花火みたいな恋だった(試し読み)


 食事を済ませると、一颯くんは顔を真っ赤に染めて、わたしの家に行きたいと言った。でしょうねと思いつつ、念のため昨日掃除をしておいたので了承した。

 わたしの家は、札幌市営地下鉄南北線(なんぼくせん)中島公園(なかじまこうえん)駅から徒歩十分の場所にある『ルミエール小桜』というマンションの三〇一号室。駅近物件と呼ぶには少々距離があるものの、そのおかげでなかなか好条件のわりに家賃はお手頃だし、すすきのや大通(おおどおり)まで充分に歩ける立地なので気に入っていた。

 そう、それがまずかった。このマンションに越して以来、終電を気にせず好きなだけ飲む癖がついてしまったのだ。

「あ、この実さん。こんばんは」

 エレベーターのドアが開いたときに通りかかったのは、大学生の女の子だった。彼氏がこのマンションに住んでいるため、頻繁にここへ来る。いつからか話しかけられるようになり、今ではたまに立ち話をするようになった。大学を卒業したら彼女も越してくるらしい。たしか彼氏に〝コトネ〟と呼ばれていた気がする。

 正直、今はあまり会いたくない人だ。明るく社交的な性格は好ましいが、それがかえって迷惑を被ることもある。
 じゃあ、と言って一颯くんの腕を引くと、

「もしかして弟さんですか?」

 遅かった。

「えっと……」
「弟じゃなくて、彼氏です」

 彼女は目を見開いて、わたしと一颯くんを交互に見た。当然の反応だ。年齢も服装もアンバランスすぎるわたしたちは、到底カップルには見えない。

 横目で一颯くんの様子を窺うと、ただ口角を上げていた。
 今度こそ一颯くんの腕を引き、ぽかんと立ち尽くしている彼女に「じゃあまた」と告げてその場から逃げた。



 部屋に入ると、一颯くんはソファーに座ってリラックスした表情を見せた。やはり先ほどの店ではよほど緊張していたのだろう。
 ひとまず彼女の反応を気にしていないらしいことにほっとする。

「今日一緒にいた友達、みんな同じ学校?」

 気にしていないならあえて触れたくないので、冷蔵庫を開けながら無難な質問を投げかけた。

「うん。同じクラスで、よくつるんでるんだ」
「仲いいんだね」

 真っ先に視界に入った缶ビールを前に少し悩む。家の中でならお酒を飲ませてあげてもいいだろうか?
 いや、だめだ。いいわけがない。ここは大人としての責任がある。というかいよいよ犯罪だ。花金の夜に帰宅してもなおアルコールを摂取できないのは苦痛の極みだが、わたしだけ飲むのはさすがに気が引ける。代わりにペットボトルのお茶を二本取り出した。

 ああ、そうか。一颯くんと付き合うということは、当たり前だった生活を制限しなければならないということなのか。

「一颯くんっていつから美容師になりたかったの?」

 なんとなくやるせないような気持ちをこらえつつ、一颯くんの隣に座ってお茶を一本渡した。

「覚えてないなー。中学生くらいから美容室行くようになって、なんとなく美容師ってかっこいいなーと思って、気付いたら美専入ってた」
「そうだったんだ。すごいよね、夢があるって」

 普通に生きてきたわたしにとって、一颯くんは少し眩しい。
 これといった趣味や特技はなく、将来の夢を抱くこともなく、普通に勉強して普通に恋をして、親に言われるがまま大学へ進学し、いくつか面接を受けた中でたまたま内定をくれた会社に就職した。

 外見もそうだ。一颯くんみたいに髪色を明るくしたことも色で遊んだこともないし、特別長くも短くもしたことがなくずっと似たような髪型だった気がする。服装だって、奇抜なファッションに挑戦するどころか興味を持ったことすらなく、いつもシンプルな色を選ぶ。唯一お洒落っぽい趣味といえば、ピアス集めくらいだろうか。

 初めて付き合ってもいない男性と寝たときは、とうとう道を踏み外してしまったような気がして眩暈がしたし、なんだかもやもやしたりもした。だけど次第に慣れていった。友達に打ち明けてみれば、それほど珍しい経験でもない、むしろべつに普通といってもいいくらいのことだと知った。

 そんな人生を歩み続けた今、とてつもなく普通のOLが完成していたわけだ。
 やっぱりわたしたちは、あまりにもアンバランスだ。

「この実さんにお願いがあるんだけど」
「なに?」
「スタイリストになれたら、一番にこの実さんの髪触らせてほしい」

 柔らかい笑顔に、ちくりと胸が痛んだ。
 美容師が一人前になるまでどれくらいかかるのだろう。あまり詳しくないが、少なくとも数か月というレベルじゃないはずだ。おそらく数年はかかる。そもそも専門学校を卒業するまであと一年半もある。

「うん。楽しみにしてるね」

 小さな嘘を隠すように、一颯くんの唇を塞いだ。



 前回は断片的な記憶すらないので、一颯くんとのセックスは今日が初めてみたいなものだった。
 手つきや腰つきであまり慣れていないということがわかる。けれど、己が上級者だと勘違いしてひとりよがりなセックスをする男よりはよっぽど可愛げがある。

「──早く大人になりてえな」

 最中に一颯くんが呟いた。真意はわからないが、本心では弟と言われたことを気にしていたのだと思った。
 だから、聞こえなかったふりをして彼にしがみついた。


 果てて隣に倒れ込んだ一颯くんは、息を整えてからこちらを向いた。細いけれど筋肉質な腕を伸ばす。久しぶりの腕枕に頭を預けた。
 気持ちよかった?と訊いてくるだろう。そうしたらわたしは、べつにそれほどでも、と思いながら『うん』と微笑むのだ。少年のハートを傷つけてはいけない。

「痛くなかった?」

 予想外な質問に驚いて、すぐに言葉が出てこなかった。
 一颯くんもわたしの反応が予想外だったのか、いや、あの、としどろもどろに前置きして続ける。

「俺、気付いてると思うけど、そんなに経験ないから……その、うまくないと思うし、気を付けたつもりだけど、もし痛い思いさせてたら最悪だなって」

 普通、八歳も上の女に『痛くなかった?』なんて言わないよ?
 胸の奥が、数年ぶりにきゅっと縮んだ。

「大丈夫。痛くなかったよ」
「よかった」

 一颯くんの腕に包まれて、まだ少し汗ばんでいる背中に手を回した。わたしの体を抱き寄せる腕も、髪を撫でる手も、ちょっと控えめすぎるくらいに優しい。
 まさか八歳も下の男の子に頭を撫でられる日が来るとは思わなかった。
 だけど前回とは違う。一颯くんは今、れっきとした彼氏だ。
 ベッドの中にいるときくらいは、素直に甘えても罰は当たらない。

「あっ」

 せっかく一颯くんの体温でうとうとしていたのに、すっとんきょうな声に眠気が飛んだ。

「ごめん、ちょっと電気つけてもいい?」
「いいけど……」

 間接照明をつける。
 ベッドから手を伸ばした一颯くんは、すぐそばに置いていた鞄を漁ってなにかを取り出した。

「これ、よかったらもらってほしい」

 差し出されたのは、アクセサリーを入れるにはちょうどいいサイズの小さな箱だった。まさか指輪ではないだろうなとびくびくしつつ包装紙を剥いでいく。

「え?」

 中身は、なんの変哲もないピアスだった。なのに間の抜けた声が漏れてしまったのは、ずっと前からほしいと思っていたデザインにドンピシャだったことと、見覚えがある気がしたからだ。

「ごめん、気に入らなかった?」
「ううん、そうじゃなくて……」

 しばし記憶をたぐり寄せているうちに思い当たった。
 たしか二、三年ほど前、エントランスから飛び出してきた女の子とぶつかったことがある。

 違う階に住んでいた彼女のことをはっきりと覚えていたのは、なんとなく印象に残るカップルだったからだろう。彼氏の方は、赤の他人であるわたしに対してもどこか高圧的な態度で少し苦手だった。そして彼の隣にいる彼女は、いつもどこか所在なげにしていて、ときどきまるで人形みたいに見えた。

 そんな彼女が急に飛び出してきたのだ。それだけでも充分に印象的だったが、より強く記憶に残っているのは、彼女が落としたノートから散らばった、びりびりに引き裂かれた紙片だ。

 普通に考えても彼女の様子からしても、自分で破ったとは到底考えられなかった。
 もしかしたら、あの彼にやられたのだろうか。なんてひどいことをするのだろう。

 心を痛めながら一緒に拾い、ノートにそれをのせようとしたとき、彼女が開いたページにはピアスの絵が描いてあった。
 そうだ。あのとき見たデザインとよく似ている。

「これ、どこで見つけたの?」
「ネットだよ。あ、でも変なサイトじゃないよ。ちゃんとした店のホームページ」

 べつにそこは疑っていない。

「なんていうブランドかわかる?」
「なんだったっけな。ちょっと待って、スマホ見ればすぐわかると思う」
「ううん、大丈夫。ちょっと気になっただけだから」

 印象的だったのは出来事ももちろんだが、あのときの彼女の表情でもある。
 絶望と希望が混ざったような、言葉では表しにくい複雑な色を灯した瞳。

 ──発売したら絶対に買います。楽しみにしてるので、頑張ってください。
 そう言ったのは、紛れもなく本心だった。同時に羨ましかったのかもしれない。夢を抱き、これから羽ばたいていくのだろう彼女が。
 頑張ってほしいと、心から思った。

 ──絶対、絶対、頑張ります。
 今の今まで忘れていたのに、目いっぱいに涙を溜めた彼女の顔と言葉が鮮明によみがえった。
 そうか。夢を叶えたんだ。名前も知らない相手なのに、じんわりと心があたたまる。

 そして今、この手に彼女の夢の欠片がのっている。なんだか不思議だな、と思った。大なり小なり、縁とはこうして巡り巡るものなのかもしれない。

「でも、どうして? わたしもう誕生日終わってるし、クリスマスだってまだ先なのに」
「変なの。プレゼントするのにイベントとか関係ないじゃん。ただこの実さんに似合いそうだと思ったから」

 一颯くんが私のおでこにそっとキスをした。

「ありがとう。嬉しい、すごく。大切にするね」
 一颯くんはよほど不安だったのか、強張っていた顔がふわりと綻んだ。
 大切にすると素直に言えたのは、きっと彼女のおかげだ。なんとなく、一颯くんに内緒にしておこうと思った。

「わたしからは、ひとつお願いしてもいい?」
「なに?」
「あんまり無理しないでほしいの」

 一颯くんが小首を傾げた。

「ああいう雰囲気のお店、苦手でしょ。今日行ったところ」
「えっ……ばれちゃった?」
「ばればれ。いいんだよ、無理しなくて。大衆居酒屋でもカフェでもファミレスでも、どこでもいいの。ふたりとも楽しくなきゃ意味がないから」
「そっか。うん、わかった」

 この提案は、せめてもの償いだったのかもしれない。


 ──こいつら彼女見たいって無理やりついてきちゃって……。
 それは違う。自惚れるつもりはないが、一颯くん自身が〝年上の彼女〟を友達に見せたかったのだ。わたしもそういうことをした経験があるからわかる。
 本当についてきてほしくなかったのなら、わざわざ彼女と待ち合わせしているなどと言わない。知られたくないなら隠すのだ。わたしは、彼氏ができたことさえ誰にも言えていない。

 ──もしかして弟さんですか?
 すぐに否定できなかった。
 彼女はわたしに長らく彼氏がいなかったことを知っている。一颯くんのことを彼氏だと紹介するのが──明らかに年が離れている男の子に手を出すほど男に飢えていたと思われるのが、恥ずかしかった。

 ──スタイリストになれたら、一番にこの実さんの髪触らせてほしい。
 真っ先に『ありがとう』と言えなかった。
 一颯くんにとって、恋人との明るい未来を思い描くのは当然のことなのだろう。
 だけど、わたしはそうじゃない。

 出会いがあれば別れもある。どんなに激しく燃え上がった愛も、些細なきっかけで鎮火する。どんなに強い絆で結ばれていると信じていても、いとも簡単にほどける。それを知ってしまった今、当たり前にハッピーエンドを想像できなくなっていた。ただでさえそうなのに、八歳も離れた少年との明るい未来など思い描けるはずがない。

 焦っているというほどではないが、わたしだってそれなりに結婚願望がある。できれば、あと数年のうちにと。

 わたしが本格的に焦りだす頃、一颯くんは新たな世界に飛び込み、社会に揉まれながらスタイリストを目指して奮闘する。しばらくは結婚など考える余裕がないだろう。
 つまり、おそらくそう遠くないうちに、この関係は終わる。
 大丈夫。ちゃんとわかっている。

 隣ですやすやと眠っている一颯くんの頬にそっと触れた。あどけない少年だと思っていたはずの彼の横顔が、不思議と〝男〟に見えた。

 ──ただこの実さんに似合いそうだと思ったから。
 こんなに真っ直ぐ、全力で気持ちをぶつけられることは、もうないだろうと思っていた。
 全部全部、余計なことを一切考えず素直に喜べたらいいのに。

「……こんなの、ほだされちゃうよなあ」

 どっちが先だろう?
 彼が現実に気付くのと、わたしが限界を迎えるのと。
 それまでは、この純愛ごっこに身を委ねてみようか。


 むしゃくしゃしていた。
 昨日のことを思い出すだけで、目の前の赤信号も行き交う車も周囲に佇んでいるビルも湿っぽい雪を落としてくる空も全部破壊したくなってくる程度にはむしゃくしゃしていた。

 とりあえず大学に行って講義を受けて友達と話してみたけれど、ひとりになった瞬間に落ち着いていたはずのイライラが復活してしまったのだ。

 歩行者信号が青になり、音楽が流れる。人の波に押されて足を踏み出す。
 このまま自分の家に帰ろうか。それとも。
 考えながら、無意識にポケットに入れているスマホを握っていた。
 さてどうしようかと悩んでいたとき、

柑奈(かんな)?」

 名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。
 聞き覚えのある声だった。

(ぎん)ちゃん!?」

 かつて私がそう呼んでいた、目の前に立っている彼──銀ちゃんこと銀治(ぎんじ)は、中学から高校にかけて付き合っていた元彼。
 ずいぶんとオーバーリアクションをしてしまったのは、ちょうど彼を思い出していたところだったからだ。

「すげえ久しぶりだな。元気だった?」
「う、うん。銀ちゃんは?」
「元気元気。柑奈は今大学生か」
「銀ちゃんは仕事してるんだよね」

 懐かしい。
 明るい髪色と冬なのに焼けている肌は、記憶にある姿そのものだった。眉を八の字にして作る笑顔も、両手をポケットに入れて立つ姿も変わっていない。ひと目見ただけで、一瞬にしてあの頃の記憶が鮮明に呼び起こされる。

 だけど最後に会った日よりも少し男らしくなった顔つきとライトグレーの作業着に、私たちはもう大人になったのだと実感させられた。

「今帰り?」
「うん。銀ちゃんは?」
「俺もちょうど帰るとこ。時間あるならちょっと飲みに行かね?」

 握っているスマホに神経を奪われながら、迷う。
 だけど、いっそのこと会って確かめたいと思っていた相手と奇跡的に会えたのだ。

「──うん。いいよ」



 歩いてすすきのに向かい、通りかかった居酒屋に入る。平日とはいえ時刻は十七時を過ぎているから、店内はそこそこ賑わっていた。
 半個室のテーブル席に案内され、向かい合って座った。

「今日は俺が奢るから、好きなだけ食えよ」
「いいの? ありがとう」

 今日はイライラしていたせいで昼食も喉を通らず、さすがにお腹がペコペコだ。お言葉に甘え──はしないけれど、お酒といくつかのおつまみを選んだ。銀ちゃんもしばらくメニュー表に目を通してから店員さんを呼ぶ。

「とりあえず生中ふたつ。あと串焼き盛り合わせ、刺身盛り合わせ、この店ってたちポンある? じゃあそれと──」

 メニュー表を見ながら次々と注文をして「よろしく」と締めくくった。明らかに年上の店員さんに、まるで友達みたいな態度だ。外見だけじゃなく中身も変わっていないらしい。

 銀ちゃんはやんちゃなタイプだった。はっきり言って口も態度も悪くて、先生と喧嘩をすることもしょっちゅう。先生だろうが先輩だろうが敬語を使うところなんて見たことがない。
 だけど、いつも強気で強引に私や友達を引っ張ってくれるところがかっこいいと思っていた。

「じゃあ、とりあえず乾杯するか」

 すぐに届いたふたつのビールで乾杯をした。
 銀ちゃんと私は初めて付き合ったのが中一で、最後に別れたのが高三の冬。会うのは卒業式以来だから、約四年ぶりの再会だった。もちろんこうして一緒にお酒を飲むのは初めてだ。

 何年も付き合っていたのに、まだ〝初めて〟が残っていたことに少し驚きつつ、お通しをつまむ。

「おまえ、変わんねえなあ」
「え?」
「食ってるときの顔。ほんとブス」

 眉を八の字にして、顔をくしゃくしゃにして笑う。
 さっそく失言をされたわけだけれど、これぞ銀ちゃんだ。私の食べ方と食べているときの顔が変だと言って、よくこうして『ブス』と笑われていた。当時は『もー! ひどーい!』なんて返していたっけ。

「うるさいなあ」
「あと、全然食わねえとこも変わってない。好きなだけ食っていいっつったのに」

 私が選んだ料理を見て銀ちゃんが言った。ほとんどが小鉢におさまるようなおつまみだ。

 今回は単に遠慮したのだけれど、あの頃は違った。食べているところを好きな人に見られるのがなんだか恥ずかしくて、いつもちまちまと食べていた。食べ方が変だと言われたのもそのせいだろう。小食の方が女の子らしくて可愛いと思ってもらえるかな、という計算もあったっけ。

「なに笑ってんだよ」
「なんでもない」

 中学生の頃はさすがに純粋な乙女だったんだな、私。思い出すと可笑しい。
 注文した料理が次々と運ばれてきて、すぐにテーブルがいっぱいになった。食べながら簡単に近況報告をし合う。
 すぐに一杯目を飲み干し、二杯目のお酒が届いたタイミングで、

「四年ぶり……だな。別れてから」

 浸るように言った銀ちゃんに、そうだね、と返す。
 元カップルが再会したのだから、こういう話になるのは当然だ。

「俺らって結局どれくらい付き合ったんだろうな」
「どうだろうね」

 何年も付き合っていたと言っても、それはあくまでトータルの話。私たちは付き合ったり別れたりを何度も、もはや回数を覚えていないくらい何度も繰り返してきた。ふたりで会うとき、うちらって今付き合ってるんだっけ? 別れてるんだっけ?なんて会話が挨拶代わりになるくらい。


 友達には『あんたらなんなの?』と呆れられていたけれど、それが当時の私と銀ちゃんの形だったのだと思う。別れと復縁を繰り返しながらも、なんだかんだでこのまま銀ちゃんとずっと一緒にいるのかな、と思っていた時期もあった。

 だけど一緒に大人になることはなかった。
 思い出すだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。

「俺ら喧嘩ばっかしてたよなー」

 二杯目のビールを半分くらい飲み干した銀ちゃんは、もう頬が赤くなっていた。

「銀ちゃんがすぐ怒るからじゃん」
「おまえこそ俺がちょっと連絡しなかったり放置しただけですぐキレてただろ。そのくせ喧嘩したら俺の連絡シカトして、やっと繋がったと思ったら『もう別れる!』って。どんだけ我儘なんだよ」
「だって……銀ちゃん怒り方が尋常じゃなかったんだもん」

 銀ちゃんは気性が荒くて、ちょっとしたことでブチギレる人だった。私も短気だから人のことは言えないのだけど。

「それにしてもおまえ、なんでそうなるんだよって俺が訊いてもよくわかんねえ理由ばっか言ってたよな」
「そうだっけ?」
「そうだよ。もうあんまり覚えてねえけど、とりあえず支離滅裂だったのは覚えてる」

 私ははっきり覚えている。だけど銀ちゃんがわからないのは当然だろう。
 支離滅裂だったのは、本当の理由を言いたくなくて、その場の怒りと勢いに任せてとっさに取り繕った言い分だったのだから。
 つまり銀ちゃんはわからないじゃなく知らないが正解なのだ。

「でも、銀ちゃんから別れようって言ってきたことだってあるじゃん」
「俺は……俺らこのままでいいのかって必死に考えて、おまえのためを思ってそういう結論になったんだよ」

 私から別れを切り出すのは、さっき銀ちゃんが言っていた通り、表面上は喧嘩の延長。そして銀ちゃんから別れを切り出すのは、主に『俺はおまえにふさわしくない』と『おまえを幸せにできるのは俺じゃない』というふたつの理由だった。

 銀ちゃんは口元を手で覆って、物思いにふけるように顔を斜め上に向けた。
 この癖も変わらない。

「柑奈のこと、めちゃくちゃ好きだったから」

 普段は〝おまえ〟と呼ぶくせに、ここぞという場面では〝柑奈〟と名前を呼ぶ。
 銀ちゃんは本当にあの頃のままだ。

 そう思ってくれているのはわかっていた。言葉にはしてくれなかったけれど、ちゃんと伝わっていた。だからこそ私は『別れる』と簡単に口にできたのだろう。
 銀ちゃんに甘えていたんだな、と改めて思う。

「……うん」

 どちらにせよ、当時の私たちは感覚が麻痺していたのだと思う。『別れる』という言葉をあまりにも簡単に使いすぎていた。
 ちゃんと重く受け止めていたのは、口にするのをためらうことができたのは、何回目までだっただろう?

 一回目はふたりで泣いた。一度別れたらもう二度と戻れないと思っていたからだ。だけど一か月も経たないうちに銀ちゃんから『やっぱり柑奈が好きだ』と言われてよりを戻した。たしか二回目も泣いた。たぶん三回目も泣いた気がする。〝別れる〟ということに慣れつつあったけれど、三度目の正直で今度こそ本当に終わりかもしれないとも思った。

 だけどあっさり戻ったから、完全に慣れてしまった。
 そして、お互いに引き留めなくなった。

 一か月だったり一年だったり期間はまばらだったけれど、しばらくしたら銀ちゃんが『やっぱり柑奈が好きだ』と言ってくれることも、私から戻りたいと言えば受け入れてくれることもわかっていたからだ。銀ちゃんもたぶん同じ理由プラス意地とプライドだったのだと思う。
 とにもかくにも、そうして周囲に呆れられる迷惑極まりないカップルが爆誕したのだった。

 ただ、どれだけループしていてもいつか終わりは来るもので。
 高校卒業を目前に控えた冬。私は進学、銀ちゃんは就職と、別々の道を歩むことになった私たちは本当に終わった。

「なあ、柑奈」

 銀ちゃんはグラスをテーブルに置いて、真剣な眼差しで私を見つめた。

「最後に別れたとき、俺ほんとは別れたくなかったんだよ。けど、おまえにかっこ悪いとこ見せたくなかったから言えなくて……それに、おまえとはまたいつか絶対に会えるって信じてたっつーか」

 それはなんとなく感じていた。銀ちゃんはまたすぐに戻れると思っていたのだろう。喧嘩をしたわけでもないのに私が別れを告げたとき、やっぱり引き留めてはこなかった。そして(今『またいつか』と言ったわりに)たったの一か月後に『会えないか』と連絡してきた。

 だけど私はそれを断った。もう二度と戻る気はなかったからだ。
 そう。四年前に、私と銀ちゃんの物語は幕を閉じているのだ。

「ごめん。私もう行かなきゃ」
「え? もう?」

 お店に入ってから一時間も経っていないし、料理もまだ残っている。
 だけど、過去の思い出に浸る時間はもう終わり。
 どれだけ懐かしくても、過去は過去なのだ。

「あー……そっか、わかった。今日ありがとな」
「私こそありがとう」

 心からの感謝だった。あまりにも変わらずにいてくれたおかげで、ちゃんと確かめることができた。やっぱり今日会えて、誘いを受けてよかった。
 大丈夫。私はもう迷わない。

「近いうちに連絡するから、よかったらまた──」
「今の彼がどれだけ素敵な人か気付かせてくれて、本当にありがとう」
「は?」

 さすがに奢ってもらうのは気が引けたから、テーブルにお金だけ置いて足早に店を出た。




 (はや)る気持ちを抑えきれず、駆け足で駅へ向かう。
 すすきの駅の出入り口が見えてきたとき、そこに立っていたのは、

「むっちゃん!?」

 私が今から会いに行くつもりだった、彼氏の睦月(むつき)だった。
 慌ててむっちゃんに駆け寄る。

「なんでここにいるの?」
「喧嘩したままだったし、早く謝りたくて」

 叱られた子犬みたいにしゅんとして、私の肩の雪を払う。
 私の居場所がわかったのは、一緒に使っているカップルアプリだろう。GPS機能がついていて、お互い常に位置情報をONにしておく約束をしている。

「いつからここで待ってたの? 連絡くれたらよかったのに」
「友達と飲んでたんでしょ? 俺が勝手に来ただけだし、邪魔したくなかったから」

 むしゃくしゃしていた原因は、むっちゃんとの喧嘩だった。というより、私が一方的に怒っていたのだけれど。

 付き合って二年。感情の起伏が激しい私とは違い、むっちゃんはいつも落ち着いていて怒っているところを見たことがない。私が怒っても悲しそうに口をつぐんでいるだけで、……それが無性にイライラしてしまうときがある。

 どうしてちゃんと自分の気持ちを言ってくれないんだろう。私ばっかり怒って馬鹿みたい。もしかして私になにを言っても無駄だと思われているんじゃないか、面倒だと思われているんじゃないか、なぜ自分の感情をちっともコントロールできないのかと呆れられているんじゃないか。

 あまり感情を表に出さないむっちゃんと向き合っていると、そんな劣等感がどうしようもなく湧き上がって、自分がだめ人間だと思い知らされている気がする瞬間があって、昨日はとうとう止められなくなってしまった。

 だけどそれは、全部全部、私の被害妄想だ。
 違うのに。むっちゃんはただ、優しいだけなのに。
 黙っているのは、私を傷つけたくないだけなのに。
 そんなこと、とっくにわかっているはずなのに。

「……違うの。友達じゃなくて」
「後輩とか?」
「ううん。……元彼とばったり会って」
「えっ」
「ごめん。怒るよね」

 わざわざ白状することはないのかもしれない。不快に決まっているし、きっと言わない優しさというものがある。だけどむっちゃんには、むっちゃんにだけは、自己防衛でしかない嘘をつきたくなかった。

 目を合わせているのが怖くなって、むっちゃんのコートの袖をぎゅっと握る。
 むっちゃんは、その手をぎゅっと握った。

「怒らないよ。信じてるから」

 この上ないほど優しい声色だった。
 信じてる。むっちゃんはいつもそう言ってくれる。そのたびに私は疑問に思う。
 どうして言い切れるんだろう?
 銀ちゃんよりもずっと、私のことを知っているのに。

「むっちゃん、ごめんね」

 だめだ。泣きそう。
 むっちゃんの背中に腕を回して、人目なんか気にせずぎゅうっと抱きついた。むっちゃんは照れたり慌てたりすることなく、私の背中にそっと手を添えた。

「私、怒ってばっかりでごめん。我儘ばっかり言ってごめん。いつまでも子供でごめん。いつも自分のことばっかりでごめん」
「どうしたの? 俺もごめんね。柑ちゃん、泣かないで」
「泣いてないよ」
「でもちょっと震えてる」
「むっちゃんが大好きだからだよ」
「嬉しい。俺も柑ちゃんが大好きだよ」

 むっちゃんはちょっとなよなよしていて、一見頼りない人だ。
 だけど、こんなに優しい人を、大切に想ってくれる人を、信じてくれる人を、真っ直ぐに好きでいてくれる人を、私は他に知らない。

 気温が下がって、湿っぽかった雪が今はふわふわと舞っていた。
 むっちゃんがここにいてくれるだけで、私は大の苦手な雪さえも(いと)おしくなる。

「楽しかった?」
「全然楽しくなかった」
「そ、そっか。いや、楽しかったって言われたらちょっとショックだったかも」
「むっちゃんといるときしか楽しくないよ」

 銀ちゃんの誘いを受けたのは、言わば私にとっての荒療治みたいなものだった。
 昨日むっちゃんへの不満と自己嫌悪が爆発したあと、無性に確かめてみたくなってしまったのだ。私にとっての黒歴史の中心である銀ちゃんに会ったら、むっちゃんがどれだけ素敵な人なのか、今がどれだけ幸せなのか再確認できそうな気がした。
 そしてそれは、見事に成功した。

 むっちゃんは私に『ブス』なんて口が裂けても言わない。私がどれだけご飯を食べても、『おいしい?』ってにこにこしてくれる。目上の人にも、店員さんにだってちゃんと敬語を使う。ちょっと気に食わないことがあるだけで感情に任せて怒ったりも絶対にしない。

 むっちゃんは誰よりも素敵な人だ。私なんかにはもったいないくらいに。

 今を肯定できるのなら、ときには過去と比べてみるのもありだと私は思う。もちろん間違ったやり方だったと自覚はある。元彼とふたりで会うなんて言語道断。もう二度としないし、心から反省する。

「本当にごめんなさい。もう絶対に元彼になんて会わないから」
「それはいいよ。けど、これからはできれば事前に連絡してほしいかな……」
「ううん、いいの。闇に(ほうむ)ることにしたから」
「へ?」

 四年ぶりに銀ちゃんと話して感じたのは、なんであんな人が好きだったんだろう?という疑問だけだった。
 銀ちゃんが言う『ブス』は愛あるいじりのつもりだったみたいだし、私も最初は受け入れていた。だけどブスなんて言われて嬉しいわけがない。普通にイラッとするし、なんでただの悪口を言われて彼女が喜ぶと思っているのか心底理解できない。

 銀ちゃんの前であまり食べなかったのだって、女の子は小食だと信じていたらしいからだ。私は小食どころか大食いの部類に入る。バイキングに行けば制限時間ぎりぎりまで食べ続けるし、ラーメン一杯じゃ足りないから最低でも替え玉とチャーハンと餃子(ぎょうざ)も注文する。

 今日は俺が奢るから好きなだけ食えなんて、大食いで酒豪の私がお言葉に甘えたらお会計は相当な額になる。

 誰にでもタメ口を使うところも普通に最低だ。年上の人には敬語を使う。そんな当たり前のこともできない人と一緒にいても恥ずかしいだけ。

 口元を手で覆って顔を斜め上に向けるのは銀ちゃんのキメ顔だ。その角度と表情が一番かっこいいと思っているらしい。当時はまだ許せていたけれど、今でもやっているのははっきり言って痛い。

 中学生の頃は、銀ちゃんのそういうところを全部かっこいいと思っていた。だけど高校生にもなれば、ただの強引で傲慢な自己陶酔男だということを薄々察してくる。

 じゃあなぜ、()りずに何度も何度もよりを戻していたのか。
 理由は大きくふたつ。
 ひとつ目は、やっぱり銀ちゃんがいいと思ってしまう瞬間があったから。
 ふたつ目は──ものすごくちょうどいい存在だったから、だろう。

「お腹空いちゃった。今日あんまり食べてなくて」
「じゃあどっか食べに行く?」
「ううん。おうちでまったりしたいから、スーパー寄って帰ろう」
「いいよ。どっちの家?」
「ルミエール小桜、一〇四号室」

 私が世界で一番安心できる場所を言うと、むっちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
 大丈夫。もう迷わない。私はむっちゃんのことが大好きだ。

 さよなら、強引で傲慢な自己陶酔男に夢中だった中学高校時代の愚かな私。
 そして、もうひとつ──。


 マンションが見えてきたとき、私たちの前をふたりの男女が歩いていた。むっちゃんの隣の部屋に住んでいる大学生の男の子と、彼と同世代くらいの女の子。

「前に彼女いないって言ってたけど、できたのかな」

 むっちゃんが私に耳打ちをする。
 ほんとだね、と返そうとしたとき、女の子が彼の方を向いた拍子に横顔が見えた。

「あれ?」
「どうしたの? 柑ちゃん知り合い?」
「あの女の子、見覚えある気がして」

 思わず足を止めて考え込む。ふたりの姿が見えなくなると同時に思い出した。
 知り合いではないけれど、知っている。たぶん同じ高校出身の子だ。
 そして、つい最近見かけたことがある。
 年上の男の人とホテルに入っていくところを。

「ううん、なんでもない」

 なんとなく口に出すのが憚られて、気のせいだったとごまかした。
 ひょっとすると、彼女は私と似たようなタイプなのかもしれない。

「ねえ。むっちゃんはなんでそんなに私のこと信用してくれるの?」

 止めていた足を動かして、繋いでいる手をぎゅっと握った。

「私の過去、むっちゃんも知ってるのに」

 私には、銀ちゃんの知らない秘密がある。



 中学高校時代の私はいわゆる恋愛体質というやつで、ちょっと顔が好みの男の子にちょっと優しくされただけでコロッといってしまうタイプだった。最初に銀ちゃんを好きになったのも、特に大きな理由やきっかけはなくただそれだけのことだった。

 さらに愛されたい願望が人一倍強い構ってちゃんで、しかもものすごく移り気だった。銀ちゃんからの連絡の頻度がちょっとでも減ったりちょっとでも放置されたりするだけで愛情不足に感じ、そんなときに他の男の子にちょっと優しくされるとつい目移りしてしまうのだ。

 銀ちゃんの連絡を無視していると、銀ちゃんがさらに怒って大喧嘩になるか例の台詞を言ってくるから、いつも自然な感じで別れることができた。なんだか〝彼女のためを想ってつらい別れを選択する自分〟に酔っていたからそういうことにしておいた。

 付き合いたての頃は自制できていたのに、何度も復縁を繰り返しているうちにブレーキが緩くなってしまった。
 彼とだめになっても銀ちゃんと戻ればいい。私が戻りたいと言えば受け入れてくれる。なんて思うようになり、私にとって銀ちゃんはいつからかものすごくちょうどいい存在と化していた。

 私が仕向けていたことも、私から別れを告げていた本当の理由も銀ちゃんは知らない。知られたらよりを戻せなくなってしまうから言わなかった。罪悪感で胸が締め付けられるくらい、けっこうひどいことをしていたのだ。

 ただし、最後に別れたときだけは違う。
 もしかしてこの人ちょっとやばい?と薄々感じていた疑問が、だいぶ痛いな、という確信になったからだ。それに大学に入ったら新しい出会いもたくさんあるだろうし、まあいっか、って感じで別れた。

 つまり私は、銀ちゃんに負けず劣らずだいぶ痛くてやばい女だったのだ。
 そんな私の過去を、むっちゃんは全て知っている。

「だって、昔の話でしょ?」
「そうだけど、普通は信用なんかできないと思う」

 大学に入ってすぐ、ふと私の恋愛無双が終わりを告げた。男性と知り合う機会はあったもののなかなか恋愛に発展せず、さらにやたらと課題を出してくる教授と人手不足のアルバイト先のおかげで恋愛に没頭する暇がなかったのだ。彼氏がいない生活は最初こそ物足りなかったけれど、忙しい毎日を送っているうちに、ひとりでも充実した時間を過ごせるのだと気付くことができた。

 だから彼氏がほしいと思わなくなっていたし、そもそもむっちゃんは友達だったし、正直タイプじゃなかったからまさか付き合うことになるとは思わず、酔っぱらっていたときに面白おかしく洗いざらい喋ってしまったのだ。

「アプリで位置情報共有しようって提案してくれたの柑ちゃんじゃん」
「でもむっちゃん全然見てないじゃん」
「四六時中心配してたらキリないし、精神衛生上よくないから。束縛してるみたいで嫌だし。信じるって決めたから信じてるだけ」
「そっか。信じてくれてありがとう、むっちゃん」

 むっちゃんが告白してくれたとき、正直不安だった。私の悪い癖は直っているのだろうか、と。だからこそ自ら位置情報の共有を提案した。

 だけど私は知った。
 絶対に失いたくないと思える人に出会うこと。それが一番の特効薬だったのだと。
 最低だった過去ごと受け入れてくれる。無条件で私のことを信じてくれる。愛情とは連絡の頻度や口先だけで量るものではないということも教えてくれた。そんな人を裏切れるわけがない。

 むっちゃんと出会えたおかげで心から言える。
 さよなら、超移り気の構ってちゃんで大嘘つきだった痛すぎる私。

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