「わり、俺ちょっと抜ける。友達から連絡来た」
夏休みに入ってすぐ、湊くんの家に集合していたときにヒロが言った。
美波ちゃんとの一件のせいかわからないけれど、少し嫌な予感がした。
「友達って、誰?」
「夏帆の知らない子だよ」
ヒロの男友達なら、私もうほとんど知ってると思うんだけど。高校の友達だって顔と名前は把握している。それに、男友達に子って使わない気がする。
不安を肯定するように、女の子といちゃついているヒロの姿が脳裏に浮かんだ。
「すぐ戻るから」
そう言って出ていったヒロは、二時間が過ぎても戻らなかった。外はどんどん暗くなって、先に女の子たちが帰り、しばらくすると男の子たちも帰っていった。残っているのは湊くんと凪紗と私だけ。完全にお邪魔虫だ。
「ごめん、もう帰るね」
「いいよ。ヒロくんが戻ってくるまでいなよ」
立ち上がろうとした私の手を凪紗が掴んだ。その瞳には、心配と苛立ちが混ざり合ったような複雑な色が滲んでいた。
たぶん、凪紗はあまりヒロをよく思っていない。凪紗の口から直接聞いたわけじゃないけれど、日頃の態度からなんとなく察していた。私がヒロと付き合う前の『あんまりおすすめしない』という忠告も、ヒロが嫌いだから応援できないという意味だったのかもしれない。
「あのさ。ヒロって困ってる奴ほっとけないじゃん」
湊くんの言う通り、ヒロはそういうところがある。
今思えば初めて会った日も、後ろに立っていた私が輪から外れているように見えてほっとけなかったのかもしれない。
「ほら、ヒロってリーダー気質だし、頼られるのが好きっていうか。そういうのも夏帆ちゃんならわかってくれるって信じてるんだと思う。そもそも喧嘩ってさ、お互い思ってること言い合える仲じゃなきゃできないわけだし、それって信頼し合ってる証拠じゃん? 俺と凪紗もしょっちゅう喧嘩するし。……って、凪紗から聞いてるだろうけど」
「湊がくだらないことですぐキレるからでしょ」
凪紗がさくっと言う。湊くんはばつが悪そうに苦笑いして、
「いや、まあ、喧嘩して仲直りして絆が深まっていくもんじゃん。いつかさ、あんなこともあったよなーとかって笑い話になるよ」
「手遅れになるかもしれないけどね」
「凪紗……まじで辛辣……」
夫婦漫才みたいなやりとりを聞いていると、自然と笑みがこぼれる。付き合いが長いから息がぴったりだ。
べつに喧嘩をしたわけではないけれど、必死にフォローしてくれた湊くんの気持ちは素直に嬉しかった。
数日後、私たちは隣市の市街地でデートをしていた。
「ねえ、見て見て。綺麗なマンション」
昼食を食べ終えて散歩をしていたとき、毎年六月に大きなお祭りが開催される有名な公園付近で、五階建てのマンションを見つけた。
「まだ完成してないみたいだな」
「ほんとだ。でもすごいお洒落な外観だね。『ルミエール小桜』だって」
看板には〈今秋完成予定〉〈入居者募集中〉と書いてある。もうひとつの看板には間取り図もあった。一~三階が1LDK、四、五階が2LDKらしい。リビングダイニングも広い。単身から家族連れまで、幅広い層が住めそうだ。
「高校卒業したらさ」
繋いでいたヒロの手に、ぎゅっと力がこもる。
「こういうお洒落な感じのマンション探して、一緒に住もうよ」
心臓がきゅっと縮むような、苦しいのに甘い、そんな矛盾した感覚が走る。
こういうことを言うから、この間は誰とどこでなにをしていたのか、なんて訊けなくなるんだ。ヒロが戻ってきたときに感じた、いつもと違う香りのことなんて忘れてしまいたくなるんだ。
「俺、夏帆に出会ってから人生変わった。ずっと一緒にいような」
胸に渦巻いていたもやもやが、すうっと抜けていく。
もういいや。たとえ会っていた相手が女の子だったとしても、本当にただ相談を聞いていただけ。ヒロは私を裏切ったりしない。きっと、どうしても放っておけない理由があったんだ。この笑顔も、ぬくもりも、言葉も、嘘だなんて思えない。
──夏帆ちゃんならわかってくれるって信じてるんだと思う。
ヒロが私を信じてくれるなら、私もヒロを信じたい。
明るくて優しくて、誰にでも平等に接する。そんなヒロを好きになったのだから。
──なんてのん気に思っていられたのは、この頃までだった。