食事を済ませると、一颯くんは顔を真っ赤に染めて、わたしの家に行きたいと言った。でしょうねと思いつつ、念のため昨日掃除をしておいたので了承した。

 わたしの家は、札幌市営地下鉄南北線(なんぼくせん)中島公園(なかじまこうえん)駅から徒歩十分の場所にある『ルミエール小桜』というマンションの三〇一号室。駅近物件と呼ぶには少々距離があるものの、そのおかげでなかなか好条件のわりに家賃はお手頃だし、すすきのや大通(おおどおり)まで充分に歩ける立地なので気に入っていた。

 そう、それがまずかった。このマンションに越して以来、終電を気にせず好きなだけ飲む癖がついてしまったのだ。

「あ、この実さん。こんばんは」

 エレベーターのドアが開いたときに通りかかったのは、大学生の女の子だった。彼氏がこのマンションに住んでいるため、頻繁にここへ来る。いつからか話しかけられるようになり、今ではたまに立ち話をするようになった。大学を卒業したら彼女も越してくるらしい。たしか彼氏に〝コトネ〟と呼ばれていた気がする。

 正直、今はあまり会いたくない人だ。明るく社交的な性格は好ましいが、それがかえって迷惑を被ることもある。
 じゃあ、と言って一颯くんの腕を引くと、

「もしかして弟さんですか?」

 遅かった。

「えっと……」
「弟じゃなくて、彼氏です」

 彼女は目を見開いて、わたしと一颯くんを交互に見た。当然の反応だ。年齢も服装もアンバランスすぎるわたしたちは、到底カップルには見えない。

 横目で一颯くんの様子を窺うと、ただ口角を上げていた。
 今度こそ一颯くんの腕を引き、ぽかんと立ち尽くしている彼女に「じゃあまた」と告げてその場から逃げた。



 部屋に入ると、一颯くんはソファーに座ってリラックスした表情を見せた。やはり先ほどの店ではよほど緊張していたのだろう。
 ひとまず彼女の反応を気にしていないらしいことにほっとする。

「今日一緒にいた友達、みんな同じ学校?」

 気にしていないならあえて触れたくないので、冷蔵庫を開けながら無難な質問を投げかけた。

「うん。同じクラスで、よくつるんでるんだ」
「仲いいんだね」

 真っ先に視界に入った缶ビールを前に少し悩む。家の中でならお酒を飲ませてあげてもいいだろうか?
 いや、だめだ。いいわけがない。ここは大人としての責任がある。というかいよいよ犯罪だ。花金の夜に帰宅してもなおアルコールを摂取できないのは苦痛の極みだが、わたしだけ飲むのはさすがに気が引ける。代わりにペットボトルのお茶を二本取り出した。

 ああ、そうか。一颯くんと付き合うということは、当たり前だった生活を制限しなければならないということなのか。

「一颯くんっていつから美容師になりたかったの?」

 なんとなくやるせないような気持ちをこらえつつ、一颯くんの隣に座ってお茶を一本渡した。

「覚えてないなー。中学生くらいから美容室行くようになって、なんとなく美容師ってかっこいいなーと思って、気付いたら美専入ってた」
「そうだったんだ。すごいよね、夢があるって」

 普通に生きてきたわたしにとって、一颯くんは少し眩しい。
 これといった趣味や特技はなく、将来の夢を抱くこともなく、普通に勉強して普通に恋をして、親に言われるがまま大学へ進学し、いくつか面接を受けた中でたまたま内定をくれた会社に就職した。

 外見もそうだ。一颯くんみたいに髪色を明るくしたことも色で遊んだこともないし、特別長くも短くもしたことがなくずっと似たような髪型だった気がする。服装だって、奇抜なファッションに挑戦するどころか興味を持ったことすらなく、いつもシンプルな色を選ぶ。唯一お洒落っぽい趣味といえば、ピアス集めくらいだろうか。

 初めて付き合ってもいない男性と寝たときは、とうとう道を踏み外してしまったような気がして眩暈がしたし、なんだかもやもやしたりもした。だけど次第に慣れていった。友達に打ち明けてみれば、それほど珍しい経験でもない、むしろべつに普通といってもいいくらいのことだと知った。

 そんな人生を歩み続けた今、とてつもなく普通のOLが完成していたわけだ。
 やっぱりわたしたちは、あまりにもアンバランスだ。

「この実さんにお願いがあるんだけど」
「なに?」
「スタイリストになれたら、一番にこの実さんの髪触らせてほしい」

 柔らかい笑顔に、ちくりと胸が痛んだ。
 美容師が一人前になるまでどれくらいかかるのだろう。あまり詳しくないが、少なくとも数か月というレベルじゃないはずだ。おそらく数年はかかる。そもそも専門学校を卒業するまであと一年半もある。

「うん。楽しみにしてるね」

 小さな嘘を隠すように、一颯くんの唇を塞いだ。



 前回は断片的な記憶すらないので、一颯くんとのセックスは今日が初めてみたいなものだった。
 手つきや腰つきであまり慣れていないということがわかる。けれど、己が上級者だと勘違いしてひとりよがりなセックスをする男よりはよっぽど可愛げがある。

「──早く大人になりてえな」

 最中に一颯くんが呟いた。真意はわからないが、本心では弟と言われたことを気にしていたのだと思った。
 だから、聞こえなかったふりをして彼にしがみついた。