ポケットでスマホが震え続けている。それを無視しながら、陽が落ちた海沿いの道をひたすら歩いていく。
 潮の香りが強くなり、ふと顔を上げた。ぼんやりと堤防を見上げたままとぼとぼ歩き進めていると、外灯の下に見慣れた後ろ姿があった。

「凪紗?」

 ゆっくりと振り返った凪紗は、さざ波の音にかき消されてしまいそうなくらい小さな声で「夏帆」と呟いた。
 凪紗とは喧嘩をして以来、ひと言たりとも喋っていなかった。連絡も取っていない。講習のコースが一緒だから同じ教室内にはいる。だけど、故意に離れた席に座っていた。

「湊んちに置いてた荷物取りに来たの。なんとなく、ついでに海でも見ていこうかなって。夏帆は?」

 気まずさのせいで硬直している私に凪紗が言った。確かに、凪紗の横には大きめの紙袋が置いてある。
 凪紗の声が普段通りだったことにほっとした。もう怒っていないのだろうか。凪紗とは一度も喧嘩をしたことがないから、今は正直どう接したらいいのかわからない。

「そう……なんだ。私も今ヒロんちから帰るとこで……」

 本当に、なんとなく海を眺めていただけなのだろうか?
 だってここは湊くんの家の近くで、湊くんと何度も来ただろう場所で──。
 ああ、私、最低だ。
 急速にせり上がった後悔と罪悪感と焦燥感に駆られて、堤防に手をかけてのぼり、凪紗と向かい合った。

「凪紗、ごめん。私ひどいこと言った」

 凪紗が湊くんのことを大して好きじゃなかったわけがない。湊くんに告白されたときの凪紗の笑顔も、手を取り合って喜びを分かち合ったことも、今でもはっきりと覚えている。
 あの日からこの五年半、凪紗と湊くんを一番近くで見てきたのは私だ。誰よりも凪紗と話をしてきたのも、凪紗がどれだけ湊くんを好きだったか一番よく知っているのも、私だった。

 ヒロのよくない噂を私に言わなかったのは凪紗の優しさだ。私を傷つけないために、最大限に言葉を選んでくれたんだ。凪紗はそういう子だって、ちゃんとわかっているはずなのに。
 それに、もしあのとき聞いていたとしても、私はどうせ諦められなかった。

「いいよ、怒ってないし。……ていうか、わたしこそ無神経だった。夏帆とヒロくんの問題なのに、偉そうに口出ししてごめん。湊のことでむしゃくしゃしてたから、八つ当たりしちゃった」

 凪紗は薄く微笑んだ。
 私たちの間に流れているのは、静かに行ったり来たりを繰り返す波の音だけだった。

「訊いても、いい?」
「なに?」
「凪紗はなんで湊くんと別れたの?」

 別れたと報告を受けたとき、私はちゃんと話を聞こうとしなかった。
 結論を聞いて、過程も聞いた。だけど一番重要な、なによりも大切な、凪紗の本音を聞いていない。ヒロとのことを指摘されて──図星を突かれて、流されてうじうじと悩んでばかりいる私とは正反対の凪紗を見て、悔しかったからだ。

 どうして凪紗の気持ちを考えようとしなかったんだろう。大好きな人に裏切られる絶望感を、私はよく知っているのに。
 あっさり別れを選べたはずがない。悩んで悩んで、必死に葛藤して、もしかしたらひとりで泣いていたかもしれない。

「……別れたくなかったよ」

 凪紗は私から目を逸らして、月が反射している海を見つめた。

「湊の浮気が発覚したの、もう二か月くらい前なんだ」

 喉をぎゅっと掴まれたみたいに声が出なかった。
 二か月もの間、凪紗はひとりで悩んでいたのだろうか。
 私はまったく気付けなかった。

「でも夏帆に相談できなかった。プライドみたいなものだったのかも。なんか、ものすごく、自分が惨めに感じちゃって……恥ずかしくて」
「……ちょっと、わかる気がする」

 凪紗は私を見て驚いたように眉を上げた。
 そっか、と呟いて目を細らせ、また海に視線を戻す。

「わたし、あんまり器用じゃないから愛情表現とか得意じゃないけどさ。それでも、湊のこと大好きだったんだよ。だから、たった一回の浮気で別れていいのかなって、わたしが許しさえすればこれからも湊と一緒にいられるんだって、また一からやり直せるんだって、何度も考えたよ」

 海の向こうに、凪紗はなにを見ているんだろう。
 湊くんと過ごしてきた日々だろうか。

「だけど、どうしても無理だった。大好きだったからこそ許せなかった。他に好きな人ができたって言われた方がよっぽどましだったよ。だってわたし、寂しかったなんて理由で浮気するような人はもう信用できない。今許したとしても、ただ意地で一緒にいるだけになって、前みたいには戻れないって思ったの」

 ああ、そうか。凪紗が見ているのは過去じゃない。
 これから歩んでいく未来だ。

「かっこいいね、凪紗」
「かっこよくないよ。……さっさと帰るつもりだったのに、こんなところでちょっと感傷に浸っちゃってたし」
「ううん。かっこいいよ、すごく。ちゃんと前を向いてる」

「全然、かっこよくなんかないんだよ。ほんとにこれでよかったのかなって考えちゃうときもあるし。夏帆みたいに優しくなりたいって思ったよ。湊は何度も謝ってくれて、別れたくない、凪紗が好きだって何度も何度も言ってくれたのに、なんでわたしは許してあげられないんだろう、なんでこんなに心が狭いんだろうって……」
「違うの」

 寒くなんかないのに、震えが込み上げる。
 放っていた足を堤防にのせて、両腕で膝を抱えた。

「私、優しくなんかないんだよ。ただ怖いだけなの。ヒロを失うのが怖い。今までの三年間が全部なくなっちゃうのが怖い。……だって私、本当に幸せだったんだよ。すごくすごく、ヒロが大好きだった。ヒロの笑った顔も、くれた言葉も、全部嬉しかった」
「夏帆、気付いてる?」

 海を見つめていた凪紗は、今度は私の目を真っ直ぐに見て言った。

「幸せだった、大好きだった、嬉しかったって。過去形ばっかりだよ」

 ずっと心にかかっていた霧が、ゆっくりと晴れていくような心地がした。
 ヒロの浮気癖に気付いてから、私は幸せだったのだろうか? ヒロのことを信じていただろうか? ずっと変わらずに、好きでいられていたのだろうか?

 ──俺が好きなのは夏帆だけだから。信じて。
 そうだ。私はあのとき〝ずるい〟と思った。
 あんなに嬉しかったヒロの言葉を、素直に喜べなくなっていた。

 大好きな人を信じられない。どれだけ笑い合っていても〝また浮気されるんじゃないか〟という不安ばかりがつきまとう。
 そんな恋が幸せだと言えるだろうか?

 答えはもう、自分の中にあった。それは今芽生えたわけではなく、ずっと前から持ち合わせていたのだと、ずっとずっと目を背けて逃げていただけなのだと気付く。どうしてもあと一歩踏み出す勇気がなく、だからこそ凪紗に、そして美波ちゃんに訊いたのかもしれない。

「ねえ、凪紗。ひとつお願いしてもいい?」
「なに?」
「今からヒロに電話するから、隣にいてほしい」