けっこう大恋愛だと思っていた。
 この人しかいないと、運命の相手に巡り会えたのだと本気で思っていた。
 幸せでいっぱいの恋になると信じていた。
 なのに、いつからこうなっちゃったんだろう。



 今から三年前、忘れもしない八月一日。私は彼に出会った。

 中三の夏休み。仮にも受験生だというのに、私はろくに勉強もせず同じ中学の友達と遊んでばかりいた。今日は小学校からの親友である凪紗(なぎさ)に誘われて、海で花火をする予定だった。

「おーい! こっちこっち!」

 自転車を降りて海岸へ向かうと、(みなと)くんが大きく手を振った。他に男の子が五人いる。私たちは四人だから、ちょうど十人だ。
 湊くんは凪紗の彼氏。私たち三人は小学校が同じで、卒業式の日に湊くんが凪紗に告白をして付き合い始めた。中学は離れてしまったけれど、ずっと変わらずに仲よしだ。初恋すら未経験の私とは大違い。

 挨拶と自己紹介もそこそこに、みんな「花火だー!」と叫びながら、雑然と並べられている大量の手持ち花火に手を伸ばしていく。みんなの後ろで選び終わるのを待っていると、

「やらないの?」

 視界の端に誰かの足が映り込んだ。目線を上げて相手を確認する。
 チビの私よりも十センチくらい背が高い彼は、首を傾げて私の顔を覗き込んだ。
 間違いなく初対面ではあるものの、彼のことは知っていた。

「ヒロくん、だよね?」
「え? なんで俺の名前知ってんの?」
「だって有名人だし」
「まじか。照れるな」

 全然照れていない彼を見て、こんな風に、初対面の相手にも名前を知られているのは慣れているのだろうと思った。お世辞にも広いと言えないこの田舎町では、たとえべつの学校だろうと目立っている人の顔や名前はなんとなく把握している。

 ヒロくんは、イケメンで有名だった。間近で見たのは初めてだけれど、確かに噂通りのイケメンだし、笑った顔が人懐っこくて可愛い。

「ヒロでいいよ。てか名前は?」
夏帆(かほ)。私も呼び捨てでいいよ」
「おっけー、カホな」

 ヒロくん改めヒロは、花火を持つことなく砂浜に座った。なぜか私もつられて隣にしゃがむ。

「カホってどういう字?」

 人差し指で砂浜に〝夏帆〟と書く。すっかり日が暮れているのに、砂にはまだじんわりと熱が残っていた。

「夏生まれだ」
「うん。そのまんまだよね」
「いいじゃん。可愛い名前。それに俺もそのまんまだよ」

 言いながら、ヒロも人差し指で砂浜に〝夏洋(なつひろ)〟と書いた。
 ふたりの名前が砂浜に刻まれた。

「なつ……ひろ?」
「そう」
「夏生まれだ」
「そう。一緒だな」
「誕生日いつ?」
「今日」
「えっ? 私もだよ! 八月一日!」
「まじか! 同じ誕生日の奴、初めて会ったかも。なんか嬉しいなー」

 屈託のない笑顔は素直に可愛いし、なにより話しやすい人だ。こりゃモテるだろう。私自身、今かなりドキッとした。いや、話しかけられた瞬間からずっとドキドキしている。

 それからヒロは、自分のことを話してくれた。
 湊くんとは中学に入ってすぐ意気投合し、毎日のように遊んでいること。勉強は嫌いだけど、学校は好きだからサボらずに通っていること。運動は大好きだけど、遊んでいる方が楽しいから部活には入っていなかったこと。

「俺らやばくね? 中三の夏休みに海で花火って。みんな今頃死に物狂いで勉強してるんだろうなー」
「私も思ってた。高校どこ行くの?」
下沢高(しもざわこう)
「あ、同じだ。凪紗と湊くんもだよね」
「夏帆はなにコース?」
「普通コース行くつもり。ヒロは?」
「専門コース」
「もしかして、普通コースより通常授業少ないから?」
「ばれたか」

 名前が似ていて、誕生日が同じ。たったそれだけなのに、勝手に運命を感じてしまう。ヒロと出会えた今日は、私にとって大切な日になった。
 砂浜に書いたふたりの名前は、帰る頃には波に呑まれてまっさらになっていた。



 それから私たちは、中学最後の夏休みを満喫するべく遊び呆けた。
 ヒロは帰る時間が遅くなると、遠回りになっても私を家まで送り届けてくれた。

 等間隔に並んでいる外灯に照らされた、なにもない田舎道をただ並んで歩いた日。自転車でふたり乗りをした日。ひとつの傘にふたりで入った日。ヒロの右肩がびしょ濡れになっているのを見たときには、もうどうしようもないくらい好きになっていた。

 学校が違う私たちは、夏休みが終わると今みたいに会えなくなってしまう。
 勇気を振り絞って告白しようか悩んでいた矢先、

「夏帆、ヒロくんのこと好きになったの?」

 凪紗とふたりきりで遊んでいたとき、凪紗が窺うように切り出した。
 うん、と即答できなかったのは、凪紗の表情が険しかったからだ。
 もしかして、応援してもらえないのだろうか。

「ごめん。こういうこと言いたくないんだけど。ヒロくんは……あんまりおすすめしない」

 ショックを受けて黙りこくっている私に、凪紗は続けた。

「ヒロくん、彼女いるよ」

 心臓が握り潰されたみたいに痛くなって、頭をぶん殴られたみたいに視界が揺れた。
 放心状態になってしまった私は、そっか、としか返せなかった。

 ──ヒロくんは……あんまりおすすめしない。

 このとき凪紗が言った言葉の本当の意味を、私はずっとあとになって知ることになる。


 ヒロに彼女がいることを知っても、私は諦められなかった。遊びの誘いを断ることも、当然のように私を家まで送ると言うヒロを拒むこともできない。心配そうに私たちを見つめる凪紗から目を逸らすことしかできなかった。

 夏休みも終盤となった頃、湊くんの家で遊んでいた帰り道。少し海に寄っていこうとヒロに言われた。

「夏帆、ほら」

 ひょいっと堤防にのぼったヒロは、私に向けて右手を伸ばした。
 すぐにその手を握ることができなかった。だって、ヒロには彼女がいる。だけど堤防は私の肩くらいの高さだから、ヒロみたいに簡単にのぼれない。

「ほら、早く」
「……ありがと」

 戸惑いながら手を重ねると、ヒロはぎゅっと握った。お腹の奥の方が震えるような、暑いのに寒いような、熱いのに冷たいような、よくわからない感覚が全身を取り巻く。

 堤防にのぼってからも、ヒロは私の手を離さなかった。私もなにも言わなかった。ヒロと出会った海を見つめながら、いっそこのままずっと離さないでほしい、手を繋ぐことがふたりの間で当たり前になってほしいと思った。

「夏帆、なんかあった?」
「え? なんで?」
「今日ちょっと元気なかったから。それに、いつもはもっと早めに帰るのに全然帰ろうとしないし」

 だからこうして寄り道してくれたのだろうか。
 ヒロの笑顔を見ているだけで、ささくれ立った心が凪いでいく。
 じわ、と滲んだ涙をこらえて、実はね、と切り出した。

「今朝……お姉ちゃんと喧嘩しちゃって。お姉ちゃん、私と違ってすごく頭がいいんだ。高校も有名な進学校だし。だからいつも見下されて、馬鹿にされて、くどくど嫌みばっかり言われて。いつも適当に流したり無視したりしてたんだけど、今日はなんか、虫の居所が悪いっていうの? すっごいイラッとしちゃって、それでなんかもう、めんどくさくなって、家に帰りたくないなーとか思っちゃって」

 静かすぎる夜の海は、私のどす黒い感情に拍車をかけた。その感情と静けさに煽られるように、ぺらぺらと喋った。
 ヒロは黙ったまま。こんな愚痴を吐いたりして、引かれてしまったかもしれない。

「あ……暗い話してごめん」
「めんどくさくなったんじゃなくて、家に帰りたくなくなるくらい傷ついたんじゃないの?」
「え?」
「適当に流したり無視したりしてたのは、まともに聞いてたらきつすぎて耐えられなかったからだろ。今日だって、虫の居所が悪かったんじゃなくて我慢の限界だったんじゃないの? つーかそれ、姉ちゃんひどくね? 夏帆は夏帆じゃん。成績は知らないけど、下沢の普通コース入れるなら全然いいと思う。俺なんか専門コースすら入れるか微妙だし」

 ぽかんとヒロを見上げていると、ヒロは冗談めかしてにっと笑った。
 笑わない私を見て今度は困ったように頭をかき、声のトーンを下げた。

「勉強できるとかできないとかどうでもいいじゃん。夏帆は明るいし優しいしちゃんと周り見てるし、友達だっていっぱいいるし、勉強できるよりそっちの方がよっぽどすげえと思うけどなあ」
「それはヒロでしょ?」
「夏帆だよ。夏帆はいい奴。すっげえいい奴。俺、夏帆といたら楽しいし落ち着くよ」

 ヒロは満面の笑みで私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 その瞬間、涙腺が破裂したみたいに、ずっとずっとこらえていた涙が溢れた。
 子供みたいにむせび泣く私を、しょうがねえなあ、と言いながらぎゅっと抱きしめてくれた。

 ──夏帆は夏帆じゃん。
 そうか。私はずっと誰かにそう言ってほしくて、こうして抱きしめてほしかったんだ。


 どれくらい泣いていただろう。ずっとヒロの胸に顔を埋めていた私は、もう大丈夫、と呟いてそっと離れる。頬に残っている涙を拭い、乱れていた呼吸を整えてヒロを見上げた。
 ヒロは真剣な表情で私を見ていた。

「俺と付き合ってほしい」

 唐突に言ったヒロは、いつもみたいに笑っていなかった。
 一瞬頭が真っ白になって、え、とかすれた声が漏れた。

「なんで……だってヒロ、彼女いるんでしょ?」

 混乱しながら絞り出すように言うと、ヒロは目を丸くして、「知ってたんだ」とばつが悪そうに頭をかいた。

「言ってなくてごめん。けど隠してたわけじゃなくて……もともとうまくいってなかったし、もう別れたんだ。夏帆のこと好きになっちゃったから」

 ヒロは真っ直ぐに私の目を見て言った。

「俺は夏帆が好きだ」

 夢みたいな告白を頭の中で反芻していると、落ち着いていた涙がまたぽろぽろとこぼれた。嬉しいって、私もだよって言いたいのに、止まらない涙のせいで言葉が出てこない。

 ヒロは泣き続ける私をぎゅっと抱きしめた。顔を上げれば、ヒロは優しく微笑んでいた。
 そっと目を閉じたとき、凪紗の表情が、言葉が、脳裏を巡った。

 ──ヒロくんは……あんまりおすすめしない。
 凪紗、ごめん。私、やっぱりだめだ。
 忠告をされたときには、もう完全に手遅れだった。

 一度だけじゃなく、何度も何度もキスをした。立ち上がったヒロは、私の手を引いて歩きだした。連れていかれたのは、湊くんの家ではなくヒロの家。階段を駆け上がり、一番奥の部屋に入る。ドアを閉めると、電気もつけずベッドに押し倒された。

 泣きすぎて頭痛がする。急展開すぎて混乱する。湧き上がるヒロへの想いに眩暈がする。
 朦朧とする意識の中で、お邪魔しますって言えなかったけど大丈夫かな、なんて、あまりにも場違いなことをぼんやりと思った。

 初めてだった。ちょっと怖かったし痛かったけれど受け入れた。
 その日、私はヒロの彼女になった。

 もし名前に共通点がなくても、誕生日が全然違う日だったとしても、私はきっとヒロを好きになっていただろうなと思う。
 ヒロが隣にいるだけで、目に見える景色が全部綺麗だった。




 受験を終え、私たち四人は無事同じ高校に進学できた。といっても私と凪紗は普通コースで、ヒロと湊くんは専門コース。同じクラスになることは絶対にない。だけど、生徒数が多いわけでも校舎が分かれているわけでもないから、たまに見かけることはある。

「いいの? あれ」

 高校生になって初めての夏。昼休みの食堂で、凪紗が眉をひそめて指さしたのは、ヒロが女の子と話している姿。
 学校生活を間近で見るようになると、ヒロの人気者ぶりは私の想像以上だった。いつも大勢の友達に囲まれていて、この三か月間ひとりでいるところなんて見たことがない。話しかけるタイミングを見計らうだけでひと苦労だ。

 人気者の彼氏、という点だけなら誇らしいのだけれど。
 気がかりなのは、その輪に女の子もいること。話している、という範疇に収まらないくらい仲がよさそうに、それはそれは仲がよさそうにべたべたくっついている。

「夏帆の分も買っとくから行ってきなよ。A定食でいい?」
「……うん。ごめん、ちょっと行ってくる」

 凪紗に背中を押されて、そろそろと歩いていく。

「ヒロ」

 みんなの視線が私に集中する。入り混じる香水の匂いに頭がくらくらした。
 ヒロの友達は派手な人が多いからちょっと怖い。せめて湊くんもいればまだ気が楽なのに、今日は一緒じゃないみたいだ。

「ちょっと来て」

 ヒロの腕を掴んで、返事を待たずに輪から抜けて、食堂の隅っこに移動した。

「またあの子と一緒だったね。美波(みなみ)ちゃんだっけ」

 美波ちゃんはヒロのグループで、明るい髪色のショートカットがよく似合う綺麗な女の子。入学当初からふたりはやけに仲がいい。席が隣で話すようになったとは聞いていた。
 一度は納得したものの、あのいちゃつき方はどう考えても〝席が隣のクラスメイト〟のレベルじゃない。

「席替えでまた隣になってさ」
「でも、その、仲よくしすぎじゃないかな、って」

 ヒロはきょとん顔で首を傾げた。

「もしかして妬いてんの?」
「そりゃあ……妬くでしょ」

 素直に認めると、ヒロはついに「ぶ!」と噴き出して、公衆の面前なのもお構いなしに私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「可愛いなあ夏帆は。心配する必要ないって。俺が好きなのは夏帆だけだし、これからも夏帆しか好きになんないから」

 そういう問題ではないのだけれど、私はこの笑顔と仕草と言葉……つまり、ヒロの全部にとことん弱い。
 完敗した私は、釈然としないまま凪紗のもとへ戻った。
 ちょうど席に着いたばかりらしい凪紗の隣に座り、はあーと盛大なため息をつく。

「喧嘩にでもなった?」
「喧嘩はしてないけど……友達と話してるだけで妬くなんて、私の心が狭すぎるのかもとか思えてきちゃって」

 ヒロはびっくりするくらい優しくて一途に想ってくれていて、私たちの付き合いは順調そのものだった。
 なのに、些細なことでめちゃくちゃ不安になってしまう。付き合うって難しい。

「あれ、言ってなかったっけ? 美波ちゃんってヒロくんの元カノだよ? 中学のとき何回か会ったことある」
「は?」

 危うくテーブルをひっくり返すところだった。なにが『席が隣で話すようになった』だ。
 私、嘘つかれたってこと?



 放課後、ヒロを問い詰めるよりも先に廊下で美波ちゃんと鉢合わせた。
 いつも遠目に見ているだけだったけれど、近くで見ると本当に美人だ。それに背が高くてスタイルもいいから、同じ制服を着ているはずなのに不思議とお洒落に見える。およそ欠点というものが見つからない。
 ヒロ、こんなハイレベルな子と付き合ってたんだ……。
 私の視線を感じたのか、スマホをいじりながら歩いていた美波ちゃんは顔を上げて立ち止まった。

「ヒロの彼女だよね?」

 まさか話しかけられると思わなかった。
 美人の真顔は迫力がすさまじく、つい気圧されてしまう。思わず後退しそうになった足にぐっと力を入れて、なんとか持ちこたえた。

「……そうだけど」
「ずっと言いたかったんだけど。睨んでくるのやめてもらえる?」

 睨んでなんかいない。ていうか、なんでそんな言い方されなきゃいけないの?
 さすがにカチンときた。正直かなり怖いけれど、そっちがそうくるなら私にだって言いたいことはある。
 ごくりと喉を鳴らして、

「ヒロと付き合ってたんだよね?」
「そうだよ?」

 あまりにもけろっと言うから唖然としてしまう。
 気を取り直して、背が高い美波ちゃんに負けじと背筋を伸ばした。

「あの……もうヒロと関わらないでほしいの」
「え、普通に無理でしょ。同じクラスで隣の席なんだけど」
「そうじゃなくて……。あんまり、その、くっついたりしないでほしいの」

 美波ちゃんが表情を歪めた。声に出さなくても『うっざ』と思われていることが丸わかりなくらい思いきり。話しかけてきたのは美波ちゃんなのに。

「あたしに言ったところで意味ないよ。ヒロってそういう男だから」
「……どういう意味?」
「そのうちわかるんじゃないの。とにかく、あたしとヒロがより戻すことは百パーないから。悪いけどもう睨んでこないで」

 意味がわからなくて、すたすたと去っていく美波ちゃんの後ろ姿を呆然と見送ることしかできなかった。


「わり、俺ちょっと抜ける。友達から連絡来た」

 夏休みに入ってすぐ、湊くんの家に集合していたときにヒロが言った。
 美波ちゃんとの一件のせいかわからないけれど、少し嫌な予感がした。

「友達って、誰?」
「夏帆の知らない子だよ」

 ヒロの男友達なら、私もうほとんど知ってると思うんだけど。高校の友達だって顔と名前は把握している。それに、男友達に子って使わない気がする。
 不安を肯定するように、女の子といちゃついているヒロの姿が脳裏に浮かんだ。

「すぐ戻るから」

 そう言って出ていったヒロは、二時間が過ぎても戻らなかった。外はどんどん暗くなって、先に女の子たちが帰り、しばらくすると男の子たちも帰っていった。残っているのは湊くんと凪紗と私だけ。完全にお邪魔虫だ。

「ごめん、もう帰るね」
「いいよ。ヒロくんが戻ってくるまでいなよ」

 立ち上がろうとした私の手を凪紗が掴んだ。その瞳には、心配と苛立ちが混ざり合ったような複雑な色が滲んでいた。
 たぶん、凪紗はあまりヒロをよく思っていない。凪紗の口から直接聞いたわけじゃないけれど、日頃の態度からなんとなく察していた。私がヒロと付き合う前の『あんまりおすすめしない』という忠告も、ヒロが嫌いだから応援できないという意味だったのかもしれない。

「あのさ。ヒロって困ってる奴ほっとけないじゃん」

 湊くんの言う通り、ヒロはそういうところがある。
 今思えば初めて会った日も、後ろに立っていた私が輪から外れているように見えてほっとけなかったのかもしれない。

「ほら、ヒロってリーダー気質だし、頼られるのが好きっていうか。そういうのも夏帆ちゃんならわかってくれるって信じてるんだと思う。そもそも喧嘩ってさ、お互い思ってること言い合える仲じゃなきゃできないわけだし、それって信頼し合ってる証拠じゃん? 俺と凪紗もしょっちゅう喧嘩するし。……って、凪紗から聞いてるだろうけど」
「湊がくだらないことですぐキレるからでしょ」

 凪紗がさくっと言う。湊くんはばつが悪そうに苦笑いして、

「いや、まあ、喧嘩して仲直りして絆が深まっていくもんじゃん。いつかさ、あんなこともあったよなーとかって笑い話になるよ」
「手遅れになるかもしれないけどね」
「凪紗……まじで辛辣……」

 夫婦漫才みたいなやりとりを聞いていると、自然と笑みがこぼれる。付き合いが長いから息がぴったりだ。
 べつに喧嘩をしたわけではないけれど、必死にフォローしてくれた湊くんの気持ちは素直に嬉しかった。



 数日後、私たちは隣市の市街地でデートをしていた。

「ねえ、見て見て。綺麗なマンション」

 昼食を食べ終えて散歩をしていたとき、毎年六月に大きなお祭りが開催される有名な公園付近で、五階建てのマンションを見つけた。

「まだ完成してないみたいだな」
「ほんとだ。でもすごいお洒落な外観だね。『ルミエール小桜(こざくら)』だって」

 看板には〈今秋完成予定〉〈入居者募集中〉と書いてある。もうひとつの看板には間取り図もあった。一~三階が1LDK、四、五階が2LDKらしい。リビングダイニングも広い。単身から家族連れまで、幅広い層が住めそうだ。

「高校卒業したらさ」

 繋いでいたヒロの手に、ぎゅっと力がこもる。

「こういうお洒落な感じのマンション探して、一緒に住もうよ」

 心臓がきゅっと縮むような、苦しいのに甘い、そんな矛盾した感覚が走る。
 こういうことを言うから、この間は誰とどこでなにをしていたのか、なんて訊けなくなるんだ。ヒロが戻ってきたときに感じた、いつもと違う香りのことなんて忘れてしまいたくなるんだ。

「俺、夏帆に出会ってから人生変わった。ずっと一緒にいような」

 胸に渦巻いていたもやもやが、すうっと抜けていく。
 もういいや。たとえ会っていた相手が女の子だったとしても、本当にただ相談を聞いていただけ。ヒロは私を裏切ったりしない。きっと、どうしても放っておけない理由があったんだ。この笑顔も、ぬくもりも、言葉も、嘘だなんて思えない。

 ──夏帆ちゃんならわかってくれるって信じてるんだと思う。
 ヒロが私を信じてくれるなら、私もヒロを信じたい。
 明るくて優しくて、誰にでも平等に接する。そんなヒロを好きになったのだから。

 ──なんてのん気に思っていられたのは、この頃までだった。


 高二の夏休み。ヒロの部屋に泊まっていた私は、深夜にヒロがベッドからおりる気配を感じて目を開けた。

「ヒロ、メッセージ誰から?」

 私に背中を向けてスマホをいじっているヒロに訊くと、肩が大きく跳ねた。

「ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫。ねえ、誰?」

 しつこく問い詰めてしまったのは、昨日からずっともやもやしていたせいだった。デートの約束をしていたのに、ヒロにドタキャンされたのだ。
 初めてではなかった。ヒロはたまに急用が入ったと言ってくる。用事なら仕方ないけれど、昨日は会えそうだったら連絡すると言われたきり、深夜までヒロからのメッセージが届くことはなかった。

「友達だよ」
「でも……女の子だよね?」

 ずっと抱いていた疑念を初めて口にする。
 昨日だけじゃない。用事を済ませたヒロと会ったとき、そしてヒロの部屋に入ったとき、必ずと言っていいほど慣れない匂いをかすかに感じていた。

 それでも、否定してほしかった、のだと思う。
 匂いだけで確証はない。全部私の勘違いであってほしい。そんなわけないだろって、男だよって、メッセージの画面を見せて安心させてほしい。
 そんな私の願いも虚しく、ヒロはあからさまに目を泳がせてから俯いた。

「……ごめん」
 否定してくれなかったことに愕然とした。
 私とのデートの約束より、他の女の子を優先したってこと?
 ショックだった。たとえ本当に友達だとしても、さすがにそれはない。いくらなんでもひどい。それに──香りが移るくらい近距離で接していたということだ。

「昨日のデート、ずっと前から約束してたじゃん」
「ほんとごめん。でも相談聞いてほしいって言われて……」
「私、ずっと楽しみにしてたんだよ。なのに他の女の子と会ってたなんてひどい。もういい、帰る」

 布団から出て床に散らばっている服に手を伸ばすと、その手をヒロに掴まれた。振りほどこうとすればするほどヒロは手に力を込める。そのまま腕を引かれて後ろから抱きしめられた。

「ほんとごめん。俺、どうしても友達ほっとけないんだよ……。けど、夏帆を悲しませるようなことは絶対してないから」
「そんなの信じられないよ。離して」
「わかった。もうふたりで会ったりしないから許してほしい。俺には夏帆しかいない。夏帆じゃなきゃだめなんだよ……」

 ヒロが震えていることに気付き、ためらいながら振り向いた。
 するとヒロは、唇を結んで涙をこらえている私の頬に触れて、少しずつ、顔を近付けた。

「俺が好きなのは夏帆だけだから。信じて」

 そんな言い方、ずるい。
 そう思ったのに、顔を背けることはできなかった。

「……もう絶対にしないって、約束して」

 ちゃんと声に出せていたのかは、わからなかった。




 約束が守られることはなく、ヒロは相変わらずだった。
 もはや隠す気がないのか、単に嘘が下手すぎるだけなのか、女の子と会っていることがばればれだった。だけど私がなにを言っても『友達を放っておけない』の一点張り。そんなの私がある程度譲歩するしかない。

 学校でたまに見かければ、私が知らない派手な女の子といちゃついている。高校に入ってからの二年間ですっかり見慣れていた。一年の頃みたいに乱入はしない。しても無駄だと学んだからだ。免疫なのか麻痺なのか諦めなのか、学校でいちゃついている程度ならそこまで気にならなくなった。

 なんていうのは強がりだと自分でもわかっていた。喧嘩になるのが嫌で、というより嫌われるのが怖くて、結局なにも言えないだけ。
 私は病気なのかもしれない。恋の病なんて可愛いものじゃない。もっともっと重病で重症だ。
 だって私、どれだけ傷ついても、どうしてもヒロのことが好きなんだ。



「夏帆ちゃん?」

 ヒロと出会って三年が経とうとしていた高三の夏休み初日、学校の昇降口で私を呼び止めたのは美波ちゃんだった。
 呼んだのは美波ちゃんなのに、やば、って顔をしている。美波ちゃんもまさか私と会うなんて思っていなかったから、驚いて反射的に声が出てしまったのだろう。

「えっと……夏帆ちゃんも補習?」
「ううん、講習」

 夏休みとはいえ、大学進学組は任意で講習を受けることができる。私と凪紗は札幌(さっぽろ)の大学へ行くつもりだから、夏休み返上で講習に参加する予定だ。
 美波ちゃんは、と言いかけてやめた。言い方から察するに補習組なのだろう。講習と違って補習は強制だ。参加しなければ卒業は危うい。ヒロも補習組のはずだけれど、ちゃんと来ているのだろうか。

 勘だけど、ヒロが会っている女の子の中に美波ちゃんは入っていない。クラスも離れたのか、最近では一緒にいるところも見かけていない。だから一年の頃みたいに警戒はしていないものの、それはそれで逆にどう接したらいいかわからない。

 美波ちゃんも似たようなことを考えているのか、なんとも気まずい無言の数秒間が流れたのち、「じゃあ」と言って私に背中を向けた。
 その背中を追うように「訊きたいことがあるんだけど」と言うと、美波ちゃんはぎょっとして振り向いた。

「え、なに? もうヒロとは関わってないよ。三年になってクラスも離れたし」
「前に言ってたよね。ヒロってそういう男だから、って。あれ、どういう意味?」

 詰め寄る私に、美波ちゃんは前みたいにため息をつくことなく、どこか哀れみを感じさせる目を向けた。

「そういう風に訊いてくるってことは、もうわかってるんでしょ?」

 図星を突かれた私は、頷くこともできずに立ち尽くす。

「前は気遣って黙ってたけど、わかってるならはっきり言っちゃうね。ヒロと関わらないでって言われたとき、正直すっごいむかついたの。夏帆ちゃんにだけは言われたくないし、筋合いもないんだけどって」
「どういう意味?」
「あたしとヒロが別れた原因、たぶん夏帆ちゃんだから」

 思いがけない告白に動揺を隠せなかった。

「ヒロと付き合ったのいつ?」
「なんでそんなこと……」
「いいから。いつ?」

 気圧されて「中三の夏休みだけど……」と我ながら情けないくらい弱々しく答えると、美波ちゃんは「だと思った」とため息をついた。

「あたしとヒロが別れたの、中三の夏休みなのね。あたしが振られたの。夏休み前までは普通だったのに、急に。どういうことかわかるよね?」

 そうだ。あの頃、ヒロには彼女がいた。
 確かにヒロは、私のことが好きになったから別れたと言っていた。だけど、もともとうまくいってなかったとも言っていた。美波ちゃんの話が本当だとしても、私はそんなの知らなかった。私が美波ちゃんからヒロを奪ったわけじゃない。

 ……違う。こんなの言い訳だ。
 私はヒロに彼女がいることを知ってからも諦められなくて、遊ぼうと誘われたときも家まで送ると言われたときも、一度も断ったことがなかった。初めて手を繋いだとき、ヒロが彼女と別れたことをまだ知らなかったのに、私は手を離そうとしなかった。目の前にある幸せな時間に夢中で、見たこともない彼女の存在なんてちゃんと気にしたことがなかった。

 私が幸せを感じていたとき、美波ちゃんは苦しんでいたんだ。
 美波ちゃんの言う通りだ。私にとやかく言う権利なんかない。
 私だって、ヒロの周りにいる女の子たちと同じだったんだ。

「夏帆ちゃんのこと恨んだりしてないし、もちろん今さら責めるつもりもないよ。でもそれは昔のことだからってだけじゃなくて、なんていうか……あたしも人のこと言えないっていうのもあるの。ヒロ、あたしと付き合う前も彼女いたから」

「え……?」

「ヒロっていつもそうなの。悪い奴じゃないけど馬鹿なんだよね。本能に逆らえないっていうか。彼女がいようがいなかろうが、気に入った女の子を見つけたらブレーキが利かないの。ヒロみたいなタイプに言い寄られたらこっちも悪い気しないし、落ち込んでるときに親身に相談聞いてくれたりしたらコロッといっちゃうよね。しかも、ほしい言葉をピンポイントでくれるんだもん。それを天然でやっちゃうから余計に(たち)悪いんだけど」

 まるで他人の口から私とヒロの馴れ初めが語られているみたいだった。

「なのに、付き合ったら浮気三昧。問い詰めたら『友達をほっとけない』の一点張り。こっちが怒ったら慌てて謝ってきて、そのままヤッて仲直り。で、結局他の子見つけてあっさり捨てられた。そんな奴とより戻したいと思う?」

 足がすくんで動けない。美波ちゃんから目を離せない。美波ちゃんと対峙するといつもこうだ。
 なのに、なぜ呼び止めてしまったんだろう。

「あたしだけじゃないよ。元カノはみんな同じような経験してる。夏帆ちゃんも早く現実見た方がいいよ。舐められてるんだよ、あたしたち」

 空は雲ひとつない晴天のはずなのに、まるで私の周りだけ黒い雲に覆われているみたいだった。

「……ごめん。なんか、昔の自分見てるみたいでイライラしちゃった。……じゃあ、あたし行くから」

 予鈴が鳴っている。講習が始まる。
 だけど、もう、歩きだす気力がない。