家に帰ると、お風呂上がりらしい飛鷹は部屋着でテレビを観ていた。テーブルには缶ビールが三本とスナック菓子がある。
 時刻はすでに二十三時近い。キッチンにもテーブルにも、夕飯の準備をしてくれた形跡は皆無。そんなことわかっていたはずなのにため息をつきたくなるのは、月末恒例の激務で疲れきっているからだろう。

「なんで連絡シカトしてんだよ」

 あたしに気付いた飛鷹がドスの利いた声で言った。
 そういえば飛鷹からメッセージと鬼電が来ていたなと思い出し、べつに殴られるわけでもないのに反射的に体が硬直した。

「ごめん。残業中ずっとバタバタしてて……」
「また残業? メッセージ返すくらいできんだろ」
「ごめん、スマホ見てなかった。すぐご飯作るね」

 バッグを置いて、気持ちを奮い立たせてキッチンに立つ。
 飛鷹はどんなに早く帰ろうが休日だろうが、ご飯を作ってくれたことは一度もない。昭和からタイムスリップでもしてきたの?ってくらい時代錯誤な亭主関白で、家事は女がやるものだと信じて疑わないみたいだった。

 添加物がなんちゃらだとか文句を垂れて、コンビニ弁当やお惣菜はおろかテイクアウトすら嫌う。スナック菓子はOKらしいから余計に意味がわからない。だからどんなに疲れていようが、こうしてあたしが作るしかない。

 付き合って半年、同棲して四か月。
 まだまだラブラブでもおかしくないはずなのに、なんだかもう熟年夫婦みたい。もちろん悪い意味で。
 お米は出勤前にセットしておいたから炊けている。あとはお味噌汁と、適当にお肉でも焼いて済ませちゃいたいけど、飛鷹は一汁三菜がポリシーだから(作れないくせに)副菜も……。

 あれ。あたしまだ十九歳なのに、なんでこんな所帯じみちゃってるんだろう。
 今にも倒れそうなくらいふらふらなのに、なんで家に帰ってきてまでひと息つく暇もないんだろう。

「──たっ」

 ぼうっとしていたせいで手元が狂い、包丁で指を切ってしまった。
 線からじわじわと血が滲み、丸みを帯びたそれが皮膚の上をつうっと垂れていく。買ったばかりの包丁は切れ味抜群で、かすったくらいだと思ったのに傷口がけっこう深かった。洗ったばかりの人参が、どんどん赤くなっていく。

「飛鷹、ごめん、絆創膏持ってきてくれない?」
「は? なんで? 自分で取ればいいだろ」
「包丁で指切っちゃって、血が止まらないの。そこの引き出しに入ってるから……」
「はあ? あーもうなにやってんだよ。ほんとドジだな」

 ソファーから立ち上がった飛鷹は、引き出しから絆創膏を一枚だけ取ってくれた。だけどサイズが小さすぎて、これじゃ傷口を塞ぎきれない。こんな大きさじゃ全然足りない。
 傷口が、痛い。



 結局、自分で大きめの絆創膏を取りに行く羽目になった。さすがにご飯を作ることができず、飛鷹は不機嫌丸出しでデリバリーを頼んだ。
 空になったプラスチック容器を片付けていると、四本目のビールを空けた飛鷹が不機嫌なまま言った。

「おまえさあ。残業なんとかなんねえの?」
「ごめん、月末はどうしても忙しくて。それに、先輩たちも上司も残業してるのにあたしだけ……」
「忙しいから残業、ってさ」

 声のトーンなのか、口調なのか、表情なのか。
 わからないけど、ああまた始まる、ということだけは察知できた。

「仕事できねえ奴の言い訳だろ。たまにならまだわかるけど、こんな毎日何時間もってありえねえ。まあ、あの程度の会社じゃ社員のレベル低いのもしょうがねえけど」

 そんなことない。
 雪崩みたいに降りかかってくる仕事量は、とても就業時間内にはさばききれない。
 それでもみんな毎日必死にこなしている。あたしだって、必死に頑張っている。

「……うん。ごめん」

 傷口が、じくじくと疼いて、痛い。
 ふと視線を落とすと、止まったはずの血がパッドに滲んでいた。