洗い終えた食器を拭いているとき、手がすべって、床に衝突したお皿が大きな音を立てて割れた。

「あーもう、なにやってんだよ!?」
「ごめん、仕事が忙しくて……」
「言い訳すんなって何回言わせんだよ!」

 リビングから飛んでくる声をかわすようにしゃがみ込んで、割れたお皿の破片を拾っていく。
 あれから一か月。人事部に申告するとすぐに後任者が決まり、デザイン部への異動まであと一日となっていた。

 あたしは仕事と家事と浜辺さんに課せられた宿題に追われ、正直くたくただ。だけど不思議とネガティブな気持ちは湧いてこなくて、とにかく今は明日からの生活が楽しみだった。とはいえ、体は疲れているからこうして度々やらかしてしまう。
 飛鷹はそんなあたしが気に入らないようで、ここ数日はいつにも増して不機嫌だった。

「俺、前に残業減らせって言ったよな? なのになんで仕事増やしてんだよ。ほんと人の話聞かねえな!」

 返事をせずに割れたお皿を片付けて、デザインの続きをするためエプロンを外した。
 何個でもいいと言われはしたものの、昨日の時点で十三個考えていた。最初に課せられた十個からさらに上乗せしたのは浜辺さんへの反発心といっていい。あの感じからしてあっさり認めてくれるとは到底思えない。きっとボロカスに言われるだろう。ならば数で勝負だと、できる限り多く提出したかった。

 時間が惜しかったあたしは、夕飯前に飛鷹がお風呂に入っているときもリビングで案をひねり出していたから、ノートがテーブルに置いてある。それを取るため手を伸ばすと、僅差で飛鷹がノートを奪った。

「無視してんじゃねえよ!」
「そういうわけじゃないけど、ほんとに時間ないの。ノート返して」
「なんなんだよその態度!? だいたい、ちょっと褒められたからっていい気になってんじゃねえよ。おまえなんかがデザインできるわけねえだろ!」

 飛鷹がノートを開いた瞬間、次の行動が予測できた。
 あ、と声が漏れたのと、飛鷹がページを破ったのはほぼ同時だった。

 それだけじゃ気が収まらなかったのか、さらにびりびりと破いていく。飛鷹の手から、色のついた紙片がひらひらと落ちていった。

「俺はおまえのために言ってんだよ。おまえなんかが変に夢見ても無駄なんだから」

 目の前で砕け散った、生まれて初めての努力の結晶を拾い集めていく。その間にも飛鷹はあたしの後頭部に暴言を落としていく。

「俺の言うこと聞けねえなら出てけよ!」

 いつもみたいに感情がぐちゃぐちゃになることはなかった。代わりに、ずっと前から自分の中で渦巻いていた不明瞭ななにかが形を成していくような感覚を覚えていた。
 拾い集めた紙片をノートに挟む。
 それを胸に抱えた瞬間、はっきりと形になった。

 あたし、なんでこの人と一緒にいるんだろう?

「……わかった」

 呟いて、足早にクローゼットへ向かう。後ろから飛鷹が慌てて追いかけてくる。振り返らないまま、旅行用のバッグに服や下着を適当に詰めていく。まとめた荷物と仕事用のバッグを持って立ち上がった。

「今すぐ出ていく。残りの荷物はまた取りに来るから」
「は? おまえなに言って……」

 あたしはきっと、薄々わかっていた。飛鷹が豹変してからも、なぜ離れようとしなかったのか。
 飛鷹のことを好きだったわけじゃない。かといって洗脳されていたわけでもない。こんな仕打ちを受けながらも、全部あたしが悪いだとかあたしには飛鷹が必要だとか思い込むほど壊れてはいないし、また出会った頃の優しい飛鷹に戻ってくれるはずだと信じていられるほどの綺麗な思い出もない。

 あたしはただ、飛鷹というアクセサリーを手放すのが怖かった。
 そこそこ裕福な実家、そこそこいい顔と頭と学歴、そこそこ持っている人脈、そこそこ有名な勤務先、二十四歳にして2LDKの家賃を払いながらレクサスを所有できる財力。

 そこそこスペックの高い恋人がいることで、自分の存在価値を見出したかった。
 だってあたし自身にはなにもない。飛鷹と別れてしまったら──恋人の存在すらなくなってしまったら、なにも残らない。それに、飛鷹と別れたところでどうせろくな男は寄ってこない。あたしには外見しか取り柄がないのだから。

 あたしは籠の鳥だ。だけど、閉じ込められていたわけじゃない。自ら飛び込んで鍵をかけた。全てを失って本当に空っぽになってしまうより、諦めている方がずっと楽だった。

 飛鷹は、そんなあたしの本心を見抜いていたのかもしれない。
 あたしたちは、やっぱり似た者同士だった。
 だけど、本当にこれでいいのだろうか?

 ──強気じゃん。なんかそっちの方が美波ちゃんらしい感じするな。
 そうだ。あたしはもともと気が強くて負けず嫌いで、よくも悪くも自己主張ができる人間だった。

 ──意外と自己肯定感低いんだね。
 違う。あたしは自分の可能性を信じていた。これからだってどこでも輝いていられると信じていた。
 だけど現実を思い知るにつれて、どんどん自分らしさを見失っていった。

 今のあたしはただの人形だ。
 こんなのあたしじゃない。
 こんな自分、全然好きじゃない。嫌いだ。
 このままだと、もっともっと大嫌いになってしまう。

「なあ、出ていくなんて冗談だろ?」
「ごめん。もうここにはいられない」

 呆気に取られている飛鷹を見据える。

「あたし、これ以上自分のこと嫌いになりたくない」

 最小限の手荷物を持って、家を飛び出した。