「夏帆? どうしたの、ぼーっとして」

 はっと我に返ると、凪紗が私の顔を覗き込んでいた。
 講習の帰り道、凪紗とハンバーガーを食べに来たところだ。

「ちょっと考え事してた」
「なにそれ。またヒロくんのこと?」

 今考え込んでいたのはヒロのことじゃなく、一昨日の美波ちゃんの話だ。
 だけどヒロのことといえばヒロのことなわけで、とっさに否定できず、「大丈夫だよ」とまるで返事になっていない返事をした。
 それ以上追及されないために無理やり話題を変える。

「凪紗は湊くんとどうなの? そういえば最近湊くん見かけてないけど、会ってるの?」

 凪紗は今でも湊くんと付き合っている。喧嘩ばかりしていてもなんだかんだ仲がいいし、やっぱりお似合いだし、私の憧れのカップルであることは変わりない。
 今は少しだけすれ違っている私とヒロも、何度でも乗り越えていけば、いつかふたりみたいになれるんじゃないか。そんな、すがるような思いでふたりを見るようになっていた。凪紗と湊くんは私の目標であり希望だった。
 なのに、

「別れたよ」

 思わず絶句して、つまんだポテトをテーブルに落としてしまった。
 テーブルを挟んで向かいに座っている凪紗は、なんてことなさそうにポテトを口に運び続ける。

「……へ? なん……へ? いつ……?」
「一週間くらい前。ごめん、なかなか言うタイミングなくて」

 信じられないなんてレベルじゃない。天地がひっくり返ったような心地だ。

「え、だって、あんなに仲よかったのに……」
「いや普通に喧嘩しかしてなかったから。夏帆だって知ってるでしょ」
「そうだけど……でも、凪紗たちが喧嘩するのは仲がいいからこそだって……。喧嘩して仲直りして、絆が深まっていくんじゃないの? 湊くん、前にそう言ってたじゃん」
「湊はね。喧嘩するほど仲がいいって本気で信じてるみたいだしよく言ってたけど、わたしは喧嘩なんて単なるエゴのぶつけ合いだと思う。大事なのは言い争いじゃなくて話し合いだよ。何回もそう言ったのに、湊には全然伝わらなかった。もう疲れた」

 凪紗は紙ナプキンで指先を拭い、表情を変えずにドリンクを飲む。私は自分が注文したハンバーガーもポテトも、ドリンクすら喉を通る気がしない。
 憧れのカップルの破局は、それくらい衝撃でありショックだった。

「わたしがなに言っても勝手に冗談に変換して、ちゃんと受け止めようとしないで、話し合いから逃げてばっかり。それで分が悪くなったらキレて的外れなこと言い出してさ。そんなこと繰り返したってお互い傷つくだけだし、深まっていくのは絆じゃなくて距離だよ」

 凪紗がちょいちょい湊くんに突っ込んでいたのは、全部本気だったんだ。
 息がぴったりで夫婦漫才みたい、なんてのん気にとらえていた私も、凪紗からしてみれば湊くんと同類かもしれない。

「で、いい加減むかついたし受験勉強に専念したかったからしばらく放置してたら浮気された」
「……え?」
「浮気されたの。他校の女の子と」

 ああ、もう無理だ。完全に食欲が消え去った。
 そんな私とは裏腹に、当事者であるはずの凪紗は、まるでどこかの誰かの話をするみたいに淡々としていた。

「でも……寂しかっただけ、とかじゃないのかな。湊くんは絶対、凪紗のこと大好きだと思う」
「うん、湊にもそう言われた。別れたくないって」
「じゃあなんで? だって、小六の卒業式からだから……五年半くらい付き合ってたよね?」
「これからも一緒にいるかどうかに、今まで一緒にいた年数なんて関係ないよ」

 そう、だろうか。そんな簡単に割り切れるものだろうか。
 一緒に過ごしてきた年数は、そんなに軽いものだろうか。

「夏帆も、いい加減ちゃんと考えた方がいいよ。ヒロくんのこと」

 凪紗がなにを言いたいのかはわかっている。だからこそ言葉が出てこない。

「ずっと思ってたけど、夏帆の世界は狭すぎる。ていうかヒロくんと付き合い始めてからどんどん狭くなってる。ヒロくんのことしか見えてない」
「……そんな、こと」
「あるよ。自分でもわかってるでしょ」

 わかっていた。ヒロと出会った日から私の世界の中心はヒロで、私の全部がヒロでできているといっても過言ではないくらい、ヒロでいっぱいになっている。
 だけど、そんなの好きだったら当たり前のはずだ。
 どうしてこんなこと言われなきゃいけないんだろう。
 ──ヒロくんは……あんまりおすすめしない。
 付き合う前からずっと、凪紗は私とヒロの恋を否定ばかりする。
 親友なのに、どうして応援してくれないんだろう。

「好きな人のことでいっぱいになるって、そんなにだめなの? ヒロが好きだから別れたくないって、そんなにおかしい?」
「そうは言ってないけど……」
「なんで凪紗はいつも──」

 否定ばっかりするの、と言いかけたとき、ふいに違和感を覚えた。
 彼女がいるから諦めた方がいい、とか、そういう風に言った方が自然じゃないだろうか。凪紗自身がヒロをよく思っていないから応援できないという意味だと思っていたけれど、凪紗がそんな理由だけであんなことを言うだろうか。

「凪紗、知ってたの?」
「え?」
「ヒロがいろんな女の子と付き合ってたことも……浮気性だってことも」

 凪紗はあまり顔に出さない。だけど、十数年も一緒にいればなんとなくわかる。
 凪紗はわずかに動揺していた。

「どうして……言ってくれなかったの?」
「それは……」
「凪紗はいつもそうだよ。大事なことはなにも言ってくれない。湊くんだって、凪紗のそういうところが寂しかったんじゃないの? ていうか……ずっと一緒にいたのにたった一回の浮気で別れるなんて、ほんとは大して好きじゃなかっただけでしょ?」

 最後のポテトをつまんだ凪紗は、それを口に運ぶことなく手を止めた。

「湊にも湊の友達にも同じようなこと言われたんだけど」

 私を見据えた凪紗からは動揺が消えていた。
 あまりにもいつも通りの表情で、逆に凪紗の感情が読み取れない。

「なんで浮気した人より、許さなかった人の方が責められるの?」

 重い沈黙が落ちる。
 先に目を逸らしたのは私だった。
 その瞬間からお店を出るまで、目は一度も合わなかった。合わせられなかった。