにおれを見ていた。
 名字を突っ込まれるのは慣れているので、なるべく軽快に、だけど軽薄そうには見えないよう気をつけながら、

「ちょっと珍しい名字ですよね。無駄に豪華で恥ずかしいです」
「……ああ、うん、びっくりしちゃった」すぐさま口角を上げた彼女の顔は、陽芽とよく似ていた。「陽芽乃の母です。いつも陽芽乃がお世話になってます」

 意識を失ってしまいそうなくらいほっとして、少しだけ話をしてその日は終わった。
 それからほどなくして、おれと陽芽は別れを余儀なくされた。

 今でも鮮明に覚えている。別れを告げたあの日、陽芽が流していた涙を。
 おれだって、たったの一年足らずで別れることになるとは思っていなかった。きっと陽芽が思っている以上に、おれは陽芽のことがどうしようもなく好きだった。

 ──慎ちゃんと結婚して子ども産んで、私が慎ちゃんを幸せにしてあげる!

 あの約束を果たせると信じていた。
 だけど、おれだって。

 ──ごめんなさい。のんと別れてほしいの……。

 初対面を果たして間もなく、街中で偶然会った陽芽の母親にそう言われたとき、ただただ混乱することしかできなかった。