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逸る気持ちを抑えきれず、駆け足で駅へ向かう。
すすきの駅の出入り口が見えてきたとき、そこに立っていたのは、
「むっちゃん!?」
私が今から会いに行くつもりだった、彼氏の睦月だった。
慌ててむっちゃんに駆け寄る。
「なんでここにいるの?」
「喧嘩したままだったし、早く謝りたくて」
叱られた子犬みたいにしゅんとして、私の肩の雪を払う。
私の居場所がわかったのは、一緒に使っているカップルアプリだろう。GPS機能がついていて、お互い常に位置情報をONにしておく約束をしている。
「いつからここで待ってたの? 連絡くれたらよかったのに」
「友達と飲んでたんでしょ? 俺が勝手に来ただけだし、邪魔したくなかったから」
むしゃくしゃしていた原因は、むっちゃんとの喧嘩だった。というより、私が一方的に怒っていたのだけれど。
付き合って二年。感情の起伏が激しい私とは違い、むっちゃんはいつも落ち着いていて怒っているところを見たことがない。私が怒っても悲しそうに口をつぐんでいるだけで、……それが無性にイライラしてしまうときがある。
どうしてちゃんと自分の気持ちを言ってくれないんだろう。私ばっかり怒って馬鹿みたい。もしかして私になにを言っても無駄だと思われているんじゃないか、面倒だと思われているんじゃないか、なぜ自分の感情をちっともコントロールできないのかと呆れられているんじゃないか。
あまり感情を表に出さないむっちゃんと向き合っていると、そんな劣等感がどうしようもなく湧き上がって、自分がだめ人間だと思い知らされている気がする瞬間があって、昨日はとうとう止められなくなってしまった。
だけどそれは、全部全部、私の被害妄想だ。
違うのに。むっちゃんはただ、優しいだけなのに。
黙っているのは、私を傷つけたくないだけなのに。
そんなこと、とっくにわかっているはずなのに。
「……違うの。友達じゃなくて」
「後輩とか?」
「ううん。……元彼とばったり会って」
「えっ」
「ごめん。怒るよね」
わざわざ白状することはないのかもしれない。不快に決まっているし、きっと言わない優しさというものがある。だけどむっちゃんには、むっちゃんにだけは、自己防衛でしかない嘘をつきたくなかった。
目を合わせているのが怖くなって、むっちゃんのコートの袖をぎゅっと握る。
むっちゃんは、その手をぎゅっと握った。
「怒らないよ。信じてるから」
この上ないほど優しい声色だった。
信じてる。むっちゃんはいつもそう言ってくれる。そのたびに私は疑問に思う。
どうして言い切れるんだろう?
銀ちゃんよりもずっと、私のことを知っているのに。
「むっちゃん、ごめんね」
だめだ。泣きそう。
むっちゃんの背中に腕を回して、人目なんか気にせずぎゅうっと抱きついた。むっちゃんは照れたり慌てたりすることなく、私の背中にそっと手を添えた。
「私、怒ってばっかりでごめん。我儘ばっかり言ってごめん。いつまでも子供でごめん。いつも自分のことばっかりでごめん」
「どうしたの? 俺もごめんね。柑ちゃん、泣かないで」
「泣いてないよ」
「でもちょっと震えてる」
「むっちゃんが大好きだからだよ」
「嬉しい。俺も柑ちゃんが大好きだよ」
むっちゃんはちょっとなよなよしていて、一見頼りない人だ。
だけど、こんなに優しい人を、大切に想ってくれる人を、信じてくれる人を、真っ直ぐに好きでいてくれる人を、私は他に知らない。
気温が下がって、湿っぽかった雪が今はふわふわと舞っていた。
むっちゃんがここにいてくれるだけで、私は大の苦手な雪さえも愛おしくなる。
「楽しかった?」
「全然楽しくなかった」
「そ、そっか。いや、楽しかったって言われたらちょっとショックだったかも」
「むっちゃんといるときしか楽しくないよ」
銀ちゃんの誘いを受けたのは、言わば私にとっての荒療治みたいなものだった。
昨日むっちゃんへの不満と自己嫌悪が爆発したあと、無性に確かめてみたくなってしまったのだ。私にとっての黒歴史の中心である銀ちゃんに会ったら、むっちゃんがどれだけ素敵な人なのか、今がどれだけ幸せなのか再確認できそうな気がした。
そしてそれは、見事に成功した。
むっちゃんは私に『ブス』なんて口が裂けても言わない。私がどれだけご飯を食べても、『おいしい?』ってにこにこしてくれる。目上の人にも、店員さんにだってちゃんと敬語を使う。ちょっと気に食わないことがあるだけで感情に任せて怒ったりも絶対にしない。
むっちゃんは誰よりも素敵な人だ。私なんかにはもったいないくらいに。
今を肯定できるのなら、ときには過去と比べてみるのもありだと私は思う。もちろん間違ったやり方だったと自覚はある。元彼とふたりで会うなんて言語道断。もう二度としないし、心から反省する。
「本当にごめんなさい。もう絶対に元彼になんて会わないから」
「それはいいよ。けど、これからはできれば事前に連絡してほしいかな……」
「ううん、いいの。闇に葬ることにしたから」
「へ?」
四年ぶりに銀ちゃんと話して感じたのは、なんであんな人が好きだったんだろう?という疑問だけだった。
銀ちゃんが言う『ブス』は愛あるいじりのつもりだったみたいだし、私も最初は受け入れていた。だけどブスなんて言われて嬉しいわけがない。普通にイラッとするし、なんでただの悪口を言われて彼女が喜ぶと思っているのか心底理解できない。
銀ちゃんの前であまり食べなかったのだって、女の子は小食だと信じていたらしいからだ。私は小食どころか大食いの部類に入る。バイキングに行けば制限時間ぎりぎりまで食べ続けるし、ラーメン一杯じゃ足りないから最低でも替え玉とチャーハンと餃子も注文する。
今日は俺が奢るから好きなだけ食えなんて、大食いで酒豪の私がお言葉に甘えたらお会計は相当な額になる。
誰にでもタメ口を使うところも普通に最低だ。年上の人には敬語を使う。そんな当たり前のこともできない人と一緒にいても恥ずかしいだけ。
口元を手で覆って顔を斜め上に向けるのは銀ちゃんのキメ顔だ。その角度と表情が一番かっこいいと思っているらしい。当時はまだ許せていたけれど、今でもやっているのははっきり言って痛い。
中学生の頃は、銀ちゃんのそういうところを全部かっこいいと思っていた。だけど高校生にもなれば、ただの強引で傲慢な自己陶酔男だということを薄々察してくる。
じゃあなぜ、懲りずに何度も何度もよりを戻していたのか。
理由は大きくふたつ。
ひとつ目は、やっぱり銀ちゃんがいいと思ってしまう瞬間があったから。
ふたつ目は──ものすごくちょうどいい存在だったから、だろう。
「お腹空いちゃった。今日あんまり食べてなくて」
「じゃあどっか食べに行く?」
「ううん。おうちでまったりしたいから、スーパー寄って帰ろう」
「いいよ。どっちの家?」
「ルミエール小桜、一〇四号室」
私が世界で一番安心できる場所を言うと、むっちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
大丈夫。もう迷わない。私はむっちゃんのことが大好きだ。
さよなら、強引で傲慢な自己陶酔男に夢中だった中学高校時代の愚かな私。
そして、もうひとつ──。