ヒロに彼女がいることを知っても、私は諦められなかった。遊びの誘いを断ることも、当然のように私を家まで送ると言うヒロを拒むこともできない。心配そうに私たちを見つめる凪紗から目を逸らすことしかできなかった。

 夏休みも終盤となった頃、湊くんの家で遊んでいた帰り道。少し海に寄っていこうとヒロに言われた。

「夏帆、ほら」

 ひょいっと堤防にのぼったヒロは、私に向けて右手を伸ばした。
 すぐにその手を握ることができなかった。だって、ヒロには彼女がいる。だけど堤防は私の肩くらいの高さだから、ヒロみたいに簡単にのぼれない。

「ほら、早く」
「……ありがと」

 戸惑いながら手を重ねると、ヒロはぎゅっと握った。お腹の奥の方が震えるような、暑いのに寒いような、熱いのに冷たいような、よくわからない感覚が全身を取り巻く。

 堤防にのぼってからも、ヒロは私の手を離さなかった。私もなにも言わなかった。ヒロと出会った海を見つめながら、いっそこのままずっと離さないでほしい、手を繋ぐことがふたりの間で当たり前になってほしいと思った。

「夏帆、なんかあった?」
「え? なんで?」
「今日ちょっと元気なかったから。それに、いつもはもっと早めに帰るのに全然帰ろうとしないし」

 だからこうして寄り道してくれたのだろうか。
 ヒロの笑顔を見ているだけで、ささくれ立った心が凪いでいく。
 じわ、と滲んだ涙をこらえて、実はね、と切り出した。

「今朝……お姉ちゃんと喧嘩しちゃって。お姉ちゃん、私と違ってすごく頭がいいんだ。高校も有名な進学校だし。だからいつも見下されて、馬鹿にされて、くどくど嫌みばっかり言われて。いつも適当に流したり無視したりしてたんだけど、今日はなんか、虫の居所が悪いっていうの? すっごいイラッとしちゃって、それでなんかもう、めんどくさくなって、家に帰りたくないなーとか思っちゃって」

 静かすぎる夜の海は、私のどす黒い感情に拍車をかけた。その感情と静けさに煽られるように、ぺらぺらと喋った。
 ヒロは黙ったまま。こんな愚痴を吐いたりして、引かれてしまったかもしれない。

「あ……暗い話してごめん」
「めんどくさくなったんじゃなくて、家に帰りたくなくなるくらい傷ついたんじゃないの?」
「え?」
「適当に流したり無視したりしてたのは、まともに聞いてたらきつすぎて耐えられなかったからだろ。今日だって、虫の居所が悪かったんじゃなくて我慢の限界だったんじゃないの? つーかそれ、姉ちゃんひどくね? 夏帆は夏帆じゃん。成績は知らないけど、下沢の普通コース入れるなら全然いいと思う。俺なんか専門コースすら入れるか微妙だし」

 ぽかんとヒロを見上げていると、ヒロは冗談めかしてにっと笑った。
 笑わない私を見て今度は困ったように頭をかき、声のトーンを下げた。

「勉強できるとかできないとかどうでもいいじゃん。夏帆は明るいし優しいしちゃんと周り見てるし、友達だっていっぱいいるし、勉強できるよりそっちの方がよっぽどすげえと思うけどなあ」
「それはヒロでしょ?」
「夏帆だよ。夏帆はいい奴。すっげえいい奴。俺、夏帆といたら楽しいし落ち着くよ」

 ヒロは満面の笑みで私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 その瞬間、涙腺が破裂したみたいに、ずっとずっとこらえていた涙が溢れた。
 子供みたいにむせび泣く私を、しょうがねえなあ、と言いながらぎゅっと抱きしめてくれた。

 ──夏帆は夏帆じゃん。
 そうか。私はずっと誰かにそう言ってほしくて、こうして抱きしめてほしかったんだ。


 どれくらい泣いていただろう。ずっとヒロの胸に顔を埋めていた私は、もう大丈夫、と呟いてそっと離れる。頬に残っている涙を拭い、乱れていた呼吸を整えてヒロを見上げた。
 ヒロは真剣な表情で私を見ていた。

「俺と付き合ってほしい」

 唐突に言ったヒロは、いつもみたいに笑っていなかった。
 一瞬頭が真っ白になって、え、とかすれた声が漏れた。

「なんで……だってヒロ、彼女いるんでしょ?」

 混乱しながら絞り出すように言うと、ヒロは目を丸くして、「知ってたんだ」とばつが悪そうに頭をかいた。

「言ってなくてごめん。けど隠してたわけじゃなくて……もともとうまくいってなかったし、もう別れたんだ。夏帆のこと好きになっちゃったから」

 ヒロは真っ直ぐに私の目を見て言った。

「俺は夏帆が好きだ」

 夢みたいな告白を頭の中で反芻していると、落ち着いていた涙がまたぽろぽろとこぼれた。嬉しいって、私もだよって言いたいのに、止まらない涙のせいで言葉が出てこない。

 ヒロは泣き続ける私をぎゅっと抱きしめた。顔を上げれば、ヒロは優しく微笑んでいた。
 そっと目を閉じたとき、凪紗の表情が、言葉が、脳裏を巡った。

 ──ヒロくんは……あんまりおすすめしない。
 凪紗、ごめん。私、やっぱりだめだ。
 忠告をされたときには、もう完全に手遅れだった。

 一度だけじゃなく、何度も何度もキスをした。立ち上がったヒロは、私の手を引いて歩きだした。連れていかれたのは、湊くんの家ではなくヒロの家。階段を駆け上がり、一番奥の部屋に入る。ドアを閉めると、電気もつけずベッドに押し倒された。

 泣きすぎて頭痛がする。急展開すぎて混乱する。湧き上がるヒロへの想いに眩暈がする。
 朦朧とする意識の中で、お邪魔しますって言えなかったけど大丈夫かな、なんて、あまりにも場違いなことをぼんやりと思った。

 初めてだった。ちょっと怖かったし痛かったけれど受け入れた。
 その日、私はヒロの彼女になった。

 もし名前に共通点がなくても、誕生日が全然違う日だったとしても、私はきっとヒロを好きになっていただろうなと思う。
 ヒロが隣にいるだけで、目に見える景色が全部綺麗だった。