果てて隣に倒れ込んだ一颯くんは、息を整えてからこちらを向いた。細いけれど筋肉質な腕を伸ばす。久しぶりの腕枕に頭を預けた。
気持ちよかった?と訊いてくるだろう。そうしたらわたしは、べつにそれほどでも、と思いながら『うん』と微笑むのだ。少年のハートを傷つけてはいけない。
「痛くなかった?」
予想外な質問に驚いて、すぐに言葉が出てこなかった。
一颯くんもわたしの反応が予想外だったのか、いや、あの、としどろもどろに前置きして続ける。
「俺、気付いてると思うけど、そんなに経験ないから……その、うまくないと思うし、気を付けたつもりだけど、もし痛い思いさせてたら最悪だなって」
普通、八歳も上の女に『痛くなかった?』なんて言わないよ?
胸の奥が、数年ぶりにきゅっと縮んだ。
「大丈夫。痛くなかったよ」
「よかった」
一颯くんの腕に包まれて、まだ少し汗ばんでいる背中に手を回した。わたしの体を抱き寄せる腕も、髪を撫でる手も、ちょっと控えめすぎるくらいに優しい。
まさか八歳も下の男の子に頭を撫でられる日が来るとは思わなかった。
だけど前回とは違う。一颯くんは今、れっきとした彼氏だ。
ベッドの中にいるときくらいは、素直に甘えても罰は当たらない。
「あっ」
せっかく一颯くんの体温でうとうとしていたのに、すっとんきょうな声に眠気が飛んだ。
「ごめん、ちょっと電気つけてもいい?」
「いいけど……」
間接照明をつける。
ベッドから手を伸ばした一颯くんは、すぐそばに置いていた鞄を漁ってなにかを取り出した。
「これ、よかったらもらってほしい」
差し出されたのは、アクセサリーを入れるにはちょうどいいサイズの小さな箱だった。まさか指輪ではないだろうなとびくびくしつつ包装紙を剥いでいく。
「え?」
中身は、なんの変哲もないピアスだった。なのに間の抜けた声が漏れてしまったのは、ずっと前からほしいと思っていたデザインにドンピシャだったことと、見覚えがある気がしたからだ。
「ごめん、気に入らなかった?」
「ううん、そうじゃなくて……」
しばし記憶をたぐり寄せているうちに思い当たった。
たしか二、三年ほど前、エントランスから飛び出してきた女の子とぶつかったことがある。
違う階に住んでいた彼女のことをはっきりと覚えていたのは、なんとなく印象に残るカップルだったからだろう。彼氏の方は、赤の他人であるわたしに対してもどこか高圧的な態度で少し苦手だった。そして彼の隣にいる彼女は、いつもどこか所在なげにしていて、ときどきまるで人形みたいに見えた。
そんな彼女が急に飛び出してきたのだ。それだけでも充分に印象的だったが、より強く記憶に残っているのは、彼女が落としたノートから散らばった、びりびりに引き裂かれた紙片だ。
普通に考えても彼女の様子からしても、自分で破ったとは到底考えられなかった。
もしかしたら、あの彼にやられたのだろうか。なんてひどいことをするのだろう。
心を痛めながら一緒に拾い、ノートにそれをのせようとしたとき、彼女が開いたページにはピアスの絵が描いてあった。
そうだ。あのとき見たデザインとよく似ている。
「これ、どこで見つけたの?」
「ネットだよ。あ、でも変なサイトじゃないよ。ちゃんとした店のホームページ」
べつにそこは疑っていない。
「なんていうブランドかわかる?」
「なんだったっけな。ちょっと待って、スマホ見ればすぐわかると思う」
「ううん、大丈夫。ちょっと気になっただけだから」
印象的だったのは出来事ももちろんだが、あのときの彼女の表情でもある。
絶望と希望が混ざったような、言葉では表しにくい複雑な色を灯した瞳。
──発売したら絶対に買います。楽しみにしてるので、頑張ってください。
そう言ったのは、紛れもなく本心だった。同時に羨ましかったのかもしれない。夢を抱き、これから羽ばたいていくのだろう彼女が。
頑張ってほしいと、心から思った。
──絶対、絶対、頑張ります。
今の今まで忘れていたのに、目いっぱいに涙を溜めた彼女の顔と言葉が鮮明によみがえった。
そうか。夢を叶えたんだ。名前も知らない相手なのに、じんわりと心があたたまる。
そして今、この手に彼女の夢の欠片がのっている。なんだか不思議だな、と思った。大なり小なり、縁とはこうして巡り巡るものなのかもしれない。
「でも、どうして? わたしもう誕生日終わってるし、クリスマスだってまだ先なのに」
「変なの。プレゼントするのにイベントとか関係ないじゃん。ただこの実さんに似合いそうだと思ったから」
一颯くんが私のおでこにそっとキスをした。
「ありがとう。嬉しい、すごく。大切にするね」
一颯くんはよほど不安だったのか、強張っていた顔がふわりと綻んだ。
大切にすると素直に言えたのは、きっと彼女のおかげだ。なんとなく、一颯くんに内緒にしておこうと思った。
「わたしからは、ひとつお願いしてもいい?」
「なに?」
「あんまり無理しないでほしいの」
一颯くんが小首を傾げた。
「ああいう雰囲気のお店、苦手でしょ。今日行ったところ」
「えっ……ばれちゃった?」
「ばればれ。いいんだよ、無理しなくて。大衆居酒屋でもカフェでもファミレスでも、どこでもいいの。ふたりとも楽しくなきゃ意味がないから」
「そっか。うん、わかった」
この提案は、せめてもの償いだったのかもしれない。