「っ!」
(ストラ様⁉)

 ずっと推してきた方の生の声だ。
 しっかりと鼓膜に刻み付けていた。
 ましてや聞いたのはつい昨日の事。忘れるわけがない。

「ああん? 何だてめぇ……は?」

 先に振り返った男がストラを見て言葉を止めた。
 突然の神の出現に驚いているのだろうか?

 だが神力は感じない。
 その状態で男が気付くとは思えず不思議に思いながらティアリーゼも振り返り、固まった。

 真っ直ぐな黒い髪はそのままだが、目の色は赤茶、服装も黒を基調にはしていたが平民の男性のもの。
 神力も抑えてて、神の持つ独特の雰囲気もない。
 ただ、美貌はそのままなので普通に圧倒されてしまう。

「私の連れをどこに連れて行く? と聞いたんだが?」

 僅かに眉を寄せ、不機嫌そうに彼は近付いてくる。
 その洗練された美しさに圧倒されたのだろう。
 男はティアリーゼの手首を離し後退りした。

「な、なんだよ。連れがいたのか。……その、だったら他当たるわ。じゃあな!」

 言うが早いか、男は逃げるように走り去って行く。

「あの……ストラ様?」
「なんだ?」

 一応確認のため名を呼ぶと淡々とした声が返ってくる。
 人間の平民に扮してはいるが、やはり紛れもなくストラだったらしい。

「えっと……何故ここに?」

 何から聞くべきかと数秒悩み、まずは一番気になることを質問した。
 ストラは見守っていると言った。
 ピューラを通じて、神々の国から見守るのではないのだろうか?

「……来てはいけなかったか?」

 切れ長な目がスッと細められる。
 赤茶の目に冷たさが宿り、ティアリーゼは慌てて首を横に振った。

「いいえ! どんな状況であろうとも貴方様に会えるのは至上の喜びです!」

 キッパリ、ハッキリ断言する。
 ティアリーゼの推し神への思いは強い。
 少々こじらせてすらいるくらいに。

「……そうか」

 だが、ティアリーゼのこじらせ具合いなど知らぬストラは僅かに笑みを浮かべ安堵のような息を吐く。
 気を取り直すように背筋を伸ばすと、彼はこの場にいる理由を口にした。

「お前一人で行動するのが少し心配だったのでな」

 力もあるし頭も良いが、どこか抜けていて今のように絡まれてしまうと思った。
 だそうだ。
 今まさに絡まれてしまった身としては反論の余地もない。

「それに……」

 つい……と、視線が流れストラはティアリーゼの肩に乗るピューラを見た。

「今朝、お前が気落ちしていると“それ”が伝えてきたのでな」
「え? ピューラが?」

 今朝と言うことはフリッツのことを思い出していたときだろうか?
 確かにあのときピューラは心配そうにしていた。

「そう、ですか……」

 大丈夫だと言ったのに、と思う反面。
 愛らしい小鳥の気遣いが素直に嬉しくもあった。

(……ん? ということは、ストラ様は私が気落ちしていると思って来てくれた、と?)

 言葉をそのまま受け取るとそういうことになる。
 だが、いずれ妻になる相手だとしても今は一介の神官に過ぎない。
 そんな相手のためにわざわざ神である彼が来てくれるものなのだろうか?

「その……もしかして他にも何かご用事が? よろしければ私もお手伝い致しますが?」

 自分の心配だけでストラが平民に扮してまで人間の地に下りてくるはずがない。
 他にも用事があるに決まっている。
 そう判断しての言葉だったのだが……。

「何を言っている? 他に用事など無いが?」
「え? ですがその……だとするとストラ様が来てくださったのは私を心配したから、という理由だけということに……」
「だから、そうだと言っている」
「へ?」

 まさか本当に自分への心配だけとは思わず、驚きの心地で端麗な顔を見上げた。
 すると赤茶の目で真っ直ぐティアリーゼを見下ろしていたストラと目が合う。

(ああ、こんな近くにストラさまがっ! 平民姿でも溢れ出る美しさ……尊い……)

 尊すぎて今すぐ手を組み祈りを捧げたくなってくる。
 だが、それよりも先にストラの手が伸ばされ、長い指がティアリーゼの髪を耳に掛けた。
 そのまま顎のラインをなぞり、軽く先端を掴まれ固定されてしまう。
 逸らせない視線に、ティアリーゼの胸の鼓動が早まった。

「妻となる女の心配をしてはいけないか? これでも私はよき夫となるつもりはあるのだぞ?」
「お、夫⁉」

 妻として仕える覚悟はしていたが、ストラを夫とする覚悟はしていなかった。

(そ、そうよね。妻になるということはストラ様が夫になるということですもの)
「ストラ様が私の夫……っ!」

 実感が湧かず、確認するように声に出してみて失敗した。
 じわじわとその事実を理解し、なんとも表現し難い恥ずかしさで顔に熱が集中する。

 赤くなった顔を見られたくないのに、固定された頭は動かせない。
 恥ずかしいのに逸らせなくて、涙まで浮かんできた。

「……何故泣く?」
「分かりません。でもその……ただ、恥ずかしくて」

 ここまで心を乱されるようなことは幼い頃以来だ。
 どうしていいか分からず、胸の鼓動を抑えることも出来ない。
 顔を背けたいから離してほしいと思うのに、触れていてほしいとも思ってしまう。
 自身の矛盾した思いに、ティアリーゼは困惑した。

「恥ずかしい、か……。恥じらうお前は可愛いが、いつまでもその様な状態では手が出せないではないか」
「え?」

 少し呆れ気味にため息を吐いたストラは、その整った顔をティアリーゼに近付ける。
 何を? と思うと同時に、目尻の涙を吸い取る様に彼の唇が触れた。

 瞬間、ティアリーゼの全てが停止する。

 体も、思考も、呼吸さえも止まり、先程までうるさいほどに鳴っていた心音すら止まってしまった様に感じた。

「妻となったら、この可愛らしい唇にも口付けしたいのだがな?」

 あまり表情が動かないストラだが、そう口にした彼は楽しそうに笑みを浮かべている。
 少し意地悪そうに見えるのはティアリーゼの気のせいだろうか?

 硬直してしまったティアリーゼから手を離すと、ストラは感情の読み取れない表情に戻り「さて」と手を差し出す。

「冤罪を晴らすのだったな。私も共に行こう」

 何故それを知っているのかと一瞬思ったが、ピューラを通じてこちらの状況を把握している様子だったことを思い出した。

(一緒に行って下さるの?……いいのかしら)

 何とか呼吸の仕方を取り戻し思う。
 冤罪を晴らすのは自分がやるべきことだ。
 ストラの手を借りる必要はない。
 だから大丈夫だと、そう言えばいいのだが――。

「はい、ありがとうございます」

 ティアリーゼは礼を言って、硬く大きな手に自らの手を乗せた。
 ストラはずっと仕えたいと思っていた推しの神。
 聖女となって妻として仕えると決めてからも、あくまで仕える相手。
 だから、未来の夫として手助けしてくれるという彼には戸惑いが大きい。

 なのに、ストラの手を借りる必要はないと思う反面、心強いと思ってしまった。
 共に来てくれるという言葉を……嬉しいと思ってしまった。
 この気持ちは何なのだろう。
 敬愛、信頼、崇拝。
 どれも近いようで全く違う。

(そう、もっと近しい……親しみのようなもの)

 トクン、トクンと優しく脈打つ鼓動に身を任せるように、ティアリーゼはストラと共に歩き出した。