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せっかくの日曜日だというのに、今日も目の前で男の人が怒り狂っていた。もちろん矛先はあたしだ。
「おまえまじでなに考えてんだよ!?」
怒り狂っている男の人こと飛鷹は、半年前から付き合っている彼氏。高三の冬に友達の紹介で知り合い、トントン拍子で付き合い始めた。
飛鷹は五歳年上で、出会ったときすでに大学を卒業して働いていた。年上、社会人、ひとり暮らし、車持ち。女子高生が憧れる要素を見事に持ち合わせていたのだ。
さらに出かけるときは新車のレクサスで送迎してくれて、学生が気軽に行けないような場所に連れていってくれて、外食をすれば奢ってくれて、経験したことのないキラキラした世界を見せてくれた。あたしが我儘を言っても笑いながら受け止めてくれる、同世代とは違う大人の余裕も持っていた。
恋愛で痛い目ばかり見てきたあたしにとって、飛鷹みたいな大人の男性は輝いて見えた。
そして高校卒業後すぐに、飛鷹が住んでいたこの『ルミエール小桜』五〇三号室にあたしが転がり込む形で同棲が始まった。
すると飛鷹は、人格が入れ変わったみたいに豹変したのだ。
「聞いてんのかよ!? なんとか言えよ!」
同棲してからたったの四か月で、顔を真っ赤に染め上げている姿を何度見てきただろう。いつだって些細なことで怒りを買い、数時間にわたってひたすら説教という名の暴言を浴びせられる。
といっても、もちろん四六時中怒っているわけじゃない。機嫌がいいときは付き合いたての頃みたいに優しい言葉をかけてくれることもある。ただちょっと怒りの沸点が低いだけ。
今日のきっかけはなんだったっけ。もはや心当たりがありすぎてわからない。
「まさか俺に隠れてこいつと会ってんじゃねえだろうな」
ああ、そうだ。
ふたりでテレビを観ていたときに男友達から電話が来て、スマホをテーブルの上に置いていたせいで飛鷹に見られてしまったのだ。だけどただの男友達だし、会うどころか連絡が来たのも高校卒業以来。ただ久しぶりにみんなで集まろう的な用件だろう。
なんて言い訳が通用する人じゃないことは、この四か月間で痛いほどわかっていた。
ほんの数時間前に片付けたはずの灰皿は吸殻でいっぱいになっていて、飛鷹の怒りゲージみたいだった。
「馬鹿も大概にしろよ。俺がどんだけ我慢してやってるかわかんねえの?」
おまえは馬鹿だから。おまえは俺がいなきゃなにもできない。
それが飛鷹の口癖だった。
飛鷹の言う通り、あたしは馬鹿なのだろう。言いたいことはたくさんあるはずなのに、頭がぐちゃぐちゃで言葉が出てこないのだから。
「……ごめん」
「本気で反省してんのかよ!? 謝っとけば済むと思ってんだろ! そんなんだからおまえはいつまで経ってもクズなんだよ」
飛鷹はそこそこ器用な人。そこそこ裕福な家に生まれ育ち、そこそこ顔もよく、そこそこ運動も勉強もできて、そこそこ友達もいる。そこそこいい大学を出てそこそこ大企業に就職し、花形である営業職に就いてそこそこの成績をキープしている。
つまり全てにおいてせいぜい中の上程度なのだけど、よほど順風満帆な人生だったのだろう。やたらと根拠のない自信に満ち溢れていて無駄にプライドが高く、こうして人を見下す癖がある人だった。
大学卒業と同時に契約したというこの部屋は、単身なのに最上階の2LDK。初めて来たときは広い家に住んでいてすごいと純粋に憧れたけど、今となっては見栄の象徴に思える。車だってそうだ。
反してあたしは、高校最後の夏休みに補習を受けなければ卒業すら危ういくらいの知能で、もちろん大学に進学なんてできるはずもなく、高卒で中小企業に就職し、誰でもできるような雑務をこなしながら分相応の給料をもらっている、中の下程度の人間。
そう、あたしにはなにもない。だから飛鷹にとって、見下すにはちょうどいい格好の餌食だったのだろうと今は思う。
いつから自分のことをそんな風に思うようになったんだろう?
もともと、自分に自信がある方だった。三人きょうだいの末っ子として生まれ、優しい両親ときょうだいに囲まれてなに不自由なく暮らしてきた。上のふたりとは年が離れているから余計に甘やかされたのだろう。
学校生活だって、特に大きな問題もなく過ごしてきた。勉強もスポーツも人間関係も人並みにはこなせたし、気が強い性格も相まって常にカースト上位のグループだった。
だけどその分、努力や挫折というものを一切知らなかったあたしは落ちるのも早かった。
中学二年生頃から勉強についていけなくなり、あっという間にテストの順位は下から数えた方が早くなった。優しい両親からもさすがに厳しく注意を受けるようになり、その現実から逃げるように恋愛にのめり込んだ。彼氏という存在は無条件に味方をしてくれて無責任に甘やかしてくれるから、心地よかったのだと思う。
男運は最悪だったけど。みんなあたしの外見だけが目当てなのだ。
だけど、と思う。外見やスペックだけで選んでいたのはあたしも同じだったのかもしれない。
と、出会ってからのことを思い出していたら、あたしと飛鷹は似た者同士だったんだと思った。ある意味お似合いなのだろう。
「だから、俺はおまえのために言ってんだよ」
「うん。ごめん」
「おまえは結局、俺がいなきゃなんにもできねえんだから」
「……うん」
同棲を始めて飛鷹が豹変したときは、驚いたし戸惑ったし少し怖かったし、突き刺すような言葉にいちいち傷ついた。
なのに、慣れって怖い。たったの四か月で、なにを言われても傷つくことはなくなっているのだから。
最初の一か月くらいは言い返していたけど、飛鷹はさらにヒートアップしてしまう。別れたいと言ったこともあったけど、飛鷹は途端に優しくなる。その姿を見ていると、まあいいか、と思ってしまうのだった。そんなことを繰り返しているうちに、言い返す気力すらねこそぎ奪われてしまった。
しょっちゅう怒っていて疲れないんだろうか? 毎回同じようなことを言って飽きないんだろうか? 何時間も喋り続けて疲れないんだろうか?
ただ、そんなことをぼんやり思うだけ。
自分の可能性を信じていた、自分が輝いている気になっていたあの頃。これからだってどこでも輝いていられると信じて疑わなかった。
当時のあたしが今のあたしを見たら、きっと軽蔑するだろう。
こんなの、まるで籠の鳥だ。
「あとこの前も──」
まだ続くらしい。明日は仕事だし、早くシャワーを浴びて眠りたいのに。
流れるように説教を続ける飛鷹を、ただぼうっと見ていた。