「──は?」

 総務部のフロアに、秋山さんの氷みたいに冷たい声が静かに響いた。
 まだ誰も昼休憩から戻ってきていなくて、室内にはあたしたち三人だけ。あたしは体に電流を浴びたみたいに硬直しているのに、浜辺さんは飄々としている。

 いっそのこと気絶してしまいたくなるほど重すぎる沈黙ののち、秋山さんは「絶対そう言うと思ってた」と呟いた。そして殺意すら感じさせる目で浜辺さんを睨みつけた。

「あんた、なんでもかんでもデザイン部が最優先されると思ってるの? そもそもあんたの一存で部署異動なんか許されるの? ちゃんと部長に相談して許可得たの? ていうか、なんでもかんでも自分の我儘が通ると思ったら大間違いだって。自惚れるのもいい加減にしろっつの」
「部長は僕の好きにしていいって言ってくれてるもん。ほら、僕エースだし」

 おどけて言う浜辺さんに、秋山さんがいよいよ殺気を放った。
 それを察知したらしい浜辺さんは、一歩下がってあたしを盾にした。

「それに美波ちゃんもデザインやりたいって」
「え!」

 丸投げかよ。
 秋山さんは浜辺さんからあたしへゆっくりと視線をずらした。反射的に背筋が伸びる。

「ほんと? この馬鹿に脅されてない?」
「はい。あの……」覚悟を決めて、真っ直ぐに秋山さんを見た。「総務部の仕事も、やりがいがあるし、好きです。もっともっと頑張りたいって思ってました。でも……本当はずっと、デザインに憧れてました。……デザインが、したいです」

 沈黙が落ちる。
 秋山さんは、気が抜けたようにふうと息を吐いた。

「美波ちゃん、うちのエースだったのになあ」
「エ、エース? でもあたし、まだ全然なんにもできなくて、役に立ってないし、迷惑ばっかりかけて……」

 秋山さんは、今度は目を丸くした。こんなに表情がころころ変わる秋山さんは初めてだ。

「なんか美波ちゃん見てると、美人への偏見がぶっ壊れるよ。意外と自己肯定感低いんだね。まあ、勉強はあんまり得意じゃないんだろうなって思ってたよ。ちょいちょい漢字の読み書きとか間違ってるし」

 秋山さんは一度くすくすと笑って、

「でも覚えが早いし、同じミスは繰り返さない。私が教えたこと、ノートに細かくメモ取ってるでしょ? 今年……っていうか、ここ三年くらいの間に入社した子でノート持ち歩いてるの、美波ちゃんだけなんだよ」

 優しく微笑む秋山さんと目を合わせているうちに、体の奥からなにかがじわじわと込み上げてくる感覚を覚えていた。

「どんな雑用も残業も文句ひとつ言わずにしっかりこなして、ちょっとでも自分の手が空いたら『手伝います』って積極的に言ってきて、毎日一生懸命に仕事してる。そんな子のどこが役立たずなの?」

 涙、だった。
 どれだけ飛鷹に暴言を吐かれても怒鳴られても、一度も流したことのない、涙。
 こらえきれずにぽたぽたとこぼれていくそれを見て、秋山さんはまた目を丸くしてから、眉を下げて微笑んだ。

「というわけで、美波ちゃんを引き抜かれるのはめちゃくちゃ痛いけど、美波ちゃんが行きたいなら止めないし応援する。でも、部署異動は人事部に申告して欠員補充が決まってからがルールでしょ。それまでは待ってもらうから」
「わかってるよ。じゃあ交渉成立ってことで、さっそく美波ちゃんに宿題ね」
「宿題?」
「デザイン部に来るまでに、ピアスでもネックレスでもなんでもいいから、とりあえず最低十個はデザイン考えておくこと」
「最低十個……?」
「できないの? 百万歩くらい譲って言ってんだけど」

 涙がぴたりと止まった。
 ぎょっとしているあたしと、横暴極まりない台詞とは裏腹にそれはそれは楽しそうににこにこしている浜辺さんと、

「あんたいい加減にしろっつってんだよ!」

 いよいよキレた秋山さん。

「どんだけ傲慢なの? ていうか何様なの? あんたはいっつもそう! このクソ忙しいのに雑用ばっかり押し付けて、総務部のことなんだと思ってるの? 家事だってそう! 俺は仕事あるからとか言い訳ばっかりして私にばっかりやらせて、食べ終わった食器下げようとすらしないんだから! 私だって仕事あるのに!」

 ん?

「ご、傲慢ではなくない? 食器もちゃんと下げてるし……」
「たまに気が向いたときだけでしょ! それに食器を下げたらせめて水に浸けろ! ついでに! テーブルを! 拭け!!」
「ご、ごめんってほんとに……いや、ちょっと待って! 今その話は関係ないだろ!」

 あたしもちょっと待ってほしい。
 なにこのやり取り。家事って? 食器って? テーブルって?

「あの……もしかして、一緒に住んでるんですか?」

 きょとんとしながら言うと、言い合いをしていたふたりもあたしを見てきょとんとした。

「それはまあ、夫婦だしね」
「フウフ……?」
「あれ? もしかして美波ちゃん知らなかった? 私と航大、去年結婚したの」
「へ……?」

 肩の力が一気に抜けていく。今日は放心してしまうことばっかりだ。
 結婚しているなら、あたしが夜遅くまで残業していたことを浜辺さんが知っていたのも納得がいく。秋山さんも一緒に残業していたから、秋山さんから聞いていたのだろう。それに冷静に考えれば、秋山さんの言動はとても片想いの相手に対するものではなかったかもしれない。

 勝手に早とちりして無駄に警戒して馬鹿みたい。だけど浜辺さんの絡み方も秋山さんの言い方も、勘違いしてしまうのは仕方ない気もする。
 浜辺さんはあたしの方を向いて、

「まあとにかく、よろしくね美波ちゃん。先に言っとくけど、若い女の子だからって甘やかすつもりないから覚悟しといてね。あと異動してきたら二度と俺の前で泣くな。会社で泣く奴好きじゃない」

 あれだけ秋山さんに怒られたのに全然反省していない。
 助けを求めて秋山さんを見れば、両手で顔を覆い、崩れるように項垂れている。怒りを通り越して呆れているようだ。

「さっきのは、その、嬉し涙で……」
「は? あかりにちょっと褒められたくらいで泣いちゃうの? 自分の案が通ったわけでもないのに? 十年はえーよ」

 再び秋山さんを見れば、今度はまるで精神統一でもするみたいに目を閉じていた。呆れさえも通り越して無の境地に達しているらしい。

「デザインもね。最低十個は冗談だとして、何個でもいいから異動してくるまでに考えといて。残業して帰ったあとに彼氏の飯作れるくらいだし、できるよな?」

 挑発的ににやりと笑った浜辺さんに、あたしもとうとうカチンときた。
 なにこの人。むっかつく。秋山さんには悪いけど、すんっっっごいむかつく。

 これから先、このイケメンの仮面を被った鬼のもとで生きていられるだろうか?
 少し怖いし憂鬱だ。だけど、それ以上にわくわくしていた。
 こんなの初めてだった。

「もう泣きません。絶対に泣きません。デザインだって何個でも考えてやりますよ!」
「強気じゃん。なんかそっちの方が美波ちゃんらしい感じするな」

 浜辺さんは、勝ち誇ったように笑った。