スマホを見ると、ヒロからの着信がひっきりなしに来ていた。履歴をタップしようとしたとき、ちょうど画面にヒロからの着信が表示された。
ごくりと喉を鳴らして、胸に手を当てる。
「……もしもし」
『もしもし、夏帆? なんで無視するんだよ。どんだけ心配したと思ってんの?』
「……ごめん」
『無事ならよかったよ。ほっとした』
本当に心配そうな声に、ひどく胸が痛む。また決意が揺らいでしまいそうで、凪紗に顔を向けた。
眉を下げて私を見つめる。声が聞こえなくても、頑張れ、と言ってくれていることが伝わる。
頷いて、再び前を向いて、ぎゅっと目を瞑った。
『今どこ?』
「内緒」
『なんだよそれ。家にいる? 俺今から行くから、ちゃんと話──』
「別れよう、ヒロ」
音が途切れる。顔を真っ青にして絶句しているヒロが、瞼の裏にはっきりと浮かんだ。
それを振り払うように閉じていた目を開けて、遠い月を見つめる。
『……だから、なんでだよ。ちゃんと会って話そうって』
「会いたくないの」
三年も付き合ったのに電話一本で終わらせるなんて、非情なのかもしれない。だけど会いたくないのが本心だった。顔を見たら、また流されてしまいそうで怖かった。
ヒロに面と向かって別れを言えるほど、必死に引き留めてくるだろうヒロを振り切れるほど、私は強くない。
『嫌だ。嫌だよ。絶対別れたくない。俺には夏帆しかいないって、夏帆じゃなきゃだめなんだって、何回も言ってるだろ……』
「じゃあなんで約束守ってくれなかったの? 私に嘘ばっかりついて裏切ってたくせに。私、ずっと気付いてたんだよ」
『ごめん、本当にごめん。俺、夏帆はなにしても離れていかないって思ってた。なんにもわかってなかった。もう絶対に夏帆を裏切ったりしないから、別れるなんて言うなよ──』
ヒロが泣いていると気付いた瞬間、こらえていた涙が溢れた。
私は弱い。いとも簡単に心が揺れる。決意が薄れかける。
私の迷いを察したように、凪紗が私の手をぎゅっと握った。
『付き合ってからずっと楽しかったじゃん。俺ら、ずっとずっと幸せだったじゃん』
──おっけー、カホな。
──同じ誕生日の奴、初めて会ったかも。なんか嬉しいなー。
目の前に広がっている巨大な海のスクリーンに、ヒロと出会った日のシーンが浮かんだ。
次いで、一緒に過ごしてきた日々の映像が流れていく。
──夏帆は夏帆じゃん。
──夏帆はいい奴。すっげえいい奴。俺、夏帆といたら楽しいし落ち着くよ。
──俺と付き合ってほしい。
──俺は夏帆が好きだ。
──俺が好きなのは夏帆だけだし、これからも夏帆しか好きになんないから。
──高校卒業したらさ。こういうお洒落な感じのマンション探して、一緒に住もうよ。
──俺、夏帆に出会ってから人生変わった。ずっと一緒にいような。
覚えている。全部全部、覚えている。
あの頃は、ヒロが隣にいるだけで目に見える景色が全部綺麗だった。あの頃の私たちはきっと輝いていた。思い描く未来は幸せで溢れていた。それは間違いなくヒロと出会えたおかげだった。
「……責めたりしてごめん。私も、悪いところたくさんあった」
ヒロを失うのが怖くて、思い出が消えてしまうのが怖くて、自分の気持ちなんてなにも言えなかった。ヒロと向き合おうとしていなかった。ヒロを受け入れているふりをしながら、心の中ではずっとヒロのことを責めていた。
凪紗の気持ちが、痛いほどわかる。
つらい。苦しい。別れたくない。出会った頃のふたりに戻れるのなら戻りたい。一からやり直せるのならやり直したい。できることなら、これからもずっと一緒にいたい。
「でもね、ヒロ。……私は」
もう一度、凪紗の手に力がこもる。私もぎゅっと握り返した。
「幸せじゃなかったよ」
もう、戻れない。
あの頃の私たちは、もうどこにもいない。
全部、過去だ。
ヒロとの思い出をはっきりと覚えている。だけどそれは、ただ〝出来事〟として記憶にあるだけ。映画やドラマのように、ただ映像が流れているだけ。あの頃の幸せな気持ちはもう思い出せない。
今はもう、目の前に広がる景色も、思い描く未来も、全てがくすんでいる。かろうじて綺麗に見えていたのは、輝きを放つ過去の記憶が今の現実を照らしていただけだ。
あまりにも眩しくて、ゆっくりと、着実に散っていく現実を直視できなかった。
「もうずっと前から、幸せなんかじゃなかった」
楽しかったね。幸せだったね。今でも大好きだよ。本当は別れたくないよ。
そうでも言えば、せめて綺麗に終わらせることができるのかもしれない。笑って、お互いの幸せを願うようなさよならができるのかもしれない。
だけど、そうしたくなかった。
過去を美化して、綺麗に終わらせてしまえば、苦しかったことも泣いたことも、なかったことになってしまうような気がした。なにがあっても幸せだったなんて、私は思えなかった。
どこまでが本当だったんだろう。
いつまで心から幸せを感じていたんだろう。いつまで心からヒロを信じていたんだろう。いつまで心からヒロとの未来が見えていたんだろう。いつまで、意地なんかじゃなく心からヒロのことが好きだったんだろう。
もうわからない。わからなくなってしまうくらい、私はずっと自分の心を騙していた。
「別れよう。……ばいばい、ヒロ」
だけど、この涙だけは、きっと嘘じゃない。