「ともや、勉強はちゃんとしてるの? もう少しでテストがあるでしょ? 今度こそは学年で1番になりなさいよ」


買い物から帰ってきた母さんは、買い物袋をテーブルに置くなり早々、俺の顔を鋭い目つきで睨みつけて言った。


見るからに不機嫌だということが、その態度から一瞬にして伝わってくる。



「ちゃんとしてるよ。てか、いつも勉強してるし。この前も俺の順位かなり良かったじゃん」


「かなり良かった? それは1番っていう意味? 違うでしょ? この前は4番だった、1番ではなかった。そんな中途半端な成績で許されるとでも思ってるわけ?」



母さんは息継ぎをすることなく、一気に喋り続けた。


テスト前に限らず、毎日この調子で勉強の話ばかりを不満そうに俺にしてくる。


俺だって自分なりに頑張っているつもりだし、この前の4番だって学年に300人くらい生徒がいるのを考えると、決して悪い成績ではなかったと思う。


だけど、そんな成績では俺の母さんはまず満足してくれない。


1番じゃないと許してくれない。



「お母さんたちがともやのために、どれだけの時間とお金をつぎ込んできたか、ちゃんとわかってるの? あなたが小学生の頃から通っている塾だって決して安いわけじゃないのよ? それに家庭教師までつけてるんだからね? お父さんの収入のことを考えると、かなり精一杯のことをしているつもりよ」



そういうと母さんはソファに座っている俺の横に腰を下ろして、深いため息をついた。


公務員として働いている父さんの収入は平均並みだから、決して高いわけではないと思うけれど、ふたりはその中でも俺の勉強のためにかなりのお金を投資している。


もちろん俺から頼んだことなんか1度もないし、むしろやめたくて仕方ないっていつも思っている。


だけど、そんな俺の意見なんて全て無視されてしまい、親の操り人形のように塾に行かせられているし、最近は家庭教師までつけられている。


いわゆる教育パパとママなのかもしれないけれど、そんなの望んでもいない俺にとっては、単なる苦痛でしかない。



「ゆーちゃんのことを見てればわかると思うけど、ゆーちゃんはどんなに周りが一生懸命になっても何もできない子なの。だからあなたにこの家の全てがかかっているのよ? ね、それくらい、ともやもお兄ちゃんとして理解はできるでしょ?」



ゆーちゃんというのはひとつ年下の俺の弟。


周囲の空気を読むことが下手で、常に自分の世界観の中で生きているっていうような性格をしている。


よく言えば「自由」だし、悪く言えば「協調性が欠けている」といった感じ。


勉強も運動もあまり得意ではないみたいで、学校の先生がわざわざ家にまでやってきて面談をするほど成績も良くなくて、通知表は毎回1という数字ばかりが並んでいる。


小学生の頃からその調子だったせいか、両親は弟のことは完璧に諦めたような態度を示していて、一切興味や関心を持っていないみたいだ。


今となっては弟がなにをしても放置状態になっていて、褒めることもしなければ怒ることもしない。


そんな弟のこともあってか両親の関心は全て俺に向けられるようになり、異常なほどのまでの期待を寄せられている。


いい迷惑だと思っているし、それに何も相手にされない弟のことが可哀想にも思えてきて仕方がないけれど、当の本人はそのことをあまり気にもしていない様子。


だけど、せめて俺だけは弟の味方でいようと決めているから、両親とは違って普通に会話もするし遊んだりもする。


かなり独特な個性を持ってはいると思うけれど、人間的には悪い奴ではないと思うし、案外話が盛り上がることも多くて決して嫌いではない。


もちろんたまに放置されるということに嫉妬してしまう自分もいるけれど。


俺に対する両親の過干渉は日に日に酷くなっていって、本当にウザくてたまらないし、家の中で顔を合わせることすら嫌になってしまう時もある。



「勉強、勉強ってどれだけ俺は頑張ればいいんだよ? 言いなりになって勉強すれば母さんは満足するのかよ? 少しはほっといてくれよ」



俺はリビングのドアをガタンと勢いよく閉めると、2階にある自分の部屋へと駆け込んだ。


この家の中での俺の逃げ場所と言ったら自分の部屋しかないけれど、それでもあと1時間後には家庭教師がやってくる。


そして母さんは嬉しそうな表情を浮かべながらお茶やお菓子を準備して、当然のことのように部屋の中に入ってきて俺を監視する。


この家の中には、安心できて休める俺の居場所なんてどこにもない。


本棚に片付けていたパソコンを取り出すと、インターネットに接続して最近ハマっている小説の投稿サイトを開いてみた。


俺が唯一自分らしくいられて、集中して取り組めるのは小説を書いている時だった。


もともと日記帳に日記をつけるのが習慣だったけれど、そのうち自分の書いた文章を誰かに読んでもらいたい、と思ってなんとなく始めた創作活動。


学校で特別なにか交友関係に悩んだことはないし、部活動もそれなり頑張っていたからいつもレギュラーに入れてもらえてはいた。


だけど、そんなのはおもてっつらだけの自分で、本当の俺はひとりきりでこうやって黙々と作業をすることのほうが好きだったし、どうでもいいような話で盛り上がっているふりをするのは苦手だった。


高校に入学したときになんとなく所属したグループがやんちゃで、みんなで遊びまわるようなふざけたメンバーだったっていうだけの話。


いつかは抜けようと思っていたけれど、タイミングを逃してしまい、そのままそのメンツで絡むことが続いているというだけ。


俺もかなりのお人好しなんだと思うし、本当はただ気が弱くて素の自分を出せていないだけなのだと思う。


周囲の目を気にして自分に合わない仲間とつるみ続けるだなんて。


でも、そのおかげで俺にはたくさん友だちができたし、平均的な学校生活を毎日送れている。


だから「自分はこういう人間なんだ」って言い聞かせながら、なんとかみんなの輪をかき乱さないように、一生懸命やんちゃな高校生を演じている。


こんな闇みたいな本音を持った俺の姿なんて、学校のやつは誰も知らないと思う。


今書いている小説も「引きこもりの男子校生」が主人公だし、話の内容も決して明るいものではない。


それでも自分が小説を書いている時間だけは他のどんなことよりも没頭できたし、心から楽しいと思えた。


多分今の俺の姿を投影したような物語なんだと思う。


本当の自分の姿はこんなのだって。


カチカチとキーボードを打つ手が止まり、ふとあの日のことが頭の中に蘇った。


学校帰り、ひとりで橋の上から川の流れを眺めていた、風が強かったあの日のことを。


あの時、俺は人生の中で1番大きな決断を心に決めて、そしてそれを実行しようとあそこに立っていた。


簡単には人に見つからないように、このパソコンのワードの中に今の気持ちを記し、俺が本当にいなくなってから誰かが確認できるようにあらかじめ準備までして。


普段どおり学校でクラスメイトとふざけ合いながら帰って挨拶をして別れたあと、ひとりでいつもとは違う道を通ってあの橋の上まで辿り着いた。


荷物もまとめていたし、スマホも足元に置いたし、伝えたいことはパソコンの中に記してあるし、俺の中では完璧に準備できていると思っていた。



飛び降りる覚悟はできていた。



自分ではない自分を学校のみんなの前で偽り続け、両親からは人形のような扱いを受け続けていく人生を、これから先も耐えていける自信なんて、もう俺にはなかった。


全てを終わらせたかったし、消し去りたかったし、逃げてしまいたかった。


だけど、身を乗り出して橋の上から川へと飛び降りようとしたあの時、俺の中で予想外のことが起こってしまった。


普段学校の休み時間もひとりきりで過ごしていて、誰とも関わろうとしないゆりなが俺に話しかけてきた。


正直かなり驚いたし、どう反応していいのかわからなかった。


だって、あいつは学校でも孤立していたし、人とは関わりたくないと思っている人間なんだって勝手に思い込んでいたから。


でも、あの時はちがった。


今まで声すらまともに聞いたことないくらい会話をしたことがないゆりなが、俺の隣に静かに並んでゆっくりと話しかけてくれた。


ごく自然に、小さな声で、自分の心のうちを話すかのように。



「自分の苦しみも全部流してくれないかなって思っちゃうんだよね」



あの時、ゆりなは遠くを見つめながらそう言った。


ゆりなが学校で居心地が悪そうにしているのは、この俺でもなんとなく察してはいた。


だけど、特別話しかけるタイミングもなかったし、見て見ぬふりをして、その光景を当たり前のものとして受け入れていた。


ゆりなもそんな環境に慣れているのだと勝手に思っていたけれど、そうではなかったんだということを始めて彼女自身の口から聞いた瞬間だった。


そしてその言葉は、あの時の俺がひとりで抱え込んでいた苦しみという重荷を、そっと軽くしてくれた。


だから俺は、ゆりなともう少し話していたかったけれど、彼女はすぐにその場から立ち去ってしまった。


でも、あの言葉があったから俺は橋から飛び降りるの思い止めることができて、今こうやってここに生きている。


もう少し生きてみる、という選択をとった。


それからだと思う。


ゆりなのことが少しずつ気になり始めたのは・・・・・・。


今まで単なるクラスメイトだとしか思っていなかったけれど、なぜだか俺はゆりなのことを目で追うようになっていたし、彼女の生活のことが気になるようになっていった。


命の恩人、だなんて言ったら大袈裟なのかもしれないけれど、俺をどん底から救い出してくれたのは、あのゆりなだった。


学校では相変わらずひとりで過ごしているみたいだし、俺もいつもの仲間と盛り上がっているから、話す機会なんてなくて距離が縮まることもないけれど、本当はもっとゆりなのことを知りたいって心の中では思うようになった。


だからこうやってひとりの時間にあの日のことを思い出し、ゆりなと交わした短い会話の記憶をたぐり寄せて、仲良くなれたらいいなって勝手に思い続けてしまう。


ゆりなだったら本当の俺の姿を受け入れてくれそうな気がして、素の自分をさらけ出せそうな気もする。


こんなの単なる俺の思い込みかもしれないし、ただの願望なだけなのかもしれないけれど。