ファンタジーな異世界に転移しようが転生しようが人の本性は変わらない。屑は相変わらず屑のままだ……とペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は確信するに至った。彼は司法官試補つまり司法官憲の職員である。司法官試補としてファンタジー世界へ転移あるいは転生してきた異世界人――司法官憲が用いる正確な法律用語では異世界塵だが、これだと本当のゴミだと誤解される恐れがあるので異世界人と表記しておく――の取り調べに日夜当たっているうちに、彼は異世界からの転移者あるいは転生者は軒並み人格破綻者であると知った。前世でも現世でも同じような性格で問題ばかり起こす屑ばかりなのだ。
その点、自分は違う。ファンタジーな異世界へ来ても、ここに順応し立派に生活している。ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は、そう思った。確かに、それだからこそ司法官試補という固い職業に就いているのである。だから、まったくの間違いとは言えない。だが彼には、自分以外の異世界出身者に対する強い偏見があった。差別的な目で異世界出身者を見てしまうので、必要以上に厳罰を与える傾向があるのだ。
そのために、被害を被った異世界出身者は数知れない。
その一人がプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯である。
架空の世界を舞台に主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界ストーリーを求めていたプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、ある日、気が付くと、主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界に自分がいて、驚いた。
そういう世界へ行きたいと願っていたので、夢がかなえられたと喜んでいたのも束の間のこと。プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、異世界からの転移者あるいは転生者を憎悪する右派民兵に捕まえられ、素っ裸にされて木に吊るされた。他にも同じような運命に陥った異世界からの転移者あるいは転生者がいて、現地住民から投石されていた。皆からストレス解消のリンチを受けた異世界からの転移者あるいは転生者たちは、それから司直の手に引き渡された。
捕らえられた異世界からの転移者あるいは転生者たちは裁判にかけられ量刑が下される。前世での行いは刑を決める際の参考にされるのだが、それを判定するのが司法官である。だが、司法官は忙しいので、下調べや逮捕者への尋問はアシスタントの役目となっている。それは主に司法官試補の仕事だった。司法官試補とは司法官の見習いであり、勉強のためにアシスタント役をしているのだ。
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯の取り調べ担当はペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰だった。
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰はプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯を取り調べる前に、その前世をコックリさんで調べた。そこで得られた逮捕者の情報を当人に示し、事実確認をするのだ。
「お前はプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯だな」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰に、そのように質問されたプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、それに間違いないと答えた。その上で質問する。
「どうして、僕の前世の名前が萌牡蠣薔薇海嘯だと分かったのですか? この世界の誰にも話したことがなかったのに」
「不思議だろ? お上の目をごまかすのは無理ってことだよ。さて――」
心霊的手法で入手した個人情報をプリントした紙を斜め読みしたペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は、その紙をプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯に見せた。
「ここに書かれた内容に間違いはないか?」
「ざっと眺めた限りでは、間違いないですね」
そう答えるプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯にペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は言った。
「お前が前世で書いたという異世界ファンタジーを読みたい」
「いいですけど……え、それが何なのです? この裁判に関係があるんですか?」
「大ありだ」
「その心は?」
「優れた異世界ファンタジーを書く作家は有用だ。そういう小説家は必要とされるんだ」
「優れた異世界ファンタジーを書いていない素人の作家は、どうなるんです? アマチュアの小説家は無用の存在なのですか?」
「そういうのは余っているから殺処分だ」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は震え上がった。ファンタジーの世界へ来て喜んでいたのに、殺処分の憂き目が待っていようとは!
「何を怯えているんだ? 異世界ファンタジー小説を見せてみろ。見せられないなら、どうなるか分かっているだろうな?」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰に脅されたプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、手渡されたタブレット端末を操作した。
「これが僕の書いた小説です。さあ、どうぞ。じっくり読んでください、好きなだけ」
そう言ってプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯はタブレット端末をペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰にタブレット端末を返した。
☆ あなたがヒロインとなる物語を探し求める物語 ☆
[序に代えて~運命の日にもかかわらず寝坊した女主人公つまり、あなたの取った信じられない悪行の数々その他の記録]
「あ~よく寝た。目覚めスッキリ、気分は最高! 晴れの舞台にふさわしい朝って感じなんだけど……えっと、今は何時なんだろ?」
目覚まし時計を見て、あなたは驚いた。寝坊である。ただの寝坊ではない。完全な寝坊、大遅刻だ。
「やばい!」
超適当に身支度して玄関を出る。歯は磨いていない。うがいをしただけだ。メイクもいいかげんである。本当は、もっと完璧な装いで家を出たい。何といっても今日は、あなたが主役の物語が始まる日なのだ。素敵な格好で行かないと、格好がつかない……そんなことを言うんだったら寝坊するなよ! と突っ込みたくなるけれども人には過ちがつきものだ。そして過ちは大抵、重なって起きる。
「やべ、どこに行くんだったか忘れた」
運営から来たメールに行き先が書いてあった。あなたはスマホを見ようとして、持って来ていないことに気が付く。枕元に置きっぱなしだった。舌打ちをして後戻りする。近所に住む一人暮らしの優しいおばあさんが「おはようございます」と頭を下げたのに無視して通り過ぎ、ショートカットのため人の家の駐車場を突っ切る際にバッグの金具で車に傷をつける(ぶつかってサイドミラーを変な角度に曲げたが、これはすぐに直せるから良しとしておく)。前を歩く子猫が邪魔だったので威嚇し、それでも動かなかったので蹴ろうとして空振りする。やがて玄関にたどり着く。焦りのために玄関の鍵を開ける手が震えた。苛立ちで自然と悪態が出る。
「クソ※タレ! ヤ●マンビ○チ! ▼梅マ△コ! ▽モ▲ラ! ティ■ポ千本切□したい! 噛み◇って剥製にした◆よぉ!」
あなたの奥にある隠れた本性を口からダラダラ漏らしながら寝室へ向かう。スマホ発見。メールをチェック。自分でも信じられないことだが、誤って削除していた。
「ガッデーム! ちくしょう、どうしよう?」
歯ぎしりしつつ新着メールを見ると「物語について、困ったことがございましたら、こちらへ」というタイトルが目に入った。それを開くと、こんな説明が書いてある。
【物語の世界は広大です。慣れていない人は何が何だかわからず、入るのをためらってしまいますよね。そんなときは私たち、読書コンシェルジュにご相談ください。どんな方にも最適な物語をご紹介いたします】
何を言っているのか分からないけれど、物語に関する悩み事なら聞いてくれそうな予感がした。初回無料というのを確認してから、あなたは読書コンシェルジュに連絡を取った。
[本文]
出演:あなた(つまり女主人公)、読書コンシェルジュ
「」セリフ
【】場所・状況の説明
『』ナレーション
読書コンシェルジュ「こんにちは。こちらは読書コンシェルジュサービスです。どのようなご用件でしょうか?」
あなた「実は、かくかくしかじか」
読「すみません、何をおっしゃりたいのかわからないのですが」
あ「あ、えっと。これは無料ですよね?」
読「はい、初回は無料となっております。二回目以降は――」
あ「二度と使わないつもりですから二回目以降の話はいいです。それより私、困ってるんです」
読「いかがしましたか?」
あ「自分の出る物語が分からなくなっちゃったんです」
読「それはお困りですね」
あ「困っているから読書コンシェルジェに連絡したんですけど」
読「読書コンシェルジュです」
あ「どっちでもいいでしょう! それより私の悩みを解決してくださいよ! 急いでるんですけどぉ」
読「失礼いたしました。それでは、どのような物語だったか、教えていただけますか?」
あ「それが分からないから困っているんです。面白そうなお話だったのは覚えているんですけど」
読「それでしたら、物語についたキーワードは覚えていらっしゃいますでしょうか?」
あ「えー、分かんない」
読「それでしたら、こちらからキーワードの例を送信いたします。そちらをご覧いただいて、その中からお選びください」
【スマホに以下の単語が表示される】
異世界
ファンタジー
転生
転移
バトル
魔法
冒険
勇者
チート
無双
最強
成り上がり
錬金術
悪役令嬢
ざまぁ
恋愛
ラブコメ
ほっこり
スローライフ
お仕事
バディ
美味しい
モフモフ
女主人公
男主人公
読「これは注目キーワードです。この中に、見覚えのあるものはございますか?」
あ「女主人公、これがわ・た・し」
読「何かのお間違いではございませんか?」
あ「揺るぎない事実です」
読「失礼しました。それ以外のキーワードはいかがです?」
あ「う~ん思い出せない!」
読「それでは次に、こちらをご覧ください」
【スマホに以下の単語が表示される】
ファンタジー
恋愛ファンタジー
異世界ファンタジー
現代ファンタジー
あやかし・和風ファンタジー
後宮ファンタジー
青春・恋愛
ヒューマンドラマ
ミステリー
読「こちらが物語の大まかなジャンルです。どれかに見覚えがございませんか?」
あ「ある! あるよ! 後宮ファンタジー! これだった!」
読「それでは、後宮ファンタジーのサブジャンルを表示いたします」
【スマホに以下の単語が一つずつ表示される】
後宮シンデレラストーリー
平安後宮シンデレラストーリー
男装後宮ラブファンタジー
あ「これ、これだよ! これよ、これ! 男装後宮ラブファンタジー、これだった! 男装後宮ラブファンタジーで間違いなし!」
読「この文章に見覚えがございませんか?」
【スマホに以下の文章が表示される】
異能を持ったヒロインがワケあって男装し後宮入りすることになるも、なぜか皇帝だけには男装がバレてしまい――そんな後宮を舞台にヒロインが活躍し、皇帝に愛されるストーリーを募集します。
男装しているのに、なぜか皇帝だけには女性扱いされてドギマギするなど、男装の仕掛けを効果的に描いて下さい。
実は異能やあやかし設定がある魅力増しヒーローも大歓迎です!
あ「見覚えありまくりだって! これ、これが私の物語。私がヒロインの物語よ! これに出るのが私、私なの! ねえ、どこへ行けばいいの? この物語に出るために、私はどこへ行けばいいのよ!?」
読「どこに行っても駄目みたいですね」
あ「なんで?」
読「この物語のコンテストは締め切られたようです」
あ「ヒロインがいないのに締切って、どういうこと!?」
読「他の人がヒロインになったのかもしれませんね」
あ「そんなの、絶対に許せない! ねえちょっと、何とかしてよ!」
読「そう言われましても」
あ「しっかりしてよ! あんた読書コンシェルジェなんでしょ!」
読「読書コンシェルジュです」
あ「どっちだっていい! それより私をヒロインにしてよ! それが出来ないのなら、読書コンシェルジュなんて名乗らないで!」
読「それでしたら、現在募集中のコンテストへ行かれて、その物語のヒロインになってみたらいかがでしょう?」
あ「現在募集中のコンテスト? それって男装後宮ラブファンタジーなの?」
読「いいえ。こちらは<第36回キャラクター短編小説コンテスト{予想外のラスト! 1万文字以下の超短編 第2弾}>ですね」
あ「何だかやたらと括弧の種類が多いね。ま、それはいいわ。その物語のヒロインに、私はなれるの? 何より大事なのは、これよ」
読「こちらは審査員ではございませんので、それは何とも」
あ「そりゃそうね。行ってみるわ、そのコンテストに。どうすればエントリーできるの?」
読「エントリーのページから、送信ボタンで行けると思います。ボタンを押すと、あなたが画面に吸い込まれるのですけど」
あ「それマジ? 凄くね。で、どうやるの?」
読「<小説サイト ノベマ!>の<コンテスト一覧>のページから該当する箇所をクリックすればよろしいかと」
あ「分かった。色々ありがとう、どうもね!」
ナレーション『あなたは読書コンシェルジュの指示に従い<第36回キャラクター短編小説コンテスト{予想外のラスト! 1万文字以下の超短編 第2弾}>へ向かった。自分が物語のヒロインになるのだ! と心に決めて。しかし、またも手違いが生じた。あなたは<第32回キャラクター短編小説コンテスト{予想外のラスト! 1万文字以下の超短編}>のページを開き、その送信ボタンを押してしまったのだ。第32回キャラクター短編小説コンテストは既に締め切られている。そして、その物語世界のヒロインは、あなた以外の誰かに決まっている。残念ながら、そこにあなたの居場所はないのだ。しかし諦めるのは、まだ早い。<第36回キャラクター短編小説コンテスト>の締め切りは2/28(火)13時である。それまでに<第32回(以下略)>から帰還し<第36回(以下略)>への投稿を完了するのだ。<第32回(以下略)>に一度エントリーした作品は<第36回(以下略)>への応募は不可と注意事項に明記されているけれども、ヒロインへの応募は不可と書いてないから大丈夫だろ多分。自分自身が素敵なヒロインとなる物語を完成させるために、全力を尽くせ。健闘を祈る』
☆ 女番長の俺が魔法少女のマスコットに変身させられるだけならまだしも溺愛を強要されるなんてあり得ない ☆
正義の魔法少女Aは苛立っていた。長年こき使ってきた式鬼が契約延長を拒否し彼女に絶縁状を叩きつけ去って行ったためである。こうなるのだったら早いとこ奴をブッ殺しておけば良かったと悔やまれて仕方がない。
憎しみが募るのは面倒な雑事を自分でやらなければならないためでもある。天界税務署へ確定申告を出す前に式鬼が逃げ出したので、彼女は初めての税務処理を死にそうになりながら自分でやった。年度末に毎年行われる天国の一斉清掃にも参加せねばならなかった。不仲の天女が実行委員長を務める春分の日の祭典に代理人を送ることが出来ず自ら顔を出したら案の定バトルになって、裁きの天使警察が出動する騒ぎとなった。
これ以上の厄介事を避けるためにも、彼女は新しい式鬼を確保する必要に迫られていた。
式鬼とは使い魔とも呼ばれる魔性の存在である。
天国にはいない。
それでは、どこで都合するか?
悪い奴を捕らえるなら監獄か刑場だが、ただ悪いだけでは役不足だ。
他の魔法少女や天女たちに自慢できるような、強く賢く美しい悪が求められるのである。
彼女は夜の地上へ向かった。そして見つけたのだ。そのお眼鏡にかなう、素敵な悪を。
§
日本最大の暴力団を束ねる総長ともなれば、求められるのは腕っぷしだけではない。人並外れた度胸が大切なのだ。その総長が今、怯えて全身から脂汗を流している。高級リムジンの後部座席で向かい合う学ラン姿の人物に睨まれ、百戦錬磨の総長が顔面蒼白の有様だ。
学ラン姿の人物が言った。
「黙ってちゃ何も分からない。どうするつもりだ? 悪くないビジネスだと思うが」
総長は唾を飲み込んだ。声を絞り出す。
「簡単に言わないでくれ。一万人の生贄を集めるのは大変な手間が掛かる。募集広告を出すわけにいかない。多くは誘拐することになるだろう。それをやると警察が黙っちゃいない」
学ラン姿の人物は頷いた。
「そのために常日頃から賄賂を払っているんだろ? 我々が支払う代金は、多額な必要経費を補って余りある」
「それはそうだが……」
苦悩する総長の方に手を置いて学ラン姿の人物は言った。
「日本最大の暴力団の総帥になるために悪魔へ魂を売ったことを忘れるな。この件を断ったら、地獄に落とされるかもしれんぞ。今すぐに」
今の地位に就くため総長が悪魔に魂を売ったことは事実だった。その悪魔からの依頼を拒否したら、どうなるか分からない。
結局、総長は悪魔からの使者を名乗る学ラン姿の人物に従った。
「それでいい。期日までに頼む。それより早く目標人数を確保できたら連絡してくれ。うまくいきそうにない場合も同様だ。電話する時間はいつでも構わない。ああ、そこで下ろしてくれ」
真夜中を過ぎた首都高速道路の路肩に停車した高級リムジンから降りた学ラン姿の人物は遮音壁を飛び越え姿を消した。
総長はすぐ車を発進させた。額の汗を拭う。そのときスマートフォンの着信音が鳴り響いた。発信者の名前を見る。地獄の使者と表示されていた。溜め息を吐き通話ボタンを押す。
「もしもし」
「言い忘れていたことがある」
生贄の人間は善人でなくともいい。童貞と処女でなくても結構。年齢は問わない。要するに、誰でもオーケーとのことだった。
総長は生き返った心地になった。認知症の老人を拉致すれば、一万人に到達するのではあるまいか?
「分かったか?」
「ああ」
「それじゃあな」
向こうは電話を切った。総長も通話ボタンを切った。
生贄を集めて何をするのか? と聞きたかったが止めた。人間には知らなくても良いことがあるのだ。
悪魔に魂を売る方法も知らない方が良かったと彼は思い、一人きりの後部座席で後悔の涙を流した。
§
首都高から飛び降りた悪魔の使いは人影のない川沿いの道を歩きながら、学ランのポケットから出した葉巻を吸っていた。その足が止まる。
「そこにいるのは誰だ? 出て来い!」
学ランの人物の呼びかけに応じて、暗がりの中から正義の魔法少女Aが姿を見せた。その手には巨大な鎌が握られている。彼女は鎌を構えたまま、学ランの人物にじりじりと迫った。可愛らしい笑顔に似合わぬ言葉が出る。
「隙を見て首を狩ろうとしたけど、さすが地獄の使者ね。よく気付いたわ」
葉巻を吸いながら学ランの人物が言った。
「天界の魔法少女さんにお褒め頂き光栄の至りだ。地獄の悪魔に会ったとき、褒められたって自慢しとく」
魔法少女は歩みを止めた。不用意に近づくとやられると察したのだ。間合いを取って話しかける。
「あんたが車の中にいたときから、ずっと見ていたわ。悪魔の使いにしては、凄く格好いいわねえ。本当にイケメンだわ。ああ、いじめがいのある獲物が見つかって、凄く嬉しいの。さあ、あたしと契約しなさいな」
学ランの人物は紫煙を吐き出した。
「興味は無いが一応は聞いておく。契約すると、どうなるんだ?」
魔法少女は浮き浮きボイスで答える。
「あなたはねえ、あたしのマスコットになるのよ。可愛らしいマスコットキャラね。でも、時と場合によっては、あたしの恋人に変身してもらうわ。そして溺愛するのよ、あたしを。凄く溺愛するのよ」
深々と葉巻を吸って学ランの人物は尋ねた。
「俺は女だが、それでも構わないか」
「え」
「俺は女だ、女番長だ」
「女番長って……それマジ?」
「そう」
「女番長って、スケ番よね? 昭和で滅びたと思ったけど、まだいたとは知らなかった。でも、スケ番って言ったらセーラー服でしょ。着てないじゃない!」
「カレーうどんをこぼして汚したから、今クリーニングに出している。この学ランは部屋のクローゼットにあったのを着てきただけだ」
「いやいや、普通の女子は自前の学ラン持ってないっしょ! もしかして同棲相手のもの? あんた同級生と同棲してんの?」
「してない。つーか、てめえ、うるせえぞ。夜中なんだから静かにしろ!」
「怒鳴ってんのはそっちでしょうが! まじウルサイ! てかさ、あんたホントは男なんでしょ? 声が低いもの」
「これは元々こういう声なんだ。それだけで勝手な判断するな」
「無理しないで。今は多様性の時代だから。ま、それはともかく契約だけはして。溺愛はどうするかこれから考えるけど、それ以外でもあんたにやってもらいたいことがあんの。掃除とか」
「ごめんこうむる」
「掃除が苦手な女はがさつって言うけど、大丈夫。あたしが教えてあげるから、すぐに掃除がうまくなるから」
「掃除は好きだから、てめえに教わる必要はない。それと、こう見えてファンシーグッズが大好きな典型的ヤンキー気質なんで、可愛いデザインのマスコットキャラは好きだ。自分が変身するのも、一人のときはやってもいいと考えている。ただし、てめえを溺愛はないわ。絶対にない。死ねや、外道」
そう言って女番長は葉巻を川に投げ捨てた。巨大な鎌を構えた魔法少女は、相手の戦意を敏感に感じ取り、一歩引き下がった。それから舌なめずりをしてケケケと笑う。
「怖いねえ、怖い怖い。でもね、あたしも負けてらんないのよ。使い魔が必要なの。この鎌で、あんたの首を切り落として、それから再生の秘術を掛けてやる。そうなったら、嫌でもあたしと契約することになんのよ」
女番長は間合いを一気に詰めた。柄の長い鎌を持つ魔法少女の懐へ飛び込もうと考えたのだ。鎌を振り回される前に、敵を仕留めるつもりだった。
首都高速道路に設置されたオレンジ色の照明の光に照らし出される魔法少女と女番長の影が重なる。
片方がドサリと倒れた。
☆ リストランテ・ボルジア ☆
仕事や恋に傷ついた夜に、足が向く不思議な飲食店。それがイタリア料理店「ボルジア」だ。
このリストランテを訪れる客は、クセあり店主の語りと、美味しい食べ物に、疲れた心を癒されて――なんて、ベタでありがちなストーリーを期待しない。飲み食いで癒される程度の傷は傷のうちに入らないのだ。唾を付けときゃ自然に治る。
店は一見さんお断りの完全予約制だ。オーナーシェフのスペイン系イタリア人父子は口数が少なく愛想がない。二人が作る料理は旨くなく……いや、むしろ途轍もなく不味い部類に属する。それが何とコース料理で来るのだ。前菜、スープ、主菜、そして食後のデザートとエスプレッソコーヒーまで胃の腑に納めたら、客の気力と体力は極限まで低下する。しかも高い。店を出ると客は皆「もう二度と来ない」と誓う。そして手土産の白い粉が入った包みを隠し持ち帰路に就くのだ。
そう、誰もが二度と来たくない店それが「ボルジア」だ。
この店の客は復讐者である。仕事や恋など理由は異なるが、自分を傷つけた相手に報復する手段を求め、この店にやって来る。手土産の白い粉は毒薬だ。悪名高きボルジア家秘伝の猛毒カンタレラ、これが目当てなのだ。
それなら毒だけ入手すれば良い、と思われることだろう。だが、この店で出される料理を食べることが大切だった。
この料理にはカンタレラの毒性を薄めたものが入っている。そのコースを摂取することで食べた者はカンタレラに対する抵抗性や一時的な耐性を獲得するのだ。
カンタレラは雪のように白く味の良い粉薬であり、飲食物に混入する手段が一般的だったが、食物への意識が高まった現代においては経口摂取は困難な場合がある。そもそも、犠牲者のグラスに粉を入れているところを目撃されたら、それこそ命取りだ。
そこで最近は毒殺対象者のスマホに水で溶かしたカンタレラを塗布して皮膚接触で体内に毒を入れる方法やアロマオイルまたは空気清浄機を用いた呼吸器への浸潤が主流だ。飲食物での毒物投与と同様に、これらの方法でも司法解剖で毒殺の証拠は検出されない。
かくして憎い相手は死に、客の心の傷は癒されるのだ。
不味くて高いという飲食店では致命的な問題点があるにもかかわらず、このリストランテ「ボルジア」の客たちの満足度は高くリピーターが多いのは、そういった理由による。
☆ 引きこもり女性を狙うSNSの甘い罠 ☆
奇人変人をおちょくるのが大好きな俺は、長く家の中から出られないでいる引きこもりをからかってやるのが最高のストレス解消となっている。危害を加えているわけじゃない。ちょっとしたお楽しみをやっているだけだ。そいつの近くを歩く。それだけだ。身長二メートルで体重百五十キロのデブが鼻息荒く歩くと、大抵の人間は怯える。それを見ているだけで、こっちは楽しいのだ。
さて、引きこもりの話に戻ろう。そいつが暮らしているのは俺の家の隣の通りなので、雨の日にそこまで出歩くのは面倒だが、逆に雨の夜がチャンスだった。雨の晩になると、あの引きこもり女は必ず家から出てくるからだ。傘を差しているから人の視線を気にしないでいられるのだろう。しかし、油断は禁物! 後を付けて歩いている人間つまり、この俺がいるからだ。安心した様子で散歩している女に気付かれないよう細心の注意を払いつつ、後を付ける。やりすぎると引きこもりが悪化するから、ダメ絶対にダメ。でも、名状し難い不安は感じさせてやりたい。その塩梅が難しいけれど、困難に挑戦するのは人の本能というものだ。何事にもチャレンジする。それが無上の楽しみなのだ。
変なことに夢中になっているな~と思うかもしれないが、こういった趣味を持っている人間は俺だけではない。同好の士が集まってSNSでワイワイやっている。皆、色々なことを書き込んでいるのだ。尾行する相手は様々だが、犯罪はやっていない。気付かれないよう後を付けるスリルとサスペンスを楽しんでいるだけだ。「ま、ちょっとビビらせる程度なら別に大したことではないだろ、JK」とカキコしている者もいるにはいるが……おっと、そろそろ女が外出する時間だ。へへ、今夜も引きこもり女の尻や胸を鑑賞させていただくとすっかな。
今日は天候が不安定で、豪雨になると天気予報は伝えているが、気にしない。こういう日でも絶対に、あの女は姿を見せるのだ。出歩く者は少ないから、対人恐怖症の人間にとっては気が休まるのだろう。俺も雨の中を外に出た。女の家に向かう。隣の通りへ出る曲がり角の途中で、何の気なしにカーブミラーを見上げたら、曲がり角の向こうに誰かがいる。見覚えのある花柄の傘を差している。あの引きこもり女の傘だった。
引きこもり女は、こちらへ向かって歩いてきていた。このままでは正面から鉢合わせだ。俺は人と真正面から顔を合わせるのが好きじゃない。くるりと回って元の道を引き返す。女との間の距離を稼ごうと速足で歩いたら、前の方で誰かが急に立ち止まった。大柄な男だった。見覚えがあるけれど、誰か分からない。男が慌てた様子で回れ右をして歩き出す。その姿に気を取られ、足を止めてしまったのは失敗だった。引きこもり女が俺に追いついてしまったのだ。街灯の照明が女の姿を映し出す。
「すみません、失礼ですけど、お尋ねしたいことがありまして」
可愛らしい顔をした女は丁寧な口調で俺に話しかけてきた。突然の出来事で驚く俺に質問を浴びせてくる。
「SNSの尾行専門サイトに投稿していますよね? 常連さんですよね? 本名は●×さんですよね? 住所は――」
その全部が正解だった。頷くのも何なので黙っていたら相手が追加情報を更新した。
「私は、あなたが尾行している引きこもり女の別人格です。大事なお話があります。あなたのことを、小心者なのにキレると狂暴な人格が狙っています。あなたが自分に危害を加えるのではないかと恐れ、何かされる前に何とかしようと決意したのです」
驚きのあまり二の句が継げぬ俺に女は言った。
「何とかしないと、あなたが何とかされてしまいます。早く逃げて下さい!」
「は、はははや、はや、早くったっててってててて、どどどここおへえええへえ」
緊張のせいで普段より口が回らない。焦りが酷すぎて吃音っぽい声が出てしまっている。自分でも何を言っているのか分からない。
「早くしないと、殺人狂の人格が、私の中に現れてしまいますうぅぅぅぅ」
そう言って俯いた女が顔を上げると人相が一変していた。牙を剥いた野獣そのものだった。野獣が吼える。
「この変態野郎、死ね!」
女は傘の持ち手を引き抜いた。街灯の明かりを浴びて持ち手から伸びた刃がギラリと光る。俺は悲鳴を上げて逃げ出した。デブの俺だが足は速い。こう見えて学生時代は箱根駅伝を目指す長距離ランナーだったのだ。あっという間に刃物を振り回す女を振り切った。家が見えてきた。玄関へ飛び込むのだ! と思った俺の前に、背後にいるはずの女が現れた。
いや、別人だ、と俺は思った。着ている服が違うし、こちらは傘の代わりにリュックサックと手提げバッグを持っている。その女は両手を広げ、俺を制止した。
「待って、家に入るのは危険です!」
俺は女にぶつかる直前ギリギリで停まった。俺がぶつかったら、この女は吹き飛んでいただろう。そんな俺に女は感謝することなく、意味不明なことを言った。
「私はあなたを追いかけている引きこもり女の双子の妹です。家に入ってはいけません。あなたが家の中に入ったら、用意していたガソリンを撒いて火を点ける計画があるのです。この雨でも一気に炎が燃え広がるほどのガソリンがありますから、きっと大爆発するでしょう」
俺は疑問を口にした。
「ががががそり、ガソリンなんてててて、持って持ってもももも持っていなかったぞぞ」
女は憎しみの表情で答えた。
「姉を脅かす存在は許せません。あなたを火刑に処します。私は妹として、やるべきことをやります!」
そう言うと双子の妹は手提げバッグの中から赤い発炎筒を取り出した。
「このザックの中にはガソリンの入ったペットボトルを入れています。大人しく焼け死んで下さいませ!」
俺は脱兎の如く逃げ出した。引きこもり女とガソリン女の姉妹は俺の後を追いかけてきた。二人の脚は早かった。いや、長年の半引きこもり生活で俺の脚力が衰えているだけかもしれない。
「待て~待て待て~」
雨の中を逃げる俺を二人の女が追いかける。振り切れない。曲がり角が見えてきた。あそこを曲がったところに暗い横道があるから、そこへ隠れよう!
俺は曲がり角を曲がると横道へ飛び込んだ。そこには、先程ちょっとだけ見かけた男が立っていた。俺は男とぶつかった。凄い勢いでぶつかったので一瞬、気が遠くなった。次の瞬間、俺の目の前に、俺がいた。俺は俺の顔を見ているのだ。
「ななな、なにこれれれ?」
俺が見ている俺が言った。
「衝突の瞬間に人格の入れ替わりが発生した模様です」
「は?」
「これは失礼。私は異世界のあなたが実世界へ送り込んだアンドロイドです。あなたに似た外見になるよう設定しましたが、雨の影響で魔メイクが崩れていますね。衝撃による人格の入れ替わりは、よくあることです。階段落ちとかで。今回の衝撃は低レベルですが、異世界のあなたは私の体に人格を融合させて活動することが多いので、ここでもそうなってしまったのでしょう」
「意味わからんいみかわら意味わから」
「話が分からないのは当然です。良く聞いて下さい。あなたはガソリンの爆発に巻き込まれ、これから異世界へ飛ばされます。それが事実なのです。しかし異世界へ飛ばされたあなたは、過去の実世界に私を送り込むことで、過去を改変しようとしているのです」
俺と入れ替わって俺の体内に入ったアンドロイドは、俺が入っている自分の体を両手で抱き締めた。肩の上に顔を載せ耳元で囁く。
「私は二人の女性をここで食い止めます。早く逃げて下さい」
そう言うが早いか俺の顔をしたアンドロイドは通りに出た。続いて大爆発が起こった。俺は爆風で吹き飛ばされた。目が覚めたら病院のベッドの上だった。女性の看護師が俺を覗き込んでいる。とても驚いた様子で誰か呼びに行った。白衣の男が現れた。どうやら医者のようだ。そいつは俺に尋ねた。
「●×さん、私の言葉が聞こえますか? 聞こえたら頷いて下さい」
俺は頷いた。看護師の女性と医者の男は目を合わせた。二人とも驚きの表情だ。医者は言った。
「●×さん、あなたは爆発事故に巻き込まれ、意識不明の重体だったのです。一時は危篤状態だったのですが、どうやら持ち直したようですね」
俺は体を起こそうとした。しかし、動こうにも動けない。そんな俺の様子を見て、女性看護師は言った。
「体を動かすのは無理です。安静にしていて下さい」
医者は看護師に言った。
「睡眠薬を使おう。安静を守るためには、それが一番だ」
そのうち俺は眠りに落ちた。そして夢を見た。双子の女と体格の良い男が病室にいる。デブの男つまり、俺に似たアンドロイドと思しき俺がベッドの中の俺に話しかけた。
「落ち着いて聞いて下さい。この病院は本当の病院ではありません。罠です。あなたを収監するための偽病院です」
双子の女が声を合わせて言った。
「ここはSNSの施設です。SNS即ちSuper Natural Serviceは直訳すると超自然」
俺の姿形をした男が制止した。
「それを教えるのは、まだ早すぎる。今はまず、ここから脱出させるのが先だ」
そうは言っても俺は動けない。それに、俺を殺そうとした双子の姉妹が現れたのも謎で、それが気になって仕方がない。思い浮かんだ疑問を口に出そうとすると、双子の女が立てた人差し指を唇に当てて制した。
「あなたの声は特殊脳波としてモニターで観察されています。声ではなく、おならで喋って下さい。それなら盗聴されません」
そう言われても、やったことがない。俺の困惑を見て取り、三人が俺を応援した。
「やればできます。さあ、おならで話して下さい」
そう言われると何だか何とかなりそうな感じがしてきた。よし、やってみるか! と思ったのが何かの間違いだった。いや、もしかしたら、それが正解だったのか……何だか知らないが、おならが爆発した。尻の下で起きた大爆発は俺の体は勿論のこと、その偽病院も吹き飛ばした。あまりの衝撃で次元の壁に亀裂が入り、そこを通って俺は異世界へ旅立った。異世界に転生した俺は性別が変わり多重と名乗るようになった。しかし状態は不安定で時々、元の世界に戻る。そんなときは大抵、半引きこもりの長身デブだが、双子の姉妹になっていることもある。そして何やかんやあって、今いる異世界へ戻るのだ。まったくもってわけが分からない。それでも聖女となって皆から崇められているから今の境遇は悪くない。
そう、悪くないはずだったのに、どんでん返しが起きた。多重という名の聖女は、実は悪役令嬢だという告発が為されたのだ。告発したのはSuper Natural Serviceつまり超自然即応部隊と称する機関だった。告発が受理され裁判となり、私は有罪となった。そして異世界を追放され……というところでSNSの書き込みは途切れている。有志によるリレー小説は遂に未完で終わったのだ。
この続きを誰かが書いても一向に構わない。ご自由にどうぞ。
☆ 後宮妃の軍事クーデター ☆
皇帝が病床に伏したとの機密情報を入手した列強諸国の外交官は自らの日記に、このように書いた。
‘高齢にもかかわらず好色で節制を知らなかった老害が遂に死の床に就いた ’
酷い書き方だが概ね事実だった。間違っている点があるとすれば、皇帝が節制に励んでいたということだろう。
そう、皇帝は確かに閨事を控えめにしていた。そうしないと身が持たないからだ。それでも若い頃からの習慣は止められない。効果抜群な精力剤の力を借りて頑張る……と書けば「どこが節制してるんだ!」とお叱りの声が飛んできそうだが、性への情熱が並々ならぬ皇帝にしてみたら、一日の回数を自ら制限するというのは大我慢の域に入る。
そんなことはこの際どうでもいい。皇帝が愛飲した精力剤について触れる。
それは辺境の山岳地帯でしか採れない貴重な生薬だった。都の宮廷に持って来るのは現地で暮らす山岳民族である。後宮の宦官たちは、山岳民族から生薬を受け取り、皇帝に服用させた……と書いたところで不安を感じた。
宦官、と書いたが、この存在を知らない読者がいるように思えたのだ。
簡単に説明すると性器を切除した男性である。男女の間違いを犯す可能性がないので後宮で働くことが許されている。皇帝にしてみれば信用できる使用人なのだが、時に政権を滅ぼす原因となった。秦の趙高、明の魏忠賢は、そう言った宦官の代表格である。
そして今、皇帝に臨終の時が迫る中で、宦官たちは暗躍を始めた。後継者の擁立に向けて動き出したのだ。
次の皇帝になる皇太子は既に決まっている。だが宦官たちは、自分たちの操り人形となる傀儡を皇帝にしようと企んだ。皇太子が謀反を起こそうとしていると嘘を言い、意識が朦朧としている皇帝を唆して、皇太子の死罪を命じさせた。命令を受けた兵士たちが宮廷の一角で暮らす皇太子の捕縛に向かう。
皇太子の側は当然ながら逮捕に抵抗した。宮殿の中で激しい戦いが起こる。皇太子を容易く捕らえられるものと思い込んでいた宦官たちは狼狽した。ここで負けたら終わりである。
宦官たちは恐慌を来しかけた。逃げ出そうとする輩も現れた。それを叱咤する後宮妃がいた。もう若くはない。かつては皇帝に愛されたが、その美貌はとっくに失われている。それでも、威厳があるのは事実だった。右往左往する軟弱者を怒鳴りつける、殴り飛ばす、あるいは宥める等でパニックを鎮めつつ、彼女は援軍を求める使いを出した。伝令が向かった先は都の外れ、山岳民族の寝泊まりする宿舎である。都と故郷を往復する彼らのために皇帝は特別に土地と建物を用意していたのだった。
前述した後宮妃は、その山岳民族の出身だった。彼女からの応援要請を受けた山岳民族は宮廷に向かった。その数は数百人に上ったと言われている。故郷へ戻らず都の宿舎で生活する者が多かったのだ。もっとも、数百人程度では広大な宮殿を占拠するのは困難だ。だが、戦力が拮抗している戦場に突如として現れると、それなりの効果がある。しかも、その山岳民族は剽悍で有名だった。都の弱兵が相手なら一人で十人は倒せると噂された戦闘能力を遺憾なく発揮して敵を撃破、哀れ皇太子は囚われて処刑された。
その頃には皇帝も死んでいたらしい。殺されたとも伝えられているが、詳細は不明だ。
宦官たちは安心して自分たちの意のままに従う皇帝を擁立しようとした……が、山岳民族に全員が捕らえられ処刑された。山岳民族出身の後宮妃が命じたのである。次に彼女は臨時政府の樹立を宣言した。自らは、その首班に就任した。その根拠は何か? すべて皇帝の遺言だというのである。
その理屈に納得する者はいない。反発した重臣や将軍らは一斉に反旗を翻した。その軍勢が宮殿に向かう。
いくら山岳民族が強くても、多勢に無勢。かなうわけがない……と都人たちは予想したが、それは間違いだった。宮殿を包囲した軍隊は敗北し、壊滅的な被害を受けた。
後宮妃と山岳民族の側が勝ったのは、優秀な武器のおかげだ。宮殿にある高価な宝物と引き換えに列強諸国から最新鋭の装備を手に入れていたのである。機関銃や大砲といった当時の最新兵器は、弓矢と刀槍が標準装備で近代的な武器は火縄銃しか持っていない旧式な軍隊を圧倒した。反乱を起こした重臣や将軍らの大半は銃撃を浴びて死に、生き残った者は降伏して、戦いは終わった。
後宮妃の側が勝利したと見た列強諸国は、彼女の臨時政府を正統なものとして承認した。
臨時政府の首班となった後宮妃は皇帝の血を引く者を傀儡の皇帝として自らが政治の実権を握った。
列強諸国から技術を学ぶ施策を断行し中国の近代化を成し遂げた彼女が、あまり知られていないのは残念に思い投稿する次第だが、求められている物語ではないような気がするので、是非ともお読み下さいとは口が裂けても言えない。
☆ お前と俺のエモい放課後注意報 ☆
そいつと出会ったのは放課後。そのとき、俺は帰宅途中だった。
「待て」
呼び止められて振り返り、俺は驚いた。
「お前は……俺か?」
俺と瓜二つの青年はニヤッと笑った。
「そうだ、俺はお前、お前自身だ」
頭がクラクラしてきた。俺は俺だ。だが、目の前の若者は、自分も俺だという。何のことやら、さっぱり分からない。
目を白黒させる俺に、そいつは言った。
「俺は未来のお前だ。お前に会うためタイムリープしてきたんだ」
眩暈が酷くなった。タイムリープってのは、時間跳躍とかいう意味だ。つまり、こいつは未来から過去へ時間を越えてやって来たってことなのか?
「俺に会うって……そんなことのために、わざわざ? 自分に会いたいなら、鏡を見れば済むだろ」
俺の質問に未来の俺は首を横に振って答えた。
「鏡の中の自分に用はない。俺は過去の自分に会わないといけなかった」
何かが引っ掛かったので、その点について俺は尋ねた。
「時間が経てば自然と未来の自分に会うよな。タイムリープしなくても、未来は必ず訪れるのだから。それなのに、お前は過去へ舞い戻った。過去の俺に会うために。それって、もしかして……これから俺に、何か悪いことが起こるんじゃないだろうな」
未来の俺はグスッと笑った。その目が怪しく輝いたのを見て、俺の不安は高まった。
「もしかしたら、俺は未来で大変な目に遭うんじゃないか?」
未来の俺はニンマリ笑って言った。
「そうとも。当たりだよ、冴えてるな」
「やっぱりそうか、お前は俺に警告しに来てくれたんだな、危険を避けるためのアドバイスをしてくれるんだな!」
「違う違う、勘違いするな」
「何だと」
「俺たちの死は避けられない。よく考えろ、人は皆、いつか死ぬものだ」
言われなくたって分かっている。俺は腹が立ってきた。
「じゃあ何しに来たんだよ!」
未来の俺は言った。自分たちは将来、孤独死する、と。
「寂しい死を迎えるんだ。野垂れ死にみたいなものだよ。その覚悟をしていても、死ぬ間際になって後悔するんだ。ああ、もっと色々やっておけば良かったなって」
そうか! と俺は合点がいった。
「それがアドバイスなんだな! 後悔しないように生きろって、それを伝えるために!」
「ちゃうちゃう、そんなんじゃない」
未来の俺は、俺の手の中のスマホを指差した。
「今お前、充実してるだろ。ソシャゲとかやって、満足してるだろ。それならいいんだよ、後悔なんかしないって」
ゲームやスマホに関して、俺は依存症ってくらいやっている。これを取り上げられたら、生きていけない気がする。
「それじゃ、何なんだ一体?」
「お前、友だちゼロじゃん」
その通り、俺はぼっちだ。
「彼女もいないじゃん」
その通り、彼女いない歴が全人生だ……そうか。
「分かったぞ、友だちや彼女を作れってんだな!」
「いや、それはむしろ、俺たちにとってストレスだろ」
さすが俺、俺のことはよく分かっている。
俺はぼっちであることや彼女がいないことを、まったく気にしていない。そういうのがいない方が、気は楽だ。正直、一人でいる方が好きなタイプなのだ。人間嫌いというほどじゃないが、密な関係を持とうとは思わない。昔からそうだった。自分以外の人間には基本、興味を持てない性質なのだ。それは、これからも変わらないと思う。死ぬまで、そんな気がする。
しかし未来の俺は違うようである。
「俺は孤独が好きだ。そう思って生きてきたのだけれど、死ぬ間際になって、気持ちが変わった。青春時代の、エモい放課後の思い出があるといいかなって、そう感じたんだ」
「そうか、それじゃ、頑張って思い出を作ってくれ。さいなら」
「おい、待てよ」
「同じ俺に悪いけど、青春時代のエモい放課後の思い出なんて、今の俺は要らないんで」
「待てって、そう言うなって!」
「つーかさ、別に今の俺に関係なくね? あんたが勝手に他の奴らとエモいことやってりゃいいじゃねえか」
「だからさ、俺は俺にしか興味がないんだ」
「は?」
「俺は自分しか愛せない人間なんだ」
「エゴイストなのは、俺も知ってる。自分のことだから分かる」
「エモいことをしたいんだよ、お前と」
「キモ」
引き気味の俺に未来の俺は言った。死の直前、エモいことをしたいと祈ったら、枕元に最高神スターツ・ノベマ! が降臨したのだという。
「ちょ、ちょっと待って! 最高神スターツ・ノベマ! って、何なのそれ」
「この世界のすべてを司る神だよ」
スターツ・ノベマ! が最高神なんだ……と俺は思った。それはともかく先へ進む。
この世界の最高神スターツ・ノベマ! は未来の俺を若返らせ、さらにタイムリープの力を与えた上で、こう言ったそうだ。
友達以上、恋人未満
名前の付けられない関係の、男の子ふたりの青春作品
主人公の年齢は10代~学生
葛藤や不安などが、出会いによって変化し、成長していく
舞台は自由
放課後や部活動、サークルなど
同世代が心救われるような、エモい気持ちになれる、青春ストーリ―を期待しているぞ
俺は言った。
「知らんて、そんなの」
未来の俺は足を大きく踏み出した。
「友達以上、恋人未満で、名前の付けられない関係の、男の子ふたりの青春だ。当てはまる」
「名前が付けられるだろ、同一人物だよ」
未来の俺は人の話を聞いていなかった。
「主人公の年齢は10代~学生」
「お前、実は年寄りなんだろ?」
「葛藤や不安などが、出会いによって変化し、成長していく」
「いや、お前、成長してない。むしろ人間的に退化してる」
「放課後や部活動、サークルなど」
「放課後だけど帰宅部だ。さいなら。お前も早く未来へ帰れ」
「帰るところなどない」
未来の俺は悲しげに言った。
「俺には帰る未来なんてない。死が待っているだけだ」
俺はため息交じりに言った。
「死は避けられないって言ったの、お前だろ」
「でも、死にたくない。死から逃れられないのなら、後悔したくない。せめて、後悔だけはしたくないんだ」
「自分で蒔いた種だろ! 自業自得なんだよ! いいかげん諦めて往生しろって!」
「だから、後悔したくないから、ここに来たんだ! 願いがかなったら、俺は素直に天国へ行く」
天国に行くつもりであることに、俺は驚かされた。それはこの際どうでもいい。未来の俺が俺に迫る。
「頼む、エモい思い出を作らせてくれ」
俺は後退りした。
「断る」
「頼む」
「嫌だ」
「お願いだよ」
「嫌だって」
「頼むよ」
俺は未来の俺に背を向けて走り出した。
「待ってくれよ! 俺を置いていかないでくれよ!」
未来の俺が追いかけてきた。俺は全速力で走った。未来の俺を振り切りために、力の限り走る。周囲の風景が次々と変わった。走っている場所が次から次へと移り変わっているからだ。俺はアスファルトの上を、海岸の砂浜を、学校の廊下を駆け抜けた。どれだけ走り続けただろう? それでも背後から未来の俺の呼び声が聞こえてくる。
「いや~ん、待って~!」
この世の一切合切を支配する最高神スターツ・ノベマ! は本当にこういう物語を欲しているのだろうか?
考えたけど答えは出てこない。俺たちは流れる汗もそのままに走り続けた。
☆ 卒業旅行で海外の美術館を見てきたので、その思い出を書くよ ☆
卒業旅行で海外へ出かけた。とある美術館を見学する。凄い人だかりだった。有名な絵画を鑑賞しようとしても、見えるのは人の頭ばかりである。
それで、すっかり気分が萎えた。元々、芸術に興味がある方ではない。観光名所だから来たまでのこと、とりあえず土産話になったので、それで十分だった。混雑する場所を避け、ゆっくり座って休めるベンチはないかな~と探し回っていたら、良さげな空間を見つけた。絵や彫刻が展示されているのだが、人気が本当に少ない。不人気な作品を集めた部屋なのだろう。
冷やかし半分で入ったら、驚いた。物凄い芸術品が並んでいたからだ。
芸術に詳しくない人間が何を言ったところで意味はないとは思う。それでも衝撃を受けたし、何より感動した。これが芸術の力か! と痛感した。本当にショックだった。まるで生まれて初めてアイスクリームを食べた幼児みたいだと自分でも思う。
作品の横にはパネルが置いてあって、説明が書かれていたのだが、残念ながら読めなかった。これも子供みたいだった。
美術館への入場時に作品の説明を各国語で話してくれる音声ガイドを借りられたのだが、面倒で借りなかったことが悔やまれた。いったん入り口へ戻って音声ガイドを借りてこよう、と思ったが生まれつきの方向音痴が災いし、迷子になってしまった。夢中になって作品を見ていたら、自分がどこにいるのか分からなくなったのだ。案内人も案内板が見あたらず、途方に暮れてしまう。人がいっぱいいたら、その後について歩けばいい。だが、このエリアには人がほとんどいなかった。作品鑑賞にはもってこいだが、こうなると逆に不便だ。
どうしようかなあ……と考え込んでいたら、人を見かけた。キャンバスを立て飾られた絵を模写している。そういう人を美術館の中で何人か見かけた。勉強している画学生なのだろう。集中しているので、ちょっと話しかけにくかったけれど、声を掛ける。
相手は絵筆を止めた。いやはや、申し訳ない。御迷惑をお掛けしますと言い、たどたどしい外国語で入り口に戻りたいことを伝えると、丁寧に教えてくれた。意外といい奴じゃん! 芸術家って変な奴ばっかりかと思ったら、そうでもないんだ、と偉そうに思う。相手の言葉は、こちらの心へスムーズに沁み込んできた。母国語で会話しているみたいで、驚いた。精一杯のお礼を言って教えられた道を通る。外国へ来るとヒアリング能力が向上するんだなあ……と感動していたら、いつしか周囲に賑わいが戻っていた。入り口に戻って、音声ガイドを借りたいことを伝え……られない。相手の言葉も分からない。別の人に代わってもらって、それでも駄目で、三人目になってやっと会話が成立した。さっき感じた語学力の向上とは一体、何だったのか! しかも閉館間際で音声ガイドを借りられなかった。がっかりである。
帰り際、先ほど見学したエリアについて聞いてみた。素晴らしい作品ばかりなのに、人が少ないエリアだと説明したが、相手は笑われた。今は観光シーズンなので、館内はどこも大混雑だと言うのだ。そんなことはない、凄く空いていて、快適に芸術鑑賞ができた、また戻って続きを見たい! と言ったら相手は真顔になった。それから羨ましそうな口調で言った。
美術館の中に、案内板には載っていない不思議なエリアがある、という噂が昔からある。そこは奇妙な空間で、既に失われた芸術品が展示されているというのだ。芸術に興味のある物にとっては夢の世界であり、いつか自分も行って見たいと思っているけれど、ここに勤め始めて三十年以上になっても、そこへは辿り着けずにいる。あなたは選ばれたのだ、それがとても羨ましい、とのことだった。
何かの間違いだとしか思えなかったので、話半分で聞いていたけど、その都市伝説は有名らしく、帰国後この話をしたら皆に羨ましがられた。
だけど正直、メリットは感じない。芸術で飯を食べる人生設計はないので、自分が選ばれたとしても無意味だと思う。あの美術館へ再び行く機会があれば別だが社会に出たら、そんな時間は確保できない。どうしろというのか? とも感じている。
それでも不思議な美術館内の美術館への入館を許された身として、何か芸術活動を始めねばならないかな……と考えないでもない。芸術オンチを卒業するのだ。とりあえず生成系AIをダウンロードしてみた。良いのが出来たら公開したいのだけれど何をやっても、見ていると眩暈がして頭が変になりそうな絵しか創造できずにいる。これも一種の芸術かもしれないが……人には見せられない。
☆ ※スケジュールは変更になる可能性がございますのでご注意ください ☆
推敲に推敲を重ねていたら締め切りギリギリになってしまった。だが、間に合った。送信ボタンを押す。そして公募作品一覧ページを開く。自分の作品はなかった。早すぎたのだ。まだ処理中なのだ。そう考えて、しばらく時間をおき、再び同じページを開く。なかった。もうしばらく待つ。そして同じページを開く。やはりない。新着のページには送信した自作が掲載されていた。しかし公募作品の一覧ページにはない。それでも、何度も再読み込みを行う。この作品に心血を注いだためだ。命を懸けて書いたからだ。再読み込みを延々と続ける。その動作を丸一日繰り返し、やっと募集要項のページを開く。そこには『応募受付期間は終了いたしました。たくさんのご応募ありがとうございました。』と表示されていた。
募集要項のページを、もう一度じっくり見る。締め切り時刻は13時のはずだ! それまでには絶対、間に合ったはずだ。全身がガタガタ震えた。自分は午後一時までに送信した……そう思ったが、こんな表示も書いてあって、体がガタガタ震えるばかりか、失禁もした。
『※スケジュールは変更になる可能性がございます。』
メールで公募の事務局へ問い合わせる。返事には「スケジュールが変更になりました」と書かれていた。
人生を賭けた作品は受理されなかった……この出版社からデビューしたかったのに!
涙がとめどもなく溢れた。涙は、やがて血に変わった。ショックで血管が切れたようで、血が止まらなくなった。その作家志望者は自分の血でできた血だまりに突っ伏し息絶えた。
☆ ネズミ駆除業者 ☆
天井裏や床下そして壁の中からガサガサゴソゴソという物音が聞こえるようになって一週間。貴女は遂に、物音の正体と顔を見合わせた。そのときの様子は、こんな具合だ。
気配を感じて真夜中に目を覚ましたら、闇の中に小さな光が幾つも蠢いている。枕元に置いていたスマホの明かりで室内を照らすと「キーキー」という鳴き声が喧しい。布団から出ている素足に何かが当たった。慌ててベッドから体を起こし、壁のスイッチを押す。天井の照明が灯った。足の方にいた黒っぽい灰色の物体が室内を走り回る。それだけではない。同じような黒灰色の塊が何十匹もゴミの散らかった床の上を駆け回っている。空になったカップ麵や弁当箱の間を走る謎の生き物たちの正体が何か、貴女は分からない。不思議な生物の繰り広げる大運動会を我を忘れて凝視していた貴女は、やがて思い出したかのように悲鳴を上げた。謎の小生物たちは寝室の壁と床の接合部に開いた小さな穴の中へ次々と入り、姿を消した。
あれはきっとネズミに違いない、と貴女は思った。ネズミのような野生動物は田舎にしかいないと勝手に考えていたが、都会の高級住宅地にある自分の屋敷にも出るのだと気付き、怒りと恐怖で震える。ネズミの巣が屋敷の中か、屋敷を取り囲む林の何処かにあるのだろう。駆除が必要だ。だが、どうやって?
そう言えば、そういった業者が新聞受けに入れた広告のチラシがあったはず……と考えた貴女はゴミの中から苦労して目当ての紙を見つけ出した。屋敷の中に自分以外の人間を入れるのは絶対に嫌だが、ネズミとの共同生活も御免だった。この屋敷にネズミ駆除業者を招き入れるかどうか決めるのは、この業者に電話してからにしようと考える。
電話に出た男は、ネズミが疑わしいけれど調べてみないと何とも言えないと断定を避けた。ネズミだとしたら、どういう対処法があるのかと貴女は尋ねる。素人がやるのならば殺鼠剤が良いと、相手は答えた。それだけ聞けば十分だった。貴女は礼の言葉も言わずに電話を切る。宅配業者が届けた殺鼠剤を屋敷の中と外の敷地内のあらゆる場所に仕掛ける。ネズミが殺鼠剤に手を付けた様子はあった。しかしネズミの死骸は見当たらない。見えないところで死んでいるのだろうと貴女は考えた。このまま殺鼠剤を撒き続けていれば、いつかネズミは死に絶えるはず……と思ったけれど、出没する黒灰色の塊の数は増える一方だった。
貴女は激怒した。件の業者に再び電話する。最近のネズミの中には殺鼠剤の効かない種類がいると電話の男は言った。何とかしろと貴女は怒鳴る。相手の男は「実際に調査しないと対策の立てようがないです。私に任せて下さい。ネズミはペストのような危険な病気の原因となります。やるからには徹底的に調べ、根こそぎ駆除しなければいけません」と答えたので、貴女は電話を切った。しばらく怒りは収まらなかった。だがネズミとの同居はもうたくさんだった。三度、業者に電話をする。来訪の予約をした。その日が来た。
作業服を着た業者の男は色々な機材を持って屋敷を訪れた。貴女の監視の下で広大な邸内の至る所を調査する。やがて男は言った。
「ネズミの巣は寝室の壁の裏側の隙間にあるようです。床と接する部分に小さな穴が開いています。そこから出入りするのでしょう。穴の中へファイバースコープを入れ、中を視認します。巣があれば除去します」
貴女は規定以上の料金を支払い、業者を追い出した。後は自分でやると告げる。何も面倒なことではない。壁の穴を何かで塞げば良いのだから――と思い重い箱で穴を封じるも、出入り可能な穴は他にもあるようでネズミの出現は続いた。穴の中へ殺鼠剤を入れても効き目が無かったので、煙で燻してみようと思ったが、窓を閉め切った室内で火を起こしたら自分の方が死ぬかもしれないと考え、止める。
壁を壊し、中の巣を除去しようと貴女は決意した。トンカチで壁を叩き壊す。なかなか手間のかかる作業だった。壁の中に隠された部屋が、やっと出て来た。ネズミの巣は、どこだ? 懐中電灯で暗闇を照らす。白骨死体は見えたが、他には何もない。ネズミの巣など、どこにもない!
「やはり死体の隠し場所は、ここでしたか」
男の声が聞こえ、貴女は驚いた。いつのまにか自分の横に男が立っている。見覚えのある顔だった。
「お前は、ネズミ駆除業者!」
「それは仮の姿。本当は探偵です。失踪した貴女の御主人の捜索を御主人の御実家から依頼されまして、警察と協力して調査を進めておりました」
男の説明が終わる前に警察が室内に入ってきた。壁の中の隠し部屋にある白骨死体を見て、刑事が貴女に尋ねた。
「この白骨死体について、何かご存じでしょうか?」
貴女は何も知らないと答えた。刑事は言った。
「この死体は行方不明の御主人の可能性があります。そして貴女には、御主人を殺害し死体を隠した疑いが掛けられています」
そして刑事は貴女を逮捕した。
「警察署でお話を伺いますので、御同行願います」
連行される前に、貴女は探偵に苦情を言った。
「ヘボ探偵さん。ネズミの巣は、ここになかったわよ」
ヘボと言われた探偵は肩をすくめた。
「私も不思議なんです。貴女が仰るような、ネズミがいる痕跡はどこにも見当たらなかったんですよ。貴女が目撃したのは、本当にネズミだったのですか?」
☆ 噂の某芸能事務所と幽霊の街と地下都市伝説2023~2024 ☆
とある芸能事務所と深い付き合いのある友人がいた。ある日そいつが忙しいってことで、代わりにタレントの送迎を頼まれた。こっちも何度かやっている仕事だった。また一つ頼むと言われたのだ。報酬は悪くなかった。こっちは、それなりの信用があったからだ。余計なことを言わなければ、それだけの金が貰えるってことだ。
ある場所でタレントを拾い、別の場所へ運ぶ。そういう話だった。某テレビ局の近くから大物芸能人が多く住む地域へ車で送り届け、帰ろうとしたらスマホが鳴った。事が済むまで待て、との指示だった。分かったと返事をする。不満があっても受け入れるのだ。とやかく言わない。どんな仕事でも大切なことなのだろうが、今夜はとりわけそうだった。曇り空に見え隠れする満月を眺めて時間を潰す。
しばらく経って呼ばれた。敷地内へ入れとのことだ。中へ入るのは初めてだった。オートロックの門扉が開いて、やっと車が入れる。警備員はいない。車を徐行させエントランスの前に横付けする。タレントが出てくるのを待ったが出てこない。スマホに連絡が入る。泥酔して動けないから運んで欲しいとのことだった。やれやれだ。
玄関の鍵を開けてもらい、住居内に入る。変な匂いがした。足元に大いびきのタレントがいた。立てるかと聞いたが返事がない。肩に担いで無理やり立ち上がらせる。家の主がいたので、どうすればいいかと指示を仰いだ。相手は目をぎらつかせ、こっちを見つめている。苦笑した。こっちには、そういう趣味がない。芸能界にデビューするつもりもない。ついでに言うと、こっちは相手の好みとされるタイプとは程遠い面相をしている。真顔で再び次の指示を伺う。
タレントのマンションへ運ぶのは駄目だと言われた。マスコミが張り付いているからだ。別の場所へ連れて行くように命じられる。渡された紙に書かれた住所へ行くには少し遠回りしないといけない。そう付け加えられた。幾つかのポイントを通るのだそうだ。詳細を聞くのは止めた。何をどうするのか、それだけ聞けばたくさんだ。
「それじゃ」
「待って」
「何です?」
「これを持って行くと良い」
お守りを手渡された。返すのも何なので礼を言って受け取る。
「気をつけて」
写真を撮られるな。その意味だと思ったら、違った。幾つかのポイントとかいうのを越えたら、一気に来た。変な物体、きっと霊魂とか幽霊とかいう連中が、車の外をうようよ歩くのが見えてきたのだ。こっちには、霊感が少しだけある。だから、そういうのが街を普通に歩いていることを知っているのだが、今夜は多すぎた。そういう奴らしかいない街の中に車は入り込んでいたのだ。
カーナビが目的地到着を告げる。幸いにも周囲に幽霊はいなかった。後部座席のタレントを車から降ろそうと後部ドアを開ける。横倒しになって眠っていたタレントが体を起こした。全然違う人相に代わっていた。いや、人というより野獣の顔だ。こっちに向かって牙を剥く。慌ててドアを閉める。送り届ける予定の建物の入り口横の呼び鈴を鳴らす。インターホンから返事があった。女の声だった。頼まれて人を運んできたのだが、ちょっと困っている、力を貸して欲しいと頼む。玄関から三人の女が出てきた。若い女、中年女、老婆の三人だった。同じような顔をしている。三世代なのか、赤の他人なのか、こっちは分からない。後部座席のアレをどうにかしてもらえたら、それでいい。
女たちはタレントを大人しくさせることに成功した。車から降りたタレントは四つん這いになって建物へ入って行った。中をちょっとだけ覗いたら、鏡が見えた。風呂の鏡のように湿気で濡れている。こっちの姿は映っていたが、三人の女の姿は見えない。余計な詮索はせず立ち去ることにした。女たちに頭を下げる。向こうも会釈した。建物に入らず、こっちを見送る様子なので、さっさと車を出す。見ないつもりだったがバックミラーを見てしまう。女たちの姿は、やはり見えなかった。
出るときは普通に出ていいのか、聞くのを忘れた。ポイントを逆戻りしなくていいのかと思ったが、一方通行を逆戻りするのは避けたい。幽霊もイヤだが、それ以上に警官とかかわり合いたくない身の上なのだ。お守りを頼りに、幽霊が闊歩する街を進む。
大通りに出た。幽霊も見えないが人もいない。人の声を聴きたくなってラジオを付ける。深夜の人生相談だった。こんな時間に珍しい。故郷を離れた者の話だった。急に煙草を吸いたくなった。生憎と切らしている。煙草は諦めるとして、その代わりに喉の渇きを潤そう。自動販売機を見つけたので車を止める。自販機の横に階段があった。何の気なしに階段の下を見る。階段の天井に照明があった。照明の黄色い光に引き寄せられて階段を降りる。階段の下に街があった。人も車もいない車道と夜空に浮かぶ三日月が見える。夜空に浮かぶ満月をさっき見ていた気がするけれど、それについては深く考えないことにした。階段を駆け上がって車へ戻る。ここで飲み物を買うのは止めた。早く帰って寝よう。
その後もタレントの送迎をする機会があった。あの晩ひどく泥酔していたタレントの送迎も二度か三度やった。最初の時は緊張したけど、次からはそうでもなかった。相手はこっちを覚えていない様子だった。でも、ある時ふとバックミラーを見たら、こっちを変な顔で見ていたから、もしかしたら何か思い出したのかもしれない。それでも、こっちは何も言わない、尋ねない。それなりの報酬を得て生きていくためには、それが大切なのだ。
☆ 江戸の妖女、鳥居耀子 ☆
高く明るく澄み切った娘の声が音吐朗々と座敷に響き渡る。
「ゆうとぴあ、とます・もあ、りべりうす、うぇあ、ねう、みのうす……」
彼女の口から発せられる呪文のような言葉に魅入られたかのように、その場の男たちは身動き一つせず聞き入っていた。咳き一つ発しない。寝ているのではない。春の江戸は好天に恵まれ暖かな日差しが降り注いでおり、そんな中で開かれる外国語の勉強会ともあれば一人や二人あるいは三人以上の出席者が居眠りしそうなものであるが、彼らは聞き慣れぬ異国の言葉に真剣に耳を傾けていた。その表情には一様に驚きの色がある。当時の日本で最高の西洋語学研究集団である彼ら尚歯会の面々が読めなかった異国の書を、会合に飛び入り参加した美しい武家娘がスラスラ読みこなしているのだ。驚くなと言っても無理だろう。
やがて娘は読んでいた書物を閉じ可愛らしい笑顔を見せた。
「もっと続けましょうか?」
娘の横に座っていた渡辺崋山は目をぱちくりさせて言った。
「いや、もう結構です。本当にありがとうございました」
自分の子供のような年齢の娘に渡辺崋山は頭を下げた。三河国田原藩家老でありながら、その物腰には威張ったところがなく、ごく自然な態度で女子供に礼を述べる。彼は温和な性格の紳士だった。
ただし、それだけではない。彼は娘に尋ねた。
「およう殿、今の言葉ですが、らてん語ではございませんか?」
おようと呼ばれた美しき乙女は頷いた。それを見て出席者の一人で医師の高野長英が感嘆の声を漏らした。
「さすがは渡辺様だ、らてん語がお分かりなのですね。本当に勉強家でございますなあ」
渡辺崋山は微笑んだ。
「いいえ、分かっているというほどのものではありません。絵画の勉強のために異国の書物を読むのですが、そのとき我らが知っている蘭語(オランダ語)とは別の文章が書かれた文献があり、その注釈に<らてん語>と説明書きがあって、気になったもので色々と調べていたのです」
藩重役にして西洋の学問の研究者である渡辺崋山は画家としても有名だった。西洋絵画を独学で学び陰影の付いた画法や遠近法を習得することで、自らの画風を高めていた。
高野長英は出席者たちに言った。
「らてん語は解剖学その他の学問でも使われています。西洋の学問の根幹をなす言葉だそうです。蘭語だけでなく、らてん語も我々は研究するべきでしょう」
一同は頷いた。その一人で高野と同じく医師の小関三英が娘に尋ねた。
「およう様は、どこでらてん語を学ばれたのですか?」
おようの父は幕府の旗本で、江戸城の書庫に勤めている。そこには神君家康公の時代からの蔵書が収められているが、百年以上も前の書物には修復が必要で、それが彼女の父のお役目だった。父は城だけで仕事が終わらず蔵書を自宅へ持ち帰り作業を続けることがあった。ある日おようは父の机の上で修復作業中の異国の書を見つけた。らてん語の教本だった。子供向けだったので、とても分かりやすく、父が修復を終えて城の書庫へ収めるまでの間に、彼女はらてん語の基礎を知ることができたのだった。
「ですから、らてん語を読めるだけで、意味まではわかりません」
おようの言葉を受けて、小関三英が言った。
「私はらてん語を読めませんが、先程およう様が読まれた、ゆうとぴあ、そして、とます・もあ、という言葉には聞き覚えがございます。西洋世界では、広く知られているようです」
高野長英が尋ねた。
「どのような意味なのですか?」
小関三英が答える。
「ゆうとぴあは、どこにもない理想郷という意味です。そして、とます・もあは……」
「とます・もあは?」
「ご政道を批判して処刑された学者のようです」
その場の空気が凍った。尚歯会の会員の中には徳川幕府の政治を批判している者が何名かいたのである。
その一人というか代表格が高野長英である。彼は『夢物語』という書物を匿名で著し幕府の鎖国政策を批判した。
もう一人が渡辺崋山だった。彼も同様に幕政批判の書『慎機論』を書いている。
ちなみに小関三英は、発表していないがキリスト教の研究書を執筆中だった。幕府はキリスト教を禁じている。執筆中の本の内容が発覚すると処罰される恐れがあった。
恐れ知らずの自信家である高野長英はカラカラと笑った。
「匿名の人間の色々な意見があるということで問題はございませんよ。問題なのは幕府の外交政策です。鎖国は危険です。いずれ西洋国家が日本に開国を迫ってくるでしょう。鎖国を盾に開国を拒否したら、西洋諸国が激怒して日本を攻撃してくることが予想されます。そうなったら、日本に勝ち目はないでしょう」
穏やかな人柄の渡辺崋山が同意する。
「そうなったら、無駄な血が流れる前に開国すべきでしょう。それが嫌なら海防体制を急いで構築すべきです。ただし、これには大金が必要です。それで破産する藩が出てくるかもしれません。しかし軍備を増強しないことには、日本は守れません」
海に面した田原藩の家老である渡辺崋山は外国船の接近に備えた沿岸防衛計画を作成する立場にあった。外国船との砲撃戦に勝つためには強力な大砲が要る、しかし日本の技術力では作れない……そんなジレンマを日々感じているのである。
高野長英は腕組みをした。
「日本を滅ぼすのは外国ではなく幕府ではないかと自分は考えています。西洋の学問を否定し、その優れた科学技術を目の敵にする守旧派こそ、日本の真の敵なのだと」
渡辺崋山は、うっすらと伸びてきた顎髭を撫でてから言った。
「その総帥が幕臣の鳥居耀蔵殿でしょうな。老中水野忠邦様の懐刀として改革の中心になっているお方ですが、その政策は改革ではなく現状維持だけで、海外の変化に対応ができていません。あれは良くないです」
出席者たちは暗い表情で俯いた……しかし勉強会が終わり宴会が始まると明るくなった。おようは宴会には参加せず、暗くなる前に帰宅した。いずれまたお目にかかります、と言い残して。
その日は思いのほか早くやってきた。場所は尚歯会の勉強会ではなく、江戸城内である。幕府批判の罪で逮捕された渡辺崋山は、取り調べ役の幕臣が用意した証言者のおようと対面することになったのだ。
先頃の会合での渡辺崋山の発言を、おようは証言した。まぎれもなく政道批判である。渡辺の有罪が確定した。国元の田原に蟄居を命じられ、後に自殺する。
高野長英も捕らえられ、伝馬町の牢獄に放り込まれたが、牢に放火して脱獄した。それから日本中を逃げ回るも最後は幕府の捕吏の手で捕殺される。
小関三英は逮捕されなかったが、自殺した。
この他にも多くの逮捕者が出た。これが後に蛮社の獄と呼ばれる思想弾圧事件である。その指揮を取ったのが鳥居耀蔵だった。後に江戸南町奉行となり強硬な市中取り締まりで町民たちから「江戸の妖怪」と恐れられた男である。
その令嬢である鳥居耀子が幕臣の娘おようを名乗り尚歯会への潜入捜査を敢行したと言われているが、もしもそれが事実だとしたなら彼女は「江戸の妖女」と呼ばれるに相応しい女だろう。
☆ アメーバの海で泳ぐ ☆
私は形の一定しないものが苦手だ。見るのも嫌だし、触るなんて考えただけで気分が悪くなる。
そんな私がアメーバへの同化体験学習をさせられるとは!
教室の掲示板に貼られた割り当て表を見て、私は卒倒しかけた。だが、ここで気を失うわけにはいかない。私が在学中の魔法学校は生徒の健康にとても気を遣う。もし気絶したら保健室へ運ばれ検査だ。そして全身から注射針の生えたハリネズミの保健の先生の出番となる。採血の注射も私は苦手なので絶対に失神できない。もしものときは注射針を魔力で曲げてやる。いや、その前にアメーバに合体する実習を断固拒否だ!
私は担任の教師にテレパシーで事情を説明し、別の体験学習への変更をお願いした。最新型AI搭載のロボット教師は私の要求に応じなかった。苦手を克服することも体験学習の目的だから、との理由だった。
ロボット教師の石頭に私の得意技メテオ・ド・ストライク(宇宙から巨大な隕石を落下させる)を食らわしたくなったけれど、私はおしとやかな優等生ということになっているので止めた。代わりに切々と訴える。
「おぞましいですわ! ぐちゃぐにゃしたスライムの体内に入るなんて、繊細な私には耐えられませんわ!」
「我慢しなさい。ぐちゃぐちゃ&ぐにゃぐにゃしている存在に入り、それと同化するための訓練です。それから、スライムではなくアメーバですから」
「スライムでもアメーバでも同じことですわ! ああ汚らわしい。私の清純が汚されてしまいます! 花嫁の純潔を信じて下さる未来の夫に申し訳が立ちません!」
私が非処女であることをロボット教師はやんわりと指摘した。なぜバレたのか? それはともかく実習の日が来た。魂だけの身軽な姿に変身した私は泣く泣く異世界に転移する。そこは知性あるアメーバの生息地だった。魂だけの存在になって宙を舞う私の下は見渡す限り海だ。そこに私が同化体験するアメーバがいるはずなのだが、この大海原からたった一個の単細胞生物を探し出すのは無理だろう。砂浜に落ちた差し歯を見つけ出す方が簡単だ……と思っていたら!
「魔法学校の生徒さんって、あなた?」
誰かが私にテレパシーで話しかけてきた。そうですと答えたら相手は自己紹介した。
「僕が君を担当するアメーバだ。よろしく」
「よろしく。あの、どちらにいらっしゃるの?」
「君の下」
「海しか見えませんけど」
「海に見えるけど、それが僕」
眼下に広がっているのは海ではなく巨大なアメーバだったのだ。私は驚いたけど、もっと驚かされる事態が待ち受けていた。
「今から君を体内に入れるけど、驚かないでね」
足元の水が一気にせりあがり私の全身を包む。私は焦った。水の中で溺れ窒息すると思ったためだ。
「げぼぼぼぼ」
「落ち着いて。君は魂だけの存在になっているから溺れないよ」
そうだった。私ってあわてんぼう! とか言っている間にも、視界いっぱいに海水じゃなかった、アメーバ体内の空間が広がっていく。そこは静かな場所だった。透明度は怖くなるくらい高い。光線の具合で液体は時にエメラルド色に光るけれど基本の色は青と緑の清純な世界は暖かで過ごしやすく、心地好かった。私以外は誰も、何もいない。いいえ、ごくたまに、遠くに何かが動いているのが見えた。それが何なのかアメーバに聞いてみると、アメーバの体を維持する小器官だという返事が返ってきた。
「人間でいう内臓の一種だよ。悪い物じゃないから心配しないでね」
アメーバも生き物だから色々な臓器があるのだろう。そういった臓器が働いてくれるからこそ、こうして奇麗な体が保てるのだ。肉体のない状態の私はアメーバの中を自由自在に動き回り、楽しんだ。重たい体が無いと、どれほど楽か! と思った。その快適さに慣れた頃アメーバから「そろそろ時間だから戻りましょう」と言われ、嘆き悲しんだ。
「ええっ、もう時間! もっと泳ぎたい!」
「延長だと追加料金が掛かるよ」
「じゃいいです」
楽しい時間が終わり、私は魔法学校へ戻った。素敵な夢から覚めた感じがして、何もかもが色あせて見える。溜息が出る。
とりあえず私の抱えていた形の一定しないものに対する嫌悪感は薄らいだ。しかし、まだ完全消失には至っていない。それでは駄目だとロボット教師は判断したらしい。
「まだ修行が足りませんね」
「それじゃ、またあのアメーバの中へ行けるの?」
その逆だった。あのアメーバを私の体内へ転移させ、一緒に過ごさせることが決まった。しばらくアメーバに寄生してもらって、それに慣れることで不定形なものへの苦手意識を無くすのだそうだ。
「魔法使いの国家試験ではオールマイティーな能力が必要とされるからね、弱点の不定形を乗り越えて!」
不定形へのこだわりがあるのは、そっちだろう! まあいいや。あのアメーバは清潔だから寄生されても病気の心配はなく適度なダイエット効果が期待されるのだそうだ。そうだったらアメーバが体内に寄生するとどうなるか、多少の興味がある。本当に食べても太らない体になるのなら、長居をしてもらうつもりだ。もちろん家賃はいただく。
☆ ジュンとジュネのジューンブライド事件 ☆
市役所に通じる道路は市警の警察官と州兵が完全封鎖していた。市職員は身分証を見せれば通してもらえるが、一般市民は身分を証明できるものを見せても通過が許されない。無理に通ろうとする者は阻まれた。制止を振り切って中へ入ろうとすると逮捕される。抵抗する者は激しく殴打された。幸いなことに死者は出ていないが、完全武装の警官隊と州兵部隊には発砲許可が出ており、死人が出てもおかしくない状況だった。
異常な事態である。市民からは不満の声が上がっていた。市役所と市警本部そして州兵を統括する州政府に苦情の電話が殺到していたが、市と州当局は無視を決め込んでいる。過激派対策が最優先なのだ。
これほどまでに要警戒なテロリストとは何者か?
ジュンとジュネという同性愛者のカップルだ。二人は憲法が認める同性婚の権利を行使しようと市役所へ婚姻届けを提出しに行って受け取りを拒否された。州政府の法律には同性婚の記載がないため、書類は認められないというのが理由である。市への抗議がなしのつぶてだったので州政府に抗議文を送り付けたが、これも無回答だった。地方レベルでは話にならないと考えた二人は中央政府の出先機関へ相談した。中央政府の回答は明確だった。同性婚を認めない市と州の対応は憲法違反である。ただちに書類を受理せよ、という命令が市と州政府に送られた。地方政府に結婚を認められなかった同性愛者のカップルが中央政府を味方につけたわけだが、これが市と州当局にとっては体制を揺るがす極悪人に映ったのである。
この地方が元来、保守的な土地柄だったこと。そして革新政党が与党の中央政府と保守派の牛耳る地方政府の対立があったために、ジュンとジュネの同性婚が大問題に発展してしまったのだった。二人を応援するグループが現地入りし調整を図ったものの解決には至らず逆に、その中の強硬派がデモ行進を実施したことが相手を刺激してしまい、遂に警官隊と州兵部隊の動員による市役所封鎖という事態に至った。
中央政府は地方の過剰反応を事実上の反乱とみなすか討議を重ねた。反乱とは認定されなかったが、政権内では強硬案が選択される。首都の治安維持を任務とする陸軍空てい部隊と歩兵部隊の現地派兵が決まったのだ。
中央政府の派遣命令を受け州政府は州空軍に最高レベルの警戒を命じた。州空軍の戦闘機部隊は空てい部隊の輸送機を撃墜し、爆撃機部隊は歩兵部隊を載せたトラックを木っ端微塵に吹き飛ばす準備を始めた。
情勢の悪化を目の当たりにして、無関係の市民の間に動きが見られた。内戦の勃発を恐れ市街地から逃げ出そうとする者が現れたのである。
別の動きもあった。一部の市民が同性愛者への迫害を始めたのだ。市警が見て見ぬふりを決め込んだので暴力がエスカレートした。被害者側や報道各社が事実を広く世界に公表したため、世界各国から非難の声が上がった。中央政府は一刻の猶予もないと判断し派遣予定の部隊の出発を急がせると共に、現地駐留の陸軍部隊にも出撃を命じた。
だが、これは危険な一面があった。現地の陸軍部隊は、その土地の出身者から成る。彼らが中央政府の命令を拒否する恐れがあるのだ。最悪の場合、市と州当局に合流するかもしれない。それは反乱の序章と考えて差し支えなかった。
中央政府の与党は特使二名を派遣した。一人は地方政府側へ、もう一人はジュンとジュネの元へ。地方政府への特使は市役所の封鎖解除を要求すると同時に、それを拒否した場合の中央政府の対応を伝えた。国境線から移動させた陸軍戦車部隊と最新鋭戦闘爆撃機部隊が数時間以内に進撃を開始するという通告に州軍首脳は震撼した。州空軍の航空機は旧式機が多く、それでは最新鋭機に太刀打ちできない。それに州兵の装備では厚い戦車の装甲を貫けなかった。総攻撃されたら彼らに勝ち目はなかったのである。
ジュンとジュネに派遣された特使は、市役所への婚姻届け提出を諦めるよう促した。その代わり中央政府が特別措置として二人の結婚を認めると伝えた。
特使との会談終了後、市と州当局の首長は市役所の封鎖解除を宣言した。ジュンとジュネはマスコミに対し、事態の早期収拾のため特使の提案を受け入れると発表した。そして二人は特使に保証人となってもらい中央政府へ婚姻届けを届け出た。この騒動はそれでようやく収まったのである。
ところで、この事件がどうして「ジュンとジュネのジューンブライド事件」と呼ばれるかというと、ちょっとした事情がある。二人の婚姻届けが首都の関係省庁に届けられたのは五月末だったが、担当の役人が書類を決裁したのは六月に入ってからだったので、二人が結婚したのは六月ということになったのだ。
ジュンとジュネが末永く幸せに暮らしたのも、他の同性愛者が普通に結婚できるようになったのも、ジューンブライドのおかげだという都市伝説があるけれど、お題が「都市伝説」だったのは四月のことだ。五月末の今は「ジューンブライド」だけですべての説明が付く。
☆ 出撃前の夏祭り ☆
夜陰に乗じ敵艦を攻撃しようと真っ暗な海を航行していた特攻艇を、雲の切れ間に現れた真っ赤な月が照らし出した。上空で日本軍の接近を警戒していた米軍機が特攻艇に気付く。急降下して機銃を撃ってきた。特攻艇の乗員が対空砲で反撃する。その一発が命中したようだ。敵機から煙が上がるのを見て歓声が沸く。だが、歓喜の時はすぐに終わった。別の戦闘機が爆弾を落としたのだ。爆弾の直撃は免れたものの、大爆発で起きた大波を真横に喰らって特攻艇は引っ繰り返った。特攻艇の乗員たちが海に投げ出される。その頭上に銃弾が雨あられと浴びせられた。惨劇から目を背けたいのか、赤い月は雲の影に隠れた。血に染まった海が闇に包まれる。
やがて朝が来た。唯一生き残った乗員の青年は特攻艇の建材の木片にしがみついて海を漂っていた。幸い、体に傷はない。だが、それが何だというのか? ここは海の真っ只中である。近くに陸地は見えない。このままであれば、いずれは力尽きて死ぬ。若いので体力はあるが、広大な海と比べたら、砂粒のようなものだ。
元より死は覚悟している。特攻艇の乗組員で、死ぬ覚悟のない者はいない。敵艦に体当たりして死ぬのが乗員たちの任務だった。体当たりできずに死ぬことが無念なだけである。
青年は自分だけ生き残っているのが恥ずかしく思えてきた。仲間は皆、海の藻屑となった。それなのに自分だけ、こうして海の上を漂っている。生き恥をさらしている、と彼は思った。木片から手を離し、仲間の後を追うのだ! と彼は心に決めた。
そのとき、ふと、夏祭りの光景が頭に浮かんだ。出撃前、彼は仲間たちと一緒に、基地の近くの村の夏祭りに出かけた。戦時であり、賑やかな雰囲気はなかったが、それでも若者たちの心は浮かれた。これが最後の夏祭りだと、誰もが思っていた。
その祭りで青年は、可愛い娘と知り合いになった。もう一度、会いたい。そう思っていたら出撃の日が来た。逢えずに海へ出た。そして今、海に浮かんでいる。
あの子にまた会いたい、と青年は思った。朝日から方角を導き出す。あちらが東なら、出撃した基地の方向は……おおよその見当がついたところで、青年はバタ足を始めた。木片を頼りに、基地まで泳ぐつもりなのだ。かなりの距離がある。その途中で力尽きる可能性大だ。
それでも青年は泳ぎを止めない。あの娘と再び会うために。
☆ 吸血鬼ハンターはお年頃 ☆
ヴァンパイア狩りで学費を稼いでいる。そう言うと大抵の人は驚く。何しろ危険な仕事だ。マッチョなタフガイをイメージするのだろう。確かに、そんな体格の男性同業者は多い。でも、皆が皆そうじゃない。虫も殺さぬ顔をした老婦人が恐るべき殺し屋の場合もあるし、月齢三か月程度の乳児が超能力で吸血鬼に幻覚を見せ月光浴のつもりで日光浴させて消し炭に変えるなんてのもある。私みたいに小柄な女子中学生なら、普通ではないにせよ騒ぎ立てるほどのものでもない。
それでもやっぱりビックリされるし、色々と聞かれる。たとえば、こういうのだ。
「ヒーローと契約で特別な関係になったり、たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことも……あるの!?」
こんな質問をするのはだいたい、同い年くらいの女の子だ。ヴァンパイアというものに、何かしらの憧れがあるのだろう。
質問の答えは彼女たちを失望させる。ない、そんなことは全くないのだ。
まあ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。けれど、私に関してはない。私にとってのヴァンパイアはヒーローじゃない、狩りの獲物だ。たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことの代わりに、一匹のヴァンパイアを仕留めるためにたくさんの吸血鬼ハンターが協力するのではなく互いの足を引っ張り合い、時に人間のハンター同士で殺し合うことがある。人間は吸血鬼以下の存在だと痛感させられる瞬間だ。世紀末はしばらく来ないというのに、もう世も末だとウンザリする。
それはいい。私の狩りのやり方を教える。ヴァンパイアは血を求めて闇の中をさまよっているので、血の匂いでおびき寄せる。鉄とタンパク質の複合体から精製する人工血液気化ガスの入ったボンベの栓を開けて待つのだ。のこのこ現れたら捕まえる。警官みたいに手錠をかけるわけじゃない。私に見つめられた吸血鬼は、私の言いなりになる。大人しくしろと命じたら動かなくなるし、死ねと言われたら自らの心臓に杭を打ち込む。どういった理屈でそうなるのかは知らない。父が異世界から来た異形の神だったとか、母が滅亡した大宇宙の魔女の生き残りだとか、いろんな仮説を聞かされたけど二親ともこの世にいないので聞くことはできない。
とっ捕まえた吸血鬼をどうするかというと、売る。美少年が大好物の芸能事務所社長やハンサム大好きなヌン活マダムがお得意様だ。中産階級の家庭にも売れる。ちょっと良いところで、箱入り娘がいるような家だ。親が買って、お嬢様にあてがうのである。意外に思えるかもしれないが、売上高はこちらの方が多い。車を買い与えるような感覚だろうか。
どうして吸血鬼を娘に与えるのかというと、変な虫が付かないようにするためだ。凄いイケメンで人間離れした戦闘能力を持つ吸血鬼にかなう男なんか、まずいない。要するにデカい蚊がボディーガードになって、他の男が寄り付かないようにしてくれるのである。蚊に刺されたらどうするのって心配はご無用だ。吸血鬼に生殖能力はない。絶対に避妊してくれるボーイフレンドなら親は安心だ。娘と家族に危害を与えぬよう私が命じたら絶対服従するので、飼い主には噛みつかないことは保証済みだ。
そんな従順な美男子が選り取り見取りなんて、羨ましい! とやっかむ子がいるけど、私は全然うれしくない。私にとって吸血鬼は売り物にすぎないのだ。好きも嫌いもない。とっ捕まえて売るだけだ。
そんな現実主義者の私も年頃の女の子だ。いつか素敵な彼と巡り会いたい。繰り返すけど、それは吸血鬼じゃないよ。売り物に手を付けるのはプロじゃないから。
☆ 君にノックアウト ☆
ダンス部の朝練を終えたあたしは汗だくになって教室へ入った。窓を閉め切った室内は蒸し暑い。あたしはエアコンのスイッチを入れようと壁のリモコンに近付いた。リモコンを壁のホルターから外す。その表示を見て、あたしの頭は沸騰した。暖房になっている。しかも設定は三十度だ。
「なにこれ、どこのバカが入力したのよ! 真夏に暖房なんて頭おかしくなりそう!」
朝の七時なのに三十度を超える炎天下の中で練習してきたせいで熱中症になりそうだったあたしは、熱と怒りで震える手でリモコンの設定を変え始めた。そのときだった。
「悪いけど、しばらく、その設定で頼む」
振り返ると学校一のワルと噂のワイ君が立っていた。その顔は、あたし以上に汗だくだった。それもそのはず、全身をサウナスーツに包んでいる。気は確かか! とあたしは思った。
「なんなの、その格好」
見ているだけで暑苦しい姿のワイ君がひび割れた声で答えた。
「減量がうまくいかなくて」
ワイ君はキックボクシングのプロ選手だ。家計を支えるため勝負の世界に身を投じ大金を稼いでいるとの噂だった。キックの鬼の再来と呼ばれる有望株らしい。でも、楽な戦いではないようだ。試合のたびに減量をしている。それが大変らしい。身長が大きくなっているから、同じ階級に留まろうとすると、それだけ過酷な減量をしなければならない……みたいな話を誰かが言っているのを聞いたことがあるけど、そんなのあたしの知ったこっちゃない。
リモコンのボタンをピッピと押し始めたあたしに、ワイ君が食って掛かる。
「止めてくれ、今度の試合に、俺は人生を賭けているんだ。あと少し、もう少し減量すれば……頼む、お願いだ」
「うるさい!」
哀願するワイ君を無視して、あたしはリモコンを操作した。すると、相手はあたしからリモコンを取り上げ、壁掛けホルターに戻した。
「他の人が来るまで、この温度で頼む」
「あたしは暑いの!」
あたしは壁のリモコンに取り付いた。操作するあたしをワイ君が邪魔する。
「この野郎、退け!」
腹の底から怒鳴って手を振り回したら、拳がワイ君の側頭部にぶつかった。ゴン! と凄い音がしてビビった。
「痛い!」
手の甲を抑えるあたしの目の前で、ワイ君がヘナヘナと崩れ落ちた。素人のあたしにノックアウトされたのだ。これが学校一のワル? 若手の有望株? と嘆かわしく思ったけど、それはこの際どうでもいい。
冷房を最強で稼働させたわたしは、必要以上に甲高い声で「ワイ君、大丈夫? しっかりして!」と言いながら、わざとらしく介抱を始めた。
☆ 最悪のファーストキスは神様のせい ☆
文化祭当日、私は朝から絶好調だった。今日は何もかもが上手くいきそうだと思った。予感は当たり、午前中のダンス部のパフォーマンスはバッチリだった。これなら午後の腕相撲大会女子部門での優勝は間違いなしだと確信した。練習試合では無敗だったし、何事もなければ、賞品の無料お食事券五千円分ゲットは確実だろう。
その油断があったせいかな。私は階段を三段飛ばしで駆け下りる途中、足を滑らせた。頭から落下する。手を突かないと大怪我だ! と必死に床へ手を伸ばしたとき、誰かに体を支えられた。
「お前、大丈夫かよ!」
階段から転げ落ちそうになった私を抱きとめてくれたのは、同級生のワイ君だった。私の顔を覗き込んで心配そうに尋ねてきたので私は平気だと強がった。それから相手の手を振り払って言った。
「変なとこ触らないで」
ワイ君はブチ切れた。
「助けてやったのに、そんな言い方ないだろ」
「偉そうに言わらないで」
辺りを見回してからワイ君は言った。
「ここだけの話だけど、今のでお前の運気は低下した。うちの学校にいる神様が、お前の態度の悪さに腹を立てたからだ」
何言ってんだ、こいつ! と思ったけど、同時に私はゾッとした。うちの高校は昔のお城の跡地にあるんだけど、お城が建てられる前は神様を祭る神聖な場所だったそうで、地元の人は今も学校の敷地の隣にある小さな祠を参拝に訪れる。
中には学校の内外で神様らしき何かを見たという人もいる。どうやらワイ君もその一人らしい。
でも、そんな話を私は信じられない。ワイ君は占い部で一番の腕利きという評判は聞いているけど、それにしたって運気の低下はないって!
相手にすると変なのがうつりそうだったので、私はワイ君に触られた胸やお尻の部分の制服をわざとらしく手で払ってから、その場を立ち去った。
ワイ君との一件があってから数時間後、私は絶望の淵に立っていた。謎のコンディション不良に見舞われていたのだ。
今のこの状態で、腕相撲大会を勝ち上がれることはできるだろうか?
保健室で休めば治るかもしれないが、ゆっくりしている時間は残されていない。
それでも、ベッドで横になれば少しは楽になるかも……と考え、保健室へ行ってベッドでひと眠りしたら、夢の中に白い人影が現れ「自分は神様だ」と名乗ってきたから驚いた。
神様は言った。この学校の文化祭は神事である、と。いうなれば神に捧げる祭りなのに、お前の不貞腐れた態度で神聖な場の空気が悪くなった、責任取れ! とのことだ。
知ったこっちゃねえ! と怒鳴り返してやりたくなったが、夢の中だとどうもうまくいかない。
そんな私に神は告げた。
「ワイ君に御礼の接吻をしろ。そうすれば万事うまくいくようにしてやる」
何を言ってんだ、この変態! と怒鳴る自分の声で目覚めた。保険の先生が驚いてベッドにやって来た。
「先生、何でもありません。良くなったので失礼します」
私は保健室を出ると占い部が催しをやっている教室へ直行した。部屋の前には行列ができていた。占ってもらおうという連中が多いことに驚きつつ、人の列をかき分け室内に入る。黒いカーテンで雰囲気を出す教室の真ん中に、ワイ君がいた。
「何だ、また喧嘩を売りに来たのか」
占いグッズが載った机の後ろに座っているワイ君は、私の顔を見て不機嫌な口調で言った。その場の空気が悪くなったと、霊感も何もない私でも感じられた。間違いない、神は今、ここにいる。
私はワイ君に近づいた。その顎をクイッと持ち上げ、唇に口づけする。
用を済ませた私はワイ君から手を離した。左右に目をやって「キスはした。今度はそっちの番だから」と言う。硬直しているワイ君を置いて部屋を出る。腕相撲大会が開催される講堂へ向かう。試合開始前、神に祈りを捧げる! なんてことはしない。神頼みは嫌いなのだ。ただ神に、お前の義務を果たせ! とだけは言った。
優勝賞品の無料券を手にホクホク顔で下校する私を、校門の横で待っていたワイ君が呼び止めた。
「なに? 私になんの用なの?」
警戒する私に、顔を強張らせてワイ君は言った。
「どうしてあんなことをした」
「ああ、あれのこと? それはね、神様がやれって言ったから」
ワイ君は唖然とした。
「そんな理由で? あれは僕のファーストキスだったんだぞ!」
男のくせにファーストキスがどうとか馬鹿か! と私はせせら笑ってから言った。
「私もそうだから、おあいこ。どう? 一緒に何か食べてかない? 私が奢るから」
断るかと思ったら、畜生め、ワイ君は話に乗ってきやがった。それが私たちのファーストデートとなった。
☆ 戦車競技に参加した部活の先輩後輩の話(体育祭編) ☆
放たれた矢は標的のゾンビ怪人とは遠く離れた方向へ飛び、砂漠の灼けた砂山に突き刺さった。命拾いしたゾンビ怪人が外した射手を嘲笑う。そいつは自分の眼を前を走り去るチャリオットと呼ばれる二輪の戦車へ向かって唾まで吐いた。射手の傍らに座りチャリオットを操る御者は、それを横目で見て、わずかに手綱を引いた。速度を緩めようとしたのだ。その動きを射手は見逃さなかった。
「速度を落とすな」
第二の矢を弓につがえながら射手は御者に命じた。御者は射手の部活の後輩だった。先輩の命令には逆らえない。手綱を緩める。手綱を通じた御者のテレパシーで制御されていたサイボーグ汗血馬は野生の本性を剥き出しにした。六本の足に張り巡らされた冷脚装置から赤い蒸気の煙を出して突っ走る。暴走する人工の獣に牽引されるチャリオットの速度が急激に上がった。
これで的に当たるのか、と御者は不安になった。矢の標的のゾンビ怪人はチャリオットが走るコース横の杭に縛り付けられ逃げられない。動かない相手なのだから、王立兵学校の生徒の中で一番の射手である先輩なら、当たりそうなものだが……やはり高速で疾走するチャリオットから矢を命中させるのは至難の業なのだろう、と御者は思った。
二人が乗っている二輪の戦車は次の標的に接近した。これもゾンビ怪人だ。王国の敵である。王立兵学校を卒業したら、二人が戦う相手だ。職業軍人を育成する学校の体育祭で催される戦車競技で矢の標的とされるに相応しい。
チャリオットがゾンビ怪人の真横に来る直前、射手は矢を放った。矢はゾンビの胸に深々と突き刺さる。ゾンビ怪人は金気が苦手だ。鏃の金属イオンで腐った肉体は速やかに崩壊する。どろどろに溶け始めたゾンビを見て貴賓席でファラオが歓声を上げた。ファラオはゾンビが大嫌いなのだ。王立兵学校の生徒たちに「ゾンビを皆殺しにせよ」と常に命じている。その一方で、同じ不死の怪物であるミイラには保護政策を取っていた。同じ死人なのだから矛盾していると、ファラオと敵対するブードゥーの神官たちは避難している。どっちもどっちだ、と御者は思っている。生物部員の彼から見るとゾンビもミイラも死んだ魔物に変わりない。
その生物部の先輩が隣の射手だ。体育祭で開催される部活対抗の戦車競技に出ようと後輩を誘った。チャリオットでの戦車戦は授業で行われる。その科目の一つに戦車競技があった。直線コースを走る速度を砂漠で採取した砂の時計で計測し、射手が設置された幾つかの標的を矢で狙う。 速さと正確さを競うのである。同じノリでやればいい、と二人は考えた。ただし授業とは少し勝手が違った。国王陛下つまりファラオが体育祭を見に来ることになったのだ。活躍しているところを気に入られたら、出世の糸口になるかもしれない! という希望が緊張につながったのか、さすがの先輩も第一の矢を外した……と後輩の御者は考えた。
事実は違った。先輩の射手はファラオに緊張していたのではない。意中の女性に良いところを見せようとして、普段なら絶対にやらないミスをしてしまったのだ。彼は競技の前に、好きな異性に告白していた。相手の女性は「チャリオット競技で一番になったら付き合ってあげてもいい」と答えた。頑張る! と彼は言った。そして第一の矢を外したのである。
もう絶対に外せない、と射手は考えていた。無心だ、無心になって、矢を放て! そう自分に言い聞かせて、弓を引き絞る。ファラオの歓声が、また上がった。射手が告白した娘の「ガンバー!」という黄色い声援が王家の谷やピラミッドで反響し砂漠の演習場に木霊した。異世界の古代エジプトっぽい場所での、今は昔の出来事である。
☆ ベリーズのカフェで働いていた頃、極道に溺愛された話 ☆
昔、ベリーズに住んでいた。中米の小国だ。私が暮らしていたときはイギリス領ホンジュラスという名前だった。その国で一番大きいベリーズシティという港町のカフェで私は働いていた。ある日、日本から旅行客が来た。精悍な男だった。どことなく悪な雰囲気を漂わせていた。ジャングルのジャガーを撃つのだと言って大きな猟銃を持参していた。
「仕事を休んで、一緒に行かないか?」
愛し合った後で男は唐突に、そう言った。
「どこに?」
「ジャングルだよ」
「危ないわよ」
「ジャガーなら怖くない。大物をハンティングに来たんだ。出くわしたら、射殺する」
ベッドの中で男はニヤッと笑った。物騒なのは猛獣だけじゃない、と私は言った。
イギリス領ホンジュラスは当時、隣国のグアテマラとの関係が悪化していた。領土問題が発生していたためだ。グアテマラは国境に軍隊を配置し圧力を掛けた。対抗してイギリスも軍隊を増強した。ジャガーが生息している国境沿いのジャングルは両軍が睨み合い、一触即発の危険地帯と化している。
「そんなとこへ行って紛争に巻き込まれたら、どーすんの」
そう言う私に男は背中の刺青を見せた。
「俺は極道だ。切った張ったの大立ち回りには慣れている」
だからといって自分が撃たれかねないジャングルの奥地へ行かなくとも良いだろう……しかし、のこのこ一緒に出かけた私に偉そうなことは言えない。若さゆえの過ちというやつだ。しかし過ちを犯したのは、それだけの理由があるからだ。何しろ、あの男はカネがあった。その後に比べると安かったが、それでも当時の日本円は強く、海外では使い出があったのだ。
現地に行って、男は落胆した。狩猟ガイドたちは口を揃えて「ジャガーたちは大勢の兵隊を恐れて姿を消した」と言ったのだ。
「なんだよ、畜生め! ここまで来てジャガーを撃てないっていうのかよ! こんなの、やってられないってんだ!」
男は怒り、酒を浴びるように飲んだ。そして宿で私を溺愛した。まるで私が猛獣の雌だと勘違いしているような激しさだった。
疲れた男がいびきをかいて寝ている夜明け前、私は宿のベランダから外を見た。ジャングルの上は星明りが眩しい。地表は暗黒に包まれている。虫や鳥の鳴き声が聞こえてきた。その音がピタリと止まった。闇の中に二つの光が見えた。よく見てみると、二つの光が一緒に動いていることが分かった。さらに目を凝らす。光は私に近づいていた。それが獣の目だと分かったのと、私の悲鳴。どちらが先だったのか。光が獣の目だと気付いたことの方が、わずかに早いだろう。獣の動きは、もっと早かった。獣が近づいているというのに動けずベランダで立ち尽くす私に飛びかかる。
狩猟ガイドが後から教えてくれた。襲ってきたジャガーは、親離れして間もない子供だったから、貴女は助かったのだ、と。
狩りに慣れていない子供の個体だったので、獲物との間合いを測れず、ベランダの柵に当たって無様に引っ繰り返った。私の悲鳴を聞いて宿の他の客が騒ぎ出し明かりを灯したものだから、私を襲撃したジャガーは驚き、その場を逃れた。おかげで私は難を逃れたのだ。
その間、男は起きなかった。ホテルの中は大騒ぎだったのに、泥酔していて夢の中だったのだ。
翌朝、目覚めてから男は事実を知った。そして怒り出した。
「どうして俺を起こさなかった! ああん? あれだけ俺がジャガーを撃ちたいって言っていたのによ、てめえ、俺を舐めてんのか!」
そして男は私を何度も殴り蹴り、それから猟銃の先を私の口の中に押し込んだ。
「お前ら女は皆、男から痛めつけられるのが大好きな屑だ。俺はちゃんと知っているんだ。お前らの好みをよ! お前らが好きなのはヴィラン、ワルい男、極道、不良、総長、そんなのばっかりだ。小説投稿サイトを見て勉強してっから、分かるんだよ!」
男は猟銃の引き金を握る指に力を込めた。カチリと大きな音が鳴った。私は絶叫したが筒先を押し込まれた口からは「ホガホガ」という空気しか漏れなかった。そんな私を見て男は笑った。
「弾丸は入れてねえよ、バカ! ここで撃ち殺すわけねえだろバカ。おまえ、本当にバカだな! ギャハハ、獣以下のオツムだな」
それから男は私を溺愛した。男は結局ジャングルでの日々をジャガー退治ではなく私を溺愛することに費やした。
男とはベリーズシティの街角で別れた。日本の暴力団の総長だか若頭という肩書の男は別れる時、私に米ドルを幾らか支払った。それから今日まで、一度も会っていない。もう名前も忘れた。でも、溺愛された思い出だけは消えていない。忘れられないのだ。あんなにも溺愛された体験は、あれが最初で最後だった。
☆ 恐るべき告白 ☆
突然の告白をされても私は驚かなかった。彼が私を好きなことは薄々わかっていたから。だってパーティーが始まってからずっと、私を見続けていたもの。
私が衝撃を受けたのは、彼が仮面を外し自分の正体を話し出したときだ。
「僕の名はロミオ。モンタギュー家の息子ロミオだ」
美しい面立ちの青年は確かに、そう言った。その言葉を聞いて、私は動揺した――ちょっとちょっと、ちょっと待ってよ! あなたがロミオって、それ本当なの?
深呼吸して気持ちを鎮めようとしたけど、上手くいかない。私は震える声で言った。
「よく聞いて。私はジュリエット。私の名前はジュリエットなの。ねえ、その意味、わかるよね?」
私が言っている意味が通じたようだ。ロミオの顔は蒼白になった。
「ジュリエットって……まさか、あの、キャピュレット家の娘の、ジュリエット?」
私はコクンと頷いた。相手も、それに合わせて小さく頷いた。
「よりによってキャピュレット家の娘を好きになってしまうなんて……信じられないよ。愛の告白をした相手が、キャピュレット家の娘だなんて、思いもよらなかったよ」
そう呟いたときのロミオは、これ以上ないくらいに絶望的な表情だった。見ているこっちが切なくなるほどに。
そのとき私は、自分がロミオを深く愛してしまったことを悟った。愛しい彼の口から悲し気な呟きが漏れる。
「こんなに愛している女性がモンタギュー家の仇敵キャピュレット家の娘だなんて……悪夢だ。これが、何かの間違いであってくれたら」
ロミオは潤んだ瞳で私を見つめた。私も彼を見つめ返し、涙声で呟いた。
「ねえロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」
ロミオは答えなかった。答えたくても答えようがない質問だった。
私たちはイタリア北部のヴェローナで生まれた。ヴェローナは二つの名門貴族が街の支配をめぐって長年争っている。その一つが私の実家、キャピュレット家。もう片方がロミオのモンタギュー家だ。両家の闘争は数代前から続いていて、互いを仇敵として憎み合っていた。
その家の人間同士が交際するなんて絶対にありえないことだった。親兄弟はもちろんのこと、親戚からも反対されるに決まっている。絶縁とか勘当とか、普通にありえるくらいの大問題なのだ。
もしも、そうなったら、どうしよう?
自分が家を追い出されるなんて、私は今まで考えたことがなかった。
そう、今この瞬間まで、そんなこと一度も考えたことがなかったのだ。
でも今、私は家を出ていく自分の姿を想像している。
私は実家を出て、愛しいロミオと二人で生活するのだ。
誰にも邪魔されない、二人きりの生活の様子が、私の心に浮かんで見えた。
それは夢のような暮らしだった。
突然ロミオが私を抱きしめた。私は抵抗しなかった。
「もう我慢できない。二人きりになろう」
誘いの言葉に、私は沈黙で答えた。
☆ 真夏の結婚式 ☆
その日は朝から街の様子がおかしかった、とヴェローナに暮らす連中は後になって言った。当時ヴェローナで暮らしていた俺の感じでは、特に何も変わらない普段通りの朝だった。だが、そう思わない者たちがいた。朝が訪れる遥か前からコーカサスアサガオが花開いていたから縁起が悪いとか、その花びらに嘴を突っ込んでいたのが絶対に夜は飛ばないことで知られるアルプスハチドリだったとか、夜明けを告げたのが雄鶏ではなく雌鶏だったとか、だからどうしたと言いたくなるような話をさも大ごとであるかのように顔を寄せ合い不安げに語り合っていたのを覚えている。迷信深い一部の輩が騒ぐものだから、一般大衆の気分は揺らぎ、それに引きずられて理性的な者たちも変な具合になった。それは俺の伯父さんも同じだったように思う。
いや、そうでもないのかな。
それこそ、俺の思い込みなのかもしれない。いつもは冷静沈着な伯父さんが、公正なヴェローナ太守として皆から信頼されている人が、あんなに慌てた様子を俺はそれまで見たことがなかった。これは天変地異の前触れかも! と心配した覚えがある。
その影響で、俺の記憶が混乱してしまったのだろうか? ヴェローナを支配する者と支配される大衆の不安が俺の内部で入り混じり、不正確な形で脳裏に刻み付けられてしまったのだろうか? まあ、どっちでもいい。話を進めよう。
その日の前の晩、俺は悪友たちと悪所で博打をやり、すってんてんになりかけて、そこからの逆転! で儲けた金を次の勝負で使い果たし、そこから少し勝って金を取り戻すという盛り上がるともそうでないとも言い難い結末と美味い酒を味わいつつ寝た。翌朝は日が昇る前に起きた。喉が猛烈に乾いていた俺は建物を出て、近くにある井戸へ行って冷たい水を汲んで飲んだ。生き返った思いがした。体の隅々に水分が行き渡ったためだろう。さっきまで感じなかった風の涼しさが心地好かった。
その時分かな、朝日が昇ったのは。夏の太陽は地表を焼き尽くす勢いで照り付けるが、明け方のうちなら、まだ可愛いものだ。俺は朝日に向かって祈りを捧げた。それからグーンと背伸びをした。二日酔いは抜けている。体調は快調だ。さ~て今日一日、何をして過ごすか? なんて考えていたら、通りの向こうからこちらへ進んでくる人馬が目に入った。
人も馬も体格の良いのが遠目からも分かった。馬上の人は立派な鉄兜を被った男だった。朝の光が金属に反射してキラリと眩しい。後ろに馬がもう一頭続いていた。そちらには荷物がくくり付けてあった。長くて太い槍が左右に数本下がっているのが見えた。
傭兵だろうな、と俺は判断した。ここ北イタリアは政情不安定だ。各都市が争う群雄割拠の戦国時代と言って構わないだろう。戦争は日常茶飯事なので、それを職業にする者は多い。この男の持参している兜や槍から、そういった連中の一人だと俺は見て取ったのだ。
勤め先を探しているのだろうか……なんて考えている俺に、その男は笑顔で声を掛けてきた。
「その井戸の水を飲ませてもらえるかな。喉も心も渇ききっていて、もう我慢ができそうにないんだ」
あいにく俺の井戸じゃない。だが、飲ませる分には問題ない。
「いいさ旅人。たっぷり飲みなよ」
男は馬を降りた。井戸の水を汲んで一口飲み、それから二頭の馬にも飲ませてやった。
俺は男の顔をじっくりと観察した。頬に生えた髭は黒くて濃い。その肌は同じくらい黒い。旅人は白人ではなかった。黒人だ。
ヴェローナで有色人種を見かけることはまれだ。同じイタリアでもアフリカに近い南部は、地中海を隔てたスペインみたいに有色人種のムーア人を普段の生活で目にする。北イタリアでも、地中海貿易で繁栄しているヴェネツィアやジェノヴァなら、まあまあ見る機会は多い。ヴェローナはヴェネツィアから凄く離れている! というわけじゃないけれども、どういうわけか異人種に接することが少ない。主要な交易相手は北部ヨーロッパなので、南の地中海より北のアルプスの方へ気持ちが向いているせいだろうか。
喉の渇きを癒した男は兜を取り、冷たい井戸水を頭にぶっかけた。縮れた黒髪が水を弾く。それから旅人は綺麗な木綿のハンカチーフを懐から出して顔を拭いた。
「ああ、さっぱりした。どうもありがとう、もう一つ願い事があるのだが」
「俺にできることなら」
「ヴェローナ太守の館はどこだろう? 良かったら教えてくれないだろうか?」
そこに俺は住んでる! と言い出しかけて止めた。
「ヴェローナ太守に何の用だい?」
「雇われたんだよ、ヴェローナ太守に」
「ヴェローナ太守に雇われて、ここに来たのかい? 何の仕事だろう?」
「こちとら生粋の軍人だ。傭兵の仕事をするんだ」
当たり前のことを聞くな、といった表情だった。
「兵隊かい?」
「隊長として雇われた。兵隊を束ねる指揮官だな」
俺は少しばかり驚いた。傭兵隊長の仕事はエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノという生粋のヴェローナ人が既にやっている。この男は、その代わりに指揮官に就任するのだろうか? その人事をヴェローナ太守である伯父さんが決めたのだろうか?
そんな疑問を俺が抱いたのは訳がある。伯父さんは政治的なバランス感覚に優れている。そんな伯父さんが、遺恨を残しそうな人事をするだろうか。
そうは思ったが、政治の世界はややこしい。何が起こるか分からない。
例を挙げる。
伯父さんはヴェローナ出身者ではない。西の大国ミラノから送り込まれた異国人だ。いわゆる余所者が、どうして太守を勤めているかというと、親ミラノ派ヴェローナ人が招聘したからである。
親ミラノ派の代表はキャピュレット家だ。キャピュレット家の敵であるモンタギュー家は東の大国ヴェネツィアとの関係が深いグループの頭目だ。モンタギュー家を中心とした親ヴェネツィア派にとっては、ミラノが送り込んできたヴェローナ太守の伯父さんは、目の上のたん瘤なのだ。何か機会があれば失脚させようと企んでいる。
そういう状況なので、余所者の伯父さんとしては、一般的なヴェローナ人の嫌ミラノ感情悪化を誘発するような事態を避けたいはずなのだ。
肌の色が違うだけで、何が気に入らないのか騒ぎ立てる者たちは多い。白人のヴェローナ人傭兵隊長の代わりに黒人を就任させるというのは、親ヴェネツィア派のモンタギュー家グループが待ち望んでいた厄介事の種であるように思われた。
「貰った手紙には、可及的速やかにヴェローナ太守の元へ参上するよう書かれていた」
そう言ってから男はニヤッと笑った。
「案内してくれたら、お礼を差し上げよう」
俺は男を連れて家に戻った。ヴェローナ太守の館はアディジェ川の流れに面した小高い丘に建っている。館を防御する堀を兼ねたアディジェ川の支流に架かる橋を渡り袂の詰め所にいる門番の前を顔パスで通過する俺を見て、男は言った。
「一つ、聞いていいかな」
「何なりとどうぞ」
「ヴェローナ太守の甥のパリスというのは、あんたかい?」
俺は足を止めた。
「そうだけど……よく分かったな」
「就職先について、ちょっとばかり調べたんだ。おっと、口の利き方に気を付けるべきだったな!」
男はカラカラ笑って言った。
「子供のいないヴェローナ太守は甥御殿を後継者にしようとしていると聞いている。つまり、未来のヴェローナ太守様だ」
俺の顔を覗き込んで男はウィンクした。
「ここに長く勤めるようなら、あんたとの関係を良くしておかないとな」
その割には口調が変わっていないけど、それはこの際どうでもいい。新しい傭兵隊長が到着したことを伯父さんに伝えるよう、召使いに命じる。
「それじゃ、俺はここで」
「せっかくだから一緒にどうだ? 伯父貴に朝の挨拶をしてないんだろ?」
「遠慮しとく」
「顔を合わせたくないってか」
俺は男を睨んだ。男は気にしていない様子だった。
「噂には聞いている。最近、二人の関係がぎくしゃくしているとな」
それから男は微笑んだ。
「良かったら話してみな。何かの力になれるかもしれないぞ」
俺は何も言わず、その場を去ろうとした。伯父さんの元から戻って来た召使いが俺も一緒に執務室へ来るように伝えた。男は俺を横目で見た。どう出るか、様子を窺っているのだ。
このまま自分の部屋へ戻っても良かった。だが伯父さんとの不和の噂話をされた直後だ。このまま自室へ引きこもるのも癪だった。俺は男の後ろに付いて伯父さんの部屋へ入った。伯父さんは落ち着かない様子で俺たちを迎え入れた。こんなに落ち着かない伯父さんを見たのは生まれて初めてだったので、俺は驚いた――という話は、もう書いたよな。
男は落ち着いた声で自己紹介した。
「お招きにより参上した、オセローだ。ヴェローナ太守殿、よろしく頼む」
この黒人の名はオセローというのか……と俺は思った。そして思い出した。隣国ヴェネツィア初の黒人将軍の名がオセローだったことを! 派閥争いか何かの影響で、左遷されたとか解任されたとか噂に聞いたが、その男がヴェローナへ来るとは考えてもみなかった。
となると伯父さんは、ミラノと対立するヴェネツィアの高級軍人をスカウトしたことになる。
俺は不安になった。このヘッドハンティングはヴェネツィアの感情を害してしまったのではないかと考えたからだ。
自軍の将軍が敵国に引き抜かれたとあれば、機密情報が丸々漏洩したも同然だ。報復のためヴェネツィアはミラノと、その同盟国であるヴェローナに対し、何らかの軍事的アクションを起こす恐れがある。最悪の場合ヴェローナは戦場となるだろう。
それが俺の不安だったが、伯父さんの狼狽は別の理由からだった。
「オセロー、早速だが仕事だ。いや、戦争ではない。軍務でなく人狩りだ。そちらの方も得意としていると窺っているが」
伯父さんの確認にオセローは胸を張って答えた。
「任せてもらおう。何が起こったのだ?」
その口調はヴェローナ太守に対する口調とは言いかねた。俺は伯父さんの顔色を盗み見た。よほど焦っているようで伯父さんはオセローの言葉遣いを注意せず、事件の概要を話し始めた。
昨夜未明、キャピュレット家の一人娘ジュリエットが失踪した。彼女の姿が最後に目撃されたのは従姉妹のロザラインの屋敷だ。そこで開かれたパーティーに出席して、仮面を着けた男と話をしているところを何人も見ている。やがて二人はパーティー会場から消えた。
そこで伯父さんは言葉を切った。オセローは目で先を促した。
「明け方になって、キャピュレット家に手紙が届けられた。届けたのは物乞いの老婆だ。暗いうちから残飯漁りに精を出していたら、通りがかった若い金持ちの娘からキャピュレット家へ手紙を届けてくれたら必ずお礼をすると言われて渡されたそうだ」
オセローは人差し指を上に挙げた。
「その娘は一人だったのか?」
「連れの者は近くにいなかったらしいが、まだ暗かったから物陰に隠れていて見えなかったのかもしれない」
「わかった。話を続けてくれ」
「手紙はキャピュレット夫人が読んだ。それがこれだ」
オセローは伯父さんから渡された手紙を広げた。一読して俺に渡す。俺は受け取った手紙の文章を音読した。
「お父様、お母様。これから私は愛した青年と一緒に旅立ちます。二人で愛の日々を送るためです。その男性はモンタギュー家のロミオです。そうです、我がキャピュレット家の仇敵モンタギュー家の嫡男です。二人の結婚を、とても許していただけないと思い、駆け落ちすることにしました。幸せになります。どうか探さないで下さい。私たちの結婚式にお二人をご招待できないことを、本当に申し訳なく思っています。わがままなジュリエットを、どうぞお忘れになって下さいませ」
俺は手紙から顔を上げた。伯父さんと目が合った。伯父さんは俺を睨んでいた。伯父さんが言いたいことは分かる。だが、俺は伯父さんの思いとは逆のことを言った。
「二人の幸せを祈ってやろう、愛し合う恋人たちの将来を祝福してやろう。そんな気分になりますねえ」
伯父さんは顔をしかめた。
「バカなことを言うな。これが何を意味するか、分かっているのか!」
「宿怨のある名門貴族の子供たちが、婚礼の祝宴を二人きりで上げようとしている、ですかねえ」
「ふざけるのもいいかげんにしろ。キャピュレットはカンカンに怒っている。一族郎党や仲間の貴族を引き連れてモンタギュー家に殴り込みをかけようという勢いだ」
そうなったらヴェローナは街を二分する戦場に早変わりだ。なるほどヴェローナ太守の伯父さんがカリカリしているのも納得だ。
「それでもですよ、もう二人は駆け落ちしてしまったんです、どうしようもないじゃないですか」
「連れ戻す。二人をそれぞれの家に帰すんだ。それで状況は元通りだ」
愛し合う恋人同士を引き裂いて得られる平和に何の価値があるのだろうか? と思うがヴェローナ太守としてはキャピュレット家とモンタギュー家の両勢力の均衡状態が最も価値あるもののようである。
「オセロー、聞いての通りだ。ロミオとジュリエットをヴェローナに連れ戻すこと。それが貴殿の任務だ」
オセローは寂しげな笑みを浮かべた。
「二人だけの結婚式を、真夏の夜の夢のままで終わらせるのが初仕事とは……因果なものだな」
☆ この駆け落ちは、最初で最後 ☆
ジュリエットはヴェローナの名門貴族キャピュレット家の箱入り娘である。初心な少女なのだろうと誰もが夢想する。
ロミオもそう考えていた。だが、予想とは違った。そう、まったく違ったのだ! その辺りからジュリエット拉致計画が少しずつ狂い始めたと言っていい。
疲れ切ったロミオが洗面所で顔を洗ったとき、鏡に映った自分の顔が一晩でげっそりやつれてしまったことに気付いて、足が震えるほど狼狽した。こんなことは今まで、一度もなかった。彼は老いさらばえた死に損ないではない、まだ十代の若者なのだ。それなのに、まるで中年男のような相貌が鏡の中にあった。理由はハッキリしている。それほどジュリエットはタフだったのだ。休みたい、と彼は思った。洗面所を出てベッドへ戻る。だが、そこは安息の地ではなかった。
「ロミオ、駆け落ちしましょう。二人で誰も知らない場所へ行きましょう! どこか遠いところへ!」
ベッドで待ち構えていたジュリエットが懇願した。彼女はロミオと二人っきりになってから、ずっと同じことを言っていた。そんなことより眠らせて欲しい、と正直ロミオは思ったが、彼女にそう言って欲しいと願ってもいたので、その願いを聞き入れる旨をまた伝えた。
嬉しい、と泣いてジュリエットはロミオにすがりついた。その肩を抱き「二人で駆け落ちしよう、遠くまで行こう」と同じような台詞を繰り返しつつ、彼は頭の中で計画をおさらいした。
ジュリエットに告白し、求愛を成功させる。
この第一段階はクリアした。
一緒に駆け落ちするよう、ジュリエットを説得する。
この第二段階も説得するまでもなく向こうから提案されたのでクリアだ。
次に二人でヴェローナから旅立つ第三段階へ入る予定だった。結構予定時刻は夜更けの人の少ない時間帯で具体的には今頃が最善なのだが、ロミオに不都合が生じた。疲労困憊で、その元気がなかったのだ。
夜が明けたら人目につくので二人は街中を歩けない。キャピュレット家の一人娘と、キャピュレット家と同じくヴェローナの名門貴族であるモンタギュー家の跡取り息子が仲良く一緒に歩いているところを市民たちが見たら、それこそ大騒ぎになってしまう。キャピュレット家とモンタギュー家の対立は根深い。その両家の二人が仲睦まじく街を歩いていたら、異常事態なのだ。
駆け落ちの準備は既に出来ている。街外れに馬を用意してあるのだ。今から向かえば日の出の時刻には馬が隠された街外れの古い屋敷跡へ到着する。しかし、そこへ行くのが面倒だった。そこそこの距離があり、歩くのは大儀なのだ。
ロミオはジュリエットへの求愛に失敗した場合に実施する予定だったプランについて考えていた。
ジュリエットがロミオを袖にしたとき――邪険に跳ね除けられた場合は、ロミオはジュリエットを誘拐するつもりだったのである。そのときに備え、待機している仲間が数人いた。その助けを借りて、街外れにある屋敷の廃墟まで連れて行ってもらおうか、と彼は考えていた。
だが……あいつらは今、どこにいるのだろう? とロミオは頭を悩ませた。
ロミオとジュリエットが今いる、この屋敷の中にいたら良いが、出て行ってしまっていたら面倒だ。
いや……仮に、この邸内にいたとしても面倒なことに変わりない、とロミオは苦々しく思った。
ロミオの仲間たちは部屋の様子を盗み聞きしていた。彼らはジュリエットの方から駆け落ちの話を切り出すのを聞いて、作戦成功を確信したはずだ。前祝いとばかりにパーティー会場へ戻り酒を呷って女たちに声を掛け……そして自分たちのお楽しみに励んでいる恐れがある。
キャピュレット家の一員で、ジュリエットの従姉妹であるロザラインの邸宅は広い。その客室をノックし続けていたら、夜が明ける。
対策を考えたがロミオは自分の脳内に答えを見出すことが出来なかった。
疲れのせいだろうか? いや、そうではあるまい。ロミオは元々、思慮深いタイプではなかった。
そんな彼でも頭を働かせることは可能だ。
「喉が渇いた。飲み物を持って来る」
そう言ってジュリエットに口づけしたロミオは部屋を出た。仮面を着けてパーティー会場へ向かう。
そこには二種類の人間がいた。一つは仮面をかぶっていない者たち。これはキャピュレット家の者たちや同家と友好的な人間が大半だ。ロザラインが主催するパーティーに正式な招待状を持参して訪れている。仮面は不要なのだ。
もう一方のグループは、招待状無しの連中である。これは一夜のお楽しみを求めてロザライン邸を訪れた輩だ。ヴェローナの街の貴族や富裕な商人などの階層がほとんどである。正体を明かしたくない者ばかりなので、仮面は必須だった。
逆に言うと仮面を着けてさえいれば、キャピュレット家の仇敵モンタギュー家の人間であるロミオと彼の取り巻きでもロザライン邸のパーティーに参加することが出来た……門の中に入る前に、目玉の飛び出るような額の参加費を払わねばならなかったが。
パーティー会場でロミオは仲間たちの姿を探した。しかし残念ながら悪い予想通り、彼は悪友たちを見つけることが出来なかった。
その代わり、ロザラインを見つけた。正確に言うと、彼女がロミオを見つけ話しかけてきたのだ。
ロザラインは陽気に尋ねてきた。
「どう、上手くいっている?」
ロミオは明るく答えた。
「順調だ、万事順調だ」
ロザラインは勘が鋭い。声を低くして再び尋ねる。
「で、本当のところはどうなの?」
つばを飲み込んでロミオが答える。
「くたくた。早く寝たい。それで仲間を探しに来た。馬車を用意してもらおうと思って」
ロザラインは豪華な扇子で口元を覆い隠した。
「だらしないわね。まだ若いんだから、しっかりしなさいよ」
ロミオは自嘲気味に笑った。その張りのない笑い声がロザラインをさらに苛立たせた。男の腕を取り人目の付かない小部屋へ連れ込む。そしてドレスの胸元から覗く美しい谷間から小瓶を取り出した。シャカシャカ振って蓋を取り、ロミオの鼻の下に小瓶の口を押し付ける。
小瓶の口から出てきたガスの刺激臭でロミオは激しくせき込んだ。蓋を閉めた小瓶を腹の上の双丘の隙間に戻したロザラインが言った。
「気付け薬よ。効き目がしばらく持つから、その間に屋敷を出て、街外れに向かいなさい。馬に乗ったら後は馬に任せなさい。隠れ家で連れて行ってくれるわ。ただし、あんたが落馬するんじゃないわよ」
ゲホゲホが収まったロミオが尋ねる。
「あいつらに頼めないのかい? あいつらは駄目なのかい?」
「あんたのお仲間は皆、酔っ払って女どもとよろしくやってるわ。絶好調って感じ。ちょっと張り切りすぎかしら。あの調子なら、明日に昼過ぎまで使い物にならないと思うわ。まだ若いのにね」
自分のことは棚に上げロミオは憤慨した。
「だらしのない奴らだ!」
「いいから早く行きな」
一肌の温もりで程よく気化した気付け薬の吸入は抜群の効果を示したようである。ロミオはしっかりした足取りへパーティー会場の大広間を後にした。その背中を見守るロザラインの目つきは険しい。その視線が刃ならモンタギュー家の御曹司の心臓は背後から貫かれているはずだ。
ロザラインはロミオの能力を不安視している。ジュリエット誘拐計画の実行犯には役不足ではないかと疑っているのだ。
自分が誘拐の実行役をするべきだったかもしれない、と今更だが考えてしまう。
それでも、もしものことを考えると男の手に任せた方が良かった。ロザラインとジュリエットでは体力や運動面での差が大きい。ジュリエットはスポーツ万能だった。運動が苦手で体力に自信のないロザラインでは、緊急時の対応が困難なのだ。
とはいえ、やはり安心とは程遠い人選であるのは間違いない。
それなのにロミオを選んだ理由は二つある。
一つはロミオが絶世の美男子だったこと。
もう一つは、ロミオがロザラインに片思いしていて、言いなりになるから、だった。
パーティー会場の客たちと楽しげに語らいながら、ロザラインの心は館の外、ヴェローナの街路を彷徨っている。
ロミオに導かれたジュリエットが幸せいっぱいの笑顔で星明りの下を歩いている……そんな光景が目に浮かぶ。
くたばれジュリエット! とロザラインは笑顔の裏で罵った。
☆ 真夏の白昼夢 ☆
北イタリアの都市ヴェローナの街外れに苔むした廃墟がある。古い屋敷の跡で住む人は長くいなかった。そこに謎めいた修道僧ロレンソが暮らすようになったのは、いつ頃か? 正確な時期を答えられるヴェローナは恐らく、誰もいないだろう。
いや、ロミオは知っていたかもしれない。ヴェローナの名門貴族モンタギュー家の跡取りである彼は、幼い頃からロレンソと親しくしていた。盲目の修道僧が持っていた謎めいた雰囲気がロミオ少年の心を惹き付けたのだろうか。
ロミオが長じてからも、その関係は変わらなかった。だが、廃墟の役割は若干の変化があった。昔は子供の遊び場だったけれども、大人の遊び場へ姿を変えたのだ。美青年に変貌したモンタギュー家のプリンスは女性との逢引の場にロレンソの廃墟を利用していた。
神聖なる修行の場を淫楽のために活用されて、ロレンソは立腹しなかったのだろうか?
歓迎していた。ロミオの快楽追及は、ロレンソの研究に貢献していたためだ。
修道僧ロレンソは、様々な材料を調合し、色々な薬物を作る研究をしていた。薬品の原料となるのは自然界で採取された動植物や鉱物だったが、人体に由来する物質もあった。愛を知った女性の残り香を絹に沁み込ませ、それを各種の触媒入り液体を噴霧して陰干しする。そんな大変な手間のかかる工程を経て作られた絹が、材料の裏ごしに必要不可欠だったのだ。
つまりロミオとロレンソはWin-Winの関係だった。
従って、ロミオからキャピュレット家の令嬢であるジュリエット誘拐計画への協力を求められたときは快諾し、街から脱出する馬を廃墟に隠しておいたのだ……が、誘拐被害者であるはずのジュリエットに背負われた誘拐犯ロミオの土気色の顔を見たとき、激しい後悔を感じた。何か、途轍もなく悪いことが起きていると直感したのだ。
ロミオを背中から下ろしたジュリエットが涙ぐんで言った。
「気分が悪いと言い出して、動けなくなったの。ねえ、何とかして!」
ロレンソはロミオを診察した。その口から漂うわずかな異臭を嗅ぎ取る。
「これは私の調合した気付け薬の香りだ。だが、強すぎる。用法用量を守っていない利用法だ」
「あなたの作った薬なの? それじゃあ、何とかしてよ!」
ジュリエットが殺気立った。ロレンソは怯えた。
「わかった、わかったから! 落ち着いてくれ。今から治療を始める」
薬品棚から幾つかの瓶を取り出し、それらに入った薬剤を調合して、湯に溶かす。その湯を冷まし、刷毛を浸す。
「これを鼻の下に塗るのだ。塗りにくいな。ちょっと鼻の下を伸ばしてみてくれ」
ロレンソに言われ、ジュリエットはロミオの鼻の下を伸ばした。
「そうだ、それでいい」
薬を塗り終えたロレンソが刷毛をテーブルに置いた。ジュリエットはロミオの様子を窺った。永遠の愛を誓った恋人は虫の息のままである。彼女は血走った眼で修道僧に食って掛かった。
「どうなってるのよ! 何も変わらないじゃない!」
ロレンソはテーブルを手のひらで叩いた。
「聞いてくるまで時間が掛かる。しばらく待て」
掌打のためにテーブルから刷毛が落ちたのとほぼ同じ頃、ヴェローナ太守の館では駆け落ちしたロミオとジュリエットを捕らえる計画が話し合われていた。
「捜索に多くの人数は割けない。キャピュレット家とモンタギュー家の郎党がいつ市街戦を始めてもおかしくないんだ。両者をけん制するための兵力がいる」
ヴェローナ太守の言葉に、新任の傭兵隊長オセローは頷いた。
「助手が一人いれば十分だ」
「少なくないか?」
「いや、その方がいい」
「どうして?」
訝しげなヴェローナ太守にオセローは理由を述べた。
「前任の傭兵隊長エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノに忠誠を誓っている兵隊がいるかもしれん。そういう連中は俺の足を引っ張りかねない。捜索の邪魔となる」
ヴェローナ太守の甥パリス青年が口を挟んだ。
「エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは、どうして傭兵隊長を辞めたんです?」
パリスの伯父であるヴェローナ太守が不機嫌そうに言った。
「そんなこと、今はどうでもいい」
パリスは憮然とした。その様子を見てオセローがグスッと笑う。
「辞めたわけじゃない。行方をくらませたんだ」
目をぱちくりさせてパリスが尋ねる。
「あの男が、行方をくらませたって、どういうこと?」
オセローはヴェローナ太守を見た。ヴェローナ太守は溜め息を吐いた。
「密告があった。エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは異端の信仰を持っているという密告だ。事実とは思えなかったが、本人に確認した。違うと誓ったその日のうちに、奴は姿を消した」
中世ヨーロッパはキリスト教のカトリックと異端派の闘争の場であった。カトリックのお膝元であるイタリアも例外ではない。むしろ、もっとも異端がはびこったのがイタリアだったとしても過言ではないだろう。カトリックは異端を潰すために如何なる努力も惜しまなかった。その中には拷問や火刑も含まれる。
「もしかしたらエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノの他にも異端派がいるかもしれん、兵隊の中にも。そういった連中が今回の人事に反対して、人の背中で何か企んだら、困るんだ」
その人事を決めたヴェローナ太守が言った。
「だが、二人の行方を追うために人手がいる。もう城壁の向こうへ逃げただろうから、早く沢山の追っ手を繰り出そう」
「この暑さだ、灼熱の街道を人も馬も長くは走れない。追われているのだから休憩する場所を探すのも大変だ。逃げた方角さえ読み間違えなければ捕まえられる」
オセローはヴェローナ市街地の地図を求めた。用意された地図を眺め、その一点を指す。
「北のアルプス方面へ向かう城門の近くに大きな廃墟があるようだ。ここはどういう建物なんだ?」
「かつては異端派の巣窟だった。今は浮浪者が暮らしているようだ」
「行ってみる。パリス、一緒に来てくれ」
突然のことで、パリスは驚いた。
「どうして俺が!」
「誰かに道案内をしてもらう必要がある」とオセロー。
「そんなの、他の奴らにやらせろよ」
オセローはパリスの顔を覗き込んだ。
「聞くが……まさか、異端派じゃあるまいな」
パリスは首を横に振った。
「そんなわけない!」
「それなら安心だ、さあ急ごう」
パリスは伯父であるヴェローナ太守に助けを求めた。無駄だった。
「ジュリエットはお前の婚約者になる予定の女性だ。お前が救わなくてどうする?」
「だから、それは反対だと!」
ヴェローナ太守は怒った。
「いいかげんにしろ! これ以上の縁談はないぞ! ジュリエットはヴェローナの名門貴族キャピュレット家の娘だ! 何の不足がある!」
「だって、俺には将来を誓った女性がいるんです!」
「何だと! 誰だ、誰なんだ!」
パリスは叫んだ。
「ロザラインです。キャピュレット家の一門で、ジュリエットの従姉妹のロザラインです!」
そのロザラインは今、自らの邸宅を出てヴェローナの街外れに向かって移動していた。彼女が立案したジュリエット誘拐計画の行く末に強い不安を抱いたためである。ロミオに任せておいて大丈夫なのか? そう考えたら、居ても立っても居られなくなったのだ。
ジュリエットがロミオを駆け落ちしたら、彼女の父であるキャピュレット家の当主は激怒する。実の娘であれ、絶対に許さなないのは確実だ。一人娘ジュリエットは勘当されるだろう。そうなると、キャピュレット家は跡取りがいなくなる。一番近い親戚は従姉妹のロザラインだ。
自らをキャピュレット家の後継者にするため、ロザラインはジュリエット誘拐を思い付いたのだが……誘拐の実行役のロミオは頼りない男なのが最大の不安材料だった。自分に下心を抱いているのを利用して使っているけれど正直、使えない。もうヴェローナを脱出しているだろう。そう思うものの、何だか心配になってきた。そこでロザラインは、脱出用の馬が用意されたヴェローナ郊外の廃墟へ急いでいた。馬に乗れない彼女は必死で走るしかない。真夏の太陽を浴び汗だくだ。あと少しで到着する! というところで、遂に限界が訪れた。彼女は気を失い石畳の道に倒れた。
ロミオが意識を取り戻したのは、ちょうどその頃である。ジュリエットは涙を流して喜んだ。
「良かった、本当に良かった! さあロミオ、立ち上がって! ハネムーンに行きましょう」
修道僧ロレンソは慌てて止めた。
「無理無理、死ぬ死ぬ、起こさないで、そんなに揺らさないで!」
ジュリエットは愛する人の命の恩人に嚙みついた。
「全然治ってないじゃない! 何とかしてよ!」
「そうは言っても」
ロレンソが困惑している頃、オセローとパリスは馬上の人となり、ヴェローナの街外れへ向かっていた。パリスは有頂天になっていた。彼の伯父であるヴェローナ太守が、ロザラインと自分の甥の結婚に賛同の意向を示したためである。
そこには冷酷な計算があった。ジュリエットがキャピュレット家の次期後継者の地位から外される可能性があると踏んだのだ。ジュリエットの父であるキャピュレット家の当主は、モンタギュー家を心底から憎んでいる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの精神そのままに、ロミオと駆け落ちしたジュリエットを家から追い出すだろう。そうなると、ロザラインがキャピュレット家の後継者になる目が出てくる。そのロザラインとパリスが相思相愛なら、好都合だ。
そのロザラインである。熱中症の症状で気を失った彼女は、そのままだったら路上で帰らぬ人になっているところだったろう。しかし幸運にも通りがかった男性に助けられた。その逞しい腕に抱かれロザラインは馬上の人となっている。彼女は安堵の溜め息を漏らし男の顔を見上げた。男のニヒルな表情に彼女は見覚えがあった。
「……あなた、エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノね。私を助けて下さったのね」
エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロザラインに水筒を与えた。
「たっぷり飲んでくれ。もうすぐ休める場所へ着く。そこで下ろすから、それまで寝ているがいい」
男の胸に体を預けるロザラインの中に、今までにない安心感が生まれていた。頼りないロミオは勿論のこと、将来を誓ったパリスにも抱いたことのない安らかな気持ちだった。命を救われたことへの感謝の念に混じって、今までに感じたことのない思いが生まれてくるのを彼女は感じていた。そして、思った。もしかして、これは……愛かも、と。
その愛をどうやって相手に伝えようかと悩んでいたら、目的地の廃墟に到着した。その入り口でエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロザラインを抱いたまま馬を降りた。廃墟の中に入る。その中ではジュリエットが喚いていた。
「私は早く結婚式を挙げたいの! ロミオと正式な夫婦になりたいの! 早くロミオを目覚めさせて!」
意識を取り戻したロミオだが、すっかり目覚めたとは言い難い。大声でジュリエットが叫んでいる横でボンヤリしている。
ジュリエットは嘆いた。
「私は結婚式を早く挙げたいの。ただそれだけなのに……だから早く何とかして!」
苦情を浴びて辟易しているロレンソが、その場に現れたエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノと、その腕の中でお姫様抱っこされたロザラインに気付いた。
「どうしたんだ、こんなところへ。何があったんだ、同志よ!」
エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは自分の異端信仰が発覚したことを伝え、それから同じ異端派のロレンソに警告した。
「同志よ、君も危険だ。すぐに逃げよう」
ロレンソは動揺した。異端派は改宗しない限り殺される。そして彼に改宗の意志はなかった。昔からの同志に話す。
「今ちょっと立て込んでいるが、逃げる準備をする。まず、この状況を何とかしないと」
それからロレンソはジュリエットに聞いた。
「ここで結婚式を挙げてもいいかな?」
「いいとも!」とジュリエット。
そのとき廃墟にオセローとパリスが到着した。入り口で主人を待つ馬を見て、パリスが言った。
「エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノの馬だ」
オセローは馬の鞍に括り付けていた剣を取った。
「前任の傭兵隊長殿はかなりの腕利きと聞いている。良い勝負を楽しめそうだ」
パリスは逃げ腰である。だが、ここで頑張ればロザラインとの結婚が伯父に認められそうなので、オセローの後に続いた。
二人は廃墟の奥へ入った。そこは変な甘い香りと奇怪な詠唱で満たされていた。
「何だこれ」とパリス。
オセローは匂いと詠唱の正体を知っていた。慌てて口と鼻を塞ぐ。
「異端派の使う強力な薬剤と催眠術だ。いかん! 効いてきた……」
その場にいた人間の大半がロレンソの術にかかった。
ジュリエットはロミオと結婚する夢を見た。パリスとロミオは夢の中でそれぞれロザラインと結婚式を挙げた。ロザラインはエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノとの結婚式を夢見て、エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロレンソとの同性婚に心を弾ませた。オセローは恋人デズデモーナとの幸せな未来を見た。
そのすべてが真夏の白昼夢である。
☆ 修学旅行の美術館見学×ラブハプ ☆
修学旅行で美術館を見学していたエヌ未は仲間たちをはぐれてしまった。方向音痴な彼女は迷路のような建物で現在位置が分からなくなり、案内板を見ても自分がどこにいるのか分からず、途方に暮れていた。
「どうしよう? 美術館のスタッフさんはいないかな……」
誰かに道を訊きたくてもエヌ未の他に客の姿はなく、美術館に勤める職員も見かけない。
うろうろ歩いていたら、向こうの展示室に人影を見かけた。
「あっ、すみませ~ん! ちょっとお尋ねします! わたし道に迷っちゃって……あれ?」
声を掛けたのは何のことはない、展示された彫刻の石像だった。それを人間と見間違ったのだ。
「うわ、恥ずかしい」
自分でも呆れて独り言を言ったら、誰かが笑った。
「えっ、誰の声?」
エヌ未は声の主を探した。しかし、人の姿は見えない。
「やだ、怖い……」
怯えるエヌ未の近くで少年の声がした。
「怖がらないで、道を教えてあげるだけだから」
声がした方を見る。誰もいない。ただ、展示された彫刻の石像があるだけだ。
「え?」
美しい少年の姿をした彫刻の石像がギギギと動いた。右手を展示室の反対側へ向ける。
「展示品の陰になって見えないけど、向こうに廊下があるから、そこから出られるよ」
とても優しい口調だったが、それでもエヌ未はパニックを起こした。声にならない悲鳴を上げ、教えてもらった出口の反対側へ走り出す。そして、そこに運悪く現れたスポーツ万能のイケメン天才同級生男子と激突した。
「うわっ!」
脳に喰らった激しい衝撃で神経の接続に異常が生じたスポーツ万能のイケメン天才同級生男子は、そのショックでエヌ未を深く愛するようになってしまった。『修学旅行×ラブハプ』である。
いや、そればかりではない。少年の姿をした彫刻の石像がエヌ未に興味を抱き人間の姿になって転校してきたのだ。人間ではない美しい男子転校生に激しく求愛され、エヌ未はまたもパニック寸前である。
以下、次号。
☆ 炎の人の弟の妻 ☆
大好きな人にプロポーズされた時を多くの人は後になっても覚えているものだ。ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルも、それは変わらない。ただし彼女の場合、愛するテオドルス・ファン・ゴッホに求婚されて嬉しかったから、というだけではない。プロポーズを承諾後、テオの兄フィンセント・ファン・ゴッホが自らの耳を切断したという知らせが入り、驚いて失神するところだったためだ。
ゴッホは南フランスのアルルに暮らしており、そこの病院に入院した。パリにいたテオは兄の元へ急行する。ヨハンナはパリに残った。婚約者の兄は初対面の女性に自己紹介されても話を聞ける状況ではなかったからだ。
売れない絵描きのゴッホは、弟のテオに資金援助を受けて生活していた。「とても才能がある」とテオは力説している。ヨハンナには到底、信じられなかった。画家を称しているがゴッホの絵は一枚も売れたことがない。画商のテオが兄の才能を信じているので、真正面から「あなたのお兄さんは絵描きを廃業した方がいいと思うの」と言ったことはないけれども、内心は「夢を追わず、さっさと働け」と思っている。「私の夫の稼ぎを期待するな! この穀潰し!」と言いたくて仕方がない。
テオは大金持ちでも何でもない。病弱な身体で必死に働いている。そして妻ヨハンナと兄を養っているのだ。やがてヨハンナが出産したので彼が扶養する家族は三人になった。さらに稼がねばならなくなったわけである。
ゴッホへの支援を打ち切ったら、家計が楽になるのは間違いなかった。それでもテオはゴッホを見捨てない。甘すぎる! とヨハンナは腹が立った。夫は兄を天才だと言っているが、それは画才ではなく詐欺師の才能だろうと彼女は考えている。
アルルの病院を退院したゴッホはパリ近郊で生活するようになった。短期間、テオとヨハンナの夫婦と同居したが、お互いに気疲れして駄目だったのだ。テオは精神的に不安定な兄の単身生活を不安視したが、ヨハンナは好ましく思った。無くなった耳の代わりに目の前で鼻か何かを剃り落とされたら、絶対に卒倒する。
やがてゴッホは死んだ。自分の胸を拳銃で撃ち抜いたのだ。衝撃を受け、悲しみに浸る一方で、自分の予感が正しかったことをヨハンナは確信した。そして義兄の銃口が彼自身に向けられたことを神に感謝した。
テオは兄の死に強いショックを受けた。心身共に衰弱していく。そして翌年、亡くなった。三十三歳の若さだった。
寡婦となったヨハンナは実家に戻った。そのうち、信じがたい噂を耳にするようになった。あのゴッホの絵が評判になっているというのである。その後、ゴッホの絵は高値で売れるようになってきた。それにつれて世間の人は、画家ゴッホという人物への興味を持ち始めた。自分の耳をちょん切り、それから自殺したゴッホとは、何者だったのか? その疑問に対する回答が、ゴッホが家族や友人に当てた手紙の中にあるのでは……と思った編集者が動いたようで、ゴッホと手紙のやり取りをした様々な人物がゴッホの書簡集を出版し始めた。
その中にヨハンナがいた。亡くなった夫テオはゴッホと頻繁に手紙のやり取りをしていた。それを公開したのだ。
ヨハンナが発表した亡夫テオと義兄ゴッホの書簡集は大評判となった。それはゴッホの伝説を強化し絵の価格を上昇させる決定打となる。世間はゴッホを天才だと認めたのである。
こうしてみると、ゴッホの天才性を信じたテオもまた天才だったように思える。一方その妻ヨハンナは夫より審美眼が劣っていたと言えよう。だが、ここまでゴッホがビッグネームになると、当時は誰も予想していなかったのではないか?
見通しが甘かったのは何もヨハンナだけではなかったのだ。
しかし彼女がゴッホの弟の嫁でなければ、ゴッホの伝説は現在の半分程度に落ち着いていたのではあるまいか?
その場合、ゴッホの絵の値段が今の半分くらいに値下がりしていた可能性はあるだろう。
彼女がいたからこそ、現在のゴッホがある。
ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルよ、以て瞑すべし(←なんだそれ)。
☆ 第一回ベリーズカフェ杯「財閥御曹司」選考レース ☆
第一回ベリーズカフェ杯「財閥御曹司」選考レースは2023年11月15日(水)にエントリーが締め切られ出場選手が確定した。みんなが調べている様々な属性の「財閥御曹司」たちがヒロインとの溺愛を目指して力走するレースを展望する。
01スパダリ「財閥御曹司」
王道中の王道。優勝候補筆頭。
02独占欲「財閥御曹司」
重要なファクターだが、これのみでは弱いか。
03乙女「財閥御曹司」
乙女な「財閥御曹司」である。読者の理解が得られるかが鍵。
04獣人「財閥御曹司」
ワイルドである。しかし実際は獰猛な野獣ではなく、心優しいビーストなのだ。
05追放「財閥御曹司」
財閥から追放されたら御曹司ではなくなってしまう。底辺から逆転可能だろうか。
06異世界転生「財閥御曹司」
異世界に転生した後も「財閥御曹司」の肩書が通用するのだろうか。
07ざまぁ「財閥御曹司」
財閥の名前が「ざまぁ」ではない。大丈夫かと心配になる。
08ごはん「財閥御曹司」
食料品関係の「財閥御曹司」なのか。あるいは米粒の王子様かも。
09地味子「財閥御曹司」
正体を隠しているものと思われる。ヒロインだけに本当の姿を見せるのだろう。
10身ごもり「財閥御曹司」
誰の子供を宿しているのか? そもそも彼は何者なのだろうか?
11懐妊「財閥御曹司」
同上。
12妊娠「財閥御曹司」
同上。
13もふもふ「財閥御曹司」
海外の財閥だろうか。あるいは体毛の多いだけかもしれない。
14離婚「財閥御曹司」
大穴。離婚した前妻(たち)とヒロインとの絡み、離婚前提の偽装結婚その他バリエーションが期待できる。
以上、第一回ベリーズカフェ杯「財閥御曹司」選考レースを予想した。余裕で紳士的な彼と運命の出会い…それとも家業にまつわる契約結婚? 物語への興味は尽きない。
☆ クリスマス×運命の恋の変 ☆
子供たちへの贈り物を運んでいたトナカイの橇が止まった。サンタクロースが怒鳴る。
「お前ら、勝手に止まるんじゃねえ! 動け!」
トナカイたちはサンタクロースを無視した。橇を引く綱を噛み千切る。サンタクロースは激怒した。
「この野郎! どういうつもりだ!」
サンタクロースが鞭を振るう。だがトナカイたちは素早く鞭を逃れ、そのまま逃げ去る。サンタクロースは橇から立ち上がった。
「こら、お前ら! どこへ行く!」
リーダーのトナカイが振り返って言った。
「恋人たちのところへ行くんです」
サンタクロースは聞き返した。
「はあ! お前ら、どこへ行くってんだあ? 仕事をしないで、どこへ行くってんだよ!」
トナカイは微笑んだ。
「運命の恋人の元へ行きますよ。今夜はクリスマス・イブですからね。好きな人と過ごすんです」
「何を言ってんだ馬鹿、いや、トナカイ!」
「僕らはクリスマスと運命の恋人と一緒に過ごすんです。邪魔をしないで下さい。さもないと馬じゃないトナカイに蹴られて死にますよ」
「お前ら、サンタ様を裏切るのか!」
それには答えずトナカイたちは去って行った。一人残されたサンタは怒り狂った。
ここに描かれたトナカイによる飼い主のサンタクロースへの裏切り行為はキリスト教圏では「クリスマス×運命の恋の変」と呼ばれ、我が国における「本能寺の変」と同じくらい広く知られている。
☆ 地獄で軟体動物に遭遇する胸きゅんストーリー(最後スカッとする) ☆
十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物がヒロインの中学生女子に襲い掛かる。
本作品の女主人公である彼女の名前はヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)で、既に書いたように、女子中学生である。ちなみみ軟体動物の名前はレイミアード・カッサーノだ。
「ぐごごごごごお!」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は喚き散らした。叫べば誰か助けが来るかもしれないと思ったのだ。しかし、助けは来ない。彼女は今、地獄の底の底にいる。そんなところまで来る奴は滅多にいないのだ。
どうして地獄の底の底にヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)がいるのかというと、色々あったからだ。
理由、その一。
「兄弟・姉妹と比べられた」
両親や周囲の大人たちは、ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)と彼女の兄弟・姉妹を比べ、彼女を劣った存在とみなした。何がそんなに違うのか、客観的にはハッキリ分からない。身近で見ている者にとっては差別するだけの理由があったということなのかもしれないが、それが正しい振る舞いと言えないのは言うまでもないことだ。
理由、その二。
「クラスメイトと趣味が違うせいで、仲間外れにされた」
要するに学校でのいじめだ。他人の趣味なんかほっとけ! という話だが、そうもいかないものらしい。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の推し活の対象が、他のクラスメイトたちが贔屓にしている存在のライバルだったのかもしれない。いずれにせよ、それがいじめの理由にはなり得ないのは明らかだ。
理由、その二。
「“女子らしくしなさい”など、偏見を押し付けられた」
もしかすると、これがヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が迫害される最大の原因なのかもしれない。彼女は“女子らしさ”と一般的に語られるものとは無縁だった。残酷な差別に対し大人しく服従する、なんてことはまったくなかった。徹底的に反抗した。たとえば兄弟・姉妹と比べ自分をネグレクトする両親その他の大人たちに報復した。ここには書けないくらい残虐無比な方法で、この世から消えてもらったのだ。自分を仲間外れにしたクラスメイトもそうだ。彼女を除いた一クラスが全員が、あの世へ行った。それでかなり気分はスッキリした。だが、それでも敵は消えない。“女子らしくしなさい”などの、偏見を押し付けてくる奴らが、この世界にはウジャウジャいたのだ。そんな連中全員を地獄へ叩き込みたいと、彼女は思った。それは簡単ではない。だが、もしかしたら、自分にならできるかもしれない……と彼女は考えた。
ちょっと、いや、ちょっとどころか、絶対にありえない話である。それに世の中にいる偏見の塊を始末していたら、人類は絶滅するだろうから、やるにはそれなりの覚悟が要る。
しかしヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)にとっては、ありえない話ではなかった。彼女は幼い頃、地獄の悪魔と契約した。悪魔に魂を売ることで、多くの人間の命を消し去る魔の超能力を手に入れたからだ。その力を存分に活用し、不愉快な奴らを片付けてきた。だから、やろうと思えば、やれる。つまり、自分の邪魔をする奴らを殺害できるのだ……が、その数が多すぎると、さすがに大変だった。
そこでヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は地獄へ降り立った。自分の相棒となる邪悪なヒーローを探すためである。自分のような強力な魔の超能力者が良かった。そういうパートナーを探し歩いていたら十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物レイミアード・カッサーノと遭遇した。こいつ、相棒になるかも……と思ったら、敵になった。
そうなったら、戦うしかない。
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は魔法の呪文を唱えた。異次元の超時空生命体を封印した魔剣オーケンシールドガスホース・トルムーダイハーディアを亜空間ポケットから取り出す。巨大な軟体動物が繰り出す十数本の触手を片っ端から斬り落とす。触手を斬り落とされた軟体動物レイミアード・カッサーノは悲鳴のような鳴き声を発した。
勝てる! とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は確信した。そのときだった。彼女の背後から、別の軟体動物レイミアード・カッサーノが襲い掛かった。挟み撃ちされた彼女は前後から攻撃してくる数十本の触手を捌ききれなくなった。太い触手が彼女の手足や胴体に絡まり、遂に動けなくなってしまう。
「しまった!」
二匹の軟体動物レイミアード・カッサーノは捕らえたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)を八つ裂きにしようと触手に力を込めた。持ち前の頑固なパワーで耐える女子中学生ヒロイン! しかし、それにも限界がある。全身を引き裂こうとする触手の力に抵抗しながら。彼女は呻き声をあげた。
「くっ、もうダメかも……悔しい……」
理不尽な目にあって絶望したヒロインの前に、中学生男子が姿を現した。二匹の軟体動物の触手が届かない安全地帯に立って、彼は言った。
「お困りのようだけど、どうしたらいいだろうねえ。助けが必要だったら、助けてやるよ」
なんかちょっと上から目線な言い方だった。普段のヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)だったら、おそらく「失せやがれ!」と拒絶していただろう。
だが今は、そんな状況ではなかった。
「見りゃ分かるだろう! 助けろ!」
中学生男子は、その言い方が気に入らなかったようだ。彼は言った。
「なんだあ、その口の利き方は! へん! 善意の無償行為をしてやろうと思ったけど、やめた。対価を要求する」
「はあ?」
「お礼を求めてるんだよ」
「お礼?」
「感謝の気持ちを態度で示せ」
そう言ってから男子中学生は自分を指差した。
「俺の要求に応えてもらう。こっちの望みをかなえるんだ」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の頭の中に、様々な思いが渦巻いた。
「やだ! 変なことは絶対にやだ!」
中学生男子は呆れ顔で言った。
「そんなことを言っている場合かよ。触手に手足を引っこ抜かれるぞ。そのままでいたけりゃ、ずっとそうしていろ。こっちはお前がどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
背を向けて立ち去ろうとしかけた男子中学生をヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が呼び止める。
「分かった、分かったから! 助けてちょうだい!」
「そう来なくちゃ」
男子中学生は振り返った。いつの間にか、その手に長くて大きい高枝切り鋏が握られている。彼は高枝切り鋏の刃をカチャンカチャンと鳴らしながら言った。
「これで触手を切る。動くなよ」
「それ、どこから出したの?」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)から尋ねられ、男子中学生が答えた。
「スカッと胸きゅんサイキックパワーで生成したんだ。一種の超能力だよ」
自分の持つ魔の超能力と似ている。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、そう思った。
「それは、私の力に似ている! その力は、どうやって?」
尋ねられた男子中学生が答える。
「スカッとする胸きゅんの神から貰った。クリスマスプレゼントだったよ」
「なんじゃそれ?」
「知らん。詳しいことはスカッとする胸きゅんの神に訊いてくれ。こっちは、とにかく使えと言われたから使うだけさ。ただし」
高枝切り鋏の刃を開いたり閉じたりの動作を繰り返しながら、男子中学生は言った。
「こっちの条件を吞んでもらう」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は痛みに耐えながら尋ねた。
「その条件とやらを早く言って」
「君のことを、スカッとする胸きゅんの神から聞いている。凄い超能力者だとね。それ以外にも、色々な話を聞いた。たとえば、小説を書いているとかね」
それは事実だった。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスターツ出版の小説サイトに自作小説を投稿している。だが、人に話したことはない。ペンネームで投稿しているので、誰にも知られていないはずだった。
「だからなに?」
「その小説を読みたいな、と思ってね」
スカッとする胸きゅんのストーリーが好きだから、そういうのを読みたい――と男子中学生は言った。
「僕が触手をちょん切る作業中に、次作を朗読して。それが条件」
拍子抜けだった。
「それでいいの?」
「ああ」
魔の超能力を使ってヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスマホを操作した。朗読アプリに自作を読み上げさせる。本当に、こんなのでいいの? と思いながら彼女は自作に耳を傾けた。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その一
とある芸能事務所と深い付き合いのある友人がいた。ある日そいつが忙しいってことで、代わりにタレントの送迎を頼まれた。こっちも何度かやっている仕事だった。また一つ頼むと言われたのだ。報酬は悪くなかった。こっちは、それなりの信用があったからだ。余計なことを言わなければ、それだけの金が貰えるってことだ。
ある場所でタレントを拾い、別の場所へ運ぶ。そういう話だった。某テレビ局の近くから大物芸能人が多く住む地域へ車で送り届け、帰ろうとしたらスマホが鳴った。事が済むまで待て、との指示だった。分かったと返事をする。不満があっても受け入れるのだ。とやかく言わない。どんな仕事でも大切なことなのだろうが、今夜はとりわけそうだった。曇り空に見え隠れする満月を眺めて時間を潰す。
しばらく経って呼ばれた。敷地内へ入れとのことだ。中へ入るのは初めてだった。オートロックの門扉が開いて、やっと車が入れる。警備員はいない。車を徐行させエントランスの前に横付けする。タレントが出てくるのを待ったが出てこない。スマホに連絡が入る。泥酔して動けないから運んで欲しいとのことだった。やれやれだ。
玄関の鍵を開けてもらい、住居内に入る。変な匂いがした。足元に大いびきのタレントがいた。立てるかと聞いたが返事がない。肩に担いで無理やり立ち上がらせる。家の主がいたので、どうすればいいかと指示を仰いだ。相手は目をぎらつかせ、こっちを見つめている。苦笑した。こっちには、そういう趣味がない。芸能界にデビューするつもりもない。ついでに言うと、こっちは相手の好みとされるタイプとは程遠い面相をしている。真顔で再び次の指示を伺う。
タレントのマンションへ運ぶのは駄目だと言われた。マスコミが張り付いているからだ。別の場所へ連れて行くように命じられる。渡された紙に書かれた住所へ行くには少し遠回りしないといけない。そう付け加えられた。幾つかのポイントを通るのだそうだ。詳細を聞くのは止めた。何をどうするのか、それだけ聞けばたくさんだ。
「それじゃ」
「待って」
「何です?」
「これを持って行くと良い」
お守りを手渡された。返すのも何なので礼を言って受け取る。
「気をつけて」
写真を撮られるな。その意味だと思ったら、違った。幾つかのポイントとかいうのを越えたら、一気に来た。変な物体、きっと霊魂とか幽霊とかいう連中が、車の外をうようよ歩くのが見えてきたのだ。こっちには、霊感が少しだけある。だから、そういうのが街を普通に歩いていることを知っているのだが、今夜は多すぎた。そういう奴らしかいない街の中に車は入り込んでいたのだ。
カーナビが目的地到着を告げる。幸いにも周囲に幽霊はいなかった。後部座席のタレントを車から降ろそうと後部ドアを開ける。横倒しになって眠っていたタレントが体を起こした。全然違う人相に代わっていた。いや、人というより野獣の顔だ。こっちに向かって牙を剥く。慌ててドアを閉める。送り届ける予定の建物の入り口横の呼び鈴を鳴らす。インターホンから返事があった。女の声だった。頼まれて人を運んできたのだが、ちょっと困っている、力を貸して欲しいと頼む。玄関から三人の女が出てきた。若い女、中年女、老婆の三人だった。同じような顔をしている。三世代なのか、赤の他人なのか、こっちは分からない。後部座席のアレをどうにかしてもらえたら、それでいい。
女たちはタレントを大人しくさせることに成功した。車から降りたタレントは四つん這いになって建物へ入って行った。中をちょっとだけ覗いたら、鏡が見えた。風呂の鏡のように湿気で濡れている。こっちの姿は映っていたが、三人の女の姿は見えない。余計な詮索はせず立ち去ることにした。女たちに頭を下げる。向こうも会釈した。建物に入らず、こっちを見送る様子なので、さっさと車を出す。見ないつもりだったがバックミラーを見てしまう。女たちの姿は、やはり見えなかった。
出るときは普通に出ていいのか、聞くのを忘れた。ポイントを逆戻りしなくていいのかと思ったが、一方通行を逆戻りするのは避けたい。幽霊もイヤだが、それ以上に警官とかかわり合いたくない身の上なのだ。お守りを頼りに、幽霊が闊歩する街を進む。
大通りに出た。幽霊も見えないが人もいない。人の声を聴きたくなってラジオを付ける。深夜の人生相談だった。こんな時間に珍しい。故郷を離れた者の話だった。急に煙草を吸いたくなった。生憎と切らしている。煙草は諦めるとして、その代わりに喉の渇きを潤そう。自動販売機を見つけたので車を止める。自販機の横に階段があった。何の気なしに階段の下を見る。階段の天井に照明があった。照明の黄色い光に引き寄せられて階段を降りる。階段の下に街があった。人も車もいない車道と夜空に浮かぶ三日月が見える。夜空に浮かぶ満月をさっき見ていた気がするけれど、それについては深く考えないことにした。階段を駆け上がって車へ戻る。ここで飲み物を買うのは止めた。早く帰って寝よう。
その後もタレントの送迎をする機会があった。あの晩ひどく泥酔していたタレントの送迎も二度か三度やった。最初の時は緊張したけど、次からはそうでもなかった。相手はこっちを覚えていない様子だった。でも、ある時ふとバックミラーを見たら、こっちを変な顔で見ていたから、もしかしたら何か思い出したのかもしれない。それでも、こっちは何も言わない、尋ねない。それなりの報酬を得て生きていくためには、それが大切なのだ。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その二
市役所に通じる道路は市警の警察官と州兵が完全封鎖していた。市職員は身分証を見せれば通してもらえるが、一般市民は身分を証明できるものを見せても通過が許されない。無理に通ろうとする者は阻まれた。制止を振り切って中へ入ろうとすると逮捕される。抵抗する者は激しく殴打された。幸いなことに死者は出ていないが、完全武装の警官隊と州兵部隊には発砲許可が出ており、死人が出てもおかしくない状況だった。
異常な事態である。市民からは不満の声が上がっていた。市役所と市警本部そして州兵を統括する州政府に苦情の電話が殺到していたが、市と州当局は無視を決め込んでいる。過激派対策が最優先なのだ。
これほどまでに要警戒なテロリストとは何者か?
ジュンとジュネという同性愛者のカップルだ。二人は憲法が認める同性婚の権利を行使しようと市役所へ婚姻届けを提出しに行って受け取りを拒否された。州政府の法律には同性婚の記載がないため、書類は認められないというのが理由である。市への抗議がなしのつぶてだったので州政府に抗議文を送り付けたが、これも無回答だった。地方レベルでは話にならないと考えた二人は中央政府の出先機関へ相談した。中央政府の回答は明確だった。同性婚を認めない市と州の対応は憲法違反である。ただちに書類を受理せよ、という命令が市と州政府に送られた。地方政府に結婚を認められなかった同性愛者のカップルが中央政府を味方につけたわけだが、これが市と州当局にとっては体制を揺るがす極悪人に映ったのである。
この地方が元来、保守的な土地柄だったこと。そして革新政党が与党の中央政府と保守派の牛耳る地方政府の対立があったために、ジュンとジュネの同性婚が大問題に発展してしまったのだった。二人を応援するグループが現地入りし調整を図ったものの解決には至らず逆に、その中の強硬派がデモ行進を実施したことが相手を刺激してしまい、遂に警官隊と州兵部隊の動員による市役所封鎖という事態に至った。
中央政府は地方の過剰反応を事実上の反乱とみなすか討議を重ねた。反乱とは認定されなかったが、政権内では強硬案が選択される。首都の治安維持を任務とする陸軍空てい部隊と歩兵部隊の現地派兵が決まったのだ。
中央政府の派遣命令を受け州政府は州空軍に最高レベルの警戒を命じた。州空軍の戦闘機部隊は空てい部隊の輸送機を撃墜し、爆撃機部隊は歩兵部隊を載せたトラックを木っ端微塵に吹き飛ばす準備を始めた。
情勢の悪化を目の当たりにして、無関係の市民の間に動きが見られた。内戦の勃発を恐れ市街地から逃げ出そうとする者が現れたのである。
別の動きもあった。一部の市民が同性愛者への迫害を始めたのだ。市警が見て見ぬふりを決め込んだので暴力がエスカレートした。被害者側や報道各社が事実を広く世界に公表したため、世界各国から非難の声が上がった。中央政府は一刻の猶予もないと判断し派遣予定の部隊の出発を急がせると共に、現地駐留の陸軍部隊にも出撃を命じた。
だが、これは危険な一面があった。現地の陸軍部隊は、その土地の出身者から成る。彼らが中央政府の命令を拒否する恐れがあるのだ。最悪の場合、市と州当局に合流するかもしれない。それは反乱の序章と考えて差し支えなかった。
中央政府の与党は特使二名を派遣した。一人は地方政府側へ、もう一人はジュンとジュネの元へ。地方政府への特使は市役所の封鎖解除を要求すると同時に、それを拒否した場合の中央政府の対応を伝えた。国境線から移動させた陸軍戦車部隊と最新鋭戦闘爆撃機部隊が数時間以内に進撃を開始するという通告に州軍首脳は震撼した。州空軍の航空機は旧式機が多く、それでは最新鋭機に太刀打ちできない。それに州兵の装備では厚い戦車の装甲を貫けなかった。総攻撃されたら彼らに勝ち目はなかったのである。
ジュンとジュネに派遣された特使は、市役所への婚姻届け提出を諦めるよう促した。その代わり中央政府が特別措置として二人の結婚を認めると伝えた。
特使との会談終了後、市と州当局の首長は市役所の封鎖解除を宣言した。ジュンとジュネはマスコミに対し、事態の早期収拾のため特使の提案を受け入れると発表した。そして二人は特使に保証人となってもらい中央政府へ婚姻届けを届け出た。この騒動はそれでようやく収まったのである。
ところで、この事件がどうして「ジュンとジュネのジューンブライド事件」と呼ばれるかというと、ちょっとした事情がある。二人の婚姻届けが首都の関係省庁に届けられたのは五月末だったが、担当の役人が書類を決裁したのは六月に入ってからだったので、二人が結婚したのは六月ということになったのだ。
ジュンとジュネが末永く幸せに暮らしたのも、他の同性愛者が普通に結婚できるようになったのも、ジューンブライドのおかげだという都市伝説があるけれど、お題が「都市伝説」だったのは四月のことだ。五月末の今は「ジューンブライド」だけですべての説明が付く。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その三
ヴァンパイア狩りで学費を稼いでいる。そう言うと大抵の人は驚く。何しろ危険な仕事だ。マッチョなタフガイをイメージするのだろう。確かに、そんな体格の男性同業者は多い。でも、皆が皆そうじゃない。虫も殺さぬ顔をした老婦人が恐るべき殺し屋の場合もあるし、月齢三か月程度の乳児が超能力で吸血鬼に幻覚を見せ月光浴のつもりで日光浴させて消し炭に変えるなんてのもある。私みたいに小柄な女子中学生なら、普通ではないにせよ騒ぎ立てるほどのものでもない。
それでもやっぱりビックリされるし、色々と聞かれる。たとえば、こういうのだ。
「ヒーローと契約で特別な関係になったり、たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことも……あるの!?」
こんな質問をするのはだいたい、同い年くらいの女の子だ。ヴァンパイアというものに、何かしらの憧れがあるのだろう。
質問の答えは彼女たちを失望させる。ない、そんなことは全くないのだ。
まあ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。けれど、私に関してはない。私にとってのヴァンパイアはヒーローじゃない、狩りの獲物だ。たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことの代わりに、一匹のヴァンパイアを仕留めるためにたくさんの吸血鬼ハンターが協力するのではなく互いの足を引っ張り合い、時に人間のハンター同士で殺し合うことがある。人間は吸血鬼以下の存在だと痛感させられる瞬間だ。世紀末はしばらく来ないというのに、もう世も末だとウンザリする。
それはいい。私の狩りのやり方を教える。ヴァンパイアは血を求めて闇の中をさまよっているので、血の匂いでおびき寄せる。鉄とタンパク質の複合体から精製する人工血液気化ガスの入ったボンベの栓を開けて待つのだ。のこのこ現れたら捕まえる。警官みたいに手錠をかけるわけじゃない。私に見つめられた吸血鬼は、私の言いなりになる。大人しくしろと命じたら動かなくなるし、死ねと言われたら自らの心臓に杭を打ち込む。どういった理屈でそうなるのかは知らない。父が異世界から来た異形の神だったとか、母が滅亡した大宇宙の魔女の生き残りだとか、いろんな仮説を聞かされたけど二親ともこの世にいないので聞くことはできない。
とっ捕まえた吸血鬼をどうするかというと、売る。美少年が大好物の芸能事務所社長やハンサム大好きなヌン活マダムがお得意様だ。中産階級の家庭にも売れる。ちょっと良いところで、箱入り娘がいるような家だ。親が買って、お嬢様にあてがうのである。意外に思えるかもしれないが、売上高はこちらの方が多い。車を買い与えるような感覚だろうか。
どうして吸血鬼を娘に与えるのかというと、変な虫が付かないようにするためだ。凄いイケメンで人間離れした戦闘能力を持つ吸血鬼にかなう男なんか、まずいない。要するにデカい蚊がボディーガードになって、他の男が寄り付かないようにしてくれるのである。蚊に刺されたらどうするのって心配はご無用だ。吸血鬼に生殖能力はない。絶対に避妊してくれるボーイフレンドなら親は安心だ。娘と家族に危害を与えぬよう私が命じたら絶対服従するので、飼い主には噛みつかないことは保証済みだ。
そんな従順な美男子が選り取り見取りなんて、羨ましい! とやっかむ子がいるけど、私は全然うれしくない。私にとって吸血鬼は売り物にすぎないのだ。好きも嫌いもない。とっ捕まえて売るだけだ。
そんな現実主義者の私も年頃の女の子だ。いつか素敵な彼と巡り会いたい。繰り返すけど、それは吸血鬼じゃないよ。売り物に手を付けるのはプロじゃないから。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はオーディオブックのアプリを停止させた。自分を拘束していた触手のすべてを、男子中学生が高枝切り鋏で切断したからだ。
男子中学生は手際よく作業した。触手の本体である軟体動物レイミアード・カッサーノは男子中学生を敵とみなし攻撃を仕掛けたが、それを排除して切断を続けたのだから大したものである。大半の触手を失い、軟体動物レイミアード・カッサーノ二匹は逃げ出した。中学生男子に助けられたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、素直な心でお礼を言った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
高枝切り鋏を消毒用アルコールで湿らせた布で拭きながら男子中学生が言った。
「それほどのことじゃないよ。話を聞かせてもらったから。だけど」
手品のように高枝切り鋏を瞬時に消して彼は付け加えた。
「さっきの話だけど、スカッとする胸きゅんストーリーだったのかな。違うような気がしたけど」
スカッとする胸きゅんストーリーは、これから二人で創り上げればいい……とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は思った。
☆ 青春を取り戻したい ☆
エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、われは求め訴えたり!
若返れ、自分!
そんな呪文を毎晩唱え鏡を見るのだが、日に日に衰えていくばかりである。
呪文を唱えるのは朝にしたほうが良いのかもしれない。
あるいは、神頼みを止め、毎日のスキンケアを丁寧にすべきなのかも。
いや、それよりは神の力にすがった方がいい! 根拠はないけど。
さあ、また神へ捧げる呪文と舞をセットで十回やるぞ。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は自信たっぷりに言った。
「どうです、凄く面白いでしょう」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は言った。
「何だこりゃ」
呆れた様子のペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は口の端に泡を貯めて続けた。
「こんな小説と呼べない戯言に時間を取ってしまって本当に馬鹿なことをした」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は憤慨した。
「そんな! 読んでいて、そこそこ面白かったでしょ」
「いや全然」
「またまた」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は自らの才能をこれっぽっちも疑っていないようで、それがペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰をさらに苛立たせた。
「お前さ、マジで才能ないって! こんなんで許されると思ってんの? 許されないって。誰も納得しないって!」
フフンと鼻で笑ってプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は鼻毛を抜いた。
「僕の才能は、一般人には計り知れないですから」
「いや、それ違うから!」
「そうは言いますけどね、そう言うあなたはどうなんです? 私の作品を、どうこう言える立場なんですか?」
挑戦的な言い方である。ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は無礼なプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯を即時処刑したかったが、もうじきこいつは殺されると思って耐えた。
「人のことをとやかく言う大評論家の先生に、その筆による超名作を見せてもらいたいものですなあ、ワハハ」
あまりにも無礼極まるプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯の言い草に、ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は話すつもりのなかったことを言った。
「私も前世では小説を書いていた。そして、その小説を認められて、このファンタジー世界への移籍を許されたんだ」
「へー、そうだったんですか」
「真面目に聞け、それは大変なことだったんだぞ」
「へ~」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は思い出話を語った。異世界ファンタジーに憧れていた彼は前世で架空の世界を舞台に主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界ストーリーを求め、そういった物語を執筆していた。「仲間とともに運命を切り開いてゆく」をバトルだけでなく、「スローライフ」「冒険」「ラブコメ」「ギャグ」など幅広いジャンルで読者にお届けする事を目指していたのである。主人公の性別・特徴を問わず、「女性主人公」「悪役主人公」「ユニークスキル持ち」など異彩を放つ主人公の個性的な作品を書いていた……と言うのである。
「へえ、そりゃ素晴らしい。見せて下さいよ」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は興味津々な口調で頼んだ。ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は自信たっぷりに頷いた。
「そうだな、ひとつ披露してやるか!」
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★彡 ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰の話 ★彡
十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物がヒロインの中学生女子に襲い掛かる。
本作品の女主人公である彼女の名前はヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)で、既に書いたように、女子中学生である。ちなみみ軟体動物の名前はレイミアード・カッサーノだ。
「ぐごごごごごお!」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は喚き散らした。叫べば誰か助けが来るかもしれないと思ったのだ。しかし、助けは来ない。彼女は今、地獄の底の底にいる。そんなところまで来る奴は滅多にいないのだ。
どうして地獄の底の底にヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)がいるのかというと、色々あったからだ。
理由、その一。
「兄弟・姉妹と比べられた」
両親や周囲の大人たちは、ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)と彼女の兄弟・姉妹を比べ、彼女を劣った存在とみなした。何がそんなに違うのか、客観的にはハッキリ分からない。身近で見ている者にとっては差別するだけの理由があったということなのかもしれないが、それが正しい振る舞いと言えないのは言うまでもないことだ。
理由、その二。
「クラスメイトと趣味が違うせいで、仲間外れにされた」
要するに学校でのいじめだ。他人の趣味なんかほっとけ! という話だが、そうもいかないものらしい。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の推し活の対象が、他のクラスメイトたちが贔屓にしている存在のライバルだったのかもしれない。いずれにせよ、それがいじめの理由にはなり得ないのは明らかだ。
理由、その二。
「“女子らしくしなさい”など、偏見を押し付けられた」
もしかすると、これがヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が迫害される最大の原因なのかもしれない。彼女は“女子らしさ”と一般的に語られるものとは無縁だった。残酷な差別に対し大人しく服従する、なんてことはまったくなかった。徹底的に反抗した。たとえば兄弟・姉妹と比べ自分をネグレクトする両親その他の大人たちに報復した。ここには書けないくらい残虐無比な方法で、この世から消えてもらったのだ。自分を仲間外れにしたクラスメイトもそうだ。彼女を除いた一クラスが全員が、あの世へ行った。それでかなり気分はスッキリした。だが、それでも敵は消えない。“女子らしくしなさい”などの、偏見を押し付けてくる奴らが、この世界にはウジャウジャいたのだ。そんな連中全員を地獄へ叩き込みたいと、彼女は思った。それは簡単ではない。だが、もしかしたら、自分にならできるかもしれない……と彼女は考えた。
ちょっと、いや、ちょっとどころか、絶対にありえない話である。それに世の中にいる偏見の塊を始末していたら、人類は絶滅するだろうから、やるにはそれなりの覚悟が要る。
しかしヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)にとっては、ありえない話ではなかった。彼女は幼い頃、地獄の悪魔と契約した。悪魔に魂を売ることで、多くの人間の命を消し去る魔の超能力を手に入れたからだ。その力を存分に活用し、不愉快な奴らを片付けてきた。だから、やろうと思えば、やれる。つまり、自分の邪魔をする奴らを殺害できるのだ……が、その数が多すぎると、さすがに大変だった。
そこでヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は地獄へ降り立った。自分の相棒となる邪悪なヒーローを探すためである。自分のような強力な魔の超能力者が良かった。そういうパートナーを探し歩いていたら十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物レイミアード・カッサーノと遭遇した。こいつ、相棒になるかも……と思ったら、敵になった。
そうなったら、戦うしかない。
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は魔法の呪文を唱えた。異次元の超時空生命体を封印した魔剣オーケンシールドガスホース・トルムーダイハーディアを亜空間ポケットから取り出す。巨大な軟体動物が繰り出す十数本の触手を片っ端から斬り落とす。触手を斬り落とされた軟体動物レイミアード・カッサーノは悲鳴のような鳴き声を発した。
勝てる! とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は確信した。そのときだった。彼女の背後から、別の軟体動物レイミアード・カッサーノが襲い掛かった。挟み撃ちされた彼女は前後から攻撃してくる数十本の触手を捌ききれなくなった。太い触手が彼女の手足や胴体に絡まり、遂に動けなくなってしまう。
「しまった!」
二匹の軟体動物レイミアード・カッサーノは捕らえたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)を八つ裂きにしようと触手に力を込めた。持ち前の頑固なパワーで耐える女子中学生ヒロイン! しかし、それにも限界がある。全身を引き裂こうとする触手の力に抵抗しながら。彼女は呻き声をあげた。
「くっ、もうダメかも……悔しい……」
理不尽な目にあって絶望したヒロインの前に、中学生男子が姿を現した。二匹の軟体動物の触手が届かない安全地帯に立って、彼は言った。
「お困りのようだけど、どうしたらいいだろうねえ。助けが必要だったら、助けてやるよ」
なんかちょっと上から目線な言い方だった。普段のヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)だったら、おそらく「失せやがれ!」と拒絶していただろう。
だが今は、そんな状況ではなかった。
「見りゃ分かるだろう! 助けろ!」
中学生男子は、その言い方が気に入らなかったようだ。彼は言った。
「なんだあ、その口の利き方は! へん! 善意の無償行為をしてやろうと思ったけど、やめた。対価を要求する」
「はあ?」
「お礼を求めてるんだよ」
「お礼?」
「感謝の気持ちを態度で示せ」
そう言ってから男子中学生は自分を指差した。
「俺の要求に応えてもらう。こっちの望みをかなえるんだ」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の頭の中に、様々な思いが渦巻いた。
「やだ! 変なことは絶対にやだ!」
中学生男子は呆れ顔で言った。
「そんなことを言っている場合かよ。触手に手足を引っこ抜かれるぞ。そのままでいたけりゃ、ずっとそうしていろ。こっちはお前がどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
背を向けて立ち去ろうとしかけた男子中学生をヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が呼び止める。
「分かった、分かったから! 助けてちょうだい!」
「そう来なくちゃ」
男子中学生は振り返った。いつの間にか、その手に長くて大きい高枝切り鋏が握られている。彼は高枝切り鋏の刃をカチャンカチャンと鳴らしながら言った。
「これで触手を切る。動くなよ」
「それ、どこから出したの?」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)から尋ねられ、男子中学生が答えた。
「スカッと胸きゅんサイキックパワーで生成したんだ。一種の超能力だよ」
自分の持つ魔の超能力と似ている。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、そう思った。
「それは、私の力に似ている! その力は、どうやって?」
尋ねられた男子中学生が答える。
「スカッとする胸きゅんの神から貰った。クリスマスプレゼントだったよ」
「なんじゃそれ?」
「知らん。詳しいことはスカッとする胸きゅんの神に訊いてくれ。こっちは、とにかく使えと言われたから使うだけさ。ただし」
高枝切り鋏の刃を開いたり閉じたりの動作を繰り返しながら、男子中学生は言った。
「こっちの条件を吞んでもらう」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は痛みに耐えながら尋ねた。
「その条件とやらを早く言って」
「君のことを、スカッとする胸きゅんの神から聞いている。凄い超能力者だとね。それ以外にも、色々な話を聞いた。たとえば、小説を書いているとかね」
それは事実だった。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスターツ出版の小説サイトに自作小説を投稿している。だが、人に話したことはない。ペンネームで投稿しているので、誰にも知られていないはずだった。
「だからなに?」
「その小説を読みたいな、と思ってね」
スカッとする胸きゅんのストーリーが好きだから、そういうのを読みたい――と男子中学生は言った。
「僕が触手をちょん切る作業中に、次作を朗読して。それが条件」
拍子抜けだった。
「それでいいの?」
「ああ」
魔の超能力を使ってヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスマホを操作した。朗読アプリに自作を読み上げさせる。本当に、こんなのでいいの? と思いながら彼女は自作に耳を傾けた。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その一
とある芸能事務所と深い付き合いのある友人がいた。ある日そいつが忙しいってことで、代わりにタレントの送迎を頼まれた。こっちも何度かやっている仕事だった。また一つ頼むと言われたのだ。報酬は悪くなかった。こっちは、それなりの信用があったからだ。余計なことを言わなければ、それだけの金が貰えるってことだ。
ある場所でタレントを拾い、別の場所へ運ぶ。そういう話だった。某テレビ局の近くから大物芸能人が多く住む地域へ車で送り届け、帰ろうとしたらスマホが鳴った。事が済むまで待て、との指示だった。分かったと返事をする。不満があっても受け入れるのだ。とやかく言わない。どんな仕事でも大切なことなのだろうが、今夜はとりわけそうだった。曇り空に見え隠れする満月を眺めて時間を潰す。
しばらく経って呼ばれた。敷地内へ入れとのことだ。中へ入るのは初めてだった。オートロックの門扉が開いて、やっと車が入れる。警備員はいない。車を徐行させエントランスの前に横付けする。タレントが出てくるのを待ったが出てこない。スマホに連絡が入る。泥酔して動けないから運んで欲しいとのことだった。やれやれだ。
玄関の鍵を開けてもらい、住居内に入る。変な匂いがした。足元に大いびきのタレントがいた。立てるかと聞いたが返事がない。肩に担いで無理やり立ち上がらせる。家の主がいたので、どうすればいいかと指示を仰いだ。相手は目をぎらつかせ、こっちを見つめている。苦笑した。こっちには、そういう趣味がない。芸能界にデビューするつもりもない。ついでに言うと、こっちは相手の好みとされるタイプとは程遠い面相をしている。真顔で再び次の指示を伺う。
タレントのマンションへ運ぶのは駄目だと言われた。マスコミが張り付いているからだ。別の場所へ連れて行くように命じられる。渡された紙に書かれた住所へ行くには少し遠回りしないといけない。そう付け加えられた。幾つかのポイントを通るのだそうだ。詳細を聞くのは止めた。何をどうするのか、それだけ聞けばたくさんだ。
「それじゃ」
「待って」
「何です?」
「これを持って行くと良い」
お守りを手渡された。返すのも何なので礼を言って受け取る。
「気をつけて」
写真を撮られるな。その意味だと思ったら、違った。幾つかのポイントとかいうのを越えたら、一気に来た。変な物体、きっと霊魂とか幽霊とかいう連中が、車の外をうようよ歩くのが見えてきたのだ。こっちには、霊感が少しだけある。だから、そういうのが街を普通に歩いていることを知っているのだが、今夜は多すぎた。そういう奴らしかいない街の中に車は入り込んでいたのだ。
カーナビが目的地到着を告げる。幸いにも周囲に幽霊はいなかった。後部座席のタレントを車から降ろそうと後部ドアを開ける。横倒しになって眠っていたタレントが体を起こした。全然違う人相に代わっていた。いや、人というより野獣の顔だ。こっちに向かって牙を剥く。慌ててドアを閉める。送り届ける予定の建物の入り口横の呼び鈴を鳴らす。インターホンから返事があった。女の声だった。頼まれて人を運んできたのだが、ちょっと困っている、力を貸して欲しいと頼む。玄関から三人の女が出てきた。若い女、中年女、老婆の三人だった。同じような顔をしている。三世代なのか、赤の他人なのか、こっちは分からない。後部座席のアレをどうにかしてもらえたら、それでいい。
女たちはタレントを大人しくさせることに成功した。車から降りたタレントは四つん這いになって建物へ入って行った。中をちょっとだけ覗いたら、鏡が見えた。風呂の鏡のように湿気で濡れている。こっちの姿は映っていたが、三人の女の姿は見えない。余計な詮索はせず立ち去ることにした。女たちに頭を下げる。向こうも会釈した。建物に入らず、こっちを見送る様子なので、さっさと車を出す。見ないつもりだったがバックミラーを見てしまう。女たちの姿は、やはり見えなかった。
出るときは普通に出ていいのか、聞くのを忘れた。ポイントを逆戻りしなくていいのかと思ったが、一方通行を逆戻りするのは避けたい。幽霊もイヤだが、それ以上に警官とかかわり合いたくない身の上なのだ。お守りを頼りに、幽霊が闊歩する街を進む。
大通りに出た。幽霊も見えないが人もいない。人の声を聴きたくなってラジオを付ける。深夜の人生相談だった。こんな時間に珍しい。故郷を離れた者の話だった。急に煙草を吸いたくなった。生憎と切らしている。煙草は諦めるとして、その代わりに喉の渇きを潤そう。自動販売機を見つけたので車を止める。自販機の横に階段があった。何の気なしに階段の下を見る。階段の天井に照明があった。照明の黄色い光に引き寄せられて階段を降りる。階段の下に街があった。人も車もいない車道と夜空に浮かぶ三日月が見える。夜空に浮かぶ満月をさっき見ていた気がするけれど、それについては深く考えないことにした。階段を駆け上がって車へ戻る。ここで飲み物を買うのは止めた。早く帰って寝よう。
その後もタレントの送迎をする機会があった。あの晩ひどく泥酔していたタレントの送迎も二度か三度やった。最初の時は緊張したけど、次からはそうでもなかった。相手はこっちを覚えていない様子だった。でも、ある時ふとバックミラーを見たら、こっちを変な顔で見ていたから、もしかしたら何か思い出したのかもしれない。それでも、こっちは何も言わない、尋ねない。それなりの報酬を得て生きていくためには、それが大切なのだ。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その二
市役所に通じる道路は市警の警察官と州兵が完全封鎖していた。市職員は身分証を見せれば通してもらえるが、一般市民は身分を証明できるものを見せても通過が許されない。無理に通ろうとする者は阻まれた。制止を振り切って中へ入ろうとすると逮捕される。抵抗する者は激しく殴打された。幸いなことに死者は出ていないが、完全武装の警官隊と州兵部隊には発砲許可が出ており、死人が出てもおかしくない状況だった。
異常な事態である。市民からは不満の声が上がっていた。市役所と市警本部そして州兵を統括する州政府に苦情の電話が殺到していたが、市と州当局は無視を決め込んでいる。過激派対策が最優先なのだ。
これほどまでに要警戒なテロリストとは何者か?
ジュンとジュネという同性愛者のカップルだ。二人は憲法が認める同性婚の権利を行使しようと市役所へ婚姻届けを提出しに行って受け取りを拒否された。州政府の法律には同性婚の記載がないため、書類は認められないというのが理由である。市への抗議がなしのつぶてだったので州政府に抗議文を送り付けたが、これも無回答だった。地方レベルでは話にならないと考えた二人は中央政府の出先機関へ相談した。中央政府の回答は明確だった。同性婚を認めない市と州の対応は憲法違反である。ただちに書類を受理せよ、という命令が市と州政府に送られた。地方政府に結婚を認められなかった同性愛者のカップルが中央政府を味方につけたわけだが、これが市と州当局にとっては体制を揺るがす極悪人に映ったのである。
この地方が元来、保守的な土地柄だったこと。そして革新政党が与党の中央政府と保守派の牛耳る地方政府の対立があったために、ジュンとジュネの同性婚が大問題に発展してしまったのだった。二人を応援するグループが現地入りし調整を図ったものの解決には至らず逆に、その中の強硬派がデモ行進を実施したことが相手を刺激してしまい、遂に警官隊と州兵部隊の動員による市役所封鎖という事態に至った。
中央政府は地方の過剰反応を事実上の反乱とみなすか討議を重ねた。反乱とは認定されなかったが、政権内では強硬案が選択される。首都の治安維持を任務とする陸軍空てい部隊と歩兵部隊の現地派兵が決まったのだ。
中央政府の派遣命令を受け州政府は州空軍に最高レベルの警戒を命じた。州空軍の戦闘機部隊は空てい部隊の輸送機を撃墜し、爆撃機部隊は歩兵部隊を載せたトラックを木っ端微塵に吹き飛ばす準備を始めた。
情勢の悪化を目の当たりにして、無関係の市民の間に動きが見られた。内戦の勃発を恐れ市街地から逃げ出そうとする者が現れたのである。
別の動きもあった。一部の市民が同性愛者への迫害を始めたのだ。市警が見て見ぬふりを決め込んだので暴力がエスカレートした。被害者側や報道各社が事実を広く世界に公表したため、世界各国から非難の声が上がった。中央政府は一刻の猶予もないと判断し派遣予定の部隊の出発を急がせると共に、現地駐留の陸軍部隊にも出撃を命じた。
だが、これは危険な一面があった。現地の陸軍部隊は、その土地の出身者から成る。彼らが中央政府の命令を拒否する恐れがあるのだ。最悪の場合、市と州当局に合流するかもしれない。それは反乱の序章と考えて差し支えなかった。
中央政府の与党は特使二名を派遣した。一人は地方政府側へ、もう一人はジュンとジュネの元へ。地方政府への特使は市役所の封鎖解除を要求すると同時に、それを拒否した場合の中央政府の対応を伝えた。国境線から移動させた陸軍戦車部隊と最新鋭戦闘爆撃機部隊が数時間以内に進撃を開始するという通告に州軍首脳は震撼した。州空軍の航空機は旧式機が多く、それでは最新鋭機に太刀打ちできない。それに州兵の装備では厚い戦車の装甲を貫けなかった。総攻撃されたら彼らに勝ち目はなかったのである。
ジュンとジュネに派遣された特使は、市役所への婚姻届け提出を諦めるよう促した。その代わり中央政府が特別措置として二人の結婚を認めると伝えた。
特使との会談終了後、市と州当局の首長は市役所の封鎖解除を宣言した。ジュンとジュネはマスコミに対し、事態の早期収拾のため特使の提案を受け入れると発表した。そして二人は特使に保証人となってもらい中央政府へ婚姻届けを届け出た。この騒動はそれでようやく収まったのである。
ところで、この事件がどうして「ジュンとジュネのジューンブライド事件」と呼ばれるかというと、ちょっとした事情がある。二人の婚姻届けが首都の関係省庁に届けられたのは五月末だったが、担当の役人が書類を決裁したのは六月に入ってからだったので、二人が結婚したのは六月ということになったのだ。
ジュンとジュネが末永く幸せに暮らしたのも、他の同性愛者が普通に結婚できるようになったのも、ジューンブライドのおかげだという都市伝説があるけれど、お題が「都市伝説」だったのは四月のことだ。五月末の今は「ジューンブライド」だけですべての説明が付く。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その三
ヴァンパイア狩りで学費を稼いでいる。そう言うと大抵の人は驚く。何しろ危険な仕事だ。マッチョなタフガイをイメージするのだろう。確かに、そんな体格の男性同業者は多い。でも、皆が皆そうじゃない。虫も殺さぬ顔をした老婦人が恐るべき殺し屋の場合もあるし、月齢三か月程度の乳児が超能力で吸血鬼に幻覚を見せ月光浴のつもりで日光浴させて消し炭に変えるなんてのもある。私みたいに小柄な女子中学生なら、普通ではないにせよ騒ぎ立てるほどのものでもない。
それでもやっぱりビックリされるし、色々と聞かれる。たとえば、こういうのだ。
「ヒーローと契約で特別な関係になったり、たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことも……あるの!?」
こんな質問をするのはだいたい、同い年くらいの女の子だ。ヴァンパイアというものに、何かしらの憧れがあるのだろう。
質問の答えは彼女たちを失望させる。ない、そんなことは全くないのだ。
まあ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。けれど、私に関してはない。私にとってのヴァンパイアはヒーローじゃない、狩りの獲物だ。たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことの代わりに、一匹のヴァンパイアを仕留めるためにたくさんの吸血鬼ハンターが協力するのではなく互いの足を引っ張り合い、時に人間のハンター同士で殺し合うことがある。人間は吸血鬼以下の存在だと痛感させられる瞬間だ。世紀末はしばらく来ないというのに、もう世も末だとウンザリする。
それはいい。私の狩りのやり方を教える。ヴァンパイアは血を求めて闇の中をさまよっているので、血の匂いでおびき寄せる。鉄とタンパク質の複合体から精製する人工血液気化ガスの入ったボンベの栓を開けて待つのだ。のこのこ現れたら捕まえる。警官みたいに手錠をかけるわけじゃない。私に見つめられた吸血鬼は、私の言いなりになる。大人しくしろと命じたら動かなくなるし、死ねと言われたら自らの心臓に杭を打ち込む。どういった理屈でそうなるのかは知らない。父が異世界から来た異形の神だったとか、母が滅亡した大宇宙の魔女の生き残りだとか、いろんな仮説を聞かされたけど二親ともこの世にいないので聞くことはできない。
とっ捕まえた吸血鬼をどうするかというと、売る。美少年が大好物の芸能事務所社長やハンサム大好きなヌン活マダムがお得意様だ。中産階級の家庭にも売れる。ちょっと良いところで、箱入り娘がいるような家だ。親が買って、お嬢様にあてがうのである。意外に思えるかもしれないが、売上高はこちらの方が多い。車を買い与えるような感覚だろうか。
どうして吸血鬼を娘に与えるのかというと、変な虫が付かないようにするためだ。凄いイケメンで人間離れした戦闘能力を持つ吸血鬼にかなう男なんか、まずいない。要するにデカい蚊がボディーガードになって、他の男が寄り付かないようにしてくれるのである。蚊に刺されたらどうするのって心配はご無用だ。吸血鬼に生殖能力はない。絶対に避妊してくれるボーイフレンドなら親は安心だ。娘と家族に危害を与えぬよう私が命じたら絶対服従するので、飼い主には噛みつかないことは保証済みだ。
そんな従順な美男子が選り取り見取りなんて、羨ましい! とやっかむ子がいるけど、私は全然うれしくない。私にとって吸血鬼は売り物にすぎないのだ。好きも嫌いもない。とっ捕まえて売るだけだ。
そんな現実主義者の私も年頃の女の子だ。いつか素敵な彼と巡り会いたい。繰り返すけど、それは吸血鬼じゃないよ。売り物に手を付けるのはプロじゃないから。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はオーディオブックのアプリを停止させた。自分を拘束していた触手のすべてを、男子中学生が高枝切り鋏で切断したからだ。
男子中学生は手際よく作業した。触手の本体である軟体動物レイミアード・カッサーノは男子中学生を敵とみなし攻撃を仕掛けたが、それを排除して切断を続けたのだから大したものである。大半の触手を失い、軟体動物レイミアード・カッサーノ二匹は逃げ出した。中学生男子に助けられたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、素直な心でお礼を言った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
高枝切り鋏を消毒用アルコールで湿らせた布で拭きながら男子中学生が言った。
「それほどのことじゃないよ。話を聞かせてもらったから。だけど」
手品のように高枝切り鋏を瞬時に消して彼は付け加えた。
「さっきの話だけど、スカッとする胸きゅんストーリーだったのかな。違うような気がしたけど」
スカッとする胸きゅんストーリーは、これから二人で創り上げればいい……とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は思った。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は自信たっぷりに言った。
「どうだ、凄く面白いだろう」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は言った。
「私の小説に似ているんですけど」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰はマルチバースについて語った。
「並行宇宙の産物だろうな。同じ小説が別の宇宙で誕生したんだろう」
「そんなことがあるんですか?」
「ある」
納得しがたいプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯だが、利点を生かすことに意識を向けた。
「この作品がオーケーなら、僕のも大丈夫でしょう」
「う~ん、二番煎じになってしまうから、そこが弱いよね」
「そこを何とか、お願いします」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯の懇願に、ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は折れた。
「分かった、こうしよう」
この小説が第4回グラスト大賞を獲ったらプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は晴れてファンタジーな異世界への移籍が許されることになった。大丈夫だろうか。
その点、自分は違う。ファンタジーな異世界へ来ても、ここに順応し立派に生活している。ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は、そう思った。確かに、それだからこそ司法官試補という固い職業に就いているのである。だから、まったくの間違いとは言えない。だが彼には、自分以外の異世界出身者に対する強い偏見があった。差別的な目で異世界出身者を見てしまうので、必要以上に厳罰を与える傾向があるのだ。
そのために、被害を被った異世界出身者は数知れない。
その一人がプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯である。
架空の世界を舞台に主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界ストーリーを求めていたプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、ある日、気が付くと、主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界に自分がいて、驚いた。
そういう世界へ行きたいと願っていたので、夢がかなえられたと喜んでいたのも束の間のこと。プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、異世界からの転移者あるいは転生者を憎悪する右派民兵に捕まえられ、素っ裸にされて木に吊るされた。他にも同じような運命に陥った異世界からの転移者あるいは転生者がいて、現地住民から投石されていた。皆からストレス解消のリンチを受けた異世界からの転移者あるいは転生者たちは、それから司直の手に引き渡された。
捕らえられた異世界からの転移者あるいは転生者たちは裁判にかけられ量刑が下される。前世での行いは刑を決める際の参考にされるのだが、それを判定するのが司法官である。だが、司法官は忙しいので、下調べや逮捕者への尋問はアシスタントの役目となっている。それは主に司法官試補の仕事だった。司法官試補とは司法官の見習いであり、勉強のためにアシスタント役をしているのだ。
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯の取り調べ担当はペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰だった。
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰はプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯を取り調べる前に、その前世をコックリさんで調べた。そこで得られた逮捕者の情報を当人に示し、事実確認をするのだ。
「お前はプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯だな」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰に、そのように質問されたプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、それに間違いないと答えた。その上で質問する。
「どうして、僕の前世の名前が萌牡蠣薔薇海嘯だと分かったのですか? この世界の誰にも話したことがなかったのに」
「不思議だろ? お上の目をごまかすのは無理ってことだよ。さて――」
心霊的手法で入手した個人情報をプリントした紙を斜め読みしたペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は、その紙をプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯に見せた。
「ここに書かれた内容に間違いはないか?」
「ざっと眺めた限りでは、間違いないですね」
そう答えるプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯にペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は言った。
「お前が前世で書いたという異世界ファンタジーを読みたい」
「いいですけど……え、それが何なのです? この裁判に関係があるんですか?」
「大ありだ」
「その心は?」
「優れた異世界ファンタジーを書く作家は有用だ。そういう小説家は必要とされるんだ」
「優れた異世界ファンタジーを書いていない素人の作家は、どうなるんです? アマチュアの小説家は無用の存在なのですか?」
「そういうのは余っているから殺処分だ」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は震え上がった。ファンタジーの世界へ来て喜んでいたのに、殺処分の憂き目が待っていようとは!
「何を怯えているんだ? 異世界ファンタジー小説を見せてみろ。見せられないなら、どうなるか分かっているだろうな?」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰に脅されたプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は、手渡されたタブレット端末を操作した。
「これが僕の書いた小説です。さあ、どうぞ。じっくり読んでください、好きなだけ」
そう言ってプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯はタブレット端末をペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰にタブレット端末を返した。
☆ あなたがヒロインとなる物語を探し求める物語 ☆
[序に代えて~運命の日にもかかわらず寝坊した女主人公つまり、あなたの取った信じられない悪行の数々その他の記録]
「あ~よく寝た。目覚めスッキリ、気分は最高! 晴れの舞台にふさわしい朝って感じなんだけど……えっと、今は何時なんだろ?」
目覚まし時計を見て、あなたは驚いた。寝坊である。ただの寝坊ではない。完全な寝坊、大遅刻だ。
「やばい!」
超適当に身支度して玄関を出る。歯は磨いていない。うがいをしただけだ。メイクもいいかげんである。本当は、もっと完璧な装いで家を出たい。何といっても今日は、あなたが主役の物語が始まる日なのだ。素敵な格好で行かないと、格好がつかない……そんなことを言うんだったら寝坊するなよ! と突っ込みたくなるけれども人には過ちがつきものだ。そして過ちは大抵、重なって起きる。
「やべ、どこに行くんだったか忘れた」
運営から来たメールに行き先が書いてあった。あなたはスマホを見ようとして、持って来ていないことに気が付く。枕元に置きっぱなしだった。舌打ちをして後戻りする。近所に住む一人暮らしの優しいおばあさんが「おはようございます」と頭を下げたのに無視して通り過ぎ、ショートカットのため人の家の駐車場を突っ切る際にバッグの金具で車に傷をつける(ぶつかってサイドミラーを変な角度に曲げたが、これはすぐに直せるから良しとしておく)。前を歩く子猫が邪魔だったので威嚇し、それでも動かなかったので蹴ろうとして空振りする。やがて玄関にたどり着く。焦りのために玄関の鍵を開ける手が震えた。苛立ちで自然と悪態が出る。
「クソ※タレ! ヤ●マンビ○チ! ▼梅マ△コ! ▽モ▲ラ! ティ■ポ千本切□したい! 噛み◇って剥製にした◆よぉ!」
あなたの奥にある隠れた本性を口からダラダラ漏らしながら寝室へ向かう。スマホ発見。メールをチェック。自分でも信じられないことだが、誤って削除していた。
「ガッデーム! ちくしょう、どうしよう?」
歯ぎしりしつつ新着メールを見ると「物語について、困ったことがございましたら、こちらへ」というタイトルが目に入った。それを開くと、こんな説明が書いてある。
【物語の世界は広大です。慣れていない人は何が何だかわからず、入るのをためらってしまいますよね。そんなときは私たち、読書コンシェルジュにご相談ください。どんな方にも最適な物語をご紹介いたします】
何を言っているのか分からないけれど、物語に関する悩み事なら聞いてくれそうな予感がした。初回無料というのを確認してから、あなたは読書コンシェルジュに連絡を取った。
[本文]
出演:あなた(つまり女主人公)、読書コンシェルジュ
「」セリフ
【】場所・状況の説明
『』ナレーション
読書コンシェルジュ「こんにちは。こちらは読書コンシェルジュサービスです。どのようなご用件でしょうか?」
あなた「実は、かくかくしかじか」
読「すみません、何をおっしゃりたいのかわからないのですが」
あ「あ、えっと。これは無料ですよね?」
読「はい、初回は無料となっております。二回目以降は――」
あ「二度と使わないつもりですから二回目以降の話はいいです。それより私、困ってるんです」
読「いかがしましたか?」
あ「自分の出る物語が分からなくなっちゃったんです」
読「それはお困りですね」
あ「困っているから読書コンシェルジェに連絡したんですけど」
読「読書コンシェルジュです」
あ「どっちでもいいでしょう! それより私の悩みを解決してくださいよ! 急いでるんですけどぉ」
読「失礼いたしました。それでは、どのような物語だったか、教えていただけますか?」
あ「それが分からないから困っているんです。面白そうなお話だったのは覚えているんですけど」
読「それでしたら、物語についたキーワードは覚えていらっしゃいますでしょうか?」
あ「えー、分かんない」
読「それでしたら、こちらからキーワードの例を送信いたします。そちらをご覧いただいて、その中からお選びください」
【スマホに以下の単語が表示される】
異世界
ファンタジー
転生
転移
バトル
魔法
冒険
勇者
チート
無双
最強
成り上がり
錬金術
悪役令嬢
ざまぁ
恋愛
ラブコメ
ほっこり
スローライフ
お仕事
バディ
美味しい
モフモフ
女主人公
男主人公
読「これは注目キーワードです。この中に、見覚えのあるものはございますか?」
あ「女主人公、これがわ・た・し」
読「何かのお間違いではございませんか?」
あ「揺るぎない事実です」
読「失礼しました。それ以外のキーワードはいかがです?」
あ「う~ん思い出せない!」
読「それでは次に、こちらをご覧ください」
【スマホに以下の単語が表示される】
ファンタジー
恋愛ファンタジー
異世界ファンタジー
現代ファンタジー
あやかし・和風ファンタジー
後宮ファンタジー
青春・恋愛
ヒューマンドラマ
ミステリー
読「こちらが物語の大まかなジャンルです。どれかに見覚えがございませんか?」
あ「ある! あるよ! 後宮ファンタジー! これだった!」
読「それでは、後宮ファンタジーのサブジャンルを表示いたします」
【スマホに以下の単語が一つずつ表示される】
後宮シンデレラストーリー
平安後宮シンデレラストーリー
男装後宮ラブファンタジー
あ「これ、これだよ! これよ、これ! 男装後宮ラブファンタジー、これだった! 男装後宮ラブファンタジーで間違いなし!」
読「この文章に見覚えがございませんか?」
【スマホに以下の文章が表示される】
異能を持ったヒロインがワケあって男装し後宮入りすることになるも、なぜか皇帝だけには男装がバレてしまい――そんな後宮を舞台にヒロインが活躍し、皇帝に愛されるストーリーを募集します。
男装しているのに、なぜか皇帝だけには女性扱いされてドギマギするなど、男装の仕掛けを効果的に描いて下さい。
実は異能やあやかし設定がある魅力増しヒーローも大歓迎です!
あ「見覚えありまくりだって! これ、これが私の物語。私がヒロインの物語よ! これに出るのが私、私なの! ねえ、どこへ行けばいいの? この物語に出るために、私はどこへ行けばいいのよ!?」
読「どこに行っても駄目みたいですね」
あ「なんで?」
読「この物語のコンテストは締め切られたようです」
あ「ヒロインがいないのに締切って、どういうこと!?」
読「他の人がヒロインになったのかもしれませんね」
あ「そんなの、絶対に許せない! ねえちょっと、何とかしてよ!」
読「そう言われましても」
あ「しっかりしてよ! あんた読書コンシェルジェなんでしょ!」
読「読書コンシェルジュです」
あ「どっちだっていい! それより私をヒロインにしてよ! それが出来ないのなら、読書コンシェルジュなんて名乗らないで!」
読「それでしたら、現在募集中のコンテストへ行かれて、その物語のヒロインになってみたらいかがでしょう?」
あ「現在募集中のコンテスト? それって男装後宮ラブファンタジーなの?」
読「いいえ。こちらは<第36回キャラクター短編小説コンテスト{予想外のラスト! 1万文字以下の超短編 第2弾}>ですね」
あ「何だかやたらと括弧の種類が多いね。ま、それはいいわ。その物語のヒロインに、私はなれるの? 何より大事なのは、これよ」
読「こちらは審査員ではございませんので、それは何とも」
あ「そりゃそうね。行ってみるわ、そのコンテストに。どうすればエントリーできるの?」
読「エントリーのページから、送信ボタンで行けると思います。ボタンを押すと、あなたが画面に吸い込まれるのですけど」
あ「それマジ? 凄くね。で、どうやるの?」
読「<小説サイト ノベマ!>の<コンテスト一覧>のページから該当する箇所をクリックすればよろしいかと」
あ「分かった。色々ありがとう、どうもね!」
ナレーション『あなたは読書コンシェルジュの指示に従い<第36回キャラクター短編小説コンテスト{予想外のラスト! 1万文字以下の超短編 第2弾}>へ向かった。自分が物語のヒロインになるのだ! と心に決めて。しかし、またも手違いが生じた。あなたは<第32回キャラクター短編小説コンテスト{予想外のラスト! 1万文字以下の超短編}>のページを開き、その送信ボタンを押してしまったのだ。第32回キャラクター短編小説コンテストは既に締め切られている。そして、その物語世界のヒロインは、あなた以外の誰かに決まっている。残念ながら、そこにあなたの居場所はないのだ。しかし諦めるのは、まだ早い。<第36回キャラクター短編小説コンテスト>の締め切りは2/28(火)13時である。それまでに<第32回(以下略)>から帰還し<第36回(以下略)>への投稿を完了するのだ。<第32回(以下略)>に一度エントリーした作品は<第36回(以下略)>への応募は不可と注意事項に明記されているけれども、ヒロインへの応募は不可と書いてないから大丈夫だろ多分。自分自身が素敵なヒロインとなる物語を完成させるために、全力を尽くせ。健闘を祈る』
☆ 女番長の俺が魔法少女のマスコットに変身させられるだけならまだしも溺愛を強要されるなんてあり得ない ☆
正義の魔法少女Aは苛立っていた。長年こき使ってきた式鬼が契約延長を拒否し彼女に絶縁状を叩きつけ去って行ったためである。こうなるのだったら早いとこ奴をブッ殺しておけば良かったと悔やまれて仕方がない。
憎しみが募るのは面倒な雑事を自分でやらなければならないためでもある。天界税務署へ確定申告を出す前に式鬼が逃げ出したので、彼女は初めての税務処理を死にそうになりながら自分でやった。年度末に毎年行われる天国の一斉清掃にも参加せねばならなかった。不仲の天女が実行委員長を務める春分の日の祭典に代理人を送ることが出来ず自ら顔を出したら案の定バトルになって、裁きの天使警察が出動する騒ぎとなった。
これ以上の厄介事を避けるためにも、彼女は新しい式鬼を確保する必要に迫られていた。
式鬼とは使い魔とも呼ばれる魔性の存在である。
天国にはいない。
それでは、どこで都合するか?
悪い奴を捕らえるなら監獄か刑場だが、ただ悪いだけでは役不足だ。
他の魔法少女や天女たちに自慢できるような、強く賢く美しい悪が求められるのである。
彼女は夜の地上へ向かった。そして見つけたのだ。そのお眼鏡にかなう、素敵な悪を。
§
日本最大の暴力団を束ねる総長ともなれば、求められるのは腕っぷしだけではない。人並外れた度胸が大切なのだ。その総長が今、怯えて全身から脂汗を流している。高級リムジンの後部座席で向かい合う学ラン姿の人物に睨まれ、百戦錬磨の総長が顔面蒼白の有様だ。
学ラン姿の人物が言った。
「黙ってちゃ何も分からない。どうするつもりだ? 悪くないビジネスだと思うが」
総長は唾を飲み込んだ。声を絞り出す。
「簡単に言わないでくれ。一万人の生贄を集めるのは大変な手間が掛かる。募集広告を出すわけにいかない。多くは誘拐することになるだろう。それをやると警察が黙っちゃいない」
学ラン姿の人物は頷いた。
「そのために常日頃から賄賂を払っているんだろ? 我々が支払う代金は、多額な必要経費を補って余りある」
「それはそうだが……」
苦悩する総長の方に手を置いて学ラン姿の人物は言った。
「日本最大の暴力団の総帥になるために悪魔へ魂を売ったことを忘れるな。この件を断ったら、地獄に落とされるかもしれんぞ。今すぐに」
今の地位に就くため総長が悪魔に魂を売ったことは事実だった。その悪魔からの依頼を拒否したら、どうなるか分からない。
結局、総長は悪魔からの使者を名乗る学ラン姿の人物に従った。
「それでいい。期日までに頼む。それより早く目標人数を確保できたら連絡してくれ。うまくいきそうにない場合も同様だ。電話する時間はいつでも構わない。ああ、そこで下ろしてくれ」
真夜中を過ぎた首都高速道路の路肩に停車した高級リムジンから降りた学ラン姿の人物は遮音壁を飛び越え姿を消した。
総長はすぐ車を発進させた。額の汗を拭う。そのときスマートフォンの着信音が鳴り響いた。発信者の名前を見る。地獄の使者と表示されていた。溜め息を吐き通話ボタンを押す。
「もしもし」
「言い忘れていたことがある」
生贄の人間は善人でなくともいい。童貞と処女でなくても結構。年齢は問わない。要するに、誰でもオーケーとのことだった。
総長は生き返った心地になった。認知症の老人を拉致すれば、一万人に到達するのではあるまいか?
「分かったか?」
「ああ」
「それじゃあな」
向こうは電話を切った。総長も通話ボタンを切った。
生贄を集めて何をするのか? と聞きたかったが止めた。人間には知らなくても良いことがあるのだ。
悪魔に魂を売る方法も知らない方が良かったと彼は思い、一人きりの後部座席で後悔の涙を流した。
§
首都高から飛び降りた悪魔の使いは人影のない川沿いの道を歩きながら、学ランのポケットから出した葉巻を吸っていた。その足が止まる。
「そこにいるのは誰だ? 出て来い!」
学ランの人物の呼びかけに応じて、暗がりの中から正義の魔法少女Aが姿を見せた。その手には巨大な鎌が握られている。彼女は鎌を構えたまま、学ランの人物にじりじりと迫った。可愛らしい笑顔に似合わぬ言葉が出る。
「隙を見て首を狩ろうとしたけど、さすが地獄の使者ね。よく気付いたわ」
葉巻を吸いながら学ランの人物が言った。
「天界の魔法少女さんにお褒め頂き光栄の至りだ。地獄の悪魔に会ったとき、褒められたって自慢しとく」
魔法少女は歩みを止めた。不用意に近づくとやられると察したのだ。間合いを取って話しかける。
「あんたが車の中にいたときから、ずっと見ていたわ。悪魔の使いにしては、凄く格好いいわねえ。本当にイケメンだわ。ああ、いじめがいのある獲物が見つかって、凄く嬉しいの。さあ、あたしと契約しなさいな」
学ランの人物は紫煙を吐き出した。
「興味は無いが一応は聞いておく。契約すると、どうなるんだ?」
魔法少女は浮き浮きボイスで答える。
「あなたはねえ、あたしのマスコットになるのよ。可愛らしいマスコットキャラね。でも、時と場合によっては、あたしの恋人に変身してもらうわ。そして溺愛するのよ、あたしを。凄く溺愛するのよ」
深々と葉巻を吸って学ランの人物は尋ねた。
「俺は女だが、それでも構わないか」
「え」
「俺は女だ、女番長だ」
「女番長って……それマジ?」
「そう」
「女番長って、スケ番よね? 昭和で滅びたと思ったけど、まだいたとは知らなかった。でも、スケ番って言ったらセーラー服でしょ。着てないじゃない!」
「カレーうどんをこぼして汚したから、今クリーニングに出している。この学ランは部屋のクローゼットにあったのを着てきただけだ」
「いやいや、普通の女子は自前の学ラン持ってないっしょ! もしかして同棲相手のもの? あんた同級生と同棲してんの?」
「してない。つーか、てめえ、うるせえぞ。夜中なんだから静かにしろ!」
「怒鳴ってんのはそっちでしょうが! まじウルサイ! てかさ、あんたホントは男なんでしょ? 声が低いもの」
「これは元々こういう声なんだ。それだけで勝手な判断するな」
「無理しないで。今は多様性の時代だから。ま、それはともかく契約だけはして。溺愛はどうするかこれから考えるけど、それ以外でもあんたにやってもらいたいことがあんの。掃除とか」
「ごめんこうむる」
「掃除が苦手な女はがさつって言うけど、大丈夫。あたしが教えてあげるから、すぐに掃除がうまくなるから」
「掃除は好きだから、てめえに教わる必要はない。それと、こう見えてファンシーグッズが大好きな典型的ヤンキー気質なんで、可愛いデザインのマスコットキャラは好きだ。自分が変身するのも、一人のときはやってもいいと考えている。ただし、てめえを溺愛はないわ。絶対にない。死ねや、外道」
そう言って女番長は葉巻を川に投げ捨てた。巨大な鎌を構えた魔法少女は、相手の戦意を敏感に感じ取り、一歩引き下がった。それから舌なめずりをしてケケケと笑う。
「怖いねえ、怖い怖い。でもね、あたしも負けてらんないのよ。使い魔が必要なの。この鎌で、あんたの首を切り落として、それから再生の秘術を掛けてやる。そうなったら、嫌でもあたしと契約することになんのよ」
女番長は間合いを一気に詰めた。柄の長い鎌を持つ魔法少女の懐へ飛び込もうと考えたのだ。鎌を振り回される前に、敵を仕留めるつもりだった。
首都高速道路に設置されたオレンジ色の照明の光に照らし出される魔法少女と女番長の影が重なる。
片方がドサリと倒れた。
☆ リストランテ・ボルジア ☆
仕事や恋に傷ついた夜に、足が向く不思議な飲食店。それがイタリア料理店「ボルジア」だ。
このリストランテを訪れる客は、クセあり店主の語りと、美味しい食べ物に、疲れた心を癒されて――なんて、ベタでありがちなストーリーを期待しない。飲み食いで癒される程度の傷は傷のうちに入らないのだ。唾を付けときゃ自然に治る。
店は一見さんお断りの完全予約制だ。オーナーシェフのスペイン系イタリア人父子は口数が少なく愛想がない。二人が作る料理は旨くなく……いや、むしろ途轍もなく不味い部類に属する。それが何とコース料理で来るのだ。前菜、スープ、主菜、そして食後のデザートとエスプレッソコーヒーまで胃の腑に納めたら、客の気力と体力は極限まで低下する。しかも高い。店を出ると客は皆「もう二度と来ない」と誓う。そして手土産の白い粉が入った包みを隠し持ち帰路に就くのだ。
そう、誰もが二度と来たくない店それが「ボルジア」だ。
この店の客は復讐者である。仕事や恋など理由は異なるが、自分を傷つけた相手に報復する手段を求め、この店にやって来る。手土産の白い粉は毒薬だ。悪名高きボルジア家秘伝の猛毒カンタレラ、これが目当てなのだ。
それなら毒だけ入手すれば良い、と思われることだろう。だが、この店で出される料理を食べることが大切だった。
この料理にはカンタレラの毒性を薄めたものが入っている。そのコースを摂取することで食べた者はカンタレラに対する抵抗性や一時的な耐性を獲得するのだ。
カンタレラは雪のように白く味の良い粉薬であり、飲食物に混入する手段が一般的だったが、食物への意識が高まった現代においては経口摂取は困難な場合がある。そもそも、犠牲者のグラスに粉を入れているところを目撃されたら、それこそ命取りだ。
そこで最近は毒殺対象者のスマホに水で溶かしたカンタレラを塗布して皮膚接触で体内に毒を入れる方法やアロマオイルまたは空気清浄機を用いた呼吸器への浸潤が主流だ。飲食物での毒物投与と同様に、これらの方法でも司法解剖で毒殺の証拠は検出されない。
かくして憎い相手は死に、客の心の傷は癒されるのだ。
不味くて高いという飲食店では致命的な問題点があるにもかかわらず、このリストランテ「ボルジア」の客たちの満足度は高くリピーターが多いのは、そういった理由による。
☆ 引きこもり女性を狙うSNSの甘い罠 ☆
奇人変人をおちょくるのが大好きな俺は、長く家の中から出られないでいる引きこもりをからかってやるのが最高のストレス解消となっている。危害を加えているわけじゃない。ちょっとしたお楽しみをやっているだけだ。そいつの近くを歩く。それだけだ。身長二メートルで体重百五十キロのデブが鼻息荒く歩くと、大抵の人間は怯える。それを見ているだけで、こっちは楽しいのだ。
さて、引きこもりの話に戻ろう。そいつが暮らしているのは俺の家の隣の通りなので、雨の日にそこまで出歩くのは面倒だが、逆に雨の夜がチャンスだった。雨の晩になると、あの引きこもり女は必ず家から出てくるからだ。傘を差しているから人の視線を気にしないでいられるのだろう。しかし、油断は禁物! 後を付けて歩いている人間つまり、この俺がいるからだ。安心した様子で散歩している女に気付かれないよう細心の注意を払いつつ、後を付ける。やりすぎると引きこもりが悪化するから、ダメ絶対にダメ。でも、名状し難い不安は感じさせてやりたい。その塩梅が難しいけれど、困難に挑戦するのは人の本能というものだ。何事にもチャレンジする。それが無上の楽しみなのだ。
変なことに夢中になっているな~と思うかもしれないが、こういった趣味を持っている人間は俺だけではない。同好の士が集まってSNSでワイワイやっている。皆、色々なことを書き込んでいるのだ。尾行する相手は様々だが、犯罪はやっていない。気付かれないよう後を付けるスリルとサスペンスを楽しんでいるだけだ。「ま、ちょっとビビらせる程度なら別に大したことではないだろ、JK」とカキコしている者もいるにはいるが……おっと、そろそろ女が外出する時間だ。へへ、今夜も引きこもり女の尻や胸を鑑賞させていただくとすっかな。
今日は天候が不安定で、豪雨になると天気予報は伝えているが、気にしない。こういう日でも絶対に、あの女は姿を見せるのだ。出歩く者は少ないから、対人恐怖症の人間にとっては気が休まるのだろう。俺も雨の中を外に出た。女の家に向かう。隣の通りへ出る曲がり角の途中で、何の気なしにカーブミラーを見上げたら、曲がり角の向こうに誰かがいる。見覚えのある花柄の傘を差している。あの引きこもり女の傘だった。
引きこもり女は、こちらへ向かって歩いてきていた。このままでは正面から鉢合わせだ。俺は人と真正面から顔を合わせるのが好きじゃない。くるりと回って元の道を引き返す。女との間の距離を稼ごうと速足で歩いたら、前の方で誰かが急に立ち止まった。大柄な男だった。見覚えがあるけれど、誰か分からない。男が慌てた様子で回れ右をして歩き出す。その姿に気を取られ、足を止めてしまったのは失敗だった。引きこもり女が俺に追いついてしまったのだ。街灯の照明が女の姿を映し出す。
「すみません、失礼ですけど、お尋ねしたいことがありまして」
可愛らしい顔をした女は丁寧な口調で俺に話しかけてきた。突然の出来事で驚く俺に質問を浴びせてくる。
「SNSの尾行専門サイトに投稿していますよね? 常連さんですよね? 本名は●×さんですよね? 住所は――」
その全部が正解だった。頷くのも何なので黙っていたら相手が追加情報を更新した。
「私は、あなたが尾行している引きこもり女の別人格です。大事なお話があります。あなたのことを、小心者なのにキレると狂暴な人格が狙っています。あなたが自分に危害を加えるのではないかと恐れ、何かされる前に何とかしようと決意したのです」
驚きのあまり二の句が継げぬ俺に女は言った。
「何とかしないと、あなたが何とかされてしまいます。早く逃げて下さい!」
「は、はははや、はや、早くったっててってててて、どどどここおへえええへえ」
緊張のせいで普段より口が回らない。焦りが酷すぎて吃音っぽい声が出てしまっている。自分でも何を言っているのか分からない。
「早くしないと、殺人狂の人格が、私の中に現れてしまいますうぅぅぅぅ」
そう言って俯いた女が顔を上げると人相が一変していた。牙を剥いた野獣そのものだった。野獣が吼える。
「この変態野郎、死ね!」
女は傘の持ち手を引き抜いた。街灯の明かりを浴びて持ち手から伸びた刃がギラリと光る。俺は悲鳴を上げて逃げ出した。デブの俺だが足は速い。こう見えて学生時代は箱根駅伝を目指す長距離ランナーだったのだ。あっという間に刃物を振り回す女を振り切った。家が見えてきた。玄関へ飛び込むのだ! と思った俺の前に、背後にいるはずの女が現れた。
いや、別人だ、と俺は思った。着ている服が違うし、こちらは傘の代わりにリュックサックと手提げバッグを持っている。その女は両手を広げ、俺を制止した。
「待って、家に入るのは危険です!」
俺は女にぶつかる直前ギリギリで停まった。俺がぶつかったら、この女は吹き飛んでいただろう。そんな俺に女は感謝することなく、意味不明なことを言った。
「私はあなたを追いかけている引きこもり女の双子の妹です。家に入ってはいけません。あなたが家の中に入ったら、用意していたガソリンを撒いて火を点ける計画があるのです。この雨でも一気に炎が燃え広がるほどのガソリンがありますから、きっと大爆発するでしょう」
俺は疑問を口にした。
「ががががそり、ガソリンなんてててて、持って持ってもももも持っていなかったぞぞ」
女は憎しみの表情で答えた。
「姉を脅かす存在は許せません。あなたを火刑に処します。私は妹として、やるべきことをやります!」
そう言うと双子の妹は手提げバッグの中から赤い発炎筒を取り出した。
「このザックの中にはガソリンの入ったペットボトルを入れています。大人しく焼け死んで下さいませ!」
俺は脱兎の如く逃げ出した。引きこもり女とガソリン女の姉妹は俺の後を追いかけてきた。二人の脚は早かった。いや、長年の半引きこもり生活で俺の脚力が衰えているだけかもしれない。
「待て~待て待て~」
雨の中を逃げる俺を二人の女が追いかける。振り切れない。曲がり角が見えてきた。あそこを曲がったところに暗い横道があるから、そこへ隠れよう!
俺は曲がり角を曲がると横道へ飛び込んだ。そこには、先程ちょっとだけ見かけた男が立っていた。俺は男とぶつかった。凄い勢いでぶつかったので一瞬、気が遠くなった。次の瞬間、俺の目の前に、俺がいた。俺は俺の顔を見ているのだ。
「ななな、なにこれれれ?」
俺が見ている俺が言った。
「衝突の瞬間に人格の入れ替わりが発生した模様です」
「は?」
「これは失礼。私は異世界のあなたが実世界へ送り込んだアンドロイドです。あなたに似た外見になるよう設定しましたが、雨の影響で魔メイクが崩れていますね。衝撃による人格の入れ替わりは、よくあることです。階段落ちとかで。今回の衝撃は低レベルですが、異世界のあなたは私の体に人格を融合させて活動することが多いので、ここでもそうなってしまったのでしょう」
「意味わからんいみかわら意味わから」
「話が分からないのは当然です。良く聞いて下さい。あなたはガソリンの爆発に巻き込まれ、これから異世界へ飛ばされます。それが事実なのです。しかし異世界へ飛ばされたあなたは、過去の実世界に私を送り込むことで、過去を改変しようとしているのです」
俺と入れ替わって俺の体内に入ったアンドロイドは、俺が入っている自分の体を両手で抱き締めた。肩の上に顔を載せ耳元で囁く。
「私は二人の女性をここで食い止めます。早く逃げて下さい」
そう言うが早いか俺の顔をしたアンドロイドは通りに出た。続いて大爆発が起こった。俺は爆風で吹き飛ばされた。目が覚めたら病院のベッドの上だった。女性の看護師が俺を覗き込んでいる。とても驚いた様子で誰か呼びに行った。白衣の男が現れた。どうやら医者のようだ。そいつは俺に尋ねた。
「●×さん、私の言葉が聞こえますか? 聞こえたら頷いて下さい」
俺は頷いた。看護師の女性と医者の男は目を合わせた。二人とも驚きの表情だ。医者は言った。
「●×さん、あなたは爆発事故に巻き込まれ、意識不明の重体だったのです。一時は危篤状態だったのですが、どうやら持ち直したようですね」
俺は体を起こそうとした。しかし、動こうにも動けない。そんな俺の様子を見て、女性看護師は言った。
「体を動かすのは無理です。安静にしていて下さい」
医者は看護師に言った。
「睡眠薬を使おう。安静を守るためには、それが一番だ」
そのうち俺は眠りに落ちた。そして夢を見た。双子の女と体格の良い男が病室にいる。デブの男つまり、俺に似たアンドロイドと思しき俺がベッドの中の俺に話しかけた。
「落ち着いて聞いて下さい。この病院は本当の病院ではありません。罠です。あなたを収監するための偽病院です」
双子の女が声を合わせて言った。
「ここはSNSの施設です。SNS即ちSuper Natural Serviceは直訳すると超自然」
俺の姿形をした男が制止した。
「それを教えるのは、まだ早すぎる。今はまず、ここから脱出させるのが先だ」
そうは言っても俺は動けない。それに、俺を殺そうとした双子の姉妹が現れたのも謎で、それが気になって仕方がない。思い浮かんだ疑問を口に出そうとすると、双子の女が立てた人差し指を唇に当てて制した。
「あなたの声は特殊脳波としてモニターで観察されています。声ではなく、おならで喋って下さい。それなら盗聴されません」
そう言われても、やったことがない。俺の困惑を見て取り、三人が俺を応援した。
「やればできます。さあ、おならで話して下さい」
そう言われると何だか何とかなりそうな感じがしてきた。よし、やってみるか! と思ったのが何かの間違いだった。いや、もしかしたら、それが正解だったのか……何だか知らないが、おならが爆発した。尻の下で起きた大爆発は俺の体は勿論のこと、その偽病院も吹き飛ばした。あまりの衝撃で次元の壁に亀裂が入り、そこを通って俺は異世界へ旅立った。異世界に転生した俺は性別が変わり多重と名乗るようになった。しかし状態は不安定で時々、元の世界に戻る。そんなときは大抵、半引きこもりの長身デブだが、双子の姉妹になっていることもある。そして何やかんやあって、今いる異世界へ戻るのだ。まったくもってわけが分からない。それでも聖女となって皆から崇められているから今の境遇は悪くない。
そう、悪くないはずだったのに、どんでん返しが起きた。多重という名の聖女は、実は悪役令嬢だという告発が為されたのだ。告発したのはSuper Natural Serviceつまり超自然即応部隊と称する機関だった。告発が受理され裁判となり、私は有罪となった。そして異世界を追放され……というところでSNSの書き込みは途切れている。有志によるリレー小説は遂に未完で終わったのだ。
この続きを誰かが書いても一向に構わない。ご自由にどうぞ。
☆ 後宮妃の軍事クーデター ☆
皇帝が病床に伏したとの機密情報を入手した列強諸国の外交官は自らの日記に、このように書いた。
‘高齢にもかかわらず好色で節制を知らなかった老害が遂に死の床に就いた ’
酷い書き方だが概ね事実だった。間違っている点があるとすれば、皇帝が節制に励んでいたということだろう。
そう、皇帝は確かに閨事を控えめにしていた。そうしないと身が持たないからだ。それでも若い頃からの習慣は止められない。効果抜群な精力剤の力を借りて頑張る……と書けば「どこが節制してるんだ!」とお叱りの声が飛んできそうだが、性への情熱が並々ならぬ皇帝にしてみたら、一日の回数を自ら制限するというのは大我慢の域に入る。
そんなことはこの際どうでもいい。皇帝が愛飲した精力剤について触れる。
それは辺境の山岳地帯でしか採れない貴重な生薬だった。都の宮廷に持って来るのは現地で暮らす山岳民族である。後宮の宦官たちは、山岳民族から生薬を受け取り、皇帝に服用させた……と書いたところで不安を感じた。
宦官、と書いたが、この存在を知らない読者がいるように思えたのだ。
簡単に説明すると性器を切除した男性である。男女の間違いを犯す可能性がないので後宮で働くことが許されている。皇帝にしてみれば信用できる使用人なのだが、時に政権を滅ぼす原因となった。秦の趙高、明の魏忠賢は、そう言った宦官の代表格である。
そして今、皇帝に臨終の時が迫る中で、宦官たちは暗躍を始めた。後継者の擁立に向けて動き出したのだ。
次の皇帝になる皇太子は既に決まっている。だが宦官たちは、自分たちの操り人形となる傀儡を皇帝にしようと企んだ。皇太子が謀反を起こそうとしていると嘘を言い、意識が朦朧としている皇帝を唆して、皇太子の死罪を命じさせた。命令を受けた兵士たちが宮廷の一角で暮らす皇太子の捕縛に向かう。
皇太子の側は当然ながら逮捕に抵抗した。宮殿の中で激しい戦いが起こる。皇太子を容易く捕らえられるものと思い込んでいた宦官たちは狼狽した。ここで負けたら終わりである。
宦官たちは恐慌を来しかけた。逃げ出そうとする輩も現れた。それを叱咤する後宮妃がいた。もう若くはない。かつては皇帝に愛されたが、その美貌はとっくに失われている。それでも、威厳があるのは事実だった。右往左往する軟弱者を怒鳴りつける、殴り飛ばす、あるいは宥める等でパニックを鎮めつつ、彼女は援軍を求める使いを出した。伝令が向かった先は都の外れ、山岳民族の寝泊まりする宿舎である。都と故郷を往復する彼らのために皇帝は特別に土地と建物を用意していたのだった。
前述した後宮妃は、その山岳民族の出身だった。彼女からの応援要請を受けた山岳民族は宮廷に向かった。その数は数百人に上ったと言われている。故郷へ戻らず都の宿舎で生活する者が多かったのだ。もっとも、数百人程度では広大な宮殿を占拠するのは困難だ。だが、戦力が拮抗している戦場に突如として現れると、それなりの効果がある。しかも、その山岳民族は剽悍で有名だった。都の弱兵が相手なら一人で十人は倒せると噂された戦闘能力を遺憾なく発揮して敵を撃破、哀れ皇太子は囚われて処刑された。
その頃には皇帝も死んでいたらしい。殺されたとも伝えられているが、詳細は不明だ。
宦官たちは安心して自分たちの意のままに従う皇帝を擁立しようとした……が、山岳民族に全員が捕らえられ処刑された。山岳民族出身の後宮妃が命じたのである。次に彼女は臨時政府の樹立を宣言した。自らは、その首班に就任した。その根拠は何か? すべて皇帝の遺言だというのである。
その理屈に納得する者はいない。反発した重臣や将軍らは一斉に反旗を翻した。その軍勢が宮殿に向かう。
いくら山岳民族が強くても、多勢に無勢。かなうわけがない……と都人たちは予想したが、それは間違いだった。宮殿を包囲した軍隊は敗北し、壊滅的な被害を受けた。
後宮妃と山岳民族の側が勝ったのは、優秀な武器のおかげだ。宮殿にある高価な宝物と引き換えに列強諸国から最新鋭の装備を手に入れていたのである。機関銃や大砲といった当時の最新兵器は、弓矢と刀槍が標準装備で近代的な武器は火縄銃しか持っていない旧式な軍隊を圧倒した。反乱を起こした重臣や将軍らの大半は銃撃を浴びて死に、生き残った者は降伏して、戦いは終わった。
後宮妃の側が勝利したと見た列強諸国は、彼女の臨時政府を正統なものとして承認した。
臨時政府の首班となった後宮妃は皇帝の血を引く者を傀儡の皇帝として自らが政治の実権を握った。
列強諸国から技術を学ぶ施策を断行し中国の近代化を成し遂げた彼女が、あまり知られていないのは残念に思い投稿する次第だが、求められている物語ではないような気がするので、是非ともお読み下さいとは口が裂けても言えない。
☆ お前と俺のエモい放課後注意報 ☆
そいつと出会ったのは放課後。そのとき、俺は帰宅途中だった。
「待て」
呼び止められて振り返り、俺は驚いた。
「お前は……俺か?」
俺と瓜二つの青年はニヤッと笑った。
「そうだ、俺はお前、お前自身だ」
頭がクラクラしてきた。俺は俺だ。だが、目の前の若者は、自分も俺だという。何のことやら、さっぱり分からない。
目を白黒させる俺に、そいつは言った。
「俺は未来のお前だ。お前に会うためタイムリープしてきたんだ」
眩暈が酷くなった。タイムリープってのは、時間跳躍とかいう意味だ。つまり、こいつは未来から過去へ時間を越えてやって来たってことなのか?
「俺に会うって……そんなことのために、わざわざ? 自分に会いたいなら、鏡を見れば済むだろ」
俺の質問に未来の俺は首を横に振って答えた。
「鏡の中の自分に用はない。俺は過去の自分に会わないといけなかった」
何かが引っ掛かったので、その点について俺は尋ねた。
「時間が経てば自然と未来の自分に会うよな。タイムリープしなくても、未来は必ず訪れるのだから。それなのに、お前は過去へ舞い戻った。過去の俺に会うために。それって、もしかして……これから俺に、何か悪いことが起こるんじゃないだろうな」
未来の俺はグスッと笑った。その目が怪しく輝いたのを見て、俺の不安は高まった。
「もしかしたら、俺は未来で大変な目に遭うんじゃないか?」
未来の俺はニンマリ笑って言った。
「そうとも。当たりだよ、冴えてるな」
「やっぱりそうか、お前は俺に警告しに来てくれたんだな、危険を避けるためのアドバイスをしてくれるんだな!」
「違う違う、勘違いするな」
「何だと」
「俺たちの死は避けられない。よく考えろ、人は皆、いつか死ぬものだ」
言われなくたって分かっている。俺は腹が立ってきた。
「じゃあ何しに来たんだよ!」
未来の俺は言った。自分たちは将来、孤独死する、と。
「寂しい死を迎えるんだ。野垂れ死にみたいなものだよ。その覚悟をしていても、死ぬ間際になって後悔するんだ。ああ、もっと色々やっておけば良かったなって」
そうか! と俺は合点がいった。
「それがアドバイスなんだな! 後悔しないように生きろって、それを伝えるために!」
「ちゃうちゃう、そんなんじゃない」
未来の俺は、俺の手の中のスマホを指差した。
「今お前、充実してるだろ。ソシャゲとかやって、満足してるだろ。それならいいんだよ、後悔なんかしないって」
ゲームやスマホに関して、俺は依存症ってくらいやっている。これを取り上げられたら、生きていけない気がする。
「それじゃ、何なんだ一体?」
「お前、友だちゼロじゃん」
その通り、俺はぼっちだ。
「彼女もいないじゃん」
その通り、彼女いない歴が全人生だ……そうか。
「分かったぞ、友だちや彼女を作れってんだな!」
「いや、それはむしろ、俺たちにとってストレスだろ」
さすが俺、俺のことはよく分かっている。
俺はぼっちであることや彼女がいないことを、まったく気にしていない。そういうのがいない方が、気は楽だ。正直、一人でいる方が好きなタイプなのだ。人間嫌いというほどじゃないが、密な関係を持とうとは思わない。昔からそうだった。自分以外の人間には基本、興味を持てない性質なのだ。それは、これからも変わらないと思う。死ぬまで、そんな気がする。
しかし未来の俺は違うようである。
「俺は孤独が好きだ。そう思って生きてきたのだけれど、死ぬ間際になって、気持ちが変わった。青春時代の、エモい放課後の思い出があるといいかなって、そう感じたんだ」
「そうか、それじゃ、頑張って思い出を作ってくれ。さいなら」
「おい、待てよ」
「同じ俺に悪いけど、青春時代のエモい放課後の思い出なんて、今の俺は要らないんで」
「待てって、そう言うなって!」
「つーかさ、別に今の俺に関係なくね? あんたが勝手に他の奴らとエモいことやってりゃいいじゃねえか」
「だからさ、俺は俺にしか興味がないんだ」
「は?」
「俺は自分しか愛せない人間なんだ」
「エゴイストなのは、俺も知ってる。自分のことだから分かる」
「エモいことをしたいんだよ、お前と」
「キモ」
引き気味の俺に未来の俺は言った。死の直前、エモいことをしたいと祈ったら、枕元に最高神スターツ・ノベマ! が降臨したのだという。
「ちょ、ちょっと待って! 最高神スターツ・ノベマ! って、何なのそれ」
「この世界のすべてを司る神だよ」
スターツ・ノベマ! が最高神なんだ……と俺は思った。それはともかく先へ進む。
この世界の最高神スターツ・ノベマ! は未来の俺を若返らせ、さらにタイムリープの力を与えた上で、こう言ったそうだ。
友達以上、恋人未満
名前の付けられない関係の、男の子ふたりの青春作品
主人公の年齢は10代~学生
葛藤や不安などが、出会いによって変化し、成長していく
舞台は自由
放課後や部活動、サークルなど
同世代が心救われるような、エモい気持ちになれる、青春ストーリ―を期待しているぞ
俺は言った。
「知らんて、そんなの」
未来の俺は足を大きく踏み出した。
「友達以上、恋人未満で、名前の付けられない関係の、男の子ふたりの青春だ。当てはまる」
「名前が付けられるだろ、同一人物だよ」
未来の俺は人の話を聞いていなかった。
「主人公の年齢は10代~学生」
「お前、実は年寄りなんだろ?」
「葛藤や不安などが、出会いによって変化し、成長していく」
「いや、お前、成長してない。むしろ人間的に退化してる」
「放課後や部活動、サークルなど」
「放課後だけど帰宅部だ。さいなら。お前も早く未来へ帰れ」
「帰るところなどない」
未来の俺は悲しげに言った。
「俺には帰る未来なんてない。死が待っているだけだ」
俺はため息交じりに言った。
「死は避けられないって言ったの、お前だろ」
「でも、死にたくない。死から逃れられないのなら、後悔したくない。せめて、後悔だけはしたくないんだ」
「自分で蒔いた種だろ! 自業自得なんだよ! いいかげん諦めて往生しろって!」
「だから、後悔したくないから、ここに来たんだ! 願いがかなったら、俺は素直に天国へ行く」
天国に行くつもりであることに、俺は驚かされた。それはこの際どうでもいい。未来の俺が俺に迫る。
「頼む、エモい思い出を作らせてくれ」
俺は後退りした。
「断る」
「頼む」
「嫌だ」
「お願いだよ」
「嫌だって」
「頼むよ」
俺は未来の俺に背を向けて走り出した。
「待ってくれよ! 俺を置いていかないでくれよ!」
未来の俺が追いかけてきた。俺は全速力で走った。未来の俺を振り切りために、力の限り走る。周囲の風景が次々と変わった。走っている場所が次から次へと移り変わっているからだ。俺はアスファルトの上を、海岸の砂浜を、学校の廊下を駆け抜けた。どれだけ走り続けただろう? それでも背後から未来の俺の呼び声が聞こえてくる。
「いや~ん、待って~!」
この世の一切合切を支配する最高神スターツ・ノベマ! は本当にこういう物語を欲しているのだろうか?
考えたけど答えは出てこない。俺たちは流れる汗もそのままに走り続けた。
☆ 卒業旅行で海外の美術館を見てきたので、その思い出を書くよ ☆
卒業旅行で海外へ出かけた。とある美術館を見学する。凄い人だかりだった。有名な絵画を鑑賞しようとしても、見えるのは人の頭ばかりである。
それで、すっかり気分が萎えた。元々、芸術に興味がある方ではない。観光名所だから来たまでのこと、とりあえず土産話になったので、それで十分だった。混雑する場所を避け、ゆっくり座って休めるベンチはないかな~と探し回っていたら、良さげな空間を見つけた。絵や彫刻が展示されているのだが、人気が本当に少ない。不人気な作品を集めた部屋なのだろう。
冷やかし半分で入ったら、驚いた。物凄い芸術品が並んでいたからだ。
芸術に詳しくない人間が何を言ったところで意味はないとは思う。それでも衝撃を受けたし、何より感動した。これが芸術の力か! と痛感した。本当にショックだった。まるで生まれて初めてアイスクリームを食べた幼児みたいだと自分でも思う。
作品の横にはパネルが置いてあって、説明が書かれていたのだが、残念ながら読めなかった。これも子供みたいだった。
美術館への入場時に作品の説明を各国語で話してくれる音声ガイドを借りられたのだが、面倒で借りなかったことが悔やまれた。いったん入り口へ戻って音声ガイドを借りてこよう、と思ったが生まれつきの方向音痴が災いし、迷子になってしまった。夢中になって作品を見ていたら、自分がどこにいるのか分からなくなったのだ。案内人も案内板が見あたらず、途方に暮れてしまう。人がいっぱいいたら、その後について歩けばいい。だが、このエリアには人がほとんどいなかった。作品鑑賞にはもってこいだが、こうなると逆に不便だ。
どうしようかなあ……と考え込んでいたら、人を見かけた。キャンバスを立て飾られた絵を模写している。そういう人を美術館の中で何人か見かけた。勉強している画学生なのだろう。集中しているので、ちょっと話しかけにくかったけれど、声を掛ける。
相手は絵筆を止めた。いやはや、申し訳ない。御迷惑をお掛けしますと言い、たどたどしい外国語で入り口に戻りたいことを伝えると、丁寧に教えてくれた。意外といい奴じゃん! 芸術家って変な奴ばっかりかと思ったら、そうでもないんだ、と偉そうに思う。相手の言葉は、こちらの心へスムーズに沁み込んできた。母国語で会話しているみたいで、驚いた。精一杯のお礼を言って教えられた道を通る。外国へ来るとヒアリング能力が向上するんだなあ……と感動していたら、いつしか周囲に賑わいが戻っていた。入り口に戻って、音声ガイドを借りたいことを伝え……られない。相手の言葉も分からない。別の人に代わってもらって、それでも駄目で、三人目になってやっと会話が成立した。さっき感じた語学力の向上とは一体、何だったのか! しかも閉館間際で音声ガイドを借りられなかった。がっかりである。
帰り際、先ほど見学したエリアについて聞いてみた。素晴らしい作品ばかりなのに、人が少ないエリアだと説明したが、相手は笑われた。今は観光シーズンなので、館内はどこも大混雑だと言うのだ。そんなことはない、凄く空いていて、快適に芸術鑑賞ができた、また戻って続きを見たい! と言ったら相手は真顔になった。それから羨ましそうな口調で言った。
美術館の中に、案内板には載っていない不思議なエリアがある、という噂が昔からある。そこは奇妙な空間で、既に失われた芸術品が展示されているというのだ。芸術に興味のある物にとっては夢の世界であり、いつか自分も行って見たいと思っているけれど、ここに勤め始めて三十年以上になっても、そこへは辿り着けずにいる。あなたは選ばれたのだ、それがとても羨ましい、とのことだった。
何かの間違いだとしか思えなかったので、話半分で聞いていたけど、その都市伝説は有名らしく、帰国後この話をしたら皆に羨ましがられた。
だけど正直、メリットは感じない。芸術で飯を食べる人生設計はないので、自分が選ばれたとしても無意味だと思う。あの美術館へ再び行く機会があれば別だが社会に出たら、そんな時間は確保できない。どうしろというのか? とも感じている。
それでも不思議な美術館内の美術館への入館を許された身として、何か芸術活動を始めねばならないかな……と考えないでもない。芸術オンチを卒業するのだ。とりあえず生成系AIをダウンロードしてみた。良いのが出来たら公開したいのだけれど何をやっても、見ていると眩暈がして頭が変になりそうな絵しか創造できずにいる。これも一種の芸術かもしれないが……人には見せられない。
☆ ※スケジュールは変更になる可能性がございますのでご注意ください ☆
推敲に推敲を重ねていたら締め切りギリギリになってしまった。だが、間に合った。送信ボタンを押す。そして公募作品一覧ページを開く。自分の作品はなかった。早すぎたのだ。まだ処理中なのだ。そう考えて、しばらく時間をおき、再び同じページを開く。なかった。もうしばらく待つ。そして同じページを開く。やはりない。新着のページには送信した自作が掲載されていた。しかし公募作品の一覧ページにはない。それでも、何度も再読み込みを行う。この作品に心血を注いだためだ。命を懸けて書いたからだ。再読み込みを延々と続ける。その動作を丸一日繰り返し、やっと募集要項のページを開く。そこには『応募受付期間は終了いたしました。たくさんのご応募ありがとうございました。』と表示されていた。
募集要項のページを、もう一度じっくり見る。締め切り時刻は13時のはずだ! それまでには絶対、間に合ったはずだ。全身がガタガタ震えた。自分は午後一時までに送信した……そう思ったが、こんな表示も書いてあって、体がガタガタ震えるばかりか、失禁もした。
『※スケジュールは変更になる可能性がございます。』
メールで公募の事務局へ問い合わせる。返事には「スケジュールが変更になりました」と書かれていた。
人生を賭けた作品は受理されなかった……この出版社からデビューしたかったのに!
涙がとめどもなく溢れた。涙は、やがて血に変わった。ショックで血管が切れたようで、血が止まらなくなった。その作家志望者は自分の血でできた血だまりに突っ伏し息絶えた。
☆ ネズミ駆除業者 ☆
天井裏や床下そして壁の中からガサガサゴソゴソという物音が聞こえるようになって一週間。貴女は遂に、物音の正体と顔を見合わせた。そのときの様子は、こんな具合だ。
気配を感じて真夜中に目を覚ましたら、闇の中に小さな光が幾つも蠢いている。枕元に置いていたスマホの明かりで室内を照らすと「キーキー」という鳴き声が喧しい。布団から出ている素足に何かが当たった。慌ててベッドから体を起こし、壁のスイッチを押す。天井の照明が灯った。足の方にいた黒っぽい灰色の物体が室内を走り回る。それだけではない。同じような黒灰色の塊が何十匹もゴミの散らかった床の上を駆け回っている。空になったカップ麵や弁当箱の間を走る謎の生き物たちの正体が何か、貴女は分からない。不思議な生物の繰り広げる大運動会を我を忘れて凝視していた貴女は、やがて思い出したかのように悲鳴を上げた。謎の小生物たちは寝室の壁と床の接合部に開いた小さな穴の中へ次々と入り、姿を消した。
あれはきっとネズミに違いない、と貴女は思った。ネズミのような野生動物は田舎にしかいないと勝手に考えていたが、都会の高級住宅地にある自分の屋敷にも出るのだと気付き、怒りと恐怖で震える。ネズミの巣が屋敷の中か、屋敷を取り囲む林の何処かにあるのだろう。駆除が必要だ。だが、どうやって?
そう言えば、そういった業者が新聞受けに入れた広告のチラシがあったはず……と考えた貴女はゴミの中から苦労して目当ての紙を見つけ出した。屋敷の中に自分以外の人間を入れるのは絶対に嫌だが、ネズミとの共同生活も御免だった。この屋敷にネズミ駆除業者を招き入れるかどうか決めるのは、この業者に電話してからにしようと考える。
電話に出た男は、ネズミが疑わしいけれど調べてみないと何とも言えないと断定を避けた。ネズミだとしたら、どういう対処法があるのかと貴女は尋ねる。素人がやるのならば殺鼠剤が良いと、相手は答えた。それだけ聞けば十分だった。貴女は礼の言葉も言わずに電話を切る。宅配業者が届けた殺鼠剤を屋敷の中と外の敷地内のあらゆる場所に仕掛ける。ネズミが殺鼠剤に手を付けた様子はあった。しかしネズミの死骸は見当たらない。見えないところで死んでいるのだろうと貴女は考えた。このまま殺鼠剤を撒き続けていれば、いつかネズミは死に絶えるはず……と思ったけれど、出没する黒灰色の塊の数は増える一方だった。
貴女は激怒した。件の業者に再び電話する。最近のネズミの中には殺鼠剤の効かない種類がいると電話の男は言った。何とかしろと貴女は怒鳴る。相手の男は「実際に調査しないと対策の立てようがないです。私に任せて下さい。ネズミはペストのような危険な病気の原因となります。やるからには徹底的に調べ、根こそぎ駆除しなければいけません」と答えたので、貴女は電話を切った。しばらく怒りは収まらなかった。だがネズミとの同居はもうたくさんだった。三度、業者に電話をする。来訪の予約をした。その日が来た。
作業服を着た業者の男は色々な機材を持って屋敷を訪れた。貴女の監視の下で広大な邸内の至る所を調査する。やがて男は言った。
「ネズミの巣は寝室の壁の裏側の隙間にあるようです。床と接する部分に小さな穴が開いています。そこから出入りするのでしょう。穴の中へファイバースコープを入れ、中を視認します。巣があれば除去します」
貴女は規定以上の料金を支払い、業者を追い出した。後は自分でやると告げる。何も面倒なことではない。壁の穴を何かで塞げば良いのだから――と思い重い箱で穴を封じるも、出入り可能な穴は他にもあるようでネズミの出現は続いた。穴の中へ殺鼠剤を入れても効き目が無かったので、煙で燻してみようと思ったが、窓を閉め切った室内で火を起こしたら自分の方が死ぬかもしれないと考え、止める。
壁を壊し、中の巣を除去しようと貴女は決意した。トンカチで壁を叩き壊す。なかなか手間のかかる作業だった。壁の中に隠された部屋が、やっと出て来た。ネズミの巣は、どこだ? 懐中電灯で暗闇を照らす。白骨死体は見えたが、他には何もない。ネズミの巣など、どこにもない!
「やはり死体の隠し場所は、ここでしたか」
男の声が聞こえ、貴女は驚いた。いつのまにか自分の横に男が立っている。見覚えのある顔だった。
「お前は、ネズミ駆除業者!」
「それは仮の姿。本当は探偵です。失踪した貴女の御主人の捜索を御主人の御実家から依頼されまして、警察と協力して調査を進めておりました」
男の説明が終わる前に警察が室内に入ってきた。壁の中の隠し部屋にある白骨死体を見て、刑事が貴女に尋ねた。
「この白骨死体について、何かご存じでしょうか?」
貴女は何も知らないと答えた。刑事は言った。
「この死体は行方不明の御主人の可能性があります。そして貴女には、御主人を殺害し死体を隠した疑いが掛けられています」
そして刑事は貴女を逮捕した。
「警察署でお話を伺いますので、御同行願います」
連行される前に、貴女は探偵に苦情を言った。
「ヘボ探偵さん。ネズミの巣は、ここになかったわよ」
ヘボと言われた探偵は肩をすくめた。
「私も不思議なんです。貴女が仰るような、ネズミがいる痕跡はどこにも見当たらなかったんですよ。貴女が目撃したのは、本当にネズミだったのですか?」
☆ 噂の某芸能事務所と幽霊の街と地下都市伝説2023~2024 ☆
とある芸能事務所と深い付き合いのある友人がいた。ある日そいつが忙しいってことで、代わりにタレントの送迎を頼まれた。こっちも何度かやっている仕事だった。また一つ頼むと言われたのだ。報酬は悪くなかった。こっちは、それなりの信用があったからだ。余計なことを言わなければ、それだけの金が貰えるってことだ。
ある場所でタレントを拾い、別の場所へ運ぶ。そういう話だった。某テレビ局の近くから大物芸能人が多く住む地域へ車で送り届け、帰ろうとしたらスマホが鳴った。事が済むまで待て、との指示だった。分かったと返事をする。不満があっても受け入れるのだ。とやかく言わない。どんな仕事でも大切なことなのだろうが、今夜はとりわけそうだった。曇り空に見え隠れする満月を眺めて時間を潰す。
しばらく経って呼ばれた。敷地内へ入れとのことだ。中へ入るのは初めてだった。オートロックの門扉が開いて、やっと車が入れる。警備員はいない。車を徐行させエントランスの前に横付けする。タレントが出てくるのを待ったが出てこない。スマホに連絡が入る。泥酔して動けないから運んで欲しいとのことだった。やれやれだ。
玄関の鍵を開けてもらい、住居内に入る。変な匂いがした。足元に大いびきのタレントがいた。立てるかと聞いたが返事がない。肩に担いで無理やり立ち上がらせる。家の主がいたので、どうすればいいかと指示を仰いだ。相手は目をぎらつかせ、こっちを見つめている。苦笑した。こっちには、そういう趣味がない。芸能界にデビューするつもりもない。ついでに言うと、こっちは相手の好みとされるタイプとは程遠い面相をしている。真顔で再び次の指示を伺う。
タレントのマンションへ運ぶのは駄目だと言われた。マスコミが張り付いているからだ。別の場所へ連れて行くように命じられる。渡された紙に書かれた住所へ行くには少し遠回りしないといけない。そう付け加えられた。幾つかのポイントを通るのだそうだ。詳細を聞くのは止めた。何をどうするのか、それだけ聞けばたくさんだ。
「それじゃ」
「待って」
「何です?」
「これを持って行くと良い」
お守りを手渡された。返すのも何なので礼を言って受け取る。
「気をつけて」
写真を撮られるな。その意味だと思ったら、違った。幾つかのポイントとかいうのを越えたら、一気に来た。変な物体、きっと霊魂とか幽霊とかいう連中が、車の外をうようよ歩くのが見えてきたのだ。こっちには、霊感が少しだけある。だから、そういうのが街を普通に歩いていることを知っているのだが、今夜は多すぎた。そういう奴らしかいない街の中に車は入り込んでいたのだ。
カーナビが目的地到着を告げる。幸いにも周囲に幽霊はいなかった。後部座席のタレントを車から降ろそうと後部ドアを開ける。横倒しになって眠っていたタレントが体を起こした。全然違う人相に代わっていた。いや、人というより野獣の顔だ。こっちに向かって牙を剥く。慌ててドアを閉める。送り届ける予定の建物の入り口横の呼び鈴を鳴らす。インターホンから返事があった。女の声だった。頼まれて人を運んできたのだが、ちょっと困っている、力を貸して欲しいと頼む。玄関から三人の女が出てきた。若い女、中年女、老婆の三人だった。同じような顔をしている。三世代なのか、赤の他人なのか、こっちは分からない。後部座席のアレをどうにかしてもらえたら、それでいい。
女たちはタレントを大人しくさせることに成功した。車から降りたタレントは四つん這いになって建物へ入って行った。中をちょっとだけ覗いたら、鏡が見えた。風呂の鏡のように湿気で濡れている。こっちの姿は映っていたが、三人の女の姿は見えない。余計な詮索はせず立ち去ることにした。女たちに頭を下げる。向こうも会釈した。建物に入らず、こっちを見送る様子なので、さっさと車を出す。見ないつもりだったがバックミラーを見てしまう。女たちの姿は、やはり見えなかった。
出るときは普通に出ていいのか、聞くのを忘れた。ポイントを逆戻りしなくていいのかと思ったが、一方通行を逆戻りするのは避けたい。幽霊もイヤだが、それ以上に警官とかかわり合いたくない身の上なのだ。お守りを頼りに、幽霊が闊歩する街を進む。
大通りに出た。幽霊も見えないが人もいない。人の声を聴きたくなってラジオを付ける。深夜の人生相談だった。こんな時間に珍しい。故郷を離れた者の話だった。急に煙草を吸いたくなった。生憎と切らしている。煙草は諦めるとして、その代わりに喉の渇きを潤そう。自動販売機を見つけたので車を止める。自販機の横に階段があった。何の気なしに階段の下を見る。階段の天井に照明があった。照明の黄色い光に引き寄せられて階段を降りる。階段の下に街があった。人も車もいない車道と夜空に浮かぶ三日月が見える。夜空に浮かぶ満月をさっき見ていた気がするけれど、それについては深く考えないことにした。階段を駆け上がって車へ戻る。ここで飲み物を買うのは止めた。早く帰って寝よう。
その後もタレントの送迎をする機会があった。あの晩ひどく泥酔していたタレントの送迎も二度か三度やった。最初の時は緊張したけど、次からはそうでもなかった。相手はこっちを覚えていない様子だった。でも、ある時ふとバックミラーを見たら、こっちを変な顔で見ていたから、もしかしたら何か思い出したのかもしれない。それでも、こっちは何も言わない、尋ねない。それなりの報酬を得て生きていくためには、それが大切なのだ。
☆ 江戸の妖女、鳥居耀子 ☆
高く明るく澄み切った娘の声が音吐朗々と座敷に響き渡る。
「ゆうとぴあ、とます・もあ、りべりうす、うぇあ、ねう、みのうす……」
彼女の口から発せられる呪文のような言葉に魅入られたかのように、その場の男たちは身動き一つせず聞き入っていた。咳き一つ発しない。寝ているのではない。春の江戸は好天に恵まれ暖かな日差しが降り注いでおり、そんな中で開かれる外国語の勉強会ともあれば一人や二人あるいは三人以上の出席者が居眠りしそうなものであるが、彼らは聞き慣れぬ異国の言葉に真剣に耳を傾けていた。その表情には一様に驚きの色がある。当時の日本で最高の西洋語学研究集団である彼ら尚歯会の面々が読めなかった異国の書を、会合に飛び入り参加した美しい武家娘がスラスラ読みこなしているのだ。驚くなと言っても無理だろう。
やがて娘は読んでいた書物を閉じ可愛らしい笑顔を見せた。
「もっと続けましょうか?」
娘の横に座っていた渡辺崋山は目をぱちくりさせて言った。
「いや、もう結構です。本当にありがとうございました」
自分の子供のような年齢の娘に渡辺崋山は頭を下げた。三河国田原藩家老でありながら、その物腰には威張ったところがなく、ごく自然な態度で女子供に礼を述べる。彼は温和な性格の紳士だった。
ただし、それだけではない。彼は娘に尋ねた。
「およう殿、今の言葉ですが、らてん語ではございませんか?」
おようと呼ばれた美しき乙女は頷いた。それを見て出席者の一人で医師の高野長英が感嘆の声を漏らした。
「さすがは渡辺様だ、らてん語がお分かりなのですね。本当に勉強家でございますなあ」
渡辺崋山は微笑んだ。
「いいえ、分かっているというほどのものではありません。絵画の勉強のために異国の書物を読むのですが、そのとき我らが知っている蘭語(オランダ語)とは別の文章が書かれた文献があり、その注釈に<らてん語>と説明書きがあって、気になったもので色々と調べていたのです」
藩重役にして西洋の学問の研究者である渡辺崋山は画家としても有名だった。西洋絵画を独学で学び陰影の付いた画法や遠近法を習得することで、自らの画風を高めていた。
高野長英は出席者たちに言った。
「らてん語は解剖学その他の学問でも使われています。西洋の学問の根幹をなす言葉だそうです。蘭語だけでなく、らてん語も我々は研究するべきでしょう」
一同は頷いた。その一人で高野と同じく医師の小関三英が娘に尋ねた。
「およう様は、どこでらてん語を学ばれたのですか?」
おようの父は幕府の旗本で、江戸城の書庫に勤めている。そこには神君家康公の時代からの蔵書が収められているが、百年以上も前の書物には修復が必要で、それが彼女の父のお役目だった。父は城だけで仕事が終わらず蔵書を自宅へ持ち帰り作業を続けることがあった。ある日おようは父の机の上で修復作業中の異国の書を見つけた。らてん語の教本だった。子供向けだったので、とても分かりやすく、父が修復を終えて城の書庫へ収めるまでの間に、彼女はらてん語の基礎を知ることができたのだった。
「ですから、らてん語を読めるだけで、意味まではわかりません」
おようの言葉を受けて、小関三英が言った。
「私はらてん語を読めませんが、先程およう様が読まれた、ゆうとぴあ、そして、とます・もあ、という言葉には聞き覚えがございます。西洋世界では、広く知られているようです」
高野長英が尋ねた。
「どのような意味なのですか?」
小関三英が答える。
「ゆうとぴあは、どこにもない理想郷という意味です。そして、とます・もあは……」
「とます・もあは?」
「ご政道を批判して処刑された学者のようです」
その場の空気が凍った。尚歯会の会員の中には徳川幕府の政治を批判している者が何名かいたのである。
その一人というか代表格が高野長英である。彼は『夢物語』という書物を匿名で著し幕府の鎖国政策を批判した。
もう一人が渡辺崋山だった。彼も同様に幕政批判の書『慎機論』を書いている。
ちなみに小関三英は、発表していないがキリスト教の研究書を執筆中だった。幕府はキリスト教を禁じている。執筆中の本の内容が発覚すると処罰される恐れがあった。
恐れ知らずの自信家である高野長英はカラカラと笑った。
「匿名の人間の色々な意見があるということで問題はございませんよ。問題なのは幕府の外交政策です。鎖国は危険です。いずれ西洋国家が日本に開国を迫ってくるでしょう。鎖国を盾に開国を拒否したら、西洋諸国が激怒して日本を攻撃してくることが予想されます。そうなったら、日本に勝ち目はないでしょう」
穏やかな人柄の渡辺崋山が同意する。
「そうなったら、無駄な血が流れる前に開国すべきでしょう。それが嫌なら海防体制を急いで構築すべきです。ただし、これには大金が必要です。それで破産する藩が出てくるかもしれません。しかし軍備を増強しないことには、日本は守れません」
海に面した田原藩の家老である渡辺崋山は外国船の接近に備えた沿岸防衛計画を作成する立場にあった。外国船との砲撃戦に勝つためには強力な大砲が要る、しかし日本の技術力では作れない……そんなジレンマを日々感じているのである。
高野長英は腕組みをした。
「日本を滅ぼすのは外国ではなく幕府ではないかと自分は考えています。西洋の学問を否定し、その優れた科学技術を目の敵にする守旧派こそ、日本の真の敵なのだと」
渡辺崋山は、うっすらと伸びてきた顎髭を撫でてから言った。
「その総帥が幕臣の鳥居耀蔵殿でしょうな。老中水野忠邦様の懐刀として改革の中心になっているお方ですが、その政策は改革ではなく現状維持だけで、海外の変化に対応ができていません。あれは良くないです」
出席者たちは暗い表情で俯いた……しかし勉強会が終わり宴会が始まると明るくなった。おようは宴会には参加せず、暗くなる前に帰宅した。いずれまたお目にかかります、と言い残して。
その日は思いのほか早くやってきた。場所は尚歯会の勉強会ではなく、江戸城内である。幕府批判の罪で逮捕された渡辺崋山は、取り調べ役の幕臣が用意した証言者のおようと対面することになったのだ。
先頃の会合での渡辺崋山の発言を、おようは証言した。まぎれもなく政道批判である。渡辺の有罪が確定した。国元の田原に蟄居を命じられ、後に自殺する。
高野長英も捕らえられ、伝馬町の牢獄に放り込まれたが、牢に放火して脱獄した。それから日本中を逃げ回るも最後は幕府の捕吏の手で捕殺される。
小関三英は逮捕されなかったが、自殺した。
この他にも多くの逮捕者が出た。これが後に蛮社の獄と呼ばれる思想弾圧事件である。その指揮を取ったのが鳥居耀蔵だった。後に江戸南町奉行となり強硬な市中取り締まりで町民たちから「江戸の妖怪」と恐れられた男である。
その令嬢である鳥居耀子が幕臣の娘おようを名乗り尚歯会への潜入捜査を敢行したと言われているが、もしもそれが事実だとしたなら彼女は「江戸の妖女」と呼ばれるに相応しい女だろう。
☆ アメーバの海で泳ぐ ☆
私は形の一定しないものが苦手だ。見るのも嫌だし、触るなんて考えただけで気分が悪くなる。
そんな私がアメーバへの同化体験学習をさせられるとは!
教室の掲示板に貼られた割り当て表を見て、私は卒倒しかけた。だが、ここで気を失うわけにはいかない。私が在学中の魔法学校は生徒の健康にとても気を遣う。もし気絶したら保健室へ運ばれ検査だ。そして全身から注射針の生えたハリネズミの保健の先生の出番となる。採血の注射も私は苦手なので絶対に失神できない。もしものときは注射針を魔力で曲げてやる。いや、その前にアメーバに合体する実習を断固拒否だ!
私は担任の教師にテレパシーで事情を説明し、別の体験学習への変更をお願いした。最新型AI搭載のロボット教師は私の要求に応じなかった。苦手を克服することも体験学習の目的だから、との理由だった。
ロボット教師の石頭に私の得意技メテオ・ド・ストライク(宇宙から巨大な隕石を落下させる)を食らわしたくなったけれど、私はおしとやかな優等生ということになっているので止めた。代わりに切々と訴える。
「おぞましいですわ! ぐちゃぐにゃしたスライムの体内に入るなんて、繊細な私には耐えられませんわ!」
「我慢しなさい。ぐちゃぐちゃ&ぐにゃぐにゃしている存在に入り、それと同化するための訓練です。それから、スライムではなくアメーバですから」
「スライムでもアメーバでも同じことですわ! ああ汚らわしい。私の清純が汚されてしまいます! 花嫁の純潔を信じて下さる未来の夫に申し訳が立ちません!」
私が非処女であることをロボット教師はやんわりと指摘した。なぜバレたのか? それはともかく実習の日が来た。魂だけの身軽な姿に変身した私は泣く泣く異世界に転移する。そこは知性あるアメーバの生息地だった。魂だけの存在になって宙を舞う私の下は見渡す限り海だ。そこに私が同化体験するアメーバがいるはずなのだが、この大海原からたった一個の単細胞生物を探し出すのは無理だろう。砂浜に落ちた差し歯を見つけ出す方が簡単だ……と思っていたら!
「魔法学校の生徒さんって、あなた?」
誰かが私にテレパシーで話しかけてきた。そうですと答えたら相手は自己紹介した。
「僕が君を担当するアメーバだ。よろしく」
「よろしく。あの、どちらにいらっしゃるの?」
「君の下」
「海しか見えませんけど」
「海に見えるけど、それが僕」
眼下に広がっているのは海ではなく巨大なアメーバだったのだ。私は驚いたけど、もっと驚かされる事態が待ち受けていた。
「今から君を体内に入れるけど、驚かないでね」
足元の水が一気にせりあがり私の全身を包む。私は焦った。水の中で溺れ窒息すると思ったためだ。
「げぼぼぼぼ」
「落ち着いて。君は魂だけの存在になっているから溺れないよ」
そうだった。私ってあわてんぼう! とか言っている間にも、視界いっぱいに海水じゃなかった、アメーバ体内の空間が広がっていく。そこは静かな場所だった。透明度は怖くなるくらい高い。光線の具合で液体は時にエメラルド色に光るけれど基本の色は青と緑の清純な世界は暖かで過ごしやすく、心地好かった。私以外は誰も、何もいない。いいえ、ごくたまに、遠くに何かが動いているのが見えた。それが何なのかアメーバに聞いてみると、アメーバの体を維持する小器官だという返事が返ってきた。
「人間でいう内臓の一種だよ。悪い物じゃないから心配しないでね」
アメーバも生き物だから色々な臓器があるのだろう。そういった臓器が働いてくれるからこそ、こうして奇麗な体が保てるのだ。肉体のない状態の私はアメーバの中を自由自在に動き回り、楽しんだ。重たい体が無いと、どれほど楽か! と思った。その快適さに慣れた頃アメーバから「そろそろ時間だから戻りましょう」と言われ、嘆き悲しんだ。
「ええっ、もう時間! もっと泳ぎたい!」
「延長だと追加料金が掛かるよ」
「じゃいいです」
楽しい時間が終わり、私は魔法学校へ戻った。素敵な夢から覚めた感じがして、何もかもが色あせて見える。溜息が出る。
とりあえず私の抱えていた形の一定しないものに対する嫌悪感は薄らいだ。しかし、まだ完全消失には至っていない。それでは駄目だとロボット教師は判断したらしい。
「まだ修行が足りませんね」
「それじゃ、またあのアメーバの中へ行けるの?」
その逆だった。あのアメーバを私の体内へ転移させ、一緒に過ごさせることが決まった。しばらくアメーバに寄生してもらって、それに慣れることで不定形なものへの苦手意識を無くすのだそうだ。
「魔法使いの国家試験ではオールマイティーな能力が必要とされるからね、弱点の不定形を乗り越えて!」
不定形へのこだわりがあるのは、そっちだろう! まあいいや。あのアメーバは清潔だから寄生されても病気の心配はなく適度なダイエット効果が期待されるのだそうだ。そうだったらアメーバが体内に寄生するとどうなるか、多少の興味がある。本当に食べても太らない体になるのなら、長居をしてもらうつもりだ。もちろん家賃はいただく。
☆ ジュンとジュネのジューンブライド事件 ☆
市役所に通じる道路は市警の警察官と州兵が完全封鎖していた。市職員は身分証を見せれば通してもらえるが、一般市民は身分を証明できるものを見せても通過が許されない。無理に通ろうとする者は阻まれた。制止を振り切って中へ入ろうとすると逮捕される。抵抗する者は激しく殴打された。幸いなことに死者は出ていないが、完全武装の警官隊と州兵部隊には発砲許可が出ており、死人が出てもおかしくない状況だった。
異常な事態である。市民からは不満の声が上がっていた。市役所と市警本部そして州兵を統括する州政府に苦情の電話が殺到していたが、市と州当局は無視を決め込んでいる。過激派対策が最優先なのだ。
これほどまでに要警戒なテロリストとは何者か?
ジュンとジュネという同性愛者のカップルだ。二人は憲法が認める同性婚の権利を行使しようと市役所へ婚姻届けを提出しに行って受け取りを拒否された。州政府の法律には同性婚の記載がないため、書類は認められないというのが理由である。市への抗議がなしのつぶてだったので州政府に抗議文を送り付けたが、これも無回答だった。地方レベルでは話にならないと考えた二人は中央政府の出先機関へ相談した。中央政府の回答は明確だった。同性婚を認めない市と州の対応は憲法違反である。ただちに書類を受理せよ、という命令が市と州政府に送られた。地方政府に結婚を認められなかった同性愛者のカップルが中央政府を味方につけたわけだが、これが市と州当局にとっては体制を揺るがす極悪人に映ったのである。
この地方が元来、保守的な土地柄だったこと。そして革新政党が与党の中央政府と保守派の牛耳る地方政府の対立があったために、ジュンとジュネの同性婚が大問題に発展してしまったのだった。二人を応援するグループが現地入りし調整を図ったものの解決には至らず逆に、その中の強硬派がデモ行進を実施したことが相手を刺激してしまい、遂に警官隊と州兵部隊の動員による市役所封鎖という事態に至った。
中央政府は地方の過剰反応を事実上の反乱とみなすか討議を重ねた。反乱とは認定されなかったが、政権内では強硬案が選択される。首都の治安維持を任務とする陸軍空てい部隊と歩兵部隊の現地派兵が決まったのだ。
中央政府の派遣命令を受け州政府は州空軍に最高レベルの警戒を命じた。州空軍の戦闘機部隊は空てい部隊の輸送機を撃墜し、爆撃機部隊は歩兵部隊を載せたトラックを木っ端微塵に吹き飛ばす準備を始めた。
情勢の悪化を目の当たりにして、無関係の市民の間に動きが見られた。内戦の勃発を恐れ市街地から逃げ出そうとする者が現れたのである。
別の動きもあった。一部の市民が同性愛者への迫害を始めたのだ。市警が見て見ぬふりを決め込んだので暴力がエスカレートした。被害者側や報道各社が事実を広く世界に公表したため、世界各国から非難の声が上がった。中央政府は一刻の猶予もないと判断し派遣予定の部隊の出発を急がせると共に、現地駐留の陸軍部隊にも出撃を命じた。
だが、これは危険な一面があった。現地の陸軍部隊は、その土地の出身者から成る。彼らが中央政府の命令を拒否する恐れがあるのだ。最悪の場合、市と州当局に合流するかもしれない。それは反乱の序章と考えて差し支えなかった。
中央政府の与党は特使二名を派遣した。一人は地方政府側へ、もう一人はジュンとジュネの元へ。地方政府への特使は市役所の封鎖解除を要求すると同時に、それを拒否した場合の中央政府の対応を伝えた。国境線から移動させた陸軍戦車部隊と最新鋭戦闘爆撃機部隊が数時間以内に進撃を開始するという通告に州軍首脳は震撼した。州空軍の航空機は旧式機が多く、それでは最新鋭機に太刀打ちできない。それに州兵の装備では厚い戦車の装甲を貫けなかった。総攻撃されたら彼らに勝ち目はなかったのである。
ジュンとジュネに派遣された特使は、市役所への婚姻届け提出を諦めるよう促した。その代わり中央政府が特別措置として二人の結婚を認めると伝えた。
特使との会談終了後、市と州当局の首長は市役所の封鎖解除を宣言した。ジュンとジュネはマスコミに対し、事態の早期収拾のため特使の提案を受け入れると発表した。そして二人は特使に保証人となってもらい中央政府へ婚姻届けを届け出た。この騒動はそれでようやく収まったのである。
ところで、この事件がどうして「ジュンとジュネのジューンブライド事件」と呼ばれるかというと、ちょっとした事情がある。二人の婚姻届けが首都の関係省庁に届けられたのは五月末だったが、担当の役人が書類を決裁したのは六月に入ってからだったので、二人が結婚したのは六月ということになったのだ。
ジュンとジュネが末永く幸せに暮らしたのも、他の同性愛者が普通に結婚できるようになったのも、ジューンブライドのおかげだという都市伝説があるけれど、お題が「都市伝説」だったのは四月のことだ。五月末の今は「ジューンブライド」だけですべての説明が付く。
☆ 出撃前の夏祭り ☆
夜陰に乗じ敵艦を攻撃しようと真っ暗な海を航行していた特攻艇を、雲の切れ間に現れた真っ赤な月が照らし出した。上空で日本軍の接近を警戒していた米軍機が特攻艇に気付く。急降下して機銃を撃ってきた。特攻艇の乗員が対空砲で反撃する。その一発が命中したようだ。敵機から煙が上がるのを見て歓声が沸く。だが、歓喜の時はすぐに終わった。別の戦闘機が爆弾を落としたのだ。爆弾の直撃は免れたものの、大爆発で起きた大波を真横に喰らって特攻艇は引っ繰り返った。特攻艇の乗員たちが海に投げ出される。その頭上に銃弾が雨あられと浴びせられた。惨劇から目を背けたいのか、赤い月は雲の影に隠れた。血に染まった海が闇に包まれる。
やがて朝が来た。唯一生き残った乗員の青年は特攻艇の建材の木片にしがみついて海を漂っていた。幸い、体に傷はない。だが、それが何だというのか? ここは海の真っ只中である。近くに陸地は見えない。このままであれば、いずれは力尽きて死ぬ。若いので体力はあるが、広大な海と比べたら、砂粒のようなものだ。
元より死は覚悟している。特攻艇の乗組員で、死ぬ覚悟のない者はいない。敵艦に体当たりして死ぬのが乗員たちの任務だった。体当たりできずに死ぬことが無念なだけである。
青年は自分だけ生き残っているのが恥ずかしく思えてきた。仲間は皆、海の藻屑となった。それなのに自分だけ、こうして海の上を漂っている。生き恥をさらしている、と彼は思った。木片から手を離し、仲間の後を追うのだ! と彼は心に決めた。
そのとき、ふと、夏祭りの光景が頭に浮かんだ。出撃前、彼は仲間たちと一緒に、基地の近くの村の夏祭りに出かけた。戦時であり、賑やかな雰囲気はなかったが、それでも若者たちの心は浮かれた。これが最後の夏祭りだと、誰もが思っていた。
その祭りで青年は、可愛い娘と知り合いになった。もう一度、会いたい。そう思っていたら出撃の日が来た。逢えずに海へ出た。そして今、海に浮かんでいる。
あの子にまた会いたい、と青年は思った。朝日から方角を導き出す。あちらが東なら、出撃した基地の方向は……おおよその見当がついたところで、青年はバタ足を始めた。木片を頼りに、基地まで泳ぐつもりなのだ。かなりの距離がある。その途中で力尽きる可能性大だ。
それでも青年は泳ぎを止めない。あの娘と再び会うために。
☆ 吸血鬼ハンターはお年頃 ☆
ヴァンパイア狩りで学費を稼いでいる。そう言うと大抵の人は驚く。何しろ危険な仕事だ。マッチョなタフガイをイメージするのだろう。確かに、そんな体格の男性同業者は多い。でも、皆が皆そうじゃない。虫も殺さぬ顔をした老婦人が恐るべき殺し屋の場合もあるし、月齢三か月程度の乳児が超能力で吸血鬼に幻覚を見せ月光浴のつもりで日光浴させて消し炭に変えるなんてのもある。私みたいに小柄な女子中学生なら、普通ではないにせよ騒ぎ立てるほどのものでもない。
それでもやっぱりビックリされるし、色々と聞かれる。たとえば、こういうのだ。
「ヒーローと契約で特別な関係になったり、たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことも……あるの!?」
こんな質問をするのはだいたい、同い年くらいの女の子だ。ヴァンパイアというものに、何かしらの憧れがあるのだろう。
質問の答えは彼女たちを失望させる。ない、そんなことは全くないのだ。
まあ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。けれど、私に関してはない。私にとってのヴァンパイアはヒーローじゃない、狩りの獲物だ。たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことの代わりに、一匹のヴァンパイアを仕留めるためにたくさんの吸血鬼ハンターが協力するのではなく互いの足を引っ張り合い、時に人間のハンター同士で殺し合うことがある。人間は吸血鬼以下の存在だと痛感させられる瞬間だ。世紀末はしばらく来ないというのに、もう世も末だとウンザリする。
それはいい。私の狩りのやり方を教える。ヴァンパイアは血を求めて闇の中をさまよっているので、血の匂いでおびき寄せる。鉄とタンパク質の複合体から精製する人工血液気化ガスの入ったボンベの栓を開けて待つのだ。のこのこ現れたら捕まえる。警官みたいに手錠をかけるわけじゃない。私に見つめられた吸血鬼は、私の言いなりになる。大人しくしろと命じたら動かなくなるし、死ねと言われたら自らの心臓に杭を打ち込む。どういった理屈でそうなるのかは知らない。父が異世界から来た異形の神だったとか、母が滅亡した大宇宙の魔女の生き残りだとか、いろんな仮説を聞かされたけど二親ともこの世にいないので聞くことはできない。
とっ捕まえた吸血鬼をどうするかというと、売る。美少年が大好物の芸能事務所社長やハンサム大好きなヌン活マダムがお得意様だ。中産階級の家庭にも売れる。ちょっと良いところで、箱入り娘がいるような家だ。親が買って、お嬢様にあてがうのである。意外に思えるかもしれないが、売上高はこちらの方が多い。車を買い与えるような感覚だろうか。
どうして吸血鬼を娘に与えるのかというと、変な虫が付かないようにするためだ。凄いイケメンで人間離れした戦闘能力を持つ吸血鬼にかなう男なんか、まずいない。要するにデカい蚊がボディーガードになって、他の男が寄り付かないようにしてくれるのである。蚊に刺されたらどうするのって心配はご無用だ。吸血鬼に生殖能力はない。絶対に避妊してくれるボーイフレンドなら親は安心だ。娘と家族に危害を与えぬよう私が命じたら絶対服従するので、飼い主には噛みつかないことは保証済みだ。
そんな従順な美男子が選り取り見取りなんて、羨ましい! とやっかむ子がいるけど、私は全然うれしくない。私にとって吸血鬼は売り物にすぎないのだ。好きも嫌いもない。とっ捕まえて売るだけだ。
そんな現実主義者の私も年頃の女の子だ。いつか素敵な彼と巡り会いたい。繰り返すけど、それは吸血鬼じゃないよ。売り物に手を付けるのはプロじゃないから。
☆ 君にノックアウト ☆
ダンス部の朝練を終えたあたしは汗だくになって教室へ入った。窓を閉め切った室内は蒸し暑い。あたしはエアコンのスイッチを入れようと壁のリモコンに近付いた。リモコンを壁のホルターから外す。その表示を見て、あたしの頭は沸騰した。暖房になっている。しかも設定は三十度だ。
「なにこれ、どこのバカが入力したのよ! 真夏に暖房なんて頭おかしくなりそう!」
朝の七時なのに三十度を超える炎天下の中で練習してきたせいで熱中症になりそうだったあたしは、熱と怒りで震える手でリモコンの設定を変え始めた。そのときだった。
「悪いけど、しばらく、その設定で頼む」
振り返ると学校一のワルと噂のワイ君が立っていた。その顔は、あたし以上に汗だくだった。それもそのはず、全身をサウナスーツに包んでいる。気は確かか! とあたしは思った。
「なんなの、その格好」
見ているだけで暑苦しい姿のワイ君がひび割れた声で答えた。
「減量がうまくいかなくて」
ワイ君はキックボクシングのプロ選手だ。家計を支えるため勝負の世界に身を投じ大金を稼いでいるとの噂だった。キックの鬼の再来と呼ばれる有望株らしい。でも、楽な戦いではないようだ。試合のたびに減量をしている。それが大変らしい。身長が大きくなっているから、同じ階級に留まろうとすると、それだけ過酷な減量をしなければならない……みたいな話を誰かが言っているのを聞いたことがあるけど、そんなのあたしの知ったこっちゃない。
リモコンのボタンをピッピと押し始めたあたしに、ワイ君が食って掛かる。
「止めてくれ、今度の試合に、俺は人生を賭けているんだ。あと少し、もう少し減量すれば……頼む、お願いだ」
「うるさい!」
哀願するワイ君を無視して、あたしはリモコンを操作した。すると、相手はあたしからリモコンを取り上げ、壁掛けホルターに戻した。
「他の人が来るまで、この温度で頼む」
「あたしは暑いの!」
あたしは壁のリモコンに取り付いた。操作するあたしをワイ君が邪魔する。
「この野郎、退け!」
腹の底から怒鳴って手を振り回したら、拳がワイ君の側頭部にぶつかった。ゴン! と凄い音がしてビビった。
「痛い!」
手の甲を抑えるあたしの目の前で、ワイ君がヘナヘナと崩れ落ちた。素人のあたしにノックアウトされたのだ。これが学校一のワル? 若手の有望株? と嘆かわしく思ったけど、それはこの際どうでもいい。
冷房を最強で稼働させたわたしは、必要以上に甲高い声で「ワイ君、大丈夫? しっかりして!」と言いながら、わざとらしく介抱を始めた。
☆ 最悪のファーストキスは神様のせい ☆
文化祭当日、私は朝から絶好調だった。今日は何もかもが上手くいきそうだと思った。予感は当たり、午前中のダンス部のパフォーマンスはバッチリだった。これなら午後の腕相撲大会女子部門での優勝は間違いなしだと確信した。練習試合では無敗だったし、何事もなければ、賞品の無料お食事券五千円分ゲットは確実だろう。
その油断があったせいかな。私は階段を三段飛ばしで駆け下りる途中、足を滑らせた。頭から落下する。手を突かないと大怪我だ! と必死に床へ手を伸ばしたとき、誰かに体を支えられた。
「お前、大丈夫かよ!」
階段から転げ落ちそうになった私を抱きとめてくれたのは、同級生のワイ君だった。私の顔を覗き込んで心配そうに尋ねてきたので私は平気だと強がった。それから相手の手を振り払って言った。
「変なとこ触らないで」
ワイ君はブチ切れた。
「助けてやったのに、そんな言い方ないだろ」
「偉そうに言わらないで」
辺りを見回してからワイ君は言った。
「ここだけの話だけど、今のでお前の運気は低下した。うちの学校にいる神様が、お前の態度の悪さに腹を立てたからだ」
何言ってんだ、こいつ! と思ったけど、同時に私はゾッとした。うちの高校は昔のお城の跡地にあるんだけど、お城が建てられる前は神様を祭る神聖な場所だったそうで、地元の人は今も学校の敷地の隣にある小さな祠を参拝に訪れる。
中には学校の内外で神様らしき何かを見たという人もいる。どうやらワイ君もその一人らしい。
でも、そんな話を私は信じられない。ワイ君は占い部で一番の腕利きという評判は聞いているけど、それにしたって運気の低下はないって!
相手にすると変なのがうつりそうだったので、私はワイ君に触られた胸やお尻の部分の制服をわざとらしく手で払ってから、その場を立ち去った。
ワイ君との一件があってから数時間後、私は絶望の淵に立っていた。謎のコンディション不良に見舞われていたのだ。
今のこの状態で、腕相撲大会を勝ち上がれることはできるだろうか?
保健室で休めば治るかもしれないが、ゆっくりしている時間は残されていない。
それでも、ベッドで横になれば少しは楽になるかも……と考え、保健室へ行ってベッドでひと眠りしたら、夢の中に白い人影が現れ「自分は神様だ」と名乗ってきたから驚いた。
神様は言った。この学校の文化祭は神事である、と。いうなれば神に捧げる祭りなのに、お前の不貞腐れた態度で神聖な場の空気が悪くなった、責任取れ! とのことだ。
知ったこっちゃねえ! と怒鳴り返してやりたくなったが、夢の中だとどうもうまくいかない。
そんな私に神は告げた。
「ワイ君に御礼の接吻をしろ。そうすれば万事うまくいくようにしてやる」
何を言ってんだ、この変態! と怒鳴る自分の声で目覚めた。保険の先生が驚いてベッドにやって来た。
「先生、何でもありません。良くなったので失礼します」
私は保健室を出ると占い部が催しをやっている教室へ直行した。部屋の前には行列ができていた。占ってもらおうという連中が多いことに驚きつつ、人の列をかき分け室内に入る。黒いカーテンで雰囲気を出す教室の真ん中に、ワイ君がいた。
「何だ、また喧嘩を売りに来たのか」
占いグッズが載った机の後ろに座っているワイ君は、私の顔を見て不機嫌な口調で言った。その場の空気が悪くなったと、霊感も何もない私でも感じられた。間違いない、神は今、ここにいる。
私はワイ君に近づいた。その顎をクイッと持ち上げ、唇に口づけする。
用を済ませた私はワイ君から手を離した。左右に目をやって「キスはした。今度はそっちの番だから」と言う。硬直しているワイ君を置いて部屋を出る。腕相撲大会が開催される講堂へ向かう。試合開始前、神に祈りを捧げる! なんてことはしない。神頼みは嫌いなのだ。ただ神に、お前の義務を果たせ! とだけは言った。
優勝賞品の無料券を手にホクホク顔で下校する私を、校門の横で待っていたワイ君が呼び止めた。
「なに? 私になんの用なの?」
警戒する私に、顔を強張らせてワイ君は言った。
「どうしてあんなことをした」
「ああ、あれのこと? それはね、神様がやれって言ったから」
ワイ君は唖然とした。
「そんな理由で? あれは僕のファーストキスだったんだぞ!」
男のくせにファーストキスがどうとか馬鹿か! と私はせせら笑ってから言った。
「私もそうだから、おあいこ。どう? 一緒に何か食べてかない? 私が奢るから」
断るかと思ったら、畜生め、ワイ君は話に乗ってきやがった。それが私たちのファーストデートとなった。
☆ 戦車競技に参加した部活の先輩後輩の話(体育祭編) ☆
放たれた矢は標的のゾンビ怪人とは遠く離れた方向へ飛び、砂漠の灼けた砂山に突き刺さった。命拾いしたゾンビ怪人が外した射手を嘲笑う。そいつは自分の眼を前を走り去るチャリオットと呼ばれる二輪の戦車へ向かって唾まで吐いた。射手の傍らに座りチャリオットを操る御者は、それを横目で見て、わずかに手綱を引いた。速度を緩めようとしたのだ。その動きを射手は見逃さなかった。
「速度を落とすな」
第二の矢を弓につがえながら射手は御者に命じた。御者は射手の部活の後輩だった。先輩の命令には逆らえない。手綱を緩める。手綱を通じた御者のテレパシーで制御されていたサイボーグ汗血馬は野生の本性を剥き出しにした。六本の足に張り巡らされた冷脚装置から赤い蒸気の煙を出して突っ走る。暴走する人工の獣に牽引されるチャリオットの速度が急激に上がった。
これで的に当たるのか、と御者は不安になった。矢の標的のゾンビ怪人はチャリオットが走るコース横の杭に縛り付けられ逃げられない。動かない相手なのだから、王立兵学校の生徒の中で一番の射手である先輩なら、当たりそうなものだが……やはり高速で疾走するチャリオットから矢を命中させるのは至難の業なのだろう、と御者は思った。
二人が乗っている二輪の戦車は次の標的に接近した。これもゾンビ怪人だ。王国の敵である。王立兵学校を卒業したら、二人が戦う相手だ。職業軍人を育成する学校の体育祭で催される戦車競技で矢の標的とされるに相応しい。
チャリオットがゾンビ怪人の真横に来る直前、射手は矢を放った。矢はゾンビの胸に深々と突き刺さる。ゾンビ怪人は金気が苦手だ。鏃の金属イオンで腐った肉体は速やかに崩壊する。どろどろに溶け始めたゾンビを見て貴賓席でファラオが歓声を上げた。ファラオはゾンビが大嫌いなのだ。王立兵学校の生徒たちに「ゾンビを皆殺しにせよ」と常に命じている。その一方で、同じ不死の怪物であるミイラには保護政策を取っていた。同じ死人なのだから矛盾していると、ファラオと敵対するブードゥーの神官たちは避難している。どっちもどっちだ、と御者は思っている。生物部員の彼から見るとゾンビもミイラも死んだ魔物に変わりない。
その生物部の先輩が隣の射手だ。体育祭で開催される部活対抗の戦車競技に出ようと後輩を誘った。チャリオットでの戦車戦は授業で行われる。その科目の一つに戦車競技があった。直線コースを走る速度を砂漠で採取した砂の時計で計測し、射手が設置された幾つかの標的を矢で狙う。 速さと正確さを競うのである。同じノリでやればいい、と二人は考えた。ただし授業とは少し勝手が違った。国王陛下つまりファラオが体育祭を見に来ることになったのだ。活躍しているところを気に入られたら、出世の糸口になるかもしれない! という希望が緊張につながったのか、さすがの先輩も第一の矢を外した……と後輩の御者は考えた。
事実は違った。先輩の射手はファラオに緊張していたのではない。意中の女性に良いところを見せようとして、普段なら絶対にやらないミスをしてしまったのだ。彼は競技の前に、好きな異性に告白していた。相手の女性は「チャリオット競技で一番になったら付き合ってあげてもいい」と答えた。頑張る! と彼は言った。そして第一の矢を外したのである。
もう絶対に外せない、と射手は考えていた。無心だ、無心になって、矢を放て! そう自分に言い聞かせて、弓を引き絞る。ファラオの歓声が、また上がった。射手が告白した娘の「ガンバー!」という黄色い声援が王家の谷やピラミッドで反響し砂漠の演習場に木霊した。異世界の古代エジプトっぽい場所での、今は昔の出来事である。
☆ ベリーズのカフェで働いていた頃、極道に溺愛された話 ☆
昔、ベリーズに住んでいた。中米の小国だ。私が暮らしていたときはイギリス領ホンジュラスという名前だった。その国で一番大きいベリーズシティという港町のカフェで私は働いていた。ある日、日本から旅行客が来た。精悍な男だった。どことなく悪な雰囲気を漂わせていた。ジャングルのジャガーを撃つのだと言って大きな猟銃を持参していた。
「仕事を休んで、一緒に行かないか?」
愛し合った後で男は唐突に、そう言った。
「どこに?」
「ジャングルだよ」
「危ないわよ」
「ジャガーなら怖くない。大物をハンティングに来たんだ。出くわしたら、射殺する」
ベッドの中で男はニヤッと笑った。物騒なのは猛獣だけじゃない、と私は言った。
イギリス領ホンジュラスは当時、隣国のグアテマラとの関係が悪化していた。領土問題が発生していたためだ。グアテマラは国境に軍隊を配置し圧力を掛けた。対抗してイギリスも軍隊を増強した。ジャガーが生息している国境沿いのジャングルは両軍が睨み合い、一触即発の危険地帯と化している。
「そんなとこへ行って紛争に巻き込まれたら、どーすんの」
そう言う私に男は背中の刺青を見せた。
「俺は極道だ。切った張ったの大立ち回りには慣れている」
だからといって自分が撃たれかねないジャングルの奥地へ行かなくとも良いだろう……しかし、のこのこ一緒に出かけた私に偉そうなことは言えない。若さゆえの過ちというやつだ。しかし過ちを犯したのは、それだけの理由があるからだ。何しろ、あの男はカネがあった。その後に比べると安かったが、それでも当時の日本円は強く、海外では使い出があったのだ。
現地に行って、男は落胆した。狩猟ガイドたちは口を揃えて「ジャガーたちは大勢の兵隊を恐れて姿を消した」と言ったのだ。
「なんだよ、畜生め! ここまで来てジャガーを撃てないっていうのかよ! こんなの、やってられないってんだ!」
男は怒り、酒を浴びるように飲んだ。そして宿で私を溺愛した。まるで私が猛獣の雌だと勘違いしているような激しさだった。
疲れた男がいびきをかいて寝ている夜明け前、私は宿のベランダから外を見た。ジャングルの上は星明りが眩しい。地表は暗黒に包まれている。虫や鳥の鳴き声が聞こえてきた。その音がピタリと止まった。闇の中に二つの光が見えた。よく見てみると、二つの光が一緒に動いていることが分かった。さらに目を凝らす。光は私に近づいていた。それが獣の目だと分かったのと、私の悲鳴。どちらが先だったのか。光が獣の目だと気付いたことの方が、わずかに早いだろう。獣の動きは、もっと早かった。獣が近づいているというのに動けずベランダで立ち尽くす私に飛びかかる。
狩猟ガイドが後から教えてくれた。襲ってきたジャガーは、親離れして間もない子供だったから、貴女は助かったのだ、と。
狩りに慣れていない子供の個体だったので、獲物との間合いを測れず、ベランダの柵に当たって無様に引っ繰り返った。私の悲鳴を聞いて宿の他の客が騒ぎ出し明かりを灯したものだから、私を襲撃したジャガーは驚き、その場を逃れた。おかげで私は難を逃れたのだ。
その間、男は起きなかった。ホテルの中は大騒ぎだったのに、泥酔していて夢の中だったのだ。
翌朝、目覚めてから男は事実を知った。そして怒り出した。
「どうして俺を起こさなかった! ああん? あれだけ俺がジャガーを撃ちたいって言っていたのによ、てめえ、俺を舐めてんのか!」
そして男は私を何度も殴り蹴り、それから猟銃の先を私の口の中に押し込んだ。
「お前ら女は皆、男から痛めつけられるのが大好きな屑だ。俺はちゃんと知っているんだ。お前らの好みをよ! お前らが好きなのはヴィラン、ワルい男、極道、不良、総長、そんなのばっかりだ。小説投稿サイトを見て勉強してっから、分かるんだよ!」
男は猟銃の引き金を握る指に力を込めた。カチリと大きな音が鳴った。私は絶叫したが筒先を押し込まれた口からは「ホガホガ」という空気しか漏れなかった。そんな私を見て男は笑った。
「弾丸は入れてねえよ、バカ! ここで撃ち殺すわけねえだろバカ。おまえ、本当にバカだな! ギャハハ、獣以下のオツムだな」
それから男は私を溺愛した。男は結局ジャングルでの日々をジャガー退治ではなく私を溺愛することに費やした。
男とはベリーズシティの街角で別れた。日本の暴力団の総長だか若頭という肩書の男は別れる時、私に米ドルを幾らか支払った。それから今日まで、一度も会っていない。もう名前も忘れた。でも、溺愛された思い出だけは消えていない。忘れられないのだ。あんなにも溺愛された体験は、あれが最初で最後だった。
☆ 恐るべき告白 ☆
突然の告白をされても私は驚かなかった。彼が私を好きなことは薄々わかっていたから。だってパーティーが始まってからずっと、私を見続けていたもの。
私が衝撃を受けたのは、彼が仮面を外し自分の正体を話し出したときだ。
「僕の名はロミオ。モンタギュー家の息子ロミオだ」
美しい面立ちの青年は確かに、そう言った。その言葉を聞いて、私は動揺した――ちょっとちょっと、ちょっと待ってよ! あなたがロミオって、それ本当なの?
深呼吸して気持ちを鎮めようとしたけど、上手くいかない。私は震える声で言った。
「よく聞いて。私はジュリエット。私の名前はジュリエットなの。ねえ、その意味、わかるよね?」
私が言っている意味が通じたようだ。ロミオの顔は蒼白になった。
「ジュリエットって……まさか、あの、キャピュレット家の娘の、ジュリエット?」
私はコクンと頷いた。相手も、それに合わせて小さく頷いた。
「よりによってキャピュレット家の娘を好きになってしまうなんて……信じられないよ。愛の告白をした相手が、キャピュレット家の娘だなんて、思いもよらなかったよ」
そう呟いたときのロミオは、これ以上ないくらいに絶望的な表情だった。見ているこっちが切なくなるほどに。
そのとき私は、自分がロミオを深く愛してしまったことを悟った。愛しい彼の口から悲し気な呟きが漏れる。
「こんなに愛している女性がモンタギュー家の仇敵キャピュレット家の娘だなんて……悪夢だ。これが、何かの間違いであってくれたら」
ロミオは潤んだ瞳で私を見つめた。私も彼を見つめ返し、涙声で呟いた。
「ねえロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」
ロミオは答えなかった。答えたくても答えようがない質問だった。
私たちはイタリア北部のヴェローナで生まれた。ヴェローナは二つの名門貴族が街の支配をめぐって長年争っている。その一つが私の実家、キャピュレット家。もう片方がロミオのモンタギュー家だ。両家の闘争は数代前から続いていて、互いを仇敵として憎み合っていた。
その家の人間同士が交際するなんて絶対にありえないことだった。親兄弟はもちろんのこと、親戚からも反対されるに決まっている。絶縁とか勘当とか、普通にありえるくらいの大問題なのだ。
もしも、そうなったら、どうしよう?
自分が家を追い出されるなんて、私は今まで考えたことがなかった。
そう、今この瞬間まで、そんなこと一度も考えたことがなかったのだ。
でも今、私は家を出ていく自分の姿を想像している。
私は実家を出て、愛しいロミオと二人で生活するのだ。
誰にも邪魔されない、二人きりの生活の様子が、私の心に浮かんで見えた。
それは夢のような暮らしだった。
突然ロミオが私を抱きしめた。私は抵抗しなかった。
「もう我慢できない。二人きりになろう」
誘いの言葉に、私は沈黙で答えた。
☆ 真夏の結婚式 ☆
その日は朝から街の様子がおかしかった、とヴェローナに暮らす連中は後になって言った。当時ヴェローナで暮らしていた俺の感じでは、特に何も変わらない普段通りの朝だった。だが、そう思わない者たちがいた。朝が訪れる遥か前からコーカサスアサガオが花開いていたから縁起が悪いとか、その花びらに嘴を突っ込んでいたのが絶対に夜は飛ばないことで知られるアルプスハチドリだったとか、夜明けを告げたのが雄鶏ではなく雌鶏だったとか、だからどうしたと言いたくなるような話をさも大ごとであるかのように顔を寄せ合い不安げに語り合っていたのを覚えている。迷信深い一部の輩が騒ぐものだから、一般大衆の気分は揺らぎ、それに引きずられて理性的な者たちも変な具合になった。それは俺の伯父さんも同じだったように思う。
いや、そうでもないのかな。
それこそ、俺の思い込みなのかもしれない。いつもは冷静沈着な伯父さんが、公正なヴェローナ太守として皆から信頼されている人が、あんなに慌てた様子を俺はそれまで見たことがなかった。これは天変地異の前触れかも! と心配した覚えがある。
その影響で、俺の記憶が混乱してしまったのだろうか? ヴェローナを支配する者と支配される大衆の不安が俺の内部で入り混じり、不正確な形で脳裏に刻み付けられてしまったのだろうか? まあ、どっちでもいい。話を進めよう。
その日の前の晩、俺は悪友たちと悪所で博打をやり、すってんてんになりかけて、そこからの逆転! で儲けた金を次の勝負で使い果たし、そこから少し勝って金を取り戻すという盛り上がるともそうでないとも言い難い結末と美味い酒を味わいつつ寝た。翌朝は日が昇る前に起きた。喉が猛烈に乾いていた俺は建物を出て、近くにある井戸へ行って冷たい水を汲んで飲んだ。生き返った思いがした。体の隅々に水分が行き渡ったためだろう。さっきまで感じなかった風の涼しさが心地好かった。
その時分かな、朝日が昇ったのは。夏の太陽は地表を焼き尽くす勢いで照り付けるが、明け方のうちなら、まだ可愛いものだ。俺は朝日に向かって祈りを捧げた。それからグーンと背伸びをした。二日酔いは抜けている。体調は快調だ。さ~て今日一日、何をして過ごすか? なんて考えていたら、通りの向こうからこちらへ進んでくる人馬が目に入った。
人も馬も体格の良いのが遠目からも分かった。馬上の人は立派な鉄兜を被った男だった。朝の光が金属に反射してキラリと眩しい。後ろに馬がもう一頭続いていた。そちらには荷物がくくり付けてあった。長くて太い槍が左右に数本下がっているのが見えた。
傭兵だろうな、と俺は判断した。ここ北イタリアは政情不安定だ。各都市が争う群雄割拠の戦国時代と言って構わないだろう。戦争は日常茶飯事なので、それを職業にする者は多い。この男の持参している兜や槍から、そういった連中の一人だと俺は見て取ったのだ。
勤め先を探しているのだろうか……なんて考えている俺に、その男は笑顔で声を掛けてきた。
「その井戸の水を飲ませてもらえるかな。喉も心も渇ききっていて、もう我慢ができそうにないんだ」
あいにく俺の井戸じゃない。だが、飲ませる分には問題ない。
「いいさ旅人。たっぷり飲みなよ」
男は馬を降りた。井戸の水を汲んで一口飲み、それから二頭の馬にも飲ませてやった。
俺は男の顔をじっくりと観察した。頬に生えた髭は黒くて濃い。その肌は同じくらい黒い。旅人は白人ではなかった。黒人だ。
ヴェローナで有色人種を見かけることはまれだ。同じイタリアでもアフリカに近い南部は、地中海を隔てたスペインみたいに有色人種のムーア人を普段の生活で目にする。北イタリアでも、地中海貿易で繁栄しているヴェネツィアやジェノヴァなら、まあまあ見る機会は多い。ヴェローナはヴェネツィアから凄く離れている! というわけじゃないけれども、どういうわけか異人種に接することが少ない。主要な交易相手は北部ヨーロッパなので、南の地中海より北のアルプスの方へ気持ちが向いているせいだろうか。
喉の渇きを癒した男は兜を取り、冷たい井戸水を頭にぶっかけた。縮れた黒髪が水を弾く。それから旅人は綺麗な木綿のハンカチーフを懐から出して顔を拭いた。
「ああ、さっぱりした。どうもありがとう、もう一つ願い事があるのだが」
「俺にできることなら」
「ヴェローナ太守の館はどこだろう? 良かったら教えてくれないだろうか?」
そこに俺は住んでる! と言い出しかけて止めた。
「ヴェローナ太守に何の用だい?」
「雇われたんだよ、ヴェローナ太守に」
「ヴェローナ太守に雇われて、ここに来たのかい? 何の仕事だろう?」
「こちとら生粋の軍人だ。傭兵の仕事をするんだ」
当たり前のことを聞くな、といった表情だった。
「兵隊かい?」
「隊長として雇われた。兵隊を束ねる指揮官だな」
俺は少しばかり驚いた。傭兵隊長の仕事はエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノという生粋のヴェローナ人が既にやっている。この男は、その代わりに指揮官に就任するのだろうか? その人事をヴェローナ太守である伯父さんが決めたのだろうか?
そんな疑問を俺が抱いたのは訳がある。伯父さんは政治的なバランス感覚に優れている。そんな伯父さんが、遺恨を残しそうな人事をするだろうか。
そうは思ったが、政治の世界はややこしい。何が起こるか分からない。
例を挙げる。
伯父さんはヴェローナ出身者ではない。西の大国ミラノから送り込まれた異国人だ。いわゆる余所者が、どうして太守を勤めているかというと、親ミラノ派ヴェローナ人が招聘したからである。
親ミラノ派の代表はキャピュレット家だ。キャピュレット家の敵であるモンタギュー家は東の大国ヴェネツィアとの関係が深いグループの頭目だ。モンタギュー家を中心とした親ヴェネツィア派にとっては、ミラノが送り込んできたヴェローナ太守の伯父さんは、目の上のたん瘤なのだ。何か機会があれば失脚させようと企んでいる。
そういう状況なので、余所者の伯父さんとしては、一般的なヴェローナ人の嫌ミラノ感情悪化を誘発するような事態を避けたいはずなのだ。
肌の色が違うだけで、何が気に入らないのか騒ぎ立てる者たちは多い。白人のヴェローナ人傭兵隊長の代わりに黒人を就任させるというのは、親ヴェネツィア派のモンタギュー家グループが待ち望んでいた厄介事の種であるように思われた。
「貰った手紙には、可及的速やかにヴェローナ太守の元へ参上するよう書かれていた」
そう言ってから男はニヤッと笑った。
「案内してくれたら、お礼を差し上げよう」
俺は男を連れて家に戻った。ヴェローナ太守の館はアディジェ川の流れに面した小高い丘に建っている。館を防御する堀を兼ねたアディジェ川の支流に架かる橋を渡り袂の詰め所にいる門番の前を顔パスで通過する俺を見て、男は言った。
「一つ、聞いていいかな」
「何なりとどうぞ」
「ヴェローナ太守の甥のパリスというのは、あんたかい?」
俺は足を止めた。
「そうだけど……よく分かったな」
「就職先について、ちょっとばかり調べたんだ。おっと、口の利き方に気を付けるべきだったな!」
男はカラカラ笑って言った。
「子供のいないヴェローナ太守は甥御殿を後継者にしようとしていると聞いている。つまり、未来のヴェローナ太守様だ」
俺の顔を覗き込んで男はウィンクした。
「ここに長く勤めるようなら、あんたとの関係を良くしておかないとな」
その割には口調が変わっていないけど、それはこの際どうでもいい。新しい傭兵隊長が到着したことを伯父さんに伝えるよう、召使いに命じる。
「それじゃ、俺はここで」
「せっかくだから一緒にどうだ? 伯父貴に朝の挨拶をしてないんだろ?」
「遠慮しとく」
「顔を合わせたくないってか」
俺は男を睨んだ。男は気にしていない様子だった。
「噂には聞いている。最近、二人の関係がぎくしゃくしているとな」
それから男は微笑んだ。
「良かったら話してみな。何かの力になれるかもしれないぞ」
俺は何も言わず、その場を去ろうとした。伯父さんの元から戻って来た召使いが俺も一緒に執務室へ来るように伝えた。男は俺を横目で見た。どう出るか、様子を窺っているのだ。
このまま自分の部屋へ戻っても良かった。だが伯父さんとの不和の噂話をされた直後だ。このまま自室へ引きこもるのも癪だった。俺は男の後ろに付いて伯父さんの部屋へ入った。伯父さんは落ち着かない様子で俺たちを迎え入れた。こんなに落ち着かない伯父さんを見たのは生まれて初めてだったので、俺は驚いた――という話は、もう書いたよな。
男は落ち着いた声で自己紹介した。
「お招きにより参上した、オセローだ。ヴェローナ太守殿、よろしく頼む」
この黒人の名はオセローというのか……と俺は思った。そして思い出した。隣国ヴェネツィア初の黒人将軍の名がオセローだったことを! 派閥争いか何かの影響で、左遷されたとか解任されたとか噂に聞いたが、その男がヴェローナへ来るとは考えてもみなかった。
となると伯父さんは、ミラノと対立するヴェネツィアの高級軍人をスカウトしたことになる。
俺は不安になった。このヘッドハンティングはヴェネツィアの感情を害してしまったのではないかと考えたからだ。
自軍の将軍が敵国に引き抜かれたとあれば、機密情報が丸々漏洩したも同然だ。報復のためヴェネツィアはミラノと、その同盟国であるヴェローナに対し、何らかの軍事的アクションを起こす恐れがある。最悪の場合ヴェローナは戦場となるだろう。
それが俺の不安だったが、伯父さんの狼狽は別の理由からだった。
「オセロー、早速だが仕事だ。いや、戦争ではない。軍務でなく人狩りだ。そちらの方も得意としていると窺っているが」
伯父さんの確認にオセローは胸を張って答えた。
「任せてもらおう。何が起こったのだ?」
その口調はヴェローナ太守に対する口調とは言いかねた。俺は伯父さんの顔色を盗み見た。よほど焦っているようで伯父さんはオセローの言葉遣いを注意せず、事件の概要を話し始めた。
昨夜未明、キャピュレット家の一人娘ジュリエットが失踪した。彼女の姿が最後に目撃されたのは従姉妹のロザラインの屋敷だ。そこで開かれたパーティーに出席して、仮面を着けた男と話をしているところを何人も見ている。やがて二人はパーティー会場から消えた。
そこで伯父さんは言葉を切った。オセローは目で先を促した。
「明け方になって、キャピュレット家に手紙が届けられた。届けたのは物乞いの老婆だ。暗いうちから残飯漁りに精を出していたら、通りがかった若い金持ちの娘からキャピュレット家へ手紙を届けてくれたら必ずお礼をすると言われて渡されたそうだ」
オセローは人差し指を上に挙げた。
「その娘は一人だったのか?」
「連れの者は近くにいなかったらしいが、まだ暗かったから物陰に隠れていて見えなかったのかもしれない」
「わかった。話を続けてくれ」
「手紙はキャピュレット夫人が読んだ。それがこれだ」
オセローは伯父さんから渡された手紙を広げた。一読して俺に渡す。俺は受け取った手紙の文章を音読した。
「お父様、お母様。これから私は愛した青年と一緒に旅立ちます。二人で愛の日々を送るためです。その男性はモンタギュー家のロミオです。そうです、我がキャピュレット家の仇敵モンタギュー家の嫡男です。二人の結婚を、とても許していただけないと思い、駆け落ちすることにしました。幸せになります。どうか探さないで下さい。私たちの結婚式にお二人をご招待できないことを、本当に申し訳なく思っています。わがままなジュリエットを、どうぞお忘れになって下さいませ」
俺は手紙から顔を上げた。伯父さんと目が合った。伯父さんは俺を睨んでいた。伯父さんが言いたいことは分かる。だが、俺は伯父さんの思いとは逆のことを言った。
「二人の幸せを祈ってやろう、愛し合う恋人たちの将来を祝福してやろう。そんな気分になりますねえ」
伯父さんは顔をしかめた。
「バカなことを言うな。これが何を意味するか、分かっているのか!」
「宿怨のある名門貴族の子供たちが、婚礼の祝宴を二人きりで上げようとしている、ですかねえ」
「ふざけるのもいいかげんにしろ。キャピュレットはカンカンに怒っている。一族郎党や仲間の貴族を引き連れてモンタギュー家に殴り込みをかけようという勢いだ」
そうなったらヴェローナは街を二分する戦場に早変わりだ。なるほどヴェローナ太守の伯父さんがカリカリしているのも納得だ。
「それでもですよ、もう二人は駆け落ちしてしまったんです、どうしようもないじゃないですか」
「連れ戻す。二人をそれぞれの家に帰すんだ。それで状況は元通りだ」
愛し合う恋人同士を引き裂いて得られる平和に何の価値があるのだろうか? と思うがヴェローナ太守としてはキャピュレット家とモンタギュー家の両勢力の均衡状態が最も価値あるもののようである。
「オセロー、聞いての通りだ。ロミオとジュリエットをヴェローナに連れ戻すこと。それが貴殿の任務だ」
オセローは寂しげな笑みを浮かべた。
「二人だけの結婚式を、真夏の夜の夢のままで終わらせるのが初仕事とは……因果なものだな」
☆ この駆け落ちは、最初で最後 ☆
ジュリエットはヴェローナの名門貴族キャピュレット家の箱入り娘である。初心な少女なのだろうと誰もが夢想する。
ロミオもそう考えていた。だが、予想とは違った。そう、まったく違ったのだ! その辺りからジュリエット拉致計画が少しずつ狂い始めたと言っていい。
疲れ切ったロミオが洗面所で顔を洗ったとき、鏡に映った自分の顔が一晩でげっそりやつれてしまったことに気付いて、足が震えるほど狼狽した。こんなことは今まで、一度もなかった。彼は老いさらばえた死に損ないではない、まだ十代の若者なのだ。それなのに、まるで中年男のような相貌が鏡の中にあった。理由はハッキリしている。それほどジュリエットはタフだったのだ。休みたい、と彼は思った。洗面所を出てベッドへ戻る。だが、そこは安息の地ではなかった。
「ロミオ、駆け落ちしましょう。二人で誰も知らない場所へ行きましょう! どこか遠いところへ!」
ベッドで待ち構えていたジュリエットが懇願した。彼女はロミオと二人っきりになってから、ずっと同じことを言っていた。そんなことより眠らせて欲しい、と正直ロミオは思ったが、彼女にそう言って欲しいと願ってもいたので、その願いを聞き入れる旨をまた伝えた。
嬉しい、と泣いてジュリエットはロミオにすがりついた。その肩を抱き「二人で駆け落ちしよう、遠くまで行こう」と同じような台詞を繰り返しつつ、彼は頭の中で計画をおさらいした。
ジュリエットに告白し、求愛を成功させる。
この第一段階はクリアした。
一緒に駆け落ちするよう、ジュリエットを説得する。
この第二段階も説得するまでもなく向こうから提案されたのでクリアだ。
次に二人でヴェローナから旅立つ第三段階へ入る予定だった。結構予定時刻は夜更けの人の少ない時間帯で具体的には今頃が最善なのだが、ロミオに不都合が生じた。疲労困憊で、その元気がなかったのだ。
夜が明けたら人目につくので二人は街中を歩けない。キャピュレット家の一人娘と、キャピュレット家と同じくヴェローナの名門貴族であるモンタギュー家の跡取り息子が仲良く一緒に歩いているところを市民たちが見たら、それこそ大騒ぎになってしまう。キャピュレット家とモンタギュー家の対立は根深い。その両家の二人が仲睦まじく街を歩いていたら、異常事態なのだ。
駆け落ちの準備は既に出来ている。街外れに馬を用意してあるのだ。今から向かえば日の出の時刻には馬が隠された街外れの古い屋敷跡へ到着する。しかし、そこへ行くのが面倒だった。そこそこの距離があり、歩くのは大儀なのだ。
ロミオはジュリエットへの求愛に失敗した場合に実施する予定だったプランについて考えていた。
ジュリエットがロミオを袖にしたとき――邪険に跳ね除けられた場合は、ロミオはジュリエットを誘拐するつもりだったのである。そのときに備え、待機している仲間が数人いた。その助けを借りて、街外れにある屋敷の廃墟まで連れて行ってもらおうか、と彼は考えていた。
だが……あいつらは今、どこにいるのだろう? とロミオは頭を悩ませた。
ロミオとジュリエットが今いる、この屋敷の中にいたら良いが、出て行ってしまっていたら面倒だ。
いや……仮に、この邸内にいたとしても面倒なことに変わりない、とロミオは苦々しく思った。
ロミオの仲間たちは部屋の様子を盗み聞きしていた。彼らはジュリエットの方から駆け落ちの話を切り出すのを聞いて、作戦成功を確信したはずだ。前祝いとばかりにパーティー会場へ戻り酒を呷って女たちに声を掛け……そして自分たちのお楽しみに励んでいる恐れがある。
キャピュレット家の一員で、ジュリエットの従姉妹であるロザラインの邸宅は広い。その客室をノックし続けていたら、夜が明ける。
対策を考えたがロミオは自分の脳内に答えを見出すことが出来なかった。
疲れのせいだろうか? いや、そうではあるまい。ロミオは元々、思慮深いタイプではなかった。
そんな彼でも頭を働かせることは可能だ。
「喉が渇いた。飲み物を持って来る」
そう言ってジュリエットに口づけしたロミオは部屋を出た。仮面を着けてパーティー会場へ向かう。
そこには二種類の人間がいた。一つは仮面をかぶっていない者たち。これはキャピュレット家の者たちや同家と友好的な人間が大半だ。ロザラインが主催するパーティーに正式な招待状を持参して訪れている。仮面は不要なのだ。
もう一方のグループは、招待状無しの連中である。これは一夜のお楽しみを求めてロザライン邸を訪れた輩だ。ヴェローナの街の貴族や富裕な商人などの階層がほとんどである。正体を明かしたくない者ばかりなので、仮面は必須だった。
逆に言うと仮面を着けてさえいれば、キャピュレット家の仇敵モンタギュー家の人間であるロミオと彼の取り巻きでもロザライン邸のパーティーに参加することが出来た……門の中に入る前に、目玉の飛び出るような額の参加費を払わねばならなかったが。
パーティー会場でロミオは仲間たちの姿を探した。しかし残念ながら悪い予想通り、彼は悪友たちを見つけることが出来なかった。
その代わり、ロザラインを見つけた。正確に言うと、彼女がロミオを見つけ話しかけてきたのだ。
ロザラインは陽気に尋ねてきた。
「どう、上手くいっている?」
ロミオは明るく答えた。
「順調だ、万事順調だ」
ロザラインは勘が鋭い。声を低くして再び尋ねる。
「で、本当のところはどうなの?」
つばを飲み込んでロミオが答える。
「くたくた。早く寝たい。それで仲間を探しに来た。馬車を用意してもらおうと思って」
ロザラインは豪華な扇子で口元を覆い隠した。
「だらしないわね。まだ若いんだから、しっかりしなさいよ」
ロミオは自嘲気味に笑った。その張りのない笑い声がロザラインをさらに苛立たせた。男の腕を取り人目の付かない小部屋へ連れ込む。そしてドレスの胸元から覗く美しい谷間から小瓶を取り出した。シャカシャカ振って蓋を取り、ロミオの鼻の下に小瓶の口を押し付ける。
小瓶の口から出てきたガスの刺激臭でロミオは激しくせき込んだ。蓋を閉めた小瓶を腹の上の双丘の隙間に戻したロザラインが言った。
「気付け薬よ。効き目がしばらく持つから、その間に屋敷を出て、街外れに向かいなさい。馬に乗ったら後は馬に任せなさい。隠れ家で連れて行ってくれるわ。ただし、あんたが落馬するんじゃないわよ」
ゲホゲホが収まったロミオが尋ねる。
「あいつらに頼めないのかい? あいつらは駄目なのかい?」
「あんたのお仲間は皆、酔っ払って女どもとよろしくやってるわ。絶好調って感じ。ちょっと張り切りすぎかしら。あの調子なら、明日に昼過ぎまで使い物にならないと思うわ。まだ若いのにね」
自分のことは棚に上げロミオは憤慨した。
「だらしのない奴らだ!」
「いいから早く行きな」
一肌の温もりで程よく気化した気付け薬の吸入は抜群の効果を示したようである。ロミオはしっかりした足取りへパーティー会場の大広間を後にした。その背中を見守るロザラインの目つきは険しい。その視線が刃ならモンタギュー家の御曹司の心臓は背後から貫かれているはずだ。
ロザラインはロミオの能力を不安視している。ジュリエット誘拐計画の実行犯には役不足ではないかと疑っているのだ。
自分が誘拐の実行役をするべきだったかもしれない、と今更だが考えてしまう。
それでも、もしものことを考えると男の手に任せた方が良かった。ロザラインとジュリエットでは体力や運動面での差が大きい。ジュリエットはスポーツ万能だった。運動が苦手で体力に自信のないロザラインでは、緊急時の対応が困難なのだ。
とはいえ、やはり安心とは程遠い人選であるのは間違いない。
それなのにロミオを選んだ理由は二つある。
一つはロミオが絶世の美男子だったこと。
もう一つは、ロミオがロザラインに片思いしていて、言いなりになるから、だった。
パーティー会場の客たちと楽しげに語らいながら、ロザラインの心は館の外、ヴェローナの街路を彷徨っている。
ロミオに導かれたジュリエットが幸せいっぱいの笑顔で星明りの下を歩いている……そんな光景が目に浮かぶ。
くたばれジュリエット! とロザラインは笑顔の裏で罵った。
☆ 真夏の白昼夢 ☆
北イタリアの都市ヴェローナの街外れに苔むした廃墟がある。古い屋敷の跡で住む人は長くいなかった。そこに謎めいた修道僧ロレンソが暮らすようになったのは、いつ頃か? 正確な時期を答えられるヴェローナは恐らく、誰もいないだろう。
いや、ロミオは知っていたかもしれない。ヴェローナの名門貴族モンタギュー家の跡取りである彼は、幼い頃からロレンソと親しくしていた。盲目の修道僧が持っていた謎めいた雰囲気がロミオ少年の心を惹き付けたのだろうか。
ロミオが長じてからも、その関係は変わらなかった。だが、廃墟の役割は若干の変化があった。昔は子供の遊び場だったけれども、大人の遊び場へ姿を変えたのだ。美青年に変貌したモンタギュー家のプリンスは女性との逢引の場にロレンソの廃墟を利用していた。
神聖なる修行の場を淫楽のために活用されて、ロレンソは立腹しなかったのだろうか?
歓迎していた。ロミオの快楽追及は、ロレンソの研究に貢献していたためだ。
修道僧ロレンソは、様々な材料を調合し、色々な薬物を作る研究をしていた。薬品の原料となるのは自然界で採取された動植物や鉱物だったが、人体に由来する物質もあった。愛を知った女性の残り香を絹に沁み込ませ、それを各種の触媒入り液体を噴霧して陰干しする。そんな大変な手間のかかる工程を経て作られた絹が、材料の裏ごしに必要不可欠だったのだ。
つまりロミオとロレンソはWin-Winの関係だった。
従って、ロミオからキャピュレット家の令嬢であるジュリエット誘拐計画への協力を求められたときは快諾し、街から脱出する馬を廃墟に隠しておいたのだ……が、誘拐被害者であるはずのジュリエットに背負われた誘拐犯ロミオの土気色の顔を見たとき、激しい後悔を感じた。何か、途轍もなく悪いことが起きていると直感したのだ。
ロミオを背中から下ろしたジュリエットが涙ぐんで言った。
「気分が悪いと言い出して、動けなくなったの。ねえ、何とかして!」
ロレンソはロミオを診察した。その口から漂うわずかな異臭を嗅ぎ取る。
「これは私の調合した気付け薬の香りだ。だが、強すぎる。用法用量を守っていない利用法だ」
「あなたの作った薬なの? それじゃあ、何とかしてよ!」
ジュリエットが殺気立った。ロレンソは怯えた。
「わかった、わかったから! 落ち着いてくれ。今から治療を始める」
薬品棚から幾つかの瓶を取り出し、それらに入った薬剤を調合して、湯に溶かす。その湯を冷まし、刷毛を浸す。
「これを鼻の下に塗るのだ。塗りにくいな。ちょっと鼻の下を伸ばしてみてくれ」
ロレンソに言われ、ジュリエットはロミオの鼻の下を伸ばした。
「そうだ、それでいい」
薬を塗り終えたロレンソが刷毛をテーブルに置いた。ジュリエットはロミオの様子を窺った。永遠の愛を誓った恋人は虫の息のままである。彼女は血走った眼で修道僧に食って掛かった。
「どうなってるのよ! 何も変わらないじゃない!」
ロレンソはテーブルを手のひらで叩いた。
「聞いてくるまで時間が掛かる。しばらく待て」
掌打のためにテーブルから刷毛が落ちたのとほぼ同じ頃、ヴェローナ太守の館では駆け落ちしたロミオとジュリエットを捕らえる計画が話し合われていた。
「捜索に多くの人数は割けない。キャピュレット家とモンタギュー家の郎党がいつ市街戦を始めてもおかしくないんだ。両者をけん制するための兵力がいる」
ヴェローナ太守の言葉に、新任の傭兵隊長オセローは頷いた。
「助手が一人いれば十分だ」
「少なくないか?」
「いや、その方がいい」
「どうして?」
訝しげなヴェローナ太守にオセローは理由を述べた。
「前任の傭兵隊長エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノに忠誠を誓っている兵隊がいるかもしれん。そういう連中は俺の足を引っ張りかねない。捜索の邪魔となる」
ヴェローナ太守の甥パリス青年が口を挟んだ。
「エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは、どうして傭兵隊長を辞めたんです?」
パリスの伯父であるヴェローナ太守が不機嫌そうに言った。
「そんなこと、今はどうでもいい」
パリスは憮然とした。その様子を見てオセローがグスッと笑う。
「辞めたわけじゃない。行方をくらませたんだ」
目をぱちくりさせてパリスが尋ねる。
「あの男が、行方をくらませたって、どういうこと?」
オセローはヴェローナ太守を見た。ヴェローナ太守は溜め息を吐いた。
「密告があった。エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは異端の信仰を持っているという密告だ。事実とは思えなかったが、本人に確認した。違うと誓ったその日のうちに、奴は姿を消した」
中世ヨーロッパはキリスト教のカトリックと異端派の闘争の場であった。カトリックのお膝元であるイタリアも例外ではない。むしろ、もっとも異端がはびこったのがイタリアだったとしても過言ではないだろう。カトリックは異端を潰すために如何なる努力も惜しまなかった。その中には拷問や火刑も含まれる。
「もしかしたらエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノの他にも異端派がいるかもしれん、兵隊の中にも。そういった連中が今回の人事に反対して、人の背中で何か企んだら、困るんだ」
その人事を決めたヴェローナ太守が言った。
「だが、二人の行方を追うために人手がいる。もう城壁の向こうへ逃げただろうから、早く沢山の追っ手を繰り出そう」
「この暑さだ、灼熱の街道を人も馬も長くは走れない。追われているのだから休憩する場所を探すのも大変だ。逃げた方角さえ読み間違えなければ捕まえられる」
オセローはヴェローナ市街地の地図を求めた。用意された地図を眺め、その一点を指す。
「北のアルプス方面へ向かう城門の近くに大きな廃墟があるようだ。ここはどういう建物なんだ?」
「かつては異端派の巣窟だった。今は浮浪者が暮らしているようだ」
「行ってみる。パリス、一緒に来てくれ」
突然のことで、パリスは驚いた。
「どうして俺が!」
「誰かに道案内をしてもらう必要がある」とオセロー。
「そんなの、他の奴らにやらせろよ」
オセローはパリスの顔を覗き込んだ。
「聞くが……まさか、異端派じゃあるまいな」
パリスは首を横に振った。
「そんなわけない!」
「それなら安心だ、さあ急ごう」
パリスは伯父であるヴェローナ太守に助けを求めた。無駄だった。
「ジュリエットはお前の婚約者になる予定の女性だ。お前が救わなくてどうする?」
「だから、それは反対だと!」
ヴェローナ太守は怒った。
「いいかげんにしろ! これ以上の縁談はないぞ! ジュリエットはヴェローナの名門貴族キャピュレット家の娘だ! 何の不足がある!」
「だって、俺には将来を誓った女性がいるんです!」
「何だと! 誰だ、誰なんだ!」
パリスは叫んだ。
「ロザラインです。キャピュレット家の一門で、ジュリエットの従姉妹のロザラインです!」
そのロザラインは今、自らの邸宅を出てヴェローナの街外れに向かって移動していた。彼女が立案したジュリエット誘拐計画の行く末に強い不安を抱いたためである。ロミオに任せておいて大丈夫なのか? そう考えたら、居ても立っても居られなくなったのだ。
ジュリエットがロミオを駆け落ちしたら、彼女の父であるキャピュレット家の当主は激怒する。実の娘であれ、絶対に許さなないのは確実だ。一人娘ジュリエットは勘当されるだろう。そうなると、キャピュレット家は跡取りがいなくなる。一番近い親戚は従姉妹のロザラインだ。
自らをキャピュレット家の後継者にするため、ロザラインはジュリエット誘拐を思い付いたのだが……誘拐の実行役のロミオは頼りない男なのが最大の不安材料だった。自分に下心を抱いているのを利用して使っているけれど正直、使えない。もうヴェローナを脱出しているだろう。そう思うものの、何だか心配になってきた。そこでロザラインは、脱出用の馬が用意されたヴェローナ郊外の廃墟へ急いでいた。馬に乗れない彼女は必死で走るしかない。真夏の太陽を浴び汗だくだ。あと少しで到着する! というところで、遂に限界が訪れた。彼女は気を失い石畳の道に倒れた。
ロミオが意識を取り戻したのは、ちょうどその頃である。ジュリエットは涙を流して喜んだ。
「良かった、本当に良かった! さあロミオ、立ち上がって! ハネムーンに行きましょう」
修道僧ロレンソは慌てて止めた。
「無理無理、死ぬ死ぬ、起こさないで、そんなに揺らさないで!」
ジュリエットは愛する人の命の恩人に嚙みついた。
「全然治ってないじゃない! 何とかしてよ!」
「そうは言っても」
ロレンソが困惑している頃、オセローとパリスは馬上の人となり、ヴェローナの街外れへ向かっていた。パリスは有頂天になっていた。彼の伯父であるヴェローナ太守が、ロザラインと自分の甥の結婚に賛同の意向を示したためである。
そこには冷酷な計算があった。ジュリエットがキャピュレット家の次期後継者の地位から外される可能性があると踏んだのだ。ジュリエットの父であるキャピュレット家の当主は、モンタギュー家を心底から憎んでいる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの精神そのままに、ロミオと駆け落ちしたジュリエットを家から追い出すだろう。そうなると、ロザラインがキャピュレット家の後継者になる目が出てくる。そのロザラインとパリスが相思相愛なら、好都合だ。
そのロザラインである。熱中症の症状で気を失った彼女は、そのままだったら路上で帰らぬ人になっているところだったろう。しかし幸運にも通りがかった男性に助けられた。その逞しい腕に抱かれロザラインは馬上の人となっている。彼女は安堵の溜め息を漏らし男の顔を見上げた。男のニヒルな表情に彼女は見覚えがあった。
「……あなた、エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノね。私を助けて下さったのね」
エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロザラインに水筒を与えた。
「たっぷり飲んでくれ。もうすぐ休める場所へ着く。そこで下ろすから、それまで寝ているがいい」
男の胸に体を預けるロザラインの中に、今までにない安心感が生まれていた。頼りないロミオは勿論のこと、将来を誓ったパリスにも抱いたことのない安らかな気持ちだった。命を救われたことへの感謝の念に混じって、今までに感じたことのない思いが生まれてくるのを彼女は感じていた。そして、思った。もしかして、これは……愛かも、と。
その愛をどうやって相手に伝えようかと悩んでいたら、目的地の廃墟に到着した。その入り口でエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロザラインを抱いたまま馬を降りた。廃墟の中に入る。その中ではジュリエットが喚いていた。
「私は早く結婚式を挙げたいの! ロミオと正式な夫婦になりたいの! 早くロミオを目覚めさせて!」
意識を取り戻したロミオだが、すっかり目覚めたとは言い難い。大声でジュリエットが叫んでいる横でボンヤリしている。
ジュリエットは嘆いた。
「私は結婚式を早く挙げたいの。ただそれだけなのに……だから早く何とかして!」
苦情を浴びて辟易しているロレンソが、その場に現れたエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノと、その腕の中でお姫様抱っこされたロザラインに気付いた。
「どうしたんだ、こんなところへ。何があったんだ、同志よ!」
エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは自分の異端信仰が発覚したことを伝え、それから同じ異端派のロレンソに警告した。
「同志よ、君も危険だ。すぐに逃げよう」
ロレンソは動揺した。異端派は改宗しない限り殺される。そして彼に改宗の意志はなかった。昔からの同志に話す。
「今ちょっと立て込んでいるが、逃げる準備をする。まず、この状況を何とかしないと」
それからロレンソはジュリエットに聞いた。
「ここで結婚式を挙げてもいいかな?」
「いいとも!」とジュリエット。
そのとき廃墟にオセローとパリスが到着した。入り口で主人を待つ馬を見て、パリスが言った。
「エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノの馬だ」
オセローは馬の鞍に括り付けていた剣を取った。
「前任の傭兵隊長殿はかなりの腕利きと聞いている。良い勝負を楽しめそうだ」
パリスは逃げ腰である。だが、ここで頑張ればロザラインとの結婚が伯父に認められそうなので、オセローの後に続いた。
二人は廃墟の奥へ入った。そこは変な甘い香りと奇怪な詠唱で満たされていた。
「何だこれ」とパリス。
オセローは匂いと詠唱の正体を知っていた。慌てて口と鼻を塞ぐ。
「異端派の使う強力な薬剤と催眠術だ。いかん! 効いてきた……」
その場にいた人間の大半がロレンソの術にかかった。
ジュリエットはロミオと結婚する夢を見た。パリスとロミオは夢の中でそれぞれロザラインと結婚式を挙げた。ロザラインはエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノとの結婚式を夢見て、エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロレンソとの同性婚に心を弾ませた。オセローは恋人デズデモーナとの幸せな未来を見た。
そのすべてが真夏の白昼夢である。
☆ 修学旅行の美術館見学×ラブハプ ☆
修学旅行で美術館を見学していたエヌ未は仲間たちをはぐれてしまった。方向音痴な彼女は迷路のような建物で現在位置が分からなくなり、案内板を見ても自分がどこにいるのか分からず、途方に暮れていた。
「どうしよう? 美術館のスタッフさんはいないかな……」
誰かに道を訊きたくてもエヌ未の他に客の姿はなく、美術館に勤める職員も見かけない。
うろうろ歩いていたら、向こうの展示室に人影を見かけた。
「あっ、すみませ~ん! ちょっとお尋ねします! わたし道に迷っちゃって……あれ?」
声を掛けたのは何のことはない、展示された彫刻の石像だった。それを人間と見間違ったのだ。
「うわ、恥ずかしい」
自分でも呆れて独り言を言ったら、誰かが笑った。
「えっ、誰の声?」
エヌ未は声の主を探した。しかし、人の姿は見えない。
「やだ、怖い……」
怯えるエヌ未の近くで少年の声がした。
「怖がらないで、道を教えてあげるだけだから」
声がした方を見る。誰もいない。ただ、展示された彫刻の石像があるだけだ。
「え?」
美しい少年の姿をした彫刻の石像がギギギと動いた。右手を展示室の反対側へ向ける。
「展示品の陰になって見えないけど、向こうに廊下があるから、そこから出られるよ」
とても優しい口調だったが、それでもエヌ未はパニックを起こした。声にならない悲鳴を上げ、教えてもらった出口の反対側へ走り出す。そして、そこに運悪く現れたスポーツ万能のイケメン天才同級生男子と激突した。
「うわっ!」
脳に喰らった激しい衝撃で神経の接続に異常が生じたスポーツ万能のイケメン天才同級生男子は、そのショックでエヌ未を深く愛するようになってしまった。『修学旅行×ラブハプ』である。
いや、そればかりではない。少年の姿をした彫刻の石像がエヌ未に興味を抱き人間の姿になって転校してきたのだ。人間ではない美しい男子転校生に激しく求愛され、エヌ未はまたもパニック寸前である。
以下、次号。
☆ 炎の人の弟の妻 ☆
大好きな人にプロポーズされた時を多くの人は後になっても覚えているものだ。ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルも、それは変わらない。ただし彼女の場合、愛するテオドルス・ファン・ゴッホに求婚されて嬉しかったから、というだけではない。プロポーズを承諾後、テオの兄フィンセント・ファン・ゴッホが自らの耳を切断したという知らせが入り、驚いて失神するところだったためだ。
ゴッホは南フランスのアルルに暮らしており、そこの病院に入院した。パリにいたテオは兄の元へ急行する。ヨハンナはパリに残った。婚約者の兄は初対面の女性に自己紹介されても話を聞ける状況ではなかったからだ。
売れない絵描きのゴッホは、弟のテオに資金援助を受けて生活していた。「とても才能がある」とテオは力説している。ヨハンナには到底、信じられなかった。画家を称しているがゴッホの絵は一枚も売れたことがない。画商のテオが兄の才能を信じているので、真正面から「あなたのお兄さんは絵描きを廃業した方がいいと思うの」と言ったことはないけれども、内心は「夢を追わず、さっさと働け」と思っている。「私の夫の稼ぎを期待するな! この穀潰し!」と言いたくて仕方がない。
テオは大金持ちでも何でもない。病弱な身体で必死に働いている。そして妻ヨハンナと兄を養っているのだ。やがてヨハンナが出産したので彼が扶養する家族は三人になった。さらに稼がねばならなくなったわけである。
ゴッホへの支援を打ち切ったら、家計が楽になるのは間違いなかった。それでもテオはゴッホを見捨てない。甘すぎる! とヨハンナは腹が立った。夫は兄を天才だと言っているが、それは画才ではなく詐欺師の才能だろうと彼女は考えている。
アルルの病院を退院したゴッホはパリ近郊で生活するようになった。短期間、テオとヨハンナの夫婦と同居したが、お互いに気疲れして駄目だったのだ。テオは精神的に不安定な兄の単身生活を不安視したが、ヨハンナは好ましく思った。無くなった耳の代わりに目の前で鼻か何かを剃り落とされたら、絶対に卒倒する。
やがてゴッホは死んだ。自分の胸を拳銃で撃ち抜いたのだ。衝撃を受け、悲しみに浸る一方で、自分の予感が正しかったことをヨハンナは確信した。そして義兄の銃口が彼自身に向けられたことを神に感謝した。
テオは兄の死に強いショックを受けた。心身共に衰弱していく。そして翌年、亡くなった。三十三歳の若さだった。
寡婦となったヨハンナは実家に戻った。そのうち、信じがたい噂を耳にするようになった。あのゴッホの絵が評判になっているというのである。その後、ゴッホの絵は高値で売れるようになってきた。それにつれて世間の人は、画家ゴッホという人物への興味を持ち始めた。自分の耳をちょん切り、それから自殺したゴッホとは、何者だったのか? その疑問に対する回答が、ゴッホが家族や友人に当てた手紙の中にあるのでは……と思った編集者が動いたようで、ゴッホと手紙のやり取りをした様々な人物がゴッホの書簡集を出版し始めた。
その中にヨハンナがいた。亡くなった夫テオはゴッホと頻繁に手紙のやり取りをしていた。それを公開したのだ。
ヨハンナが発表した亡夫テオと義兄ゴッホの書簡集は大評判となった。それはゴッホの伝説を強化し絵の価格を上昇させる決定打となる。世間はゴッホを天才だと認めたのである。
こうしてみると、ゴッホの天才性を信じたテオもまた天才だったように思える。一方その妻ヨハンナは夫より審美眼が劣っていたと言えよう。だが、ここまでゴッホがビッグネームになると、当時は誰も予想していなかったのではないか?
見通しが甘かったのは何もヨハンナだけではなかったのだ。
しかし彼女がゴッホの弟の嫁でなければ、ゴッホの伝説は現在の半分程度に落ち着いていたのではあるまいか?
その場合、ゴッホの絵の値段が今の半分くらいに値下がりしていた可能性はあるだろう。
彼女がいたからこそ、現在のゴッホがある。
ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルよ、以て瞑すべし(←なんだそれ)。
☆ 第一回ベリーズカフェ杯「財閥御曹司」選考レース ☆
第一回ベリーズカフェ杯「財閥御曹司」選考レースは2023年11月15日(水)にエントリーが締め切られ出場選手が確定した。みんなが調べている様々な属性の「財閥御曹司」たちがヒロインとの溺愛を目指して力走するレースを展望する。
01スパダリ「財閥御曹司」
王道中の王道。優勝候補筆頭。
02独占欲「財閥御曹司」
重要なファクターだが、これのみでは弱いか。
03乙女「財閥御曹司」
乙女な「財閥御曹司」である。読者の理解が得られるかが鍵。
04獣人「財閥御曹司」
ワイルドである。しかし実際は獰猛な野獣ではなく、心優しいビーストなのだ。
05追放「財閥御曹司」
財閥から追放されたら御曹司ではなくなってしまう。底辺から逆転可能だろうか。
06異世界転生「財閥御曹司」
異世界に転生した後も「財閥御曹司」の肩書が通用するのだろうか。
07ざまぁ「財閥御曹司」
財閥の名前が「ざまぁ」ではない。大丈夫かと心配になる。
08ごはん「財閥御曹司」
食料品関係の「財閥御曹司」なのか。あるいは米粒の王子様かも。
09地味子「財閥御曹司」
正体を隠しているものと思われる。ヒロインだけに本当の姿を見せるのだろう。
10身ごもり「財閥御曹司」
誰の子供を宿しているのか? そもそも彼は何者なのだろうか?
11懐妊「財閥御曹司」
同上。
12妊娠「財閥御曹司」
同上。
13もふもふ「財閥御曹司」
海外の財閥だろうか。あるいは体毛の多いだけかもしれない。
14離婚「財閥御曹司」
大穴。離婚した前妻(たち)とヒロインとの絡み、離婚前提の偽装結婚その他バリエーションが期待できる。
以上、第一回ベリーズカフェ杯「財閥御曹司」選考レースを予想した。余裕で紳士的な彼と運命の出会い…それとも家業にまつわる契約結婚? 物語への興味は尽きない。
☆ クリスマス×運命の恋の変 ☆
子供たちへの贈り物を運んでいたトナカイの橇が止まった。サンタクロースが怒鳴る。
「お前ら、勝手に止まるんじゃねえ! 動け!」
トナカイたちはサンタクロースを無視した。橇を引く綱を噛み千切る。サンタクロースは激怒した。
「この野郎! どういうつもりだ!」
サンタクロースが鞭を振るう。だがトナカイたちは素早く鞭を逃れ、そのまま逃げ去る。サンタクロースは橇から立ち上がった。
「こら、お前ら! どこへ行く!」
リーダーのトナカイが振り返って言った。
「恋人たちのところへ行くんです」
サンタクロースは聞き返した。
「はあ! お前ら、どこへ行くってんだあ? 仕事をしないで、どこへ行くってんだよ!」
トナカイは微笑んだ。
「運命の恋人の元へ行きますよ。今夜はクリスマス・イブですからね。好きな人と過ごすんです」
「何を言ってんだ馬鹿、いや、トナカイ!」
「僕らはクリスマスと運命の恋人と一緒に過ごすんです。邪魔をしないで下さい。さもないと馬じゃないトナカイに蹴られて死にますよ」
「お前ら、サンタ様を裏切るのか!」
それには答えずトナカイたちは去って行った。一人残されたサンタは怒り狂った。
ここに描かれたトナカイによる飼い主のサンタクロースへの裏切り行為はキリスト教圏では「クリスマス×運命の恋の変」と呼ばれ、我が国における「本能寺の変」と同じくらい広く知られている。
☆ 地獄で軟体動物に遭遇する胸きゅんストーリー(最後スカッとする) ☆
十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物がヒロインの中学生女子に襲い掛かる。
本作品の女主人公である彼女の名前はヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)で、既に書いたように、女子中学生である。ちなみみ軟体動物の名前はレイミアード・カッサーノだ。
「ぐごごごごごお!」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は喚き散らした。叫べば誰か助けが来るかもしれないと思ったのだ。しかし、助けは来ない。彼女は今、地獄の底の底にいる。そんなところまで来る奴は滅多にいないのだ。
どうして地獄の底の底にヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)がいるのかというと、色々あったからだ。
理由、その一。
「兄弟・姉妹と比べられた」
両親や周囲の大人たちは、ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)と彼女の兄弟・姉妹を比べ、彼女を劣った存在とみなした。何がそんなに違うのか、客観的にはハッキリ分からない。身近で見ている者にとっては差別するだけの理由があったということなのかもしれないが、それが正しい振る舞いと言えないのは言うまでもないことだ。
理由、その二。
「クラスメイトと趣味が違うせいで、仲間外れにされた」
要するに学校でのいじめだ。他人の趣味なんかほっとけ! という話だが、そうもいかないものらしい。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の推し活の対象が、他のクラスメイトたちが贔屓にしている存在のライバルだったのかもしれない。いずれにせよ、それがいじめの理由にはなり得ないのは明らかだ。
理由、その二。
「“女子らしくしなさい”など、偏見を押し付けられた」
もしかすると、これがヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が迫害される最大の原因なのかもしれない。彼女は“女子らしさ”と一般的に語られるものとは無縁だった。残酷な差別に対し大人しく服従する、なんてことはまったくなかった。徹底的に反抗した。たとえば兄弟・姉妹と比べ自分をネグレクトする両親その他の大人たちに報復した。ここには書けないくらい残虐無比な方法で、この世から消えてもらったのだ。自分を仲間外れにしたクラスメイトもそうだ。彼女を除いた一クラスが全員が、あの世へ行った。それでかなり気分はスッキリした。だが、それでも敵は消えない。“女子らしくしなさい”などの、偏見を押し付けてくる奴らが、この世界にはウジャウジャいたのだ。そんな連中全員を地獄へ叩き込みたいと、彼女は思った。それは簡単ではない。だが、もしかしたら、自分にならできるかもしれない……と彼女は考えた。
ちょっと、いや、ちょっとどころか、絶対にありえない話である。それに世の中にいる偏見の塊を始末していたら、人類は絶滅するだろうから、やるにはそれなりの覚悟が要る。
しかしヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)にとっては、ありえない話ではなかった。彼女は幼い頃、地獄の悪魔と契約した。悪魔に魂を売ることで、多くの人間の命を消し去る魔の超能力を手に入れたからだ。その力を存分に活用し、不愉快な奴らを片付けてきた。だから、やろうと思えば、やれる。つまり、自分の邪魔をする奴らを殺害できるのだ……が、その数が多すぎると、さすがに大変だった。
そこでヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は地獄へ降り立った。自分の相棒となる邪悪なヒーローを探すためである。自分のような強力な魔の超能力者が良かった。そういうパートナーを探し歩いていたら十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物レイミアード・カッサーノと遭遇した。こいつ、相棒になるかも……と思ったら、敵になった。
そうなったら、戦うしかない。
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は魔法の呪文を唱えた。異次元の超時空生命体を封印した魔剣オーケンシールドガスホース・トルムーダイハーディアを亜空間ポケットから取り出す。巨大な軟体動物が繰り出す十数本の触手を片っ端から斬り落とす。触手を斬り落とされた軟体動物レイミアード・カッサーノは悲鳴のような鳴き声を発した。
勝てる! とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は確信した。そのときだった。彼女の背後から、別の軟体動物レイミアード・カッサーノが襲い掛かった。挟み撃ちされた彼女は前後から攻撃してくる数十本の触手を捌ききれなくなった。太い触手が彼女の手足や胴体に絡まり、遂に動けなくなってしまう。
「しまった!」
二匹の軟体動物レイミアード・カッサーノは捕らえたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)を八つ裂きにしようと触手に力を込めた。持ち前の頑固なパワーで耐える女子中学生ヒロイン! しかし、それにも限界がある。全身を引き裂こうとする触手の力に抵抗しながら。彼女は呻き声をあげた。
「くっ、もうダメかも……悔しい……」
理不尽な目にあって絶望したヒロインの前に、中学生男子が姿を現した。二匹の軟体動物の触手が届かない安全地帯に立って、彼は言った。
「お困りのようだけど、どうしたらいいだろうねえ。助けが必要だったら、助けてやるよ」
なんかちょっと上から目線な言い方だった。普段のヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)だったら、おそらく「失せやがれ!」と拒絶していただろう。
だが今は、そんな状況ではなかった。
「見りゃ分かるだろう! 助けろ!」
中学生男子は、その言い方が気に入らなかったようだ。彼は言った。
「なんだあ、その口の利き方は! へん! 善意の無償行為をしてやろうと思ったけど、やめた。対価を要求する」
「はあ?」
「お礼を求めてるんだよ」
「お礼?」
「感謝の気持ちを態度で示せ」
そう言ってから男子中学生は自分を指差した。
「俺の要求に応えてもらう。こっちの望みをかなえるんだ」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の頭の中に、様々な思いが渦巻いた。
「やだ! 変なことは絶対にやだ!」
中学生男子は呆れ顔で言った。
「そんなことを言っている場合かよ。触手に手足を引っこ抜かれるぞ。そのままでいたけりゃ、ずっとそうしていろ。こっちはお前がどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
背を向けて立ち去ろうとしかけた男子中学生をヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が呼び止める。
「分かった、分かったから! 助けてちょうだい!」
「そう来なくちゃ」
男子中学生は振り返った。いつの間にか、その手に長くて大きい高枝切り鋏が握られている。彼は高枝切り鋏の刃をカチャンカチャンと鳴らしながら言った。
「これで触手を切る。動くなよ」
「それ、どこから出したの?」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)から尋ねられ、男子中学生が答えた。
「スカッと胸きゅんサイキックパワーで生成したんだ。一種の超能力だよ」
自分の持つ魔の超能力と似ている。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、そう思った。
「それは、私の力に似ている! その力は、どうやって?」
尋ねられた男子中学生が答える。
「スカッとする胸きゅんの神から貰った。クリスマスプレゼントだったよ」
「なんじゃそれ?」
「知らん。詳しいことはスカッとする胸きゅんの神に訊いてくれ。こっちは、とにかく使えと言われたから使うだけさ。ただし」
高枝切り鋏の刃を開いたり閉じたりの動作を繰り返しながら、男子中学生は言った。
「こっちの条件を吞んでもらう」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は痛みに耐えながら尋ねた。
「その条件とやらを早く言って」
「君のことを、スカッとする胸きゅんの神から聞いている。凄い超能力者だとね。それ以外にも、色々な話を聞いた。たとえば、小説を書いているとかね」
それは事実だった。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスターツ出版の小説サイトに自作小説を投稿している。だが、人に話したことはない。ペンネームで投稿しているので、誰にも知られていないはずだった。
「だからなに?」
「その小説を読みたいな、と思ってね」
スカッとする胸きゅんのストーリーが好きだから、そういうのを読みたい――と男子中学生は言った。
「僕が触手をちょん切る作業中に、次作を朗読して。それが条件」
拍子抜けだった。
「それでいいの?」
「ああ」
魔の超能力を使ってヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスマホを操作した。朗読アプリに自作を読み上げさせる。本当に、こんなのでいいの? と思いながら彼女は自作に耳を傾けた。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その一
とある芸能事務所と深い付き合いのある友人がいた。ある日そいつが忙しいってことで、代わりにタレントの送迎を頼まれた。こっちも何度かやっている仕事だった。また一つ頼むと言われたのだ。報酬は悪くなかった。こっちは、それなりの信用があったからだ。余計なことを言わなければ、それだけの金が貰えるってことだ。
ある場所でタレントを拾い、別の場所へ運ぶ。そういう話だった。某テレビ局の近くから大物芸能人が多く住む地域へ車で送り届け、帰ろうとしたらスマホが鳴った。事が済むまで待て、との指示だった。分かったと返事をする。不満があっても受け入れるのだ。とやかく言わない。どんな仕事でも大切なことなのだろうが、今夜はとりわけそうだった。曇り空に見え隠れする満月を眺めて時間を潰す。
しばらく経って呼ばれた。敷地内へ入れとのことだ。中へ入るのは初めてだった。オートロックの門扉が開いて、やっと車が入れる。警備員はいない。車を徐行させエントランスの前に横付けする。タレントが出てくるのを待ったが出てこない。スマホに連絡が入る。泥酔して動けないから運んで欲しいとのことだった。やれやれだ。
玄関の鍵を開けてもらい、住居内に入る。変な匂いがした。足元に大いびきのタレントがいた。立てるかと聞いたが返事がない。肩に担いで無理やり立ち上がらせる。家の主がいたので、どうすればいいかと指示を仰いだ。相手は目をぎらつかせ、こっちを見つめている。苦笑した。こっちには、そういう趣味がない。芸能界にデビューするつもりもない。ついでに言うと、こっちは相手の好みとされるタイプとは程遠い面相をしている。真顔で再び次の指示を伺う。
タレントのマンションへ運ぶのは駄目だと言われた。マスコミが張り付いているからだ。別の場所へ連れて行くように命じられる。渡された紙に書かれた住所へ行くには少し遠回りしないといけない。そう付け加えられた。幾つかのポイントを通るのだそうだ。詳細を聞くのは止めた。何をどうするのか、それだけ聞けばたくさんだ。
「それじゃ」
「待って」
「何です?」
「これを持って行くと良い」
お守りを手渡された。返すのも何なので礼を言って受け取る。
「気をつけて」
写真を撮られるな。その意味だと思ったら、違った。幾つかのポイントとかいうのを越えたら、一気に来た。変な物体、きっと霊魂とか幽霊とかいう連中が、車の外をうようよ歩くのが見えてきたのだ。こっちには、霊感が少しだけある。だから、そういうのが街を普通に歩いていることを知っているのだが、今夜は多すぎた。そういう奴らしかいない街の中に車は入り込んでいたのだ。
カーナビが目的地到着を告げる。幸いにも周囲に幽霊はいなかった。後部座席のタレントを車から降ろそうと後部ドアを開ける。横倒しになって眠っていたタレントが体を起こした。全然違う人相に代わっていた。いや、人というより野獣の顔だ。こっちに向かって牙を剥く。慌ててドアを閉める。送り届ける予定の建物の入り口横の呼び鈴を鳴らす。インターホンから返事があった。女の声だった。頼まれて人を運んできたのだが、ちょっと困っている、力を貸して欲しいと頼む。玄関から三人の女が出てきた。若い女、中年女、老婆の三人だった。同じような顔をしている。三世代なのか、赤の他人なのか、こっちは分からない。後部座席のアレをどうにかしてもらえたら、それでいい。
女たちはタレントを大人しくさせることに成功した。車から降りたタレントは四つん這いになって建物へ入って行った。中をちょっとだけ覗いたら、鏡が見えた。風呂の鏡のように湿気で濡れている。こっちの姿は映っていたが、三人の女の姿は見えない。余計な詮索はせず立ち去ることにした。女たちに頭を下げる。向こうも会釈した。建物に入らず、こっちを見送る様子なので、さっさと車を出す。見ないつもりだったがバックミラーを見てしまう。女たちの姿は、やはり見えなかった。
出るときは普通に出ていいのか、聞くのを忘れた。ポイントを逆戻りしなくていいのかと思ったが、一方通行を逆戻りするのは避けたい。幽霊もイヤだが、それ以上に警官とかかわり合いたくない身の上なのだ。お守りを頼りに、幽霊が闊歩する街を進む。
大通りに出た。幽霊も見えないが人もいない。人の声を聴きたくなってラジオを付ける。深夜の人生相談だった。こんな時間に珍しい。故郷を離れた者の話だった。急に煙草を吸いたくなった。生憎と切らしている。煙草は諦めるとして、その代わりに喉の渇きを潤そう。自動販売機を見つけたので車を止める。自販機の横に階段があった。何の気なしに階段の下を見る。階段の天井に照明があった。照明の黄色い光に引き寄せられて階段を降りる。階段の下に街があった。人も車もいない車道と夜空に浮かぶ三日月が見える。夜空に浮かぶ満月をさっき見ていた気がするけれど、それについては深く考えないことにした。階段を駆け上がって車へ戻る。ここで飲み物を買うのは止めた。早く帰って寝よう。
その後もタレントの送迎をする機会があった。あの晩ひどく泥酔していたタレントの送迎も二度か三度やった。最初の時は緊張したけど、次からはそうでもなかった。相手はこっちを覚えていない様子だった。でも、ある時ふとバックミラーを見たら、こっちを変な顔で見ていたから、もしかしたら何か思い出したのかもしれない。それでも、こっちは何も言わない、尋ねない。それなりの報酬を得て生きていくためには、それが大切なのだ。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その二
市役所に通じる道路は市警の警察官と州兵が完全封鎖していた。市職員は身分証を見せれば通してもらえるが、一般市民は身分を証明できるものを見せても通過が許されない。無理に通ろうとする者は阻まれた。制止を振り切って中へ入ろうとすると逮捕される。抵抗する者は激しく殴打された。幸いなことに死者は出ていないが、完全武装の警官隊と州兵部隊には発砲許可が出ており、死人が出てもおかしくない状況だった。
異常な事態である。市民からは不満の声が上がっていた。市役所と市警本部そして州兵を統括する州政府に苦情の電話が殺到していたが、市と州当局は無視を決め込んでいる。過激派対策が最優先なのだ。
これほどまでに要警戒なテロリストとは何者か?
ジュンとジュネという同性愛者のカップルだ。二人は憲法が認める同性婚の権利を行使しようと市役所へ婚姻届けを提出しに行って受け取りを拒否された。州政府の法律には同性婚の記載がないため、書類は認められないというのが理由である。市への抗議がなしのつぶてだったので州政府に抗議文を送り付けたが、これも無回答だった。地方レベルでは話にならないと考えた二人は中央政府の出先機関へ相談した。中央政府の回答は明確だった。同性婚を認めない市と州の対応は憲法違反である。ただちに書類を受理せよ、という命令が市と州政府に送られた。地方政府に結婚を認められなかった同性愛者のカップルが中央政府を味方につけたわけだが、これが市と州当局にとっては体制を揺るがす極悪人に映ったのである。
この地方が元来、保守的な土地柄だったこと。そして革新政党が与党の中央政府と保守派の牛耳る地方政府の対立があったために、ジュンとジュネの同性婚が大問題に発展してしまったのだった。二人を応援するグループが現地入りし調整を図ったものの解決には至らず逆に、その中の強硬派がデモ行進を実施したことが相手を刺激してしまい、遂に警官隊と州兵部隊の動員による市役所封鎖という事態に至った。
中央政府は地方の過剰反応を事実上の反乱とみなすか討議を重ねた。反乱とは認定されなかったが、政権内では強硬案が選択される。首都の治安維持を任務とする陸軍空てい部隊と歩兵部隊の現地派兵が決まったのだ。
中央政府の派遣命令を受け州政府は州空軍に最高レベルの警戒を命じた。州空軍の戦闘機部隊は空てい部隊の輸送機を撃墜し、爆撃機部隊は歩兵部隊を載せたトラックを木っ端微塵に吹き飛ばす準備を始めた。
情勢の悪化を目の当たりにして、無関係の市民の間に動きが見られた。内戦の勃発を恐れ市街地から逃げ出そうとする者が現れたのである。
別の動きもあった。一部の市民が同性愛者への迫害を始めたのだ。市警が見て見ぬふりを決め込んだので暴力がエスカレートした。被害者側や報道各社が事実を広く世界に公表したため、世界各国から非難の声が上がった。中央政府は一刻の猶予もないと判断し派遣予定の部隊の出発を急がせると共に、現地駐留の陸軍部隊にも出撃を命じた。
だが、これは危険な一面があった。現地の陸軍部隊は、その土地の出身者から成る。彼らが中央政府の命令を拒否する恐れがあるのだ。最悪の場合、市と州当局に合流するかもしれない。それは反乱の序章と考えて差し支えなかった。
中央政府の与党は特使二名を派遣した。一人は地方政府側へ、もう一人はジュンとジュネの元へ。地方政府への特使は市役所の封鎖解除を要求すると同時に、それを拒否した場合の中央政府の対応を伝えた。国境線から移動させた陸軍戦車部隊と最新鋭戦闘爆撃機部隊が数時間以内に進撃を開始するという通告に州軍首脳は震撼した。州空軍の航空機は旧式機が多く、それでは最新鋭機に太刀打ちできない。それに州兵の装備では厚い戦車の装甲を貫けなかった。総攻撃されたら彼らに勝ち目はなかったのである。
ジュンとジュネに派遣された特使は、市役所への婚姻届け提出を諦めるよう促した。その代わり中央政府が特別措置として二人の結婚を認めると伝えた。
特使との会談終了後、市と州当局の首長は市役所の封鎖解除を宣言した。ジュンとジュネはマスコミに対し、事態の早期収拾のため特使の提案を受け入れると発表した。そして二人は特使に保証人となってもらい中央政府へ婚姻届けを届け出た。この騒動はそれでようやく収まったのである。
ところで、この事件がどうして「ジュンとジュネのジューンブライド事件」と呼ばれるかというと、ちょっとした事情がある。二人の婚姻届けが首都の関係省庁に届けられたのは五月末だったが、担当の役人が書類を決裁したのは六月に入ってからだったので、二人が結婚したのは六月ということになったのだ。
ジュンとジュネが末永く幸せに暮らしたのも、他の同性愛者が普通に結婚できるようになったのも、ジューンブライドのおかげだという都市伝説があるけれど、お題が「都市伝説」だったのは四月のことだ。五月末の今は「ジューンブライド」だけですべての説明が付く。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その三
ヴァンパイア狩りで学費を稼いでいる。そう言うと大抵の人は驚く。何しろ危険な仕事だ。マッチョなタフガイをイメージするのだろう。確かに、そんな体格の男性同業者は多い。でも、皆が皆そうじゃない。虫も殺さぬ顔をした老婦人が恐るべき殺し屋の場合もあるし、月齢三か月程度の乳児が超能力で吸血鬼に幻覚を見せ月光浴のつもりで日光浴させて消し炭に変えるなんてのもある。私みたいに小柄な女子中学生なら、普通ではないにせよ騒ぎ立てるほどのものでもない。
それでもやっぱりビックリされるし、色々と聞かれる。たとえば、こういうのだ。
「ヒーローと契約で特別な関係になったり、たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことも……あるの!?」
こんな質問をするのはだいたい、同い年くらいの女の子だ。ヴァンパイアというものに、何かしらの憧れがあるのだろう。
質問の答えは彼女たちを失望させる。ない、そんなことは全くないのだ。
まあ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。けれど、私に関してはない。私にとってのヴァンパイアはヒーローじゃない、狩りの獲物だ。たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことの代わりに、一匹のヴァンパイアを仕留めるためにたくさんの吸血鬼ハンターが協力するのではなく互いの足を引っ張り合い、時に人間のハンター同士で殺し合うことがある。人間は吸血鬼以下の存在だと痛感させられる瞬間だ。世紀末はしばらく来ないというのに、もう世も末だとウンザリする。
それはいい。私の狩りのやり方を教える。ヴァンパイアは血を求めて闇の中をさまよっているので、血の匂いでおびき寄せる。鉄とタンパク質の複合体から精製する人工血液気化ガスの入ったボンベの栓を開けて待つのだ。のこのこ現れたら捕まえる。警官みたいに手錠をかけるわけじゃない。私に見つめられた吸血鬼は、私の言いなりになる。大人しくしろと命じたら動かなくなるし、死ねと言われたら自らの心臓に杭を打ち込む。どういった理屈でそうなるのかは知らない。父が異世界から来た異形の神だったとか、母が滅亡した大宇宙の魔女の生き残りだとか、いろんな仮説を聞かされたけど二親ともこの世にいないので聞くことはできない。
とっ捕まえた吸血鬼をどうするかというと、売る。美少年が大好物の芸能事務所社長やハンサム大好きなヌン活マダムがお得意様だ。中産階級の家庭にも売れる。ちょっと良いところで、箱入り娘がいるような家だ。親が買って、お嬢様にあてがうのである。意外に思えるかもしれないが、売上高はこちらの方が多い。車を買い与えるような感覚だろうか。
どうして吸血鬼を娘に与えるのかというと、変な虫が付かないようにするためだ。凄いイケメンで人間離れした戦闘能力を持つ吸血鬼にかなう男なんか、まずいない。要するにデカい蚊がボディーガードになって、他の男が寄り付かないようにしてくれるのである。蚊に刺されたらどうするのって心配はご無用だ。吸血鬼に生殖能力はない。絶対に避妊してくれるボーイフレンドなら親は安心だ。娘と家族に危害を与えぬよう私が命じたら絶対服従するので、飼い主には噛みつかないことは保証済みだ。
そんな従順な美男子が選り取り見取りなんて、羨ましい! とやっかむ子がいるけど、私は全然うれしくない。私にとって吸血鬼は売り物にすぎないのだ。好きも嫌いもない。とっ捕まえて売るだけだ。
そんな現実主義者の私も年頃の女の子だ。いつか素敵な彼と巡り会いたい。繰り返すけど、それは吸血鬼じゃないよ。売り物に手を付けるのはプロじゃないから。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はオーディオブックのアプリを停止させた。自分を拘束していた触手のすべてを、男子中学生が高枝切り鋏で切断したからだ。
男子中学生は手際よく作業した。触手の本体である軟体動物レイミアード・カッサーノは男子中学生を敵とみなし攻撃を仕掛けたが、それを排除して切断を続けたのだから大したものである。大半の触手を失い、軟体動物レイミアード・カッサーノ二匹は逃げ出した。中学生男子に助けられたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、素直な心でお礼を言った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
高枝切り鋏を消毒用アルコールで湿らせた布で拭きながら男子中学生が言った。
「それほどのことじゃないよ。話を聞かせてもらったから。だけど」
手品のように高枝切り鋏を瞬時に消して彼は付け加えた。
「さっきの話だけど、スカッとする胸きゅんストーリーだったのかな。違うような気がしたけど」
スカッとする胸きゅんストーリーは、これから二人で創り上げればいい……とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は思った。
☆ 青春を取り戻したい ☆
エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、われは求め訴えたり!
若返れ、自分!
そんな呪文を毎晩唱え鏡を見るのだが、日に日に衰えていくばかりである。
呪文を唱えるのは朝にしたほうが良いのかもしれない。
あるいは、神頼みを止め、毎日のスキンケアを丁寧にすべきなのかも。
いや、それよりは神の力にすがった方がいい! 根拠はないけど。
さあ、また神へ捧げる呪文と舞をセットで十回やるぞ。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は自信たっぷりに言った。
「どうです、凄く面白いでしょう」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は言った。
「何だこりゃ」
呆れた様子のペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は口の端に泡を貯めて続けた。
「こんな小説と呼べない戯言に時間を取ってしまって本当に馬鹿なことをした」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は憤慨した。
「そんな! 読んでいて、そこそこ面白かったでしょ」
「いや全然」
「またまた」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は自らの才能をこれっぽっちも疑っていないようで、それがペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰をさらに苛立たせた。
「お前さ、マジで才能ないって! こんなんで許されると思ってんの? 許されないって。誰も納得しないって!」
フフンと鼻で笑ってプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は鼻毛を抜いた。
「僕の才能は、一般人には計り知れないですから」
「いや、それ違うから!」
「そうは言いますけどね、そう言うあなたはどうなんです? 私の作品を、どうこう言える立場なんですか?」
挑戦的な言い方である。ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は無礼なプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯を即時処刑したかったが、もうじきこいつは殺されると思って耐えた。
「人のことをとやかく言う大評論家の先生に、その筆による超名作を見せてもらいたいものですなあ、ワハハ」
あまりにも無礼極まるプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯の言い草に、ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は話すつもりのなかったことを言った。
「私も前世では小説を書いていた。そして、その小説を認められて、このファンタジー世界への移籍を許されたんだ」
「へー、そうだったんですか」
「真面目に聞け、それは大変なことだったんだぞ」
「へ~」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は思い出話を語った。異世界ファンタジーに憧れていた彼は前世で架空の世界を舞台に主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界ストーリーを求め、そういった物語を執筆していた。「仲間とともに運命を切り開いてゆく」をバトルだけでなく、「スローライフ」「冒険」「ラブコメ」「ギャグ」など幅広いジャンルで読者にお届けする事を目指していたのである。主人公の性別・特徴を問わず、「女性主人公」「悪役主人公」「ユニークスキル持ち」など異彩を放つ主人公の個性的な作品を書いていた……と言うのである。
「へえ、そりゃ素晴らしい。見せて下さいよ」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は興味津々な口調で頼んだ。ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は自信たっぷりに頷いた。
「そうだな、ひとつ披露してやるか!」
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★彡 ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰の話 ★彡
十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物がヒロインの中学生女子に襲い掛かる。
本作品の女主人公である彼女の名前はヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)で、既に書いたように、女子中学生である。ちなみみ軟体動物の名前はレイミアード・カッサーノだ。
「ぐごごごごごお!」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は喚き散らした。叫べば誰か助けが来るかもしれないと思ったのだ。しかし、助けは来ない。彼女は今、地獄の底の底にいる。そんなところまで来る奴は滅多にいないのだ。
どうして地獄の底の底にヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)がいるのかというと、色々あったからだ。
理由、その一。
「兄弟・姉妹と比べられた」
両親や周囲の大人たちは、ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)と彼女の兄弟・姉妹を比べ、彼女を劣った存在とみなした。何がそんなに違うのか、客観的にはハッキリ分からない。身近で見ている者にとっては差別するだけの理由があったということなのかもしれないが、それが正しい振る舞いと言えないのは言うまでもないことだ。
理由、その二。
「クラスメイトと趣味が違うせいで、仲間外れにされた」
要するに学校でのいじめだ。他人の趣味なんかほっとけ! という話だが、そうもいかないものらしい。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の推し活の対象が、他のクラスメイトたちが贔屓にしている存在のライバルだったのかもしれない。いずれにせよ、それがいじめの理由にはなり得ないのは明らかだ。
理由、その二。
「“女子らしくしなさい”など、偏見を押し付けられた」
もしかすると、これがヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が迫害される最大の原因なのかもしれない。彼女は“女子らしさ”と一般的に語られるものとは無縁だった。残酷な差別に対し大人しく服従する、なんてことはまったくなかった。徹底的に反抗した。たとえば兄弟・姉妹と比べ自分をネグレクトする両親その他の大人たちに報復した。ここには書けないくらい残虐無比な方法で、この世から消えてもらったのだ。自分を仲間外れにしたクラスメイトもそうだ。彼女を除いた一クラスが全員が、あの世へ行った。それでかなり気分はスッキリした。だが、それでも敵は消えない。“女子らしくしなさい”などの、偏見を押し付けてくる奴らが、この世界にはウジャウジャいたのだ。そんな連中全員を地獄へ叩き込みたいと、彼女は思った。それは簡単ではない。だが、もしかしたら、自分にならできるかもしれない……と彼女は考えた。
ちょっと、いや、ちょっとどころか、絶対にありえない話である。それに世の中にいる偏見の塊を始末していたら、人類は絶滅するだろうから、やるにはそれなりの覚悟が要る。
しかしヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)にとっては、ありえない話ではなかった。彼女は幼い頃、地獄の悪魔と契約した。悪魔に魂を売ることで、多くの人間の命を消し去る魔の超能力を手に入れたからだ。その力を存分に活用し、不愉快な奴らを片付けてきた。だから、やろうと思えば、やれる。つまり、自分の邪魔をする奴らを殺害できるのだ……が、その数が多すぎると、さすがに大変だった。
そこでヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は地獄へ降り立った。自分の相棒となる邪悪なヒーローを探すためである。自分のような強力な魔の超能力者が良かった。そういうパートナーを探し歩いていたら十数本の触手をブルンブルンと振り回す巨大な軟体動物レイミアード・カッサーノと遭遇した。こいつ、相棒になるかも……と思ったら、敵になった。
そうなったら、戦うしかない。
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は魔法の呪文を唱えた。異次元の超時空生命体を封印した魔剣オーケンシールドガスホース・トルムーダイハーディアを亜空間ポケットから取り出す。巨大な軟体動物が繰り出す十数本の触手を片っ端から斬り落とす。触手を斬り落とされた軟体動物レイミアード・カッサーノは悲鳴のような鳴き声を発した。
勝てる! とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は確信した。そのときだった。彼女の背後から、別の軟体動物レイミアード・カッサーノが襲い掛かった。挟み撃ちされた彼女は前後から攻撃してくる数十本の触手を捌ききれなくなった。太い触手が彼女の手足や胴体に絡まり、遂に動けなくなってしまう。
「しまった!」
二匹の軟体動物レイミアード・カッサーノは捕らえたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)を八つ裂きにしようと触手に力を込めた。持ち前の頑固なパワーで耐える女子中学生ヒロイン! しかし、それにも限界がある。全身を引き裂こうとする触手の力に抵抗しながら。彼女は呻き声をあげた。
「くっ、もうダメかも……悔しい……」
理不尽な目にあって絶望したヒロインの前に、中学生男子が姿を現した。二匹の軟体動物の触手が届かない安全地帯に立って、彼は言った。
「お困りのようだけど、どうしたらいいだろうねえ。助けが必要だったら、助けてやるよ」
なんかちょっと上から目線な言い方だった。普段のヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)だったら、おそらく「失せやがれ!」と拒絶していただろう。
だが今は、そんな状況ではなかった。
「見りゃ分かるだろう! 助けろ!」
中学生男子は、その言い方が気に入らなかったようだ。彼は言った。
「なんだあ、その口の利き方は! へん! 善意の無償行為をしてやろうと思ったけど、やめた。対価を要求する」
「はあ?」
「お礼を求めてるんだよ」
「お礼?」
「感謝の気持ちを態度で示せ」
そう言ってから男子中学生は自分を指差した。
「俺の要求に応えてもらう。こっちの望みをかなえるんだ」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の頭の中に、様々な思いが渦巻いた。
「やだ! 変なことは絶対にやだ!」
中学生男子は呆れ顔で言った。
「そんなことを言っている場合かよ。触手に手足を引っこ抜かれるぞ。そのままでいたけりゃ、ずっとそうしていろ。こっちはお前がどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
背を向けて立ち去ろうとしかけた男子中学生をヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)が呼び止める。
「分かった、分かったから! 助けてちょうだい!」
「そう来なくちゃ」
男子中学生は振り返った。いつの間にか、その手に長くて大きい高枝切り鋏が握られている。彼は高枝切り鋏の刃をカチャンカチャンと鳴らしながら言った。
「これで触手を切る。動くなよ」
「それ、どこから出したの?」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)から尋ねられ、男子中学生が答えた。
「スカッと胸きゅんサイキックパワーで生成したんだ。一種の超能力だよ」
自分の持つ魔の超能力と似ている。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、そう思った。
「それは、私の力に似ている! その力は、どうやって?」
尋ねられた男子中学生が答える。
「スカッとする胸きゅんの神から貰った。クリスマスプレゼントだったよ」
「なんじゃそれ?」
「知らん。詳しいことはスカッとする胸きゅんの神に訊いてくれ。こっちは、とにかく使えと言われたから使うだけさ。ただし」
高枝切り鋏の刃を開いたり閉じたりの動作を繰り返しながら、男子中学生は言った。
「こっちの条件を吞んでもらう」
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は痛みに耐えながら尋ねた。
「その条件とやらを早く言って」
「君のことを、スカッとする胸きゅんの神から聞いている。凄い超能力者だとね。それ以外にも、色々な話を聞いた。たとえば、小説を書いているとかね」
それは事実だった。ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスターツ出版の小説サイトに自作小説を投稿している。だが、人に話したことはない。ペンネームで投稿しているので、誰にも知られていないはずだった。
「だからなに?」
「その小説を読みたいな、と思ってね」
スカッとする胸きゅんのストーリーが好きだから、そういうのを読みたい――と男子中学生は言った。
「僕が触手をちょん切る作業中に、次作を朗読して。それが条件」
拍子抜けだった。
「それでいいの?」
「ああ」
魔の超能力を使ってヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はスマホを操作した。朗読アプリに自作を読み上げさせる。本当に、こんなのでいいの? と思いながら彼女は自作に耳を傾けた。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その一
とある芸能事務所と深い付き合いのある友人がいた。ある日そいつが忙しいってことで、代わりにタレントの送迎を頼まれた。こっちも何度かやっている仕事だった。また一つ頼むと言われたのだ。報酬は悪くなかった。こっちは、それなりの信用があったからだ。余計なことを言わなければ、それだけの金が貰えるってことだ。
ある場所でタレントを拾い、別の場所へ運ぶ。そういう話だった。某テレビ局の近くから大物芸能人が多く住む地域へ車で送り届け、帰ろうとしたらスマホが鳴った。事が済むまで待て、との指示だった。分かったと返事をする。不満があっても受け入れるのだ。とやかく言わない。どんな仕事でも大切なことなのだろうが、今夜はとりわけそうだった。曇り空に見え隠れする満月を眺めて時間を潰す。
しばらく経って呼ばれた。敷地内へ入れとのことだ。中へ入るのは初めてだった。オートロックの門扉が開いて、やっと車が入れる。警備員はいない。車を徐行させエントランスの前に横付けする。タレントが出てくるのを待ったが出てこない。スマホに連絡が入る。泥酔して動けないから運んで欲しいとのことだった。やれやれだ。
玄関の鍵を開けてもらい、住居内に入る。変な匂いがした。足元に大いびきのタレントがいた。立てるかと聞いたが返事がない。肩に担いで無理やり立ち上がらせる。家の主がいたので、どうすればいいかと指示を仰いだ。相手は目をぎらつかせ、こっちを見つめている。苦笑した。こっちには、そういう趣味がない。芸能界にデビューするつもりもない。ついでに言うと、こっちは相手の好みとされるタイプとは程遠い面相をしている。真顔で再び次の指示を伺う。
タレントのマンションへ運ぶのは駄目だと言われた。マスコミが張り付いているからだ。別の場所へ連れて行くように命じられる。渡された紙に書かれた住所へ行くには少し遠回りしないといけない。そう付け加えられた。幾つかのポイントを通るのだそうだ。詳細を聞くのは止めた。何をどうするのか、それだけ聞けばたくさんだ。
「それじゃ」
「待って」
「何です?」
「これを持って行くと良い」
お守りを手渡された。返すのも何なので礼を言って受け取る。
「気をつけて」
写真を撮られるな。その意味だと思ったら、違った。幾つかのポイントとかいうのを越えたら、一気に来た。変な物体、きっと霊魂とか幽霊とかいう連中が、車の外をうようよ歩くのが見えてきたのだ。こっちには、霊感が少しだけある。だから、そういうのが街を普通に歩いていることを知っているのだが、今夜は多すぎた。そういう奴らしかいない街の中に車は入り込んでいたのだ。
カーナビが目的地到着を告げる。幸いにも周囲に幽霊はいなかった。後部座席のタレントを車から降ろそうと後部ドアを開ける。横倒しになって眠っていたタレントが体を起こした。全然違う人相に代わっていた。いや、人というより野獣の顔だ。こっちに向かって牙を剥く。慌ててドアを閉める。送り届ける予定の建物の入り口横の呼び鈴を鳴らす。インターホンから返事があった。女の声だった。頼まれて人を運んできたのだが、ちょっと困っている、力を貸して欲しいと頼む。玄関から三人の女が出てきた。若い女、中年女、老婆の三人だった。同じような顔をしている。三世代なのか、赤の他人なのか、こっちは分からない。後部座席のアレをどうにかしてもらえたら、それでいい。
女たちはタレントを大人しくさせることに成功した。車から降りたタレントは四つん這いになって建物へ入って行った。中をちょっとだけ覗いたら、鏡が見えた。風呂の鏡のように湿気で濡れている。こっちの姿は映っていたが、三人の女の姿は見えない。余計な詮索はせず立ち去ることにした。女たちに頭を下げる。向こうも会釈した。建物に入らず、こっちを見送る様子なので、さっさと車を出す。見ないつもりだったがバックミラーを見てしまう。女たちの姿は、やはり見えなかった。
出るときは普通に出ていいのか、聞くのを忘れた。ポイントを逆戻りしなくていいのかと思ったが、一方通行を逆戻りするのは避けたい。幽霊もイヤだが、それ以上に警官とかかわり合いたくない身の上なのだ。お守りを頼りに、幽霊が闊歩する街を進む。
大通りに出た。幽霊も見えないが人もいない。人の声を聴きたくなってラジオを付ける。深夜の人生相談だった。こんな時間に珍しい。故郷を離れた者の話だった。急に煙草を吸いたくなった。生憎と切らしている。煙草は諦めるとして、その代わりに喉の渇きを潤そう。自動販売機を見つけたので車を止める。自販機の横に階段があった。何の気なしに階段の下を見る。階段の天井に照明があった。照明の黄色い光に引き寄せられて階段を降りる。階段の下に街があった。人も車もいない車道と夜空に浮かぶ三日月が見える。夜空に浮かぶ満月をさっき見ていた気がするけれど、それについては深く考えないことにした。階段を駆け上がって車へ戻る。ここで飲み物を買うのは止めた。早く帰って寝よう。
その後もタレントの送迎をする機会があった。あの晩ひどく泥酔していたタレントの送迎も二度か三度やった。最初の時は緊張したけど、次からはそうでもなかった。相手はこっちを覚えていない様子だった。でも、ある時ふとバックミラーを見たら、こっちを変な顔で見ていたから、もしかしたら何か思い出したのかもしれない。それでも、こっちは何も言わない、尋ねない。それなりの報酬を得て生きていくためには、それが大切なのだ。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その二
市役所に通じる道路は市警の警察官と州兵が完全封鎖していた。市職員は身分証を見せれば通してもらえるが、一般市民は身分を証明できるものを見せても通過が許されない。無理に通ろうとする者は阻まれた。制止を振り切って中へ入ろうとすると逮捕される。抵抗する者は激しく殴打された。幸いなことに死者は出ていないが、完全武装の警官隊と州兵部隊には発砲許可が出ており、死人が出てもおかしくない状況だった。
異常な事態である。市民からは不満の声が上がっていた。市役所と市警本部そして州兵を統括する州政府に苦情の電話が殺到していたが、市と州当局は無視を決め込んでいる。過激派対策が最優先なのだ。
これほどまでに要警戒なテロリストとは何者か?
ジュンとジュネという同性愛者のカップルだ。二人は憲法が認める同性婚の権利を行使しようと市役所へ婚姻届けを提出しに行って受け取りを拒否された。州政府の法律には同性婚の記載がないため、書類は認められないというのが理由である。市への抗議がなしのつぶてだったので州政府に抗議文を送り付けたが、これも無回答だった。地方レベルでは話にならないと考えた二人は中央政府の出先機関へ相談した。中央政府の回答は明確だった。同性婚を認めない市と州の対応は憲法違反である。ただちに書類を受理せよ、という命令が市と州政府に送られた。地方政府に結婚を認められなかった同性愛者のカップルが中央政府を味方につけたわけだが、これが市と州当局にとっては体制を揺るがす極悪人に映ったのである。
この地方が元来、保守的な土地柄だったこと。そして革新政党が与党の中央政府と保守派の牛耳る地方政府の対立があったために、ジュンとジュネの同性婚が大問題に発展してしまったのだった。二人を応援するグループが現地入りし調整を図ったものの解決には至らず逆に、その中の強硬派がデモ行進を実施したことが相手を刺激してしまい、遂に警官隊と州兵部隊の動員による市役所封鎖という事態に至った。
中央政府は地方の過剰反応を事実上の反乱とみなすか討議を重ねた。反乱とは認定されなかったが、政権内では強硬案が選択される。首都の治安維持を任務とする陸軍空てい部隊と歩兵部隊の現地派兵が決まったのだ。
中央政府の派遣命令を受け州政府は州空軍に最高レベルの警戒を命じた。州空軍の戦闘機部隊は空てい部隊の輸送機を撃墜し、爆撃機部隊は歩兵部隊を載せたトラックを木っ端微塵に吹き飛ばす準備を始めた。
情勢の悪化を目の当たりにして、無関係の市民の間に動きが見られた。内戦の勃発を恐れ市街地から逃げ出そうとする者が現れたのである。
別の動きもあった。一部の市民が同性愛者への迫害を始めたのだ。市警が見て見ぬふりを決め込んだので暴力がエスカレートした。被害者側や報道各社が事実を広く世界に公表したため、世界各国から非難の声が上がった。中央政府は一刻の猶予もないと判断し派遣予定の部隊の出発を急がせると共に、現地駐留の陸軍部隊にも出撃を命じた。
だが、これは危険な一面があった。現地の陸軍部隊は、その土地の出身者から成る。彼らが中央政府の命令を拒否する恐れがあるのだ。最悪の場合、市と州当局に合流するかもしれない。それは反乱の序章と考えて差し支えなかった。
中央政府の与党は特使二名を派遣した。一人は地方政府側へ、もう一人はジュンとジュネの元へ。地方政府への特使は市役所の封鎖解除を要求すると同時に、それを拒否した場合の中央政府の対応を伝えた。国境線から移動させた陸軍戦車部隊と最新鋭戦闘爆撃機部隊が数時間以内に進撃を開始するという通告に州軍首脳は震撼した。州空軍の航空機は旧式機が多く、それでは最新鋭機に太刀打ちできない。それに州兵の装備では厚い戦車の装甲を貫けなかった。総攻撃されたら彼らに勝ち目はなかったのである。
ジュンとジュネに派遣された特使は、市役所への婚姻届け提出を諦めるよう促した。その代わり中央政府が特別措置として二人の結婚を認めると伝えた。
特使との会談終了後、市と州当局の首長は市役所の封鎖解除を宣言した。ジュンとジュネはマスコミに対し、事態の早期収拾のため特使の提案を受け入れると発表した。そして二人は特使に保証人となってもらい中央政府へ婚姻届けを届け出た。この騒動はそれでようやく収まったのである。
ところで、この事件がどうして「ジュンとジュネのジューンブライド事件」と呼ばれるかというと、ちょっとした事情がある。二人の婚姻届けが首都の関係省庁に届けられたのは五月末だったが、担当の役人が書類を決裁したのは六月に入ってからだったので、二人が結婚したのは六月ということになったのだ。
ジュンとジュネが末永く幸せに暮らしたのも、他の同性愛者が普通に結婚できるようになったのも、ジューンブライドのおかげだという都市伝説があるけれど、お題が「都市伝説」だったのは四月のことだ。五月末の今は「ジューンブライド」だけですべての説明が付く。
☆ ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)の自作小説、その三
ヴァンパイア狩りで学費を稼いでいる。そう言うと大抵の人は驚く。何しろ危険な仕事だ。マッチョなタフガイをイメージするのだろう。確かに、そんな体格の男性同業者は多い。でも、皆が皆そうじゃない。虫も殺さぬ顔をした老婦人が恐るべき殺し屋の場合もあるし、月齢三か月程度の乳児が超能力で吸血鬼に幻覚を見せ月光浴のつもりで日光浴させて消し炭に変えるなんてのもある。私みたいに小柄な女子中学生なら、普通ではないにせよ騒ぎ立てるほどのものでもない。
それでもやっぱりビックリされるし、色々と聞かれる。たとえば、こういうのだ。
「ヒーローと契約で特別な関係になったり、たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことも……あるの!?」
こんな質問をするのはだいたい、同い年くらいの女の子だ。ヴァンパイアというものに、何かしらの憧れがあるのだろう。
質問の答えは彼女たちを失望させる。ない、そんなことは全くないのだ。
まあ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない。けれど、私に関してはない。私にとってのヴァンパイアはヒーローじゃない、狩りの獲物だ。たくさんの吸血鬼に取り合いされちゃうなんてことの代わりに、一匹のヴァンパイアを仕留めるためにたくさんの吸血鬼ハンターが協力するのではなく互いの足を引っ張り合い、時に人間のハンター同士で殺し合うことがある。人間は吸血鬼以下の存在だと痛感させられる瞬間だ。世紀末はしばらく来ないというのに、もう世も末だとウンザリする。
それはいい。私の狩りのやり方を教える。ヴァンパイアは血を求めて闇の中をさまよっているので、血の匂いでおびき寄せる。鉄とタンパク質の複合体から精製する人工血液気化ガスの入ったボンベの栓を開けて待つのだ。のこのこ現れたら捕まえる。警官みたいに手錠をかけるわけじゃない。私に見つめられた吸血鬼は、私の言いなりになる。大人しくしろと命じたら動かなくなるし、死ねと言われたら自らの心臓に杭を打ち込む。どういった理屈でそうなるのかは知らない。父が異世界から来た異形の神だったとか、母が滅亡した大宇宙の魔女の生き残りだとか、いろんな仮説を聞かされたけど二親ともこの世にいないので聞くことはできない。
とっ捕まえた吸血鬼をどうするかというと、売る。美少年が大好物の芸能事務所社長やハンサム大好きなヌン活マダムがお得意様だ。中産階級の家庭にも売れる。ちょっと良いところで、箱入り娘がいるような家だ。親が買って、お嬢様にあてがうのである。意外に思えるかもしれないが、売上高はこちらの方が多い。車を買い与えるような感覚だろうか。
どうして吸血鬼を娘に与えるのかというと、変な虫が付かないようにするためだ。凄いイケメンで人間離れした戦闘能力を持つ吸血鬼にかなう男なんか、まずいない。要するにデカい蚊がボディーガードになって、他の男が寄り付かないようにしてくれるのである。蚊に刺されたらどうするのって心配はご無用だ。吸血鬼に生殖能力はない。絶対に避妊してくれるボーイフレンドなら親は安心だ。娘と家族に危害を与えぬよう私が命じたら絶対服従するので、飼い主には噛みつかないことは保証済みだ。
そんな従順な美男子が選り取り見取りなんて、羨ましい! とやっかむ子がいるけど、私は全然うれしくない。私にとって吸血鬼は売り物にすぎないのだ。好きも嫌いもない。とっ捕まえて売るだけだ。
そんな現実主義者の私も年頃の女の子だ。いつか素敵な彼と巡り会いたい。繰り返すけど、それは吸血鬼じゃないよ。売り物に手を付けるのはプロじゃないから。
§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §
ヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)はオーディオブックのアプリを停止させた。自分を拘束していた触手のすべてを、男子中学生が高枝切り鋏で切断したからだ。
男子中学生は手際よく作業した。触手の本体である軟体動物レイミアード・カッサーノは男子中学生を敵とみなし攻撃を仕掛けたが、それを排除して切断を続けたのだから大したものである。大半の触手を失い、軟体動物レイミアード・カッサーノ二匹は逃げ出した。中学生男子に助けられたヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は、素直な心でお礼を言った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
高枝切り鋏を消毒用アルコールで湿らせた布で拭きながら男子中学生が言った。
「それほどのことじゃないよ。話を聞かせてもらったから。だけど」
手品のように高枝切り鋏を瞬時に消して彼は付け加えた。
「さっきの話だけど、スカッとする胸きゅんストーリーだったのかな。違うような気がしたけど」
スカッとする胸きゅんストーリーは、これから二人で創り上げればいい……とヤーヤーヤーズ・ゴオマ・グアールブリュット(仮名)は思った。
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ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は自信たっぷりに言った。
「どうだ、凄く面白いだろう」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は言った。
「私の小説に似ているんですけど」
ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰はマルチバースについて語った。
「並行宇宙の産物だろうな。同じ小説が別の宇宙で誕生したんだろう」
「そんなことがあるんですか?」
「ある」
納得しがたいプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯だが、利点を生かすことに意識を向けた。
「この作品がオーケーなら、僕のも大丈夫でしょう」
「う~ん、二番煎じになってしまうから、そこが弱いよね」
「そこを何とか、お願いします」
プリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯の懇願に、ペーイルギュルム・ラコンタッテ・ベイフェノームこと薔薇醬油慮堰は折れた。
「分かった、こうしよう」
この小説が第4回グラスト大賞を獲ったらプリドゥオーマル・ウヌエヌ氏こと萌牡蠣薔薇海嘯は晴れてファンタジーな異世界への移籍が許されることになった。大丈夫だろうか。