「卒業、してきたよ。梵くん」
桜色の風が、肩までの髪をさらって通り過ぎていった。
着慣れた制服と、胸元で咲いたコサージュ。深紅のファイルに入った卒業証書。
ひら、と落ちてきた桜は淡いピンク色。
私たちが求めたどこまでも優しい世界が、そこにはあった。
『卒業、おめでとう』
ふと、そんな声がきこえたような気がして、そっと微笑む。頭上にはいつか彼と見た青空が、薄く淡く広がっている。
私たちをつなぐように、どこまでも、どこまでも。
「大好きだよ、梵くん」
そう言って笑うと、桜のした、彼はめいっぱい笑った────。
*
「花宮さん」
ホームルームが終わり、ほっと息を吐いたのも束の間、すぐに私の名前が呼ばれた。ズキッと痛むこめかみを押さえながら、なんとか笑みを繕う。
変な顔になっていないだろうか。
鏡で自分の姿を確認できないことに不快さを感じつつも、なるべく違和感のないよう表情をつくって、クラスメイト────田中さんのもとへと駆け寄る。
「これお願いしてもいいかな? あたし部活に行かないといけなくて。三年生のお別れ会にいかないといけないんだ」
「え……あ、うん」
トントンと山積みになった書類を叩く目の前のクラスメイトが、私になにを求めているのかはすぐにわかった。教科担当の彼女は眉を下げて申し訳なさそうにしながら、「じゃ、お願い」と告げて教室を出ていく。
(要するに、これを先生のところに届けに行ってほしいってことか)
ぼんやりした頭で、ひどくはっきりと理解する。
部活なのは分かるけど、自分の仕事くらい責任を持ってほしい。そう思うけれど、当然口に出すことも行動で示すこともできない私は、ため息だけを落としてその場に座り込んだ。
最近、思うように息ができない。吸っても吸っても酸素を取り込めた気がしなくて、もっと重苦しいものだけが身体中を循環しているような気がする。
キン、と冷えた空気が身体にまとわりついて、私の動きを阻めてしまうのが厄介だ。二月はまだ肌寒く『冬』というほうが正しい気もするけれど、なにせ立春を過ぎてしまったのだ。あっという間に桜が咲いて、春めいた空が広がり、すぐに卒業の季節となるだろう。
私はまだ二年生なので卒業には程遠いのだけれど、それでもこの季節はどこかしんみりしてしまう。これといって先輩と何か思い出があるとか、慕っていた先輩がいるとかではないけれど、それでもなんとなく。「あともう少しで卒業だね」「悲しいね」と寂しげに呟いている先輩方の姿を目にすると、私にもそんなふうに言い合うことのできる誰かが残りの一年でつくれるだろうかと、不安になったりもするのだ。
書類を両手に抱えて、窓の外を見ながら廊下を歩く。雲ひとつない青空は、ペンキで塗られたようにとにかく真っ青。たしか、光の散乱が関係しているんだっけ。
「あれ、花宮さん。教科担当?」
ふと、前から飛んできた声にピタリと足を止める。無意識のうちに手に力が入り、だらしなく開いていた口もキュッと閉じられた。速まっていく鼓動をなんとか抑えながら、ゆっくりと前を向く。
そこには予想通り、スポーツバッグを持ったまま私を見ている南くんがいた。
「えっ……あ、うん。教科担当、だよ」
チクった、などと言われたくないのでとっさに嘘をつくと、訝しげに眉を寄せた南くんは「田中さんだと思ったけど、俺の記憶違いだったか」とぼやいて鞄を肩にかけ直した。
たしかに教科担当は田中さんだ。嘘をついてしまった罪悪感に苛まれていると、「手伝おうか?」と柔らかい声が降ってくる。
「え」
「一人じゃ大変でしょ。俺、持とうか」
「いや、悪いし……」
首を振りながら慌てて飛び退く。バクバクと心臓が飛び出んばかりに暴れている。
南くんは、私がひっそりと片想いをしている相手だ。一年生の時からクラスが同じで、今年も運良く同じクラスになった。入学式の日、校舎を彷徨っていた私と一緒に、教室に入ってくれたのが彼だった。その出来事を南くんが覚えているかは分からないけれど、私の中でそれはすごく大きな出来事で、それだけで私は彼のことを意識するようになってしまったのだ。
『風紀委員、一緒なんだ。よろしくね』
目で追っていただけの彼と、初めて視線が絡んだのは一年生の二学期。たまたま同じ委員会になったことがきっかけで話すようになり、私はこうして一方的な片想いを拗らせたまま今に至る。
「いいから」とこちらに手を伸ばした南くんは、あっという間に書類の四分の三をさらってしまう。そんな量を持ってもらうことになるなんて思ってもみなくて、あたふたしているうちに南くんが歩きだす。歩くたびふわふわ揺れる焦茶色の髪が、なんだか猫みたいだな、なんておこがましい想像をしていると、ふいに「ごめんね花宮さん!!」と隣から誰かがぶつかってきた。驚いて見れば、ぶつかってきたのはまだ制服姿の田中さんだった。
「なんか部活のはじまりが少し遅れることになったみたいで! だからここは任せて、ありがとね!」
「えっ……」
「わっ! もしかして南くん手伝ってくれるの? ありがとう、くるみ助かる〜」
どこまで本当かわからないことを言って、私から書類をひったくるように奪う田中さんは、南くんと肩が触れ合うような距離に並んで、キャハッと可愛らしい声を上げた。女の子が聞いたならば迷うことなく『猫撫で声』と評価しそうな声だったけれど、男子からしてみれば可愛らしいことこの上ないし、こういう女の子こそが理想的なのだろう。
「じゃあもう花宮さんは帰っていいよ? ありがとう」
邪魔だから消えてくれ。
言葉の裏に、そんな思いが隠されているような気がした。こんなことを言われてしまう自分がみじめで、みっともなくて、いっそ本当に消えてしまうことができれば楽なのにとすら思う。
「田中さん」
ふいに、南くんの言葉が響く。「そんなふうに言うなよ、かわいそうだろ」なんて、そんなふうに私を庇ってくれないだろうか。「もっとお礼の気持ちがあってもいいんじゃないのか」なんて、田中さんに怒ってくれないだろうか。
こんなのは所詮負け組の妄想でしかなくて、実際、モブキャラに春なんて一生来ないことは、私自身が一番分かっている。
「行こう」
「うんっ! 南くんありがとうね! すっごく嬉しい」
ああ、やっぱり。この世の中は、すべて愛嬌と要領でまわっている。どちらも持っていない私は、いわゆる用無し、役立たずだ。
サラサラの髪を揺らして身体の向きを変えた田中さんが、一瞬、ちらと私を見る。その目つきは身体の芯から凍りついてしまうほど冷めていて、ねめつけるようなものだった。
それから何事もなかったかのように、南くんに花のような笑みを浮かべる。
まるで女優みたいだ。
仲睦まじく並んで去っていくふたつの背中をぼんやりと見つめる。
ガシャン、と。どこからかそんな音が聞こえたような気がした。
はっきりと分かったのは、その音は外ではなく、私の内側から聞こえたものだということ。心臓が痛いわけでもない。頭が痛いわけでもない。
ただ、何も感じられなくなった。
悲しい、苦しい、痛い。そんな感情がいっさい消えて、すべてがどうでもよくなった。
ぼんやりとした頭だけが、かろうじてその場所に私という生物が存在しているのだと認識していた。他人の身体を、他人の意識で動かしているような妙な感覚。
開花を待つつぼみが風に揺れたとき、こうして私の世界は静かに音を立てて、崩れ落ちていった。
その日、目が覚めたのはいつもの起床時間から三十分も遅れてからだった。
「やばい……なんで?」
どうして起きられなかったの。明らかに睡眠不足であることは分かっているのに、気合いで起きられた可能性を考えると自分自身に苛立ってしまう。
十分な用意ができない朝は嫌いだ。一日を生きるだけでもどこか憂鬱なのに、スタートでテンポを崩してしまったら、それからはずっと負の連鎖が続く。電車を逃したり、忘れ物をしたり、身支度が間に合わなかったり、そういうの。
慌てて制服に着替え、髪にアイロンを通すこともできないまま乱雑に一つに括る。悠長にメイクをする暇なんてないから、日焼け止めだけを適当に塗って家を飛び出した。
走っている途中で、ふと目を惹かれて足を止める。
ひとけのない公園で、春を待ち侘びるように構える大きな桜の木。遊具もない、建物と建物の間に無理やり挟まれてしまったかのような公園。そんな場所に、どっしりと構える桜はなんて強くて美しいんだろうと思った。
「やばい、遅刻する……!」
桜に見とれている場合ではなかった。反射する窓ガラスで、パッと自分の姿を確認する。
(最悪……前髪終わってる)
『前髪命』などというわけではないが、華のJ Kなのだからそれなりに女々しいことは言わせてもらいたい。
「待って……! 待ってくだ、さいっ!」
色々な意味で土下座したい気持ちのまま駆け込み乗車をし、通勤通学ラッシュに紛れ込む。知らないおじさんや年配の女性と肌が触れ合い、パーソナルスペース皆無のこの状況にひどく吐き気がした。
もういっそ、このままどこかに逃げてしまいたい。よく分からない駅で降りて、知らない場所へ行ってみたい。
そんなふうに考えているのに、実行する勇気だけが私にはいつも足りなかった。
流れていく景色がなにひとつ珍しくなくて、すっかり見慣れてしまった風景を自分に認識させていくだけ。なんと無駄で、つまらない作業なんだろう。
ぼんやりしていると、ふと、揺れた電車の衝撃で前にいた中年の男性が私の肩にぶつかってきた。その瞬間、今まで堪えてきたものがすべて吐き出されてしまうかのように、何かがお腹の底からぐぐっと這い上がってくるような予感がした。それはまさしく、突発的な何かだった。
「っう……おえっ」
自分でも信じられないほどの吐き気に、声を抑えるのは不可能だった。汚らしい声を漏らして、口許を押さえる。いつのまにか上昇した体温は、私の身体を溶かしてしまうほど熱を帯びていた。足が震えて、力が抜けそうだ。
(もう、だめ)
たまらず定期を見せて、ドアが開いた瞬間、知らない駅だということも構わず外へと飛び出した。制服を着ているどこかの学校の生徒たちが「なぜここで降りるんだ」と信じられないような表情で私を見ていたのが視界の隅に映ったけれど、この際そんなことはもう関係なかった。
プシュウ、と扉が閉まって、私一人分軽くなった電車が発車する。
「きもちわる……」
駅に鎮座するベンチに腰をおろして、水筒のお茶を二口ほど飲む。あたたかいお茶が喉を通って、身体の管を通って、お腹へと溜まる妙な感覚がした。
疲労、ストレス、我慢。そういうものは、いきなり襲ってくるわけではない。ほんの小さなものが、毎日毎日気付かないうちに蓄積されて、私みたいに制御できない人間は、一時を境に抑えきれずに溢れさせてしまう。
「そうだ、スマホ……」
鞄の中を慌てて探り、それがないことに気づいた瞬間、サアッと血の気が引いていく。今朝、焦って家を飛び出したのが悪かった。
スマホがなければ、母と連絡を取ることも、時間を知ることもできない。そもそもここがどこなのか、次の電車はいつくるのか分からない。駅掲示の時刻表は年季のせいで霞んでよくみえなかった。
しばらくしていると吐き気はおさまり、まだ重い身体をなんとか動かしてベンチをあとにする。冬の冷たい風が静かに頰を撫でて、白いチークを乗せるかのように通り過ぎていった。
これはサボり、だろうか。それともハプニングで許されるだろうか。それはきっと、この後の行動によって決まるだろう。
「学校、行きたくないな……」
少なくとも、今日だけは。
どう頑張ってみても、学校に行く気力なんて、私の身体のどこにも残っていなかった。
けれどきっと、『行かない』なんて選択肢はありえないだろう。遅れてでもいいから、たとえ残り一限だけになったとしても行かなければならない。それが『学校』だから。
息苦しい。いっそ、どこかに逃げてしまいたい。絵に描いたような"優等生"なんて、やめてしまいたい。自分を苦しめるだけの"真面目"なんて、卒業してしまいたい。
「学校なんて、やだ……っ」
叫ぶと、ぐわん、と自分の声があたりに響いた。
そして。
「奇遇だね、僕もだよ」
そんな声まで、一緒に返ってきたのだ。
ハッと顔を上げると、目の前に立つひとりと、まっすぐに目が合った。
男性にしては少し高くて、特徴的な声。それは、いつも黙って授業を受けている彼が、私に初めて聞かせた声だった。
クラスでは目立たない位置で、休み時間参考書を広げて勉強をしているような。女絡みはおろか男の子との絡みもほとんどなく、『真面目』という言葉を具現化したら彼になるんだろうな、と誰もが思ってしまうような。とにかく寡黙でおとなしい彼の初めて聞いた声は、想像よりも高かった。
「だからどっか行こうかなって思ってたとこ」
彼の名前は梵藍琉。苗字も名前も珍しく、それもまた彼の異質さを増しているような気がする。読めない瞳と、特徴的な声。何を考えているのか分からないから、なんとなく話すのを躊躇してしまう。そしてなにより、色素の薄い中性的な顔立ちが彼の儚さを演出しており、どことなく話しかけにくいオーラがある。
そんな彼は、自転車の荷台にフッと視線を移し、それから小さく首を傾げた。
「……乗る? このままどっか、行く?」
「えっ」
思ってもみない提案に、ドクッと鼓動が跳ねた。未知の世界への期待という名の種を小さく蒔かれたような気がした。
まさか彼に二人乗りを誘われるなんて。いったいどういう世界線なのだろう。
自転車の二人乗りは良くないし、そもそも学校に行かないなんて、そんなことできるはずがない。一時間目に遅れたとしても出席した方がいいのは分かっている。
だけど、私。
(行ってみたい)
葛藤の狭間で揺れる好奇心。電車から降りた時点で、私の逃げは始まっていたのだ。きっと今日は学校に行けない。なんとなく、そんな気がしていた。
こくりとうなずく。
「……乗る」
「ん。じゃあ落ちないようにしっかりつかまっててね」
手を差し出す彼に鞄を預けて、荷台に乗る。
「転ばないから安心して」
ペダルに足を乗せた梵くんは、少しだけ振り向いて悪戯っぽく笑う。
「今日だけ、悪いことしちゃおうか」
その笑みが不敵で、まるで漫画に出てくる、ヒロインを連れ出すヒーローのように思えて、そんな変な妄想をかき消すように彼の服をギュッと掴んだ。
冷え冷えとした風が私たちの身体を包むように過ぎてゆく。しばらく沈黙が続く中、それを破ったのは梵くんだった。
「花宮って真面目だよな。そんなに頑張ってつかれない?」
面と向かって、花宮、と呼ばれたことも、真面目だと言われたことも、頑張っていると言われたことも初めてで戸惑ってしまう。彼ならなんとなく、「花宮さん」と距離をとるように人の名前を呼ぶような気がしていたから。声のことも性格についても、私は勝手な偏見で彼の像を組み立ててしまっていたのかもしれない。
「真面目って言ったら、梵くんも同じようなものでしょ。ていうかたぶん、私なんかより梵くんの方が大変なこと、多いと思うし……」
「別に、言うほど頑張ってないよ、俺は」
ぽつりと呟いた彼の一人称は、いつのまにか『俺』に変わっていた。アイデンティティを組み立てる一人称が変われば、その人に対する見え方もまた変わっていく。
「花宮はさ、今までの学校生活に後悔ってない? 俺は、あるんだけどさ」
「後悔?」
「こうしたいとか、ああしたいとか、やらないまま隠してる思いとかあったりしない?」
意表をつくような質問に、心臓が音を立てる。答えを探してみると、それらはいとも簡単に生み出されてきた。
「……修学旅行。いつもリーダー役だから純粋に楽しめたことなんて一度もない。だから一度くらいは、何にも縛られずに旅行を楽しんでみたかった」
小、中、そして高。ことあるごとに背負わされてきた、リーダーという重荷。
それがなかったとして、単純に旅を楽しむことだけに集中できたらどんなに幸せだろうといつも思っていた。
その言葉を聞いた梵くんが、「よし」と呟く。いったいどういうつもりなのかと不思議に思っていると、自転車を漕いだまま梵くんは、
「じゃあ俺と行こっか。何にも縛られない旅に出よう」
と告げて、大きくペダルを踏み込んだ。
「えっ……!?」
「ああ、旅って言っても大したものじゃないよ? ちょっとそこまで、ってやつ」
風になびく梵くんの髪から、ふわりと春のようなにおいがした。
おかしいな、まだ冬なのに。
少しだけ振り返った梵くんの横顔が、まっすぐな光に照らされる。ドキリと心臓が変な動きをするのがわかった。
「俺の前では、リーダーでいる必要なんてないから。肩の力抜いて、楽にして」
梵くんって、こんなに優しい声だったっけ。こんなふうに力を抜いて笑うんだったっけ。こんなに柔らかい雰囲気の人だったっけ。否、彼の姿なんて、こうしてまともにみたことなんて一度もなかった。
私が学校でなんとなく見ていた彼と、今私を乗せた自転車を漕いでいる彼は、まったくの別人のように思えた。制服を着ているし、眼鏡をかけているし、髪の毛がいつもと違うわけでもない。それなのに、目の前の梵くんは、私の知っている梵くんではなかった。
「そ、梵くん」
「ん?」
学校は、なんて。今更すぎるようなことを聞いて、雰囲気を壊してしまいそうになった。サボりはよくない。みんな頑張って学校に通っているのだから。
そんなことは分かっていたけれど、今の私が目の前の彼に惹かれてやまないのもよく分かっていた。
「ううん。なんでも、ない」
だから私は何も言えずに、黙って梵くんの後ろ髪を見つめることしかできない。
ビュンビュン風をきって走る。
「……っ!」
ふいに、ガタン、と自転車が傾いた拍子に落ちそうになってしまう。
「ちゃんと掴まってて」
少しだけ振り返った梵くんは、私の手を掴み、自分の腰に回した。あまりの密着具合に、ボン!と身体が音を立てて爆発しそうになる。
うん、とも、はい、とも言えない曖昧な声だけが私の口からうめきのように洩れただけだった。
「到着」
「えっ、ここ……どこ?」
自転車の荷台に揺られること十五分。長いようで短い時間、密着していたことに後から羞恥が襲ってくる。
道路の脇に自転車を停めた梵くんは、そのまま私の手を引いてずんずん進んでいく。来たことのない場所、慣れない道なのに、不思議と恐怖はなかった。『立ち入り禁止』と書かれた標識を一瞥した梵くんは一瞬足を止め、少し手に力を込めたあと、そのまま立ち入り禁止区域へと足を踏み入れた。
「ちょ……梵くん!」
「なに?」
「ここ、入っちゃダメって……」
「今日だけ悪いこと、するんでしょ?」
違うの?と傾げられて言葉に詰まる。真逆の感情が頭の中をぐるぐるとまわって、ぎゅっと胸を締め付ける。
(このまま首を振ったら、私はいつもの私に戻ってしまう。せっかくのチャンスが、全部台無しになってしまう)
だって私は決めたんだ。今日だけは、いい子なんてやめてやると。真面目なんてやめて、悪いことをするのだと。
「そうだね、する。悪いこと」
繋いだ手に力を込める。にや、と少しだけ口角を上げた梵くんは、サラリと髪を揺らして歩き出した。草木が生い茂る一本道をふたりで歩く。ひやされた空気を纏いながら、木々が音を立てていた。
自然の木々に意識が吸い寄せられると、今まで悩んでいたことなんてまったく気にならなくなっていた。あるのは、この先にあるものへの期待。ただ、それだけ。
進んでいくと、急に眩い光が顔を突き刺した。目を開けていられないほどの明るさに、目を細めながらゆっくり前へと進んでいく。
「わ……っ」
思わず、声が漏れた。そこには一面の緑と、空の青、そして光だけが広がっていた。
どこまでも、どこまでも。終わりなんてないくらい、広く、ただ広く、世界は広がっていた。
瞳に映る景色には、こんなに色がついていたんだっけ。
絶望のふちで白黒の世界に囚われそうな私を、今この瞬間、彼が彩の世界へと引っ張り上げてくれた。
「綺麗だよな、ここ」
「うん……すごく、きれい」
「……花宮、なに泣いてんの」
ふっ、と呆れたように目を細めて笑った梵くんが手を伸ばして私の目尻を拭う。そこでようやく、私は自分が泣いていることに気がついた。
「綺麗で……びっくりして……」
「ね。たまにはこういうのもいいでしょ」
色をなくしてしまった世界に、梵くんが色を取り戻してくれた。それよりも鮮度高いものへと私の世界を変えてくれた。
「俺はこの世から去るとき、綺麗なものを見ながら大好きな人の横でいきたいんだ」
「……私も、そう思うよ」
遠い遠い、その先。たくさんの幸せを得たその先で、人生を終える日は必ずくる。そんな日は、今日みたいな景色と好きな人の横で幕を閉じたいと願ってしまう。
「俺は、桜のしたがいいな。冬を耐え凌いで、満開の桜とともに散りたい」
「気がはやくない?」
「ふふ、まあね」
なんて素敵で、魅力的な人なんだろう。綺麗な言葉を紡ぐ人なんだろう。
教室でただ生きるためだけに息をしていたような私とは大違いだ。同じ『真面目』だなんて、そんな失礼なことを思っていたのが申し訳なくなるくらい、彼は自分というものを持っている人だ。
あの駅で降りてよかった。彼と出会えてよかった。
広がる光を眺めながら、私はそんなふうに思った。
*
ガチャ、と開けようとした扉が、開かなかった。
「っ、え……」
何度かインターフォンを鳴らして、ドアを叩く。結局あれから、学校には行かずに二人で時間を潰した。話したり、寝たり、散策をして遊んだり。帰り際には「また明日」を交わして手を振った。
気付けば空は薄藤を交えて、風の冷たさが沁みる。冷えた手を擦り合わせながらしばらく待っていると、ガチャリと扉が開いてそのまま中へと引きずり込まれた。
そして、容赦ない平手打ちが飛んでくる。バチっ、と音が響いて、左頬に強烈な痛みを感じた。
「……っ、た」
「どこでなにをしていたの!? 学校にも行かないで、連絡も寄越さないで、どういうつもりなの!!」
静かに視線をあげると、そこには鬼の形相をした母親がいた。大きな声で怒鳴りつけられる。身体も心も痛めつけられて悲鳴をあげている。
痛い、苦しい。心が血を流しているような感覚がする。
「ごめん……なさい」
「ごめんですむ話じゃないの!! 学校から連絡があったわよ。連絡を受けたとき、お母さんがどれほど恥ずかしかったか、あなたは知らないでしょうね」
「……すいませ……ん」
「サボりだなんて、二度としないでちょうだい。推薦もらって大学に行く気なら、なおさらしっかりしないと」
はい、と中身のない返事だけをしてその場に立っていると、リビングから「ママー」と妹の早苗の声が聞こえてくる。「はーい、今行くからね」と声のトーンをふたつあげた母親は、そのまま身を翻して目の前から立ち去っていった。
心配した、と。怒られる理由がそんなあたたかいものならば、私はここまで惨めな気持ちになることなどないはずなのに。
所詮、子供にいい大学を出てほしいという親の見栄。そんなもので縛りつけられて過ごす毎日は、すごく息苦しくて、楽しさなどどこにもない。
ぽろ、と何かが静かに落ちる。そっと拭えば、それは透明な心の雫。
今日まで、私が流さずにいたものだった。
おかしいな、私は彼と出会って、彼に世界を教えてもらって弱くなってしまった?
明日行けば、きっと授業が進んでいるだろう。提出物だってあるだろう。溜まった仕事もあるだろう。もしかすると学校側からなにか責められるかもしれない。それだけで、行きたくなくなる要素はたくさんあるはずなのに。
(梵くんに、会いたい)
ただそれだけのことが、私の意識を学校へと引っ張っていった。
*
翌日は少しばかり罪悪感を感じてしまうほど、とにかく晴天だった。
昨日休んでたね、大丈夫?なんて。そんなふうに言われるかもなんて、おこがましい期待をしてしまう自分がいやらしい。
なにも変わらないような景色の中で、ただひとつたしかに違うこと。それは、クラスの隅の席からじっとこちらを見ている梵くんが、小さく唇の端を上げてくれたことだった。
それだけで、よくわからない気持ちになる。もやもやともドキドキとも違う、なんだか不思議な気分。
担任が教室に入ってきて騒がしい教室が静まってもなお、私の鼓動は不規則に音を奏でていた。
「今日のHRの内容は、次のHRの内容を決めることだ。次回がこのクラスでの最後のHRになるので、みんなが楽しめることを考えるように。じゃあ学級委員、あとはよろしく」
そこまで言った担任は出席簿に視線を落とし、それからハッとしたように顔を上げた。バチっ、と視線があって、なにやら嫌な予感がする。担任の唇の動きが、やけに遅く感じられた。
「と言ったが、今日は学級委員の坂田が休みだ。代わりに……花宮、お願いしてもいいか」
なにそれ、きいてない。むちゃぶりにも程がある。
そもそも私は人前で話すことが苦手なのだ。意見が混濁する教室を統一しろだなんて、あまりにも無謀だ。そんな重荷、背負えない。
とはいえ、首を横に振って抗議することなどとてもできない私は、静かに席を立って教卓へと出た。ぐるりと見渡すと、いくつもの視線が真正面から私を突き刺して、背中にじとりと汗が湿る。
男子学級委員の神立くんは、我関せずと言ったように飄々とした表情でチョークを持った。司会をするつもりはないのか。唐突に理解する。
「えっと、じゃあ……」
細い管に石が詰まったような自分の声が、くぐもって鼻から抜けていく。たいした意見もないクラスメイトたちは、視線だけをこちらに向けてくる。歪んでいて、汚れていて、気持ちが悪い。いっそ、ずっと下を向いていてくれたら、楽なのにとすら思ってしまう自分が恥ずかしい。
「周りの人と、数分話し合って……ああ、数分っていうのは、えっと……この時計で十時五分まで、お願いします」
どうぞ、と合図を出した途端、一気に騒がしくなる教室。ちら、と梵くんの席に視線を流したけれど、陽光を受けながらたたずむ彼と視線が合うことはなかった。
それがなんだか虚しくて、私は教卓の下で固く拳を握りしめた。
*
結局、話し合いをしてもまともな意見は出なかった。誰もが「きっと誰かが出してくれる」という発想でいるため、当然意見が活発化するはずがない。そのくせ、かろうじて出た【おにごっこ】という案に、「日焼けする」だの「走りたくない」だのと文句ばかり言うのだ。
所詮、おにごっこも妥協案でしかなかった。なんとかしぼりだしたものなのだけれど、一定数(特に女子)が断固反対の姿勢を見せているのでなかなか説得は難しそうだ。
なかなか決まらないようすを見ていた担任が、視線だけで催促してくる。なんて理不尽で、冷たい視線なんだろう。
「じゃあ、おにごっこ反対派の人は代替案を……」
「えー。そう言われると困るよねぇ」
「特にやりたいこととかないしー」
私の言葉を遮るような口調に、ぎゅっと口を引き結ぶ。
────みんな、みんな無責任だ。どうして私がこんな役目を背負わなくちゃいけないの?
そもそも私は風紀委員なのだ。私を何でも屋のように扱って平然と内職をする先生に、騒がしいクラスメイト。誰もいない、味方じゃない。この教室は完全にアウェイ。
全然ぜんぶ、だいっきらい。
この空気も、雑音も、視線も、すべてが嫌い。気持ちが悪い。
「司会進行してくださいよぉ。こんな話し合いはやく終わらせて自由時間にしよー」
田中さんが間延びした声で言うと、周りも「そうだそうだ」と同調しだす。
そんなの、私だって分かってる。はやくこんなの終わらせて、席につきたい。クラスメイトからは見えない、教卓で隠れている私の足は、ぶるぶる震えて止まらないのだから。
「花宮さん、そろそろ多数決をとったほうが……」
彼がすべてというわけではないけれど、限界を迎えるきっかけは神立くんのその一言だった。怯えるように眉を下げたまま、おそるおそると言った口調で告げてくる。こんなに弱気で、よく学級委員が務まるものだ。いや、普段は女子学級委員の坂田さんが持ち前のリーダーシップを発揮してクラスを統一しているので、彼はぐいぐい前に出るタイプではないのか。
(でも、書記してる神立くんがそれ言う……?)
分かっているのだ、そろそろ決めなければならないのなんて。でもどうしようもできないから困っているのに、他人事みたいに安全な場所から指摘するだけの彼の弱さが気に食わない。
「……っ!」
また襲ってくる、吐き気。体の不調であることは間違いないのだけれど、私の身体が吐きたがっているものは、『ことば』なのだと理解した。
洩れてしまわないように口を押さえてうつむく。
「花宮さん?」
近くから、神立くんの声がする。突然俯いた私に、教室中の視線はきっと集まっているのだろうと、ぼんやり思いながら顔を上げることができない。
しばらく耐えがたい沈黙を響かせていると、ふいにざわっとクラスの空気が動く音がした。明らかに何か特別なことが起こっている。雰囲気としてそれは感じられた。
「花宮」
耳元で囁かれた私の名前と、直後、掴まれた腕。それが誰なのかは、顔を見なくても分かった。分かってしまった。
「お、おい! 梵、花宮を連れてどこへいく。授業中だぞ」
「どう見ても限界じゃないですか。こんな授業より大事なこと、しにいくんで。多分今日は戻ってきません」
「ふ、ふざけたこと言ってるんじゃない。お前たちがそんな変なことを言ったら、ほかの生徒に示しがつかないだろう」
「先生は僕たちをなんだと思ってるんですか。僕らはただの生徒です。ちょっと優れてて、反論しないからって仕事を押し付けるのは、どうなんでしょうか」
梵くんは一息で言い切ると、私の顔を覗き込んで少し笑う。そして勢いよくドアを開け、私の手を引いて廊下を走り出した。
「梵! 花宮!」
後ろから追ってくる担任の声を振り切って、全力で走る。
授業を抜け出す、なんて。
いけないことをしているはずなのに、頰を流れる風がやけに心地良い。まるで目の前の靄が晴れて道が開けていくように、今の私の心は晴れやかで、どこまでも澄みきっていた。
*
『立ち入り禁止』
そんな言葉とともに固く閉ざされたその場所。小、中、高。いつもそこは入ることができなくて、ずっと憧れでもあった。
どんな世界が広がっているのだろう、どんな景色が待っているのだろう、と。もちろん、"真面目"な私は一度も立ち入ったことがない。
「梵くん、屋上って鍵がかかってるんじゃ」
「それはどうかな」
悪戯っぽく笑った梵くんは、屋上の取っ手に手をかけて捻り、そのまま身体でドアを押した。途端、ギイイと音を立てて開いていくドア。びゅうっと風が真っ正面から私の顔へと吹いて、新しい世界へと誘うように私の手を引いた。
「開いてる……」
「所詮フェイクだよ、こんなの」
ふはっ、と笑った梵くんは、先に屋上へ足を踏み入れてから、振り返って私に手を伸ばす。
逡巡していると、誘うような視線を向けた梵くんは、ふはっと相好を崩した。
「今日だけ、悪いことしちゃおうか」
それは、私たちの時間が始まる魔法の言葉。私たちの"今日だけ"の有効期限はいつまでだろう。毎日更新されていくから、わからない。
おずおず手をとると、そのまま強く引かれてあっという間に禁止区域へと進んでしまった足。
「わっ……」
視線を上げて、瞠目する。
一面の、青。雲ひとつない青空が、私たちを迎えるように広がっていた。
「どうせ追ってこないよ。みんな、俺たちがここにいるなんて思いもしないだろうからさ」
まさか、屋上だなんて。授業を抜け出し、立ち入り禁止というルールを破ってこんなところでサボっているだなんて。絶対、思わないだろう。
私がこういうことに憧れを抱いていたことも、梵くんがこんなふうに優しく笑うんだってことも、屋上から見える空がこんなにも青くて何もかも吸い取ってしまいそうなことも。
きっとなにひとつ、誰一人として知らないだろうから。
「吐きなよ、全部。溜め込んでも、苦しくなるのは自分だけ。その苦しみを誰かにわかってほしいなんて、そんな都合のいい話はないよ。自分のことは、自分でどうにかするしかないから」
「っ……」
厳しい口調だった。だけど、ストンとまっすぐに胸に落ちてくる。
我慢してえらいね、苦しいね、いい子だね、あなたはよく頑張ってるよ────。
私は、そんなことを言われたいわけじゃない。褒められながら我慢を強いられるより、叱られてもいいから自由になりたい。
「真面目すぎる自分が嫌なら、それを卒業するために努力すればいい。心のうちを吐露するのは、真面目卒業の第一歩なんだから」
「っ……」
唇が、ふるえる。ガラスを通したみたいにバリアを張っていた心が、叫びたくてたまらないと震えていた。強く吹く風に乗せて、鉛のような感情を吐き出す。
「全部、ぜんぶ大っ嫌い!!」
ついに出てしまった本音。今までは心の中だけで押しとどめていたのに、出てきてしまった────ようやく出せた、本当の気持ち。
「先生も、お母さんも、みんなも嫌い。卑屈な自分も嫌い。田中さんも、南くんも、みんなひどいよ……!」
汚い言葉が、鮮やかな空へと吸い込まれていく。いっそこのまま自分も溶けてしまいたいと思った。
「そうやってたまに発散すること、大事。花宮はすぐ無理するからさ」
「梵くん……ありがとう」
「なにが?」
「すごく、楽になった」
はぁ、と息を吐きながら、まっすぐに彼を見つめる。陽光を浴びて煌めく髪の一房が彼の顔にかかり、いっそう儚さを増していた。
綺麗だ、と思う。思わず手を伸ばして、彼に触れそうになった────その瞬間。
「うっ……」
突然顔を歪めて、お腹のあたりをおさえた梵くんは、そのまま私から離れるように後ずさった。
「えっ」
想定外の反応に、あたふたする私。眼鏡の奥で苦しげに細められた瞳が、ゆらゆら揺れながら地面を彷徨っている。
「だ、だいじょう、ぶっ……!?」
空気が変わった。そんな感じだったと思う。
今まで流れていたおだやかなものとは一変、緊迫していてかたい空気。何か大切な情報が、彼の様子から伝えられているような予感がした。けれど、そういうものにかぎって、その"何か"が何を意味するのか、気づくことができないもので────。
「たまにね、ちょっと痛くなるんだ。ストレスからくるものらしいから、突発性で困っちゃうよ」
へらっと笑った梵くんを見て、たまらなく湧き上がってくる安堵。ほっと胸を撫で下ろしたこのときの私は、彼の身体から噴き出している汗や、違和感を抱くほどの顔色に気づくことなんてできなくて。
「花宮、景色を見てよ。こっち、来て」
なんでもないように微笑みながら手を差し出す彼と、その先に広がる美景をただ見ることしかできなかった。
*
家に帰ることが、億劫だった。
このドアの先で待ち受ける仕打ちを想像しただけで、どこかへ逃げ出したくなった。今日一日、何度も何度も振動していたスマートフォン。着信はすべて母から。
きっと、学校からまた連絡が入っているのだろう。しかも内容が内容なだけに、母の怒りは最高潮だ。今日のことに関しては、文字に起こすとどう考えても私が悪い。
『授業を抜け出し、屋上でサボりを働いた』という事実は、どうオブラートに包んで誤魔化そうとしても、無理だ。
でも、自分にとってこの出来事は大切なことだった。だから後悔はしていない。悪いとは思う。当たり前だ、私も彼もわかっていながら『悪いこと』をしているのだから。
また、殴られるのだろうか。それとも、今度は蹴りが飛んでくるかな。
どちらにせよ、痛いんだろう。すごく、痛いんだろう。
梵くんと楽しいことをすればするほど、そのあとにみる地獄が怖くなる。比例する痛みが、いつも私を襲ってくる。
覚悟を決めてドアを開けようとした瞬間、ふいに後ろから「花宮さん?」と声がかかる。驚いて振り返ると、そこには部活のジャージを着た南くんが立っていた。
「南くん……どうして」
「あ、いや……ちょうどランニングで通りかかったからさ」
頰を紅らめた南くんは、はあっと白い息を吐き出して、黒い瞳で私を見つめる。はりつめた空気が、風に冷やされてさらに緊迫したものになる。
「っていうのは建前で……本当は、花宮さんに会えたらいいなって思って来たんだ」
「え……?」
「今日途中でいなくなったから、心配で。家にいるのかなって思って……って、ストーカーみたいですごく気持ち悪いよな、ごめん」
気まずそうに視線を逸らした南くんは、「でも」と言葉を続ける。
「花宮さんに会いたかったのは事実。元気そうで、よかった」
互いの吐く息は、白い。紺色の世界にのぼっていく白は、薄暗い海底から海面へとのぼってゆく泡のよう。
────あれ。
嬉しいことを言われているはずなのに、ひどく冷静で、体温の一度も上昇していない自分がいることに驚いた。以前の私ならその言葉だけで浮かれて、この先の仕置きなどまったく痛いと感じなかっただろうに。
「じゃあ、花宮さんまたあし────」
「すみれ、あなたねえっ!!」
南くんの声に被せるように降ってきた怒声。びくりと肩が跳ねる。
久しぶりだ。いつぶりだろう、名前を呼ばれたのは。
南くんの存在に気がついた母は、少しだけたじろぐような表情を見せたけれど、すぐに般若のような顔に戻る。
「すみれと一緒にサボったの、あなた?」
あろうことか、南くんへと詰め寄り、説教を始めようとしたのだ。これには我慢できなくて、たまらず二人の間へと躍り出る。
「南くんは関係ないよ! やめて、巻き込まないで!」
「うるさいわね!」
バシッ、と強烈な痛み。だけど身体としての痛みよりも、この瞬間をクラスメイトである南くんに見られてしまったという衝撃の方が大きかった。情けなくて、申し訳なくて、消えたくなる。
目を見開いた南くんが、私を背中に庇って立つ。そんなことをさせてしまっていることが本当に苦しくて、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
「今日は家に入れないから! 反省しなさい!」
ヒステリックな声とともにバタンと閉まったドア。
家の中で受ける身体への痛ぶりよりもずっと、今の方が痛い。
「ごめん、ごめんね、南く……」
「静かに。行こう、花宮さん」
謝罪を遮った南くんは、私の手を引いて夜の道を歩き出した。
「今のは、その……」
公園のベンチで、必死に言葉を手繰り寄せる。どうにかして繕わないと。ごまかさないと。そんな思いだけがぐるぐると頭の上を回って、はやくはやくと気持ちを焦らせる。
「別に言わなくていいよ、何も聞かないから。それよりも、今日これからどうするか考えよう」
そう言いながら、近くにあった自販機で南くんが買ったのはコーンポタージュ。視線を上げると、「はい」とぬくもりを手渡される。
「……ありがとう。あの、お金は」
「そんなの俺の奢り。真面目だなあ、花宮さんは」
真面目とかではなく常識なんじゃ……?と思うけれど口には出さずありがたく受け取る。
「あったかい……」
コーンの甘さとスープのあたたかさが冷え切った身体と心を包み込んでいく。微かに笑った南くんは、ふいにじっと、私を見つめた。
「な、なに……?」
「あ、いや。花宮さんって、そんなふうに笑うんだなって」
「え?」
「学校ではいつもかたい顔してて、その、なんていうか。うん、やっぱなんでもない。忘れて」
よくわからないけど、なぜかアタフタする南くんは気を改めるように咳払いをして、虚空を見つめた。
「俺に何かできることがあったら、何でも言って。その……俺んちに空き部屋もあるからさ、力になれるかもしれないし。一日寝泊まりすることくらい────」
「花宮!!」
被さるように夜の公園に響いた高い声。鼓膜を震わせた瞬間、じわりと心があたたかくなる。
「藍琉……?」
驚いたように目を見開いた南くんに目もくれずに、迷いなく私のもとへと駆け寄ってくる、彼。
「ごめん。会話がちょっと聞こえてきたから、つい」
「何がつい、だよ」
柄にもなく苛立ったようすの両者。静まり返っていたはずの公園が、ひどく騒がしくなる。
「とにかく、花宮は俺が預かるから。悠太はもう帰っていいよ」
「藍琉に言われる筋合いはないんだけど」
悠太、藍琉。二人がそんなふうに下の名前を読んで、荒っぽい口調で話すような仲だとは思っていなかった。
二人のことを私は何も知らないんだなとしみじみ思っていると、「行くよ」と声を上げた梵くんが私の手を握った。
「ちょ、ちょっと待って」
手を引かれて駆け出す前に、くるりと振り返る。街灯だけが灯る闇の中で、南くんがこちらを向いて立っていた。
「ありがとう、南くん。すごくすごく助かりました」
「花宮さん」
「私も会えて嬉しかった。あと、コーンポタージュも、ありがとう」
それだけを伝えて、梵くんに引かれるまま夢中で走る。今の出来事で分かってしまった自分の気持ちをかき消すように。
(私はきっと────)
差し込む月光が、心の奥底に眠る気持ちをすべて露わにしてしまうようで。
私はそっと、繋ぐ手に力を込めた。
*
「お邪魔します……」
促されるまま靴を脱ぎ、梵くん宅へとお邪魔した……のだけれど。やけに静かな家の中に、違和感が膨らんでいく。
夜だし、もしかするとみんなもう眠ってしまっているのかもしれない。そう思い込んで安心に落とし込もうとしたのだけれど、だとするとかなりやばいのでは……?とまたすぐに不安に変わる。
だって寝て起きて家に見知らぬ女子がいたら、普通は驚くのではないだろうか。いくら息子の友達だとしても……いろいろ思うところがあるだろう。
「梵くん、親の方は」
「ああ。俺片親で、母さんはたぶんリビングにいると思うけど。俺から言っておくよ」
「だめだよ、挨拶させて」
ぶんぶん首を振ると、「必要ないのに」とため息を吐いた梵くんはリビングへと引っ込んでいった。それから梵くんの後ろにつづいて、細身の女性が顔を出す。
「こんばんは。私、梵くんのクラスメイトの花宮すみれといいます。事情があり、今夜お世話になることはできますでしょうか」
「ああ、そうですか。はい、わかりました」
その受け答えに、また違和感。言及することも、不思議に思うこともなく。ストン、と。
受け入れるというより、端から興味がないような。
「ね。必要ないって言ったでしょ」
私の家庭とは全然違う。うちは異性はおろか、同性の同級生すら家にあげてはならないのだから。
夜、アポ無しで突撃しても忠告の一つすらないなんて。私がいうことではないかもしれないけど、それでもどこかおかしい。
けれど、もしかすると私の家が異常なだけで、一般家庭はみんなこんな感じなんだろうか。娘や息子が家に誰を連れ込んでも、平気なの?
「部屋はこっち」
案内されるまま部屋に入る。ここはどうやら、梵くんの部屋らしい。
「ベッド、好きに使ってくれていいから。俺は他の部屋で寝るし」
「気、遣わせちゃって……ごめん」
「別に。じゃあ、おやすみ」
パタン、と閉まった扉。春のにおいがする部屋は、どこか別の世界みたいだ。
「梵くんの、へや……」
思えば、暴力に怯えなくていい夜は久しぶりだった。
ベッドにすがるように座って、しばらく天井をながめる。
(すごく濃い一日だったな……)
最近は一日の密度が濃い。楽しさとつらさが半分の割合で混ざっていく日常。だけど、もうこんな迷惑はかけられないから、楽しい日常から卒業しなければならない。また、地獄へと戻らないといけない。
楽しさが増えるたび地獄と迷惑が増えるなら、私はどちらも捨てることを選ぶ。
そんなことを考えていると、ゆっくり睡魔が襲ってきて、私は静かに意識を手放した。
*
それから、何事もなかったかのように過ぎ去っていく日々。だけど少し前とは違うところがあるとするならば。
南くんの、私を見つめる瞳が以前より柔らかくなったこと。そして、梵くんが学校を休みがちになったということ。
後者は私にとって大問題で、日に日に心配が募っていく。けれど学校に出てきた日はいつもと変わらないようすだから、余計に困惑するのだ。
そんなある日のことだった。三日ぶりに登校してきた梵くんは、私のもとへと近づいてきて、躊躇なく手をとった。クラスメイトがいるにも関わらず、なんの恥じらいも見せない梵くんに私の方がアタフタしてしまう。
「そ、梵くん……?」
「ちょっと、きて」
「えっ……」
ざわざわ騒がしくなる教室。すれ違う担任が「またお前たちか」と声を上げているのが聞こえた。だけど、梵くんは止まらず小走りのまま、廊下を進んでいく。きっと彼が向かっているのは屋上。
トクン、トクンと期待で胸が高鳴っていくのを感じながら、あの夜の誓いを思い出して私は思わず、その手を振り払ってしまった。
階段の踊り場で、まっすぐ向かい合う。梵くんは驚いたような、悲しそうな色を瞳に交えていた。ぎゅっと胸が締め付けられるけれど、私の境遇的にこれ以上はダメだということも痛いほど分かっているから、私は彼の視線を振り解くことしかできなかった。
「もう、今までみたいなことはできない。梵くんと過ごした日々が楽しかったのは事実。だけど、もうこれ以上巻き込めない。私、やっぱり真面目卒業はできないみたい。真面目卒業するための単位が、手に入る状況じゃないの」
お金がなければ、学力がなければ、行きたい高校にいけないように。家庭環境が最悪な私は、『真面目卒業』など到底できやしない。最初から不可能なことだった。
だけど、紛れもなく楽しかった。あんなに楽に息を吸える日が来るなんて、思いもしなかった。
「今までありがとう、梵くん。でも、ごめんね」
ぼろぼろ。
「あれ、おかしい、な」
涙が溢れて、止まらない。膨らんでしまった想いは、どうしたって消えてくれないのに。
切ない、苦しい。こんな気持ち、知らない。
「またそうやって誤魔化す。泣いてるじゃん、素直にならないと」
そう言って引き寄せられて、また溢れる気持ちは。たとえ嘘をついてでも隠さないと、なかったことにしないと、いけない状況だから。
もし、私が一般家庭に生まれて、愛されて育っていたとしたら。おかえりと言って迎えてくれる家族がいて、私の行動を見守ってくれて、褒めてくれて、心配してくれたならば。
きっと私は梵くんと一緒に、これからもいられたはずなのに。今は、梵くんの何も知らない故の言葉が、心臓を突き刺してくる。
「梵くんには……分からないよ」
鈍い感情を含んだ声が洩れる。一瞬、梵くんが息を呑んだのを見て、私は迷うこともしないままその先を続けてしまった。
「あんなに家族に優しくされて、大切にされてる梵くんには分からないよ。何をやっても、どんなことを言っても許される梵くんと私は違う」
あんなふうに、子供のすることに干渉しない親だったら。殴ったり蹴ったり、家から追い出したりしない親だったら。そしたらなにか……変わっていたのかな。涙とともに、血反吐のように溢れ出す言葉。
「梵くんの立場で、梵くんの生きてる環境だったとしたら簡単なことかもしれないけど、だけど私は────」
「花宮だって分かってないじゃないか」
「なにが」
「俺がどんな気持ちで毎日生きてるか、どんな世界で生きてるかなんて知らないだろ。家族に大切にされてる? どんなことをしても許される? それがどれだけつらいか、花宮は分かんないだろ。腫れ物みたいに扱われる気持ちなんて知らないだろ。俺は……花宮が羨ましいよ」
「なにそれ、意味わかんない……!!」
羨ましい。その言葉すら皮肉に聞こえて、カッとなった私は振り返ることなくその場を逃げ出した。
あれのどこが羨ましいのだろう。なんにも、知らないくせに。
引きとめてくれるかもしれない、と少しだけ期待したけれど、梵くんの声が背中を追いかけてくることはなかった。
桜色の風が、肩までの髪をさらって通り過ぎていった。
着慣れた制服と、胸元で咲いたコサージュ。深紅のファイルに入った卒業証書。
ひら、と落ちてきた桜は淡いピンク色。
私たちが求めたどこまでも優しい世界が、そこにはあった。
『卒業、おめでとう』
ふと、そんな声がきこえたような気がして、そっと微笑む。頭上にはいつか彼と見た青空が、薄く淡く広がっている。
私たちをつなぐように、どこまでも、どこまでも。
「大好きだよ、梵くん」
そう言って笑うと、桜のした、彼はめいっぱい笑った────。
*
「花宮さん」
ホームルームが終わり、ほっと息を吐いたのも束の間、すぐに私の名前が呼ばれた。ズキッと痛むこめかみを押さえながら、なんとか笑みを繕う。
変な顔になっていないだろうか。
鏡で自分の姿を確認できないことに不快さを感じつつも、なるべく違和感のないよう表情をつくって、クラスメイト────田中さんのもとへと駆け寄る。
「これお願いしてもいいかな? あたし部活に行かないといけなくて。三年生のお別れ会にいかないといけないんだ」
「え……あ、うん」
トントンと山積みになった書類を叩く目の前のクラスメイトが、私になにを求めているのかはすぐにわかった。教科担当の彼女は眉を下げて申し訳なさそうにしながら、「じゃ、お願い」と告げて教室を出ていく。
(要するに、これを先生のところに届けに行ってほしいってことか)
ぼんやりした頭で、ひどくはっきりと理解する。
部活なのは分かるけど、自分の仕事くらい責任を持ってほしい。そう思うけれど、当然口に出すことも行動で示すこともできない私は、ため息だけを落としてその場に座り込んだ。
最近、思うように息ができない。吸っても吸っても酸素を取り込めた気がしなくて、もっと重苦しいものだけが身体中を循環しているような気がする。
キン、と冷えた空気が身体にまとわりついて、私の動きを阻めてしまうのが厄介だ。二月はまだ肌寒く『冬』というほうが正しい気もするけれど、なにせ立春を過ぎてしまったのだ。あっという間に桜が咲いて、春めいた空が広がり、すぐに卒業の季節となるだろう。
私はまだ二年生なので卒業には程遠いのだけれど、それでもこの季節はどこかしんみりしてしまう。これといって先輩と何か思い出があるとか、慕っていた先輩がいるとかではないけれど、それでもなんとなく。「あともう少しで卒業だね」「悲しいね」と寂しげに呟いている先輩方の姿を目にすると、私にもそんなふうに言い合うことのできる誰かが残りの一年でつくれるだろうかと、不安になったりもするのだ。
書類を両手に抱えて、窓の外を見ながら廊下を歩く。雲ひとつない青空は、ペンキで塗られたようにとにかく真っ青。たしか、光の散乱が関係しているんだっけ。
「あれ、花宮さん。教科担当?」
ふと、前から飛んできた声にピタリと足を止める。無意識のうちに手に力が入り、だらしなく開いていた口もキュッと閉じられた。速まっていく鼓動をなんとか抑えながら、ゆっくりと前を向く。
そこには予想通り、スポーツバッグを持ったまま私を見ている南くんがいた。
「えっ……あ、うん。教科担当、だよ」
チクった、などと言われたくないのでとっさに嘘をつくと、訝しげに眉を寄せた南くんは「田中さんだと思ったけど、俺の記憶違いだったか」とぼやいて鞄を肩にかけ直した。
たしかに教科担当は田中さんだ。嘘をついてしまった罪悪感に苛まれていると、「手伝おうか?」と柔らかい声が降ってくる。
「え」
「一人じゃ大変でしょ。俺、持とうか」
「いや、悪いし……」
首を振りながら慌てて飛び退く。バクバクと心臓が飛び出んばかりに暴れている。
南くんは、私がひっそりと片想いをしている相手だ。一年生の時からクラスが同じで、今年も運良く同じクラスになった。入学式の日、校舎を彷徨っていた私と一緒に、教室に入ってくれたのが彼だった。その出来事を南くんが覚えているかは分からないけれど、私の中でそれはすごく大きな出来事で、それだけで私は彼のことを意識するようになってしまったのだ。
『風紀委員、一緒なんだ。よろしくね』
目で追っていただけの彼と、初めて視線が絡んだのは一年生の二学期。たまたま同じ委員会になったことがきっかけで話すようになり、私はこうして一方的な片想いを拗らせたまま今に至る。
「いいから」とこちらに手を伸ばした南くんは、あっという間に書類の四分の三をさらってしまう。そんな量を持ってもらうことになるなんて思ってもみなくて、あたふたしているうちに南くんが歩きだす。歩くたびふわふわ揺れる焦茶色の髪が、なんだか猫みたいだな、なんておこがましい想像をしていると、ふいに「ごめんね花宮さん!!」と隣から誰かがぶつかってきた。驚いて見れば、ぶつかってきたのはまだ制服姿の田中さんだった。
「なんか部活のはじまりが少し遅れることになったみたいで! だからここは任せて、ありがとね!」
「えっ……」
「わっ! もしかして南くん手伝ってくれるの? ありがとう、くるみ助かる〜」
どこまで本当かわからないことを言って、私から書類をひったくるように奪う田中さんは、南くんと肩が触れ合うような距離に並んで、キャハッと可愛らしい声を上げた。女の子が聞いたならば迷うことなく『猫撫で声』と評価しそうな声だったけれど、男子からしてみれば可愛らしいことこの上ないし、こういう女の子こそが理想的なのだろう。
「じゃあもう花宮さんは帰っていいよ? ありがとう」
邪魔だから消えてくれ。
言葉の裏に、そんな思いが隠されているような気がした。こんなことを言われてしまう自分がみじめで、みっともなくて、いっそ本当に消えてしまうことができれば楽なのにとすら思う。
「田中さん」
ふいに、南くんの言葉が響く。「そんなふうに言うなよ、かわいそうだろ」なんて、そんなふうに私を庇ってくれないだろうか。「もっとお礼の気持ちがあってもいいんじゃないのか」なんて、田中さんに怒ってくれないだろうか。
こんなのは所詮負け組の妄想でしかなくて、実際、モブキャラに春なんて一生来ないことは、私自身が一番分かっている。
「行こう」
「うんっ! 南くんありがとうね! すっごく嬉しい」
ああ、やっぱり。この世の中は、すべて愛嬌と要領でまわっている。どちらも持っていない私は、いわゆる用無し、役立たずだ。
サラサラの髪を揺らして身体の向きを変えた田中さんが、一瞬、ちらと私を見る。その目つきは身体の芯から凍りついてしまうほど冷めていて、ねめつけるようなものだった。
それから何事もなかったかのように、南くんに花のような笑みを浮かべる。
まるで女優みたいだ。
仲睦まじく並んで去っていくふたつの背中をぼんやりと見つめる。
ガシャン、と。どこからかそんな音が聞こえたような気がした。
はっきりと分かったのは、その音は外ではなく、私の内側から聞こえたものだということ。心臓が痛いわけでもない。頭が痛いわけでもない。
ただ、何も感じられなくなった。
悲しい、苦しい、痛い。そんな感情がいっさい消えて、すべてがどうでもよくなった。
ぼんやりとした頭だけが、かろうじてその場所に私という生物が存在しているのだと認識していた。他人の身体を、他人の意識で動かしているような妙な感覚。
開花を待つつぼみが風に揺れたとき、こうして私の世界は静かに音を立てて、崩れ落ちていった。
その日、目が覚めたのはいつもの起床時間から三十分も遅れてからだった。
「やばい……なんで?」
どうして起きられなかったの。明らかに睡眠不足であることは分かっているのに、気合いで起きられた可能性を考えると自分自身に苛立ってしまう。
十分な用意ができない朝は嫌いだ。一日を生きるだけでもどこか憂鬱なのに、スタートでテンポを崩してしまったら、それからはずっと負の連鎖が続く。電車を逃したり、忘れ物をしたり、身支度が間に合わなかったり、そういうの。
慌てて制服に着替え、髪にアイロンを通すこともできないまま乱雑に一つに括る。悠長にメイクをする暇なんてないから、日焼け止めだけを適当に塗って家を飛び出した。
走っている途中で、ふと目を惹かれて足を止める。
ひとけのない公園で、春を待ち侘びるように構える大きな桜の木。遊具もない、建物と建物の間に無理やり挟まれてしまったかのような公園。そんな場所に、どっしりと構える桜はなんて強くて美しいんだろうと思った。
「やばい、遅刻する……!」
桜に見とれている場合ではなかった。反射する窓ガラスで、パッと自分の姿を確認する。
(最悪……前髪終わってる)
『前髪命』などというわけではないが、華のJ Kなのだからそれなりに女々しいことは言わせてもらいたい。
「待って……! 待ってくだ、さいっ!」
色々な意味で土下座したい気持ちのまま駆け込み乗車をし、通勤通学ラッシュに紛れ込む。知らないおじさんや年配の女性と肌が触れ合い、パーソナルスペース皆無のこの状況にひどく吐き気がした。
もういっそ、このままどこかに逃げてしまいたい。よく分からない駅で降りて、知らない場所へ行ってみたい。
そんなふうに考えているのに、実行する勇気だけが私にはいつも足りなかった。
流れていく景色がなにひとつ珍しくなくて、すっかり見慣れてしまった風景を自分に認識させていくだけ。なんと無駄で、つまらない作業なんだろう。
ぼんやりしていると、ふと、揺れた電車の衝撃で前にいた中年の男性が私の肩にぶつかってきた。その瞬間、今まで堪えてきたものがすべて吐き出されてしまうかのように、何かがお腹の底からぐぐっと這い上がってくるような予感がした。それはまさしく、突発的な何かだった。
「っう……おえっ」
自分でも信じられないほどの吐き気に、声を抑えるのは不可能だった。汚らしい声を漏らして、口許を押さえる。いつのまにか上昇した体温は、私の身体を溶かしてしまうほど熱を帯びていた。足が震えて、力が抜けそうだ。
(もう、だめ)
たまらず定期を見せて、ドアが開いた瞬間、知らない駅だということも構わず外へと飛び出した。制服を着ているどこかの学校の生徒たちが「なぜここで降りるんだ」と信じられないような表情で私を見ていたのが視界の隅に映ったけれど、この際そんなことはもう関係なかった。
プシュウ、と扉が閉まって、私一人分軽くなった電車が発車する。
「きもちわる……」
駅に鎮座するベンチに腰をおろして、水筒のお茶を二口ほど飲む。あたたかいお茶が喉を通って、身体の管を通って、お腹へと溜まる妙な感覚がした。
疲労、ストレス、我慢。そういうものは、いきなり襲ってくるわけではない。ほんの小さなものが、毎日毎日気付かないうちに蓄積されて、私みたいに制御できない人間は、一時を境に抑えきれずに溢れさせてしまう。
「そうだ、スマホ……」
鞄の中を慌てて探り、それがないことに気づいた瞬間、サアッと血の気が引いていく。今朝、焦って家を飛び出したのが悪かった。
スマホがなければ、母と連絡を取ることも、時間を知ることもできない。そもそもここがどこなのか、次の電車はいつくるのか分からない。駅掲示の時刻表は年季のせいで霞んでよくみえなかった。
しばらくしていると吐き気はおさまり、まだ重い身体をなんとか動かしてベンチをあとにする。冬の冷たい風が静かに頰を撫でて、白いチークを乗せるかのように通り過ぎていった。
これはサボり、だろうか。それともハプニングで許されるだろうか。それはきっと、この後の行動によって決まるだろう。
「学校、行きたくないな……」
少なくとも、今日だけは。
どう頑張ってみても、学校に行く気力なんて、私の身体のどこにも残っていなかった。
けれどきっと、『行かない』なんて選択肢はありえないだろう。遅れてでもいいから、たとえ残り一限だけになったとしても行かなければならない。それが『学校』だから。
息苦しい。いっそ、どこかに逃げてしまいたい。絵に描いたような"優等生"なんて、やめてしまいたい。自分を苦しめるだけの"真面目"なんて、卒業してしまいたい。
「学校なんて、やだ……っ」
叫ぶと、ぐわん、と自分の声があたりに響いた。
そして。
「奇遇だね、僕もだよ」
そんな声まで、一緒に返ってきたのだ。
ハッと顔を上げると、目の前に立つひとりと、まっすぐに目が合った。
男性にしては少し高くて、特徴的な声。それは、いつも黙って授業を受けている彼が、私に初めて聞かせた声だった。
クラスでは目立たない位置で、休み時間参考書を広げて勉強をしているような。女絡みはおろか男の子との絡みもほとんどなく、『真面目』という言葉を具現化したら彼になるんだろうな、と誰もが思ってしまうような。とにかく寡黙でおとなしい彼の初めて聞いた声は、想像よりも高かった。
「だからどっか行こうかなって思ってたとこ」
彼の名前は梵藍琉。苗字も名前も珍しく、それもまた彼の異質さを増しているような気がする。読めない瞳と、特徴的な声。何を考えているのか分からないから、なんとなく話すのを躊躇してしまう。そしてなにより、色素の薄い中性的な顔立ちが彼の儚さを演出しており、どことなく話しかけにくいオーラがある。
そんな彼は、自転車の荷台にフッと視線を移し、それから小さく首を傾げた。
「……乗る? このままどっか、行く?」
「えっ」
思ってもみない提案に、ドクッと鼓動が跳ねた。未知の世界への期待という名の種を小さく蒔かれたような気がした。
まさか彼に二人乗りを誘われるなんて。いったいどういう世界線なのだろう。
自転車の二人乗りは良くないし、そもそも学校に行かないなんて、そんなことできるはずがない。一時間目に遅れたとしても出席した方がいいのは分かっている。
だけど、私。
(行ってみたい)
葛藤の狭間で揺れる好奇心。電車から降りた時点で、私の逃げは始まっていたのだ。きっと今日は学校に行けない。なんとなく、そんな気がしていた。
こくりとうなずく。
「……乗る」
「ん。じゃあ落ちないようにしっかりつかまっててね」
手を差し出す彼に鞄を預けて、荷台に乗る。
「転ばないから安心して」
ペダルに足を乗せた梵くんは、少しだけ振り向いて悪戯っぽく笑う。
「今日だけ、悪いことしちゃおうか」
その笑みが不敵で、まるで漫画に出てくる、ヒロインを連れ出すヒーローのように思えて、そんな変な妄想をかき消すように彼の服をギュッと掴んだ。
冷え冷えとした風が私たちの身体を包むように過ぎてゆく。しばらく沈黙が続く中、それを破ったのは梵くんだった。
「花宮って真面目だよな。そんなに頑張ってつかれない?」
面と向かって、花宮、と呼ばれたことも、真面目だと言われたことも、頑張っていると言われたことも初めてで戸惑ってしまう。彼ならなんとなく、「花宮さん」と距離をとるように人の名前を呼ぶような気がしていたから。声のことも性格についても、私は勝手な偏見で彼の像を組み立ててしまっていたのかもしれない。
「真面目って言ったら、梵くんも同じようなものでしょ。ていうかたぶん、私なんかより梵くんの方が大変なこと、多いと思うし……」
「別に、言うほど頑張ってないよ、俺は」
ぽつりと呟いた彼の一人称は、いつのまにか『俺』に変わっていた。アイデンティティを組み立てる一人称が変われば、その人に対する見え方もまた変わっていく。
「花宮はさ、今までの学校生活に後悔ってない? 俺は、あるんだけどさ」
「後悔?」
「こうしたいとか、ああしたいとか、やらないまま隠してる思いとかあったりしない?」
意表をつくような質問に、心臓が音を立てる。答えを探してみると、それらはいとも簡単に生み出されてきた。
「……修学旅行。いつもリーダー役だから純粋に楽しめたことなんて一度もない。だから一度くらいは、何にも縛られずに旅行を楽しんでみたかった」
小、中、そして高。ことあるごとに背負わされてきた、リーダーという重荷。
それがなかったとして、単純に旅を楽しむことだけに集中できたらどんなに幸せだろうといつも思っていた。
その言葉を聞いた梵くんが、「よし」と呟く。いったいどういうつもりなのかと不思議に思っていると、自転車を漕いだまま梵くんは、
「じゃあ俺と行こっか。何にも縛られない旅に出よう」
と告げて、大きくペダルを踏み込んだ。
「えっ……!?」
「ああ、旅って言っても大したものじゃないよ? ちょっとそこまで、ってやつ」
風になびく梵くんの髪から、ふわりと春のようなにおいがした。
おかしいな、まだ冬なのに。
少しだけ振り返った梵くんの横顔が、まっすぐな光に照らされる。ドキリと心臓が変な動きをするのがわかった。
「俺の前では、リーダーでいる必要なんてないから。肩の力抜いて、楽にして」
梵くんって、こんなに優しい声だったっけ。こんなふうに力を抜いて笑うんだったっけ。こんなに柔らかい雰囲気の人だったっけ。否、彼の姿なんて、こうしてまともにみたことなんて一度もなかった。
私が学校でなんとなく見ていた彼と、今私を乗せた自転車を漕いでいる彼は、まったくの別人のように思えた。制服を着ているし、眼鏡をかけているし、髪の毛がいつもと違うわけでもない。それなのに、目の前の梵くんは、私の知っている梵くんではなかった。
「そ、梵くん」
「ん?」
学校は、なんて。今更すぎるようなことを聞いて、雰囲気を壊してしまいそうになった。サボりはよくない。みんな頑張って学校に通っているのだから。
そんなことは分かっていたけれど、今の私が目の前の彼に惹かれてやまないのもよく分かっていた。
「ううん。なんでも、ない」
だから私は何も言えずに、黙って梵くんの後ろ髪を見つめることしかできない。
ビュンビュン風をきって走る。
「……っ!」
ふいに、ガタン、と自転車が傾いた拍子に落ちそうになってしまう。
「ちゃんと掴まってて」
少しだけ振り返った梵くんは、私の手を掴み、自分の腰に回した。あまりの密着具合に、ボン!と身体が音を立てて爆発しそうになる。
うん、とも、はい、とも言えない曖昧な声だけが私の口からうめきのように洩れただけだった。
「到着」
「えっ、ここ……どこ?」
自転車の荷台に揺られること十五分。長いようで短い時間、密着していたことに後から羞恥が襲ってくる。
道路の脇に自転車を停めた梵くんは、そのまま私の手を引いてずんずん進んでいく。来たことのない場所、慣れない道なのに、不思議と恐怖はなかった。『立ち入り禁止』と書かれた標識を一瞥した梵くんは一瞬足を止め、少し手に力を込めたあと、そのまま立ち入り禁止区域へと足を踏み入れた。
「ちょ……梵くん!」
「なに?」
「ここ、入っちゃダメって……」
「今日だけ悪いこと、するんでしょ?」
違うの?と傾げられて言葉に詰まる。真逆の感情が頭の中をぐるぐるとまわって、ぎゅっと胸を締め付ける。
(このまま首を振ったら、私はいつもの私に戻ってしまう。せっかくのチャンスが、全部台無しになってしまう)
だって私は決めたんだ。今日だけは、いい子なんてやめてやると。真面目なんてやめて、悪いことをするのだと。
「そうだね、する。悪いこと」
繋いだ手に力を込める。にや、と少しだけ口角を上げた梵くんは、サラリと髪を揺らして歩き出した。草木が生い茂る一本道をふたりで歩く。ひやされた空気を纏いながら、木々が音を立てていた。
自然の木々に意識が吸い寄せられると、今まで悩んでいたことなんてまったく気にならなくなっていた。あるのは、この先にあるものへの期待。ただ、それだけ。
進んでいくと、急に眩い光が顔を突き刺した。目を開けていられないほどの明るさに、目を細めながらゆっくり前へと進んでいく。
「わ……っ」
思わず、声が漏れた。そこには一面の緑と、空の青、そして光だけが広がっていた。
どこまでも、どこまでも。終わりなんてないくらい、広く、ただ広く、世界は広がっていた。
瞳に映る景色には、こんなに色がついていたんだっけ。
絶望のふちで白黒の世界に囚われそうな私を、今この瞬間、彼が彩の世界へと引っ張り上げてくれた。
「綺麗だよな、ここ」
「うん……すごく、きれい」
「……花宮、なに泣いてんの」
ふっ、と呆れたように目を細めて笑った梵くんが手を伸ばして私の目尻を拭う。そこでようやく、私は自分が泣いていることに気がついた。
「綺麗で……びっくりして……」
「ね。たまにはこういうのもいいでしょ」
色をなくしてしまった世界に、梵くんが色を取り戻してくれた。それよりも鮮度高いものへと私の世界を変えてくれた。
「俺はこの世から去るとき、綺麗なものを見ながら大好きな人の横でいきたいんだ」
「……私も、そう思うよ」
遠い遠い、その先。たくさんの幸せを得たその先で、人生を終える日は必ずくる。そんな日は、今日みたいな景色と好きな人の横で幕を閉じたいと願ってしまう。
「俺は、桜のしたがいいな。冬を耐え凌いで、満開の桜とともに散りたい」
「気がはやくない?」
「ふふ、まあね」
なんて素敵で、魅力的な人なんだろう。綺麗な言葉を紡ぐ人なんだろう。
教室でただ生きるためだけに息をしていたような私とは大違いだ。同じ『真面目』だなんて、そんな失礼なことを思っていたのが申し訳なくなるくらい、彼は自分というものを持っている人だ。
あの駅で降りてよかった。彼と出会えてよかった。
広がる光を眺めながら、私はそんなふうに思った。
*
ガチャ、と開けようとした扉が、開かなかった。
「っ、え……」
何度かインターフォンを鳴らして、ドアを叩く。結局あれから、学校には行かずに二人で時間を潰した。話したり、寝たり、散策をして遊んだり。帰り際には「また明日」を交わして手を振った。
気付けば空は薄藤を交えて、風の冷たさが沁みる。冷えた手を擦り合わせながらしばらく待っていると、ガチャリと扉が開いてそのまま中へと引きずり込まれた。
そして、容赦ない平手打ちが飛んでくる。バチっ、と音が響いて、左頬に強烈な痛みを感じた。
「……っ、た」
「どこでなにをしていたの!? 学校にも行かないで、連絡も寄越さないで、どういうつもりなの!!」
静かに視線をあげると、そこには鬼の形相をした母親がいた。大きな声で怒鳴りつけられる。身体も心も痛めつけられて悲鳴をあげている。
痛い、苦しい。心が血を流しているような感覚がする。
「ごめん……なさい」
「ごめんですむ話じゃないの!! 学校から連絡があったわよ。連絡を受けたとき、お母さんがどれほど恥ずかしかったか、あなたは知らないでしょうね」
「……すいませ……ん」
「サボりだなんて、二度としないでちょうだい。推薦もらって大学に行く気なら、なおさらしっかりしないと」
はい、と中身のない返事だけをしてその場に立っていると、リビングから「ママー」と妹の早苗の声が聞こえてくる。「はーい、今行くからね」と声のトーンをふたつあげた母親は、そのまま身を翻して目の前から立ち去っていった。
心配した、と。怒られる理由がそんなあたたかいものならば、私はここまで惨めな気持ちになることなどないはずなのに。
所詮、子供にいい大学を出てほしいという親の見栄。そんなもので縛りつけられて過ごす毎日は、すごく息苦しくて、楽しさなどどこにもない。
ぽろ、と何かが静かに落ちる。そっと拭えば、それは透明な心の雫。
今日まで、私が流さずにいたものだった。
おかしいな、私は彼と出会って、彼に世界を教えてもらって弱くなってしまった?
明日行けば、きっと授業が進んでいるだろう。提出物だってあるだろう。溜まった仕事もあるだろう。もしかすると学校側からなにか責められるかもしれない。それだけで、行きたくなくなる要素はたくさんあるはずなのに。
(梵くんに、会いたい)
ただそれだけのことが、私の意識を学校へと引っ張っていった。
*
翌日は少しばかり罪悪感を感じてしまうほど、とにかく晴天だった。
昨日休んでたね、大丈夫?なんて。そんなふうに言われるかもなんて、おこがましい期待をしてしまう自分がいやらしい。
なにも変わらないような景色の中で、ただひとつたしかに違うこと。それは、クラスの隅の席からじっとこちらを見ている梵くんが、小さく唇の端を上げてくれたことだった。
それだけで、よくわからない気持ちになる。もやもやともドキドキとも違う、なんだか不思議な気分。
担任が教室に入ってきて騒がしい教室が静まってもなお、私の鼓動は不規則に音を奏でていた。
「今日のHRの内容は、次のHRの内容を決めることだ。次回がこのクラスでの最後のHRになるので、みんなが楽しめることを考えるように。じゃあ学級委員、あとはよろしく」
そこまで言った担任は出席簿に視線を落とし、それからハッとしたように顔を上げた。バチっ、と視線があって、なにやら嫌な予感がする。担任の唇の動きが、やけに遅く感じられた。
「と言ったが、今日は学級委員の坂田が休みだ。代わりに……花宮、お願いしてもいいか」
なにそれ、きいてない。むちゃぶりにも程がある。
そもそも私は人前で話すことが苦手なのだ。意見が混濁する教室を統一しろだなんて、あまりにも無謀だ。そんな重荷、背負えない。
とはいえ、首を横に振って抗議することなどとてもできない私は、静かに席を立って教卓へと出た。ぐるりと見渡すと、いくつもの視線が真正面から私を突き刺して、背中にじとりと汗が湿る。
男子学級委員の神立くんは、我関せずと言ったように飄々とした表情でチョークを持った。司会をするつもりはないのか。唐突に理解する。
「えっと、じゃあ……」
細い管に石が詰まったような自分の声が、くぐもって鼻から抜けていく。たいした意見もないクラスメイトたちは、視線だけをこちらに向けてくる。歪んでいて、汚れていて、気持ちが悪い。いっそ、ずっと下を向いていてくれたら、楽なのにとすら思ってしまう自分が恥ずかしい。
「周りの人と、数分話し合って……ああ、数分っていうのは、えっと……この時計で十時五分まで、お願いします」
どうぞ、と合図を出した途端、一気に騒がしくなる教室。ちら、と梵くんの席に視線を流したけれど、陽光を受けながらたたずむ彼と視線が合うことはなかった。
それがなんだか虚しくて、私は教卓の下で固く拳を握りしめた。
*
結局、話し合いをしてもまともな意見は出なかった。誰もが「きっと誰かが出してくれる」という発想でいるため、当然意見が活発化するはずがない。そのくせ、かろうじて出た【おにごっこ】という案に、「日焼けする」だの「走りたくない」だのと文句ばかり言うのだ。
所詮、おにごっこも妥協案でしかなかった。なんとかしぼりだしたものなのだけれど、一定数(特に女子)が断固反対の姿勢を見せているのでなかなか説得は難しそうだ。
なかなか決まらないようすを見ていた担任が、視線だけで催促してくる。なんて理不尽で、冷たい視線なんだろう。
「じゃあ、おにごっこ反対派の人は代替案を……」
「えー。そう言われると困るよねぇ」
「特にやりたいこととかないしー」
私の言葉を遮るような口調に、ぎゅっと口を引き結ぶ。
────みんな、みんな無責任だ。どうして私がこんな役目を背負わなくちゃいけないの?
そもそも私は風紀委員なのだ。私を何でも屋のように扱って平然と内職をする先生に、騒がしいクラスメイト。誰もいない、味方じゃない。この教室は完全にアウェイ。
全然ぜんぶ、だいっきらい。
この空気も、雑音も、視線も、すべてが嫌い。気持ちが悪い。
「司会進行してくださいよぉ。こんな話し合いはやく終わらせて自由時間にしよー」
田中さんが間延びした声で言うと、周りも「そうだそうだ」と同調しだす。
そんなの、私だって分かってる。はやくこんなの終わらせて、席につきたい。クラスメイトからは見えない、教卓で隠れている私の足は、ぶるぶる震えて止まらないのだから。
「花宮さん、そろそろ多数決をとったほうが……」
彼がすべてというわけではないけれど、限界を迎えるきっかけは神立くんのその一言だった。怯えるように眉を下げたまま、おそるおそると言った口調で告げてくる。こんなに弱気で、よく学級委員が務まるものだ。いや、普段は女子学級委員の坂田さんが持ち前のリーダーシップを発揮してクラスを統一しているので、彼はぐいぐい前に出るタイプではないのか。
(でも、書記してる神立くんがそれ言う……?)
分かっているのだ、そろそろ決めなければならないのなんて。でもどうしようもできないから困っているのに、他人事みたいに安全な場所から指摘するだけの彼の弱さが気に食わない。
「……っ!」
また襲ってくる、吐き気。体の不調であることは間違いないのだけれど、私の身体が吐きたがっているものは、『ことば』なのだと理解した。
洩れてしまわないように口を押さえてうつむく。
「花宮さん?」
近くから、神立くんの声がする。突然俯いた私に、教室中の視線はきっと集まっているのだろうと、ぼんやり思いながら顔を上げることができない。
しばらく耐えがたい沈黙を響かせていると、ふいにざわっとクラスの空気が動く音がした。明らかに何か特別なことが起こっている。雰囲気としてそれは感じられた。
「花宮」
耳元で囁かれた私の名前と、直後、掴まれた腕。それが誰なのかは、顔を見なくても分かった。分かってしまった。
「お、おい! 梵、花宮を連れてどこへいく。授業中だぞ」
「どう見ても限界じゃないですか。こんな授業より大事なこと、しにいくんで。多分今日は戻ってきません」
「ふ、ふざけたこと言ってるんじゃない。お前たちがそんな変なことを言ったら、ほかの生徒に示しがつかないだろう」
「先生は僕たちをなんだと思ってるんですか。僕らはただの生徒です。ちょっと優れてて、反論しないからって仕事を押し付けるのは、どうなんでしょうか」
梵くんは一息で言い切ると、私の顔を覗き込んで少し笑う。そして勢いよくドアを開け、私の手を引いて廊下を走り出した。
「梵! 花宮!」
後ろから追ってくる担任の声を振り切って、全力で走る。
授業を抜け出す、なんて。
いけないことをしているはずなのに、頰を流れる風がやけに心地良い。まるで目の前の靄が晴れて道が開けていくように、今の私の心は晴れやかで、どこまでも澄みきっていた。
*
『立ち入り禁止』
そんな言葉とともに固く閉ざされたその場所。小、中、高。いつもそこは入ることができなくて、ずっと憧れでもあった。
どんな世界が広がっているのだろう、どんな景色が待っているのだろう、と。もちろん、"真面目"な私は一度も立ち入ったことがない。
「梵くん、屋上って鍵がかかってるんじゃ」
「それはどうかな」
悪戯っぽく笑った梵くんは、屋上の取っ手に手をかけて捻り、そのまま身体でドアを押した。途端、ギイイと音を立てて開いていくドア。びゅうっと風が真っ正面から私の顔へと吹いて、新しい世界へと誘うように私の手を引いた。
「開いてる……」
「所詮フェイクだよ、こんなの」
ふはっ、と笑った梵くんは、先に屋上へ足を踏み入れてから、振り返って私に手を伸ばす。
逡巡していると、誘うような視線を向けた梵くんは、ふはっと相好を崩した。
「今日だけ、悪いことしちゃおうか」
それは、私たちの時間が始まる魔法の言葉。私たちの"今日だけ"の有効期限はいつまでだろう。毎日更新されていくから、わからない。
おずおず手をとると、そのまま強く引かれてあっという間に禁止区域へと進んでしまった足。
「わっ……」
視線を上げて、瞠目する。
一面の、青。雲ひとつない青空が、私たちを迎えるように広がっていた。
「どうせ追ってこないよ。みんな、俺たちがここにいるなんて思いもしないだろうからさ」
まさか、屋上だなんて。授業を抜け出し、立ち入り禁止というルールを破ってこんなところでサボっているだなんて。絶対、思わないだろう。
私がこういうことに憧れを抱いていたことも、梵くんがこんなふうに優しく笑うんだってことも、屋上から見える空がこんなにも青くて何もかも吸い取ってしまいそうなことも。
きっとなにひとつ、誰一人として知らないだろうから。
「吐きなよ、全部。溜め込んでも、苦しくなるのは自分だけ。その苦しみを誰かにわかってほしいなんて、そんな都合のいい話はないよ。自分のことは、自分でどうにかするしかないから」
「っ……」
厳しい口調だった。だけど、ストンとまっすぐに胸に落ちてくる。
我慢してえらいね、苦しいね、いい子だね、あなたはよく頑張ってるよ────。
私は、そんなことを言われたいわけじゃない。褒められながら我慢を強いられるより、叱られてもいいから自由になりたい。
「真面目すぎる自分が嫌なら、それを卒業するために努力すればいい。心のうちを吐露するのは、真面目卒業の第一歩なんだから」
「っ……」
唇が、ふるえる。ガラスを通したみたいにバリアを張っていた心が、叫びたくてたまらないと震えていた。強く吹く風に乗せて、鉛のような感情を吐き出す。
「全部、ぜんぶ大っ嫌い!!」
ついに出てしまった本音。今までは心の中だけで押しとどめていたのに、出てきてしまった────ようやく出せた、本当の気持ち。
「先生も、お母さんも、みんなも嫌い。卑屈な自分も嫌い。田中さんも、南くんも、みんなひどいよ……!」
汚い言葉が、鮮やかな空へと吸い込まれていく。いっそこのまま自分も溶けてしまいたいと思った。
「そうやってたまに発散すること、大事。花宮はすぐ無理するからさ」
「梵くん……ありがとう」
「なにが?」
「すごく、楽になった」
はぁ、と息を吐きながら、まっすぐに彼を見つめる。陽光を浴びて煌めく髪の一房が彼の顔にかかり、いっそう儚さを増していた。
綺麗だ、と思う。思わず手を伸ばして、彼に触れそうになった────その瞬間。
「うっ……」
突然顔を歪めて、お腹のあたりをおさえた梵くんは、そのまま私から離れるように後ずさった。
「えっ」
想定外の反応に、あたふたする私。眼鏡の奥で苦しげに細められた瞳が、ゆらゆら揺れながら地面を彷徨っている。
「だ、だいじょう、ぶっ……!?」
空気が変わった。そんな感じだったと思う。
今まで流れていたおだやかなものとは一変、緊迫していてかたい空気。何か大切な情報が、彼の様子から伝えられているような予感がした。けれど、そういうものにかぎって、その"何か"が何を意味するのか、気づくことができないもので────。
「たまにね、ちょっと痛くなるんだ。ストレスからくるものらしいから、突発性で困っちゃうよ」
へらっと笑った梵くんを見て、たまらなく湧き上がってくる安堵。ほっと胸を撫で下ろしたこのときの私は、彼の身体から噴き出している汗や、違和感を抱くほどの顔色に気づくことなんてできなくて。
「花宮、景色を見てよ。こっち、来て」
なんでもないように微笑みながら手を差し出す彼と、その先に広がる美景をただ見ることしかできなかった。
*
家に帰ることが、億劫だった。
このドアの先で待ち受ける仕打ちを想像しただけで、どこかへ逃げ出したくなった。今日一日、何度も何度も振動していたスマートフォン。着信はすべて母から。
きっと、学校からまた連絡が入っているのだろう。しかも内容が内容なだけに、母の怒りは最高潮だ。今日のことに関しては、文字に起こすとどう考えても私が悪い。
『授業を抜け出し、屋上でサボりを働いた』という事実は、どうオブラートに包んで誤魔化そうとしても、無理だ。
でも、自分にとってこの出来事は大切なことだった。だから後悔はしていない。悪いとは思う。当たり前だ、私も彼もわかっていながら『悪いこと』をしているのだから。
また、殴られるのだろうか。それとも、今度は蹴りが飛んでくるかな。
どちらにせよ、痛いんだろう。すごく、痛いんだろう。
梵くんと楽しいことをすればするほど、そのあとにみる地獄が怖くなる。比例する痛みが、いつも私を襲ってくる。
覚悟を決めてドアを開けようとした瞬間、ふいに後ろから「花宮さん?」と声がかかる。驚いて振り返ると、そこには部活のジャージを着た南くんが立っていた。
「南くん……どうして」
「あ、いや……ちょうどランニングで通りかかったからさ」
頰を紅らめた南くんは、はあっと白い息を吐き出して、黒い瞳で私を見つめる。はりつめた空気が、風に冷やされてさらに緊迫したものになる。
「っていうのは建前で……本当は、花宮さんに会えたらいいなって思って来たんだ」
「え……?」
「今日途中でいなくなったから、心配で。家にいるのかなって思って……って、ストーカーみたいですごく気持ち悪いよな、ごめん」
気まずそうに視線を逸らした南くんは、「でも」と言葉を続ける。
「花宮さんに会いたかったのは事実。元気そうで、よかった」
互いの吐く息は、白い。紺色の世界にのぼっていく白は、薄暗い海底から海面へとのぼってゆく泡のよう。
────あれ。
嬉しいことを言われているはずなのに、ひどく冷静で、体温の一度も上昇していない自分がいることに驚いた。以前の私ならその言葉だけで浮かれて、この先の仕置きなどまったく痛いと感じなかっただろうに。
「じゃあ、花宮さんまたあし────」
「すみれ、あなたねえっ!!」
南くんの声に被せるように降ってきた怒声。びくりと肩が跳ねる。
久しぶりだ。いつぶりだろう、名前を呼ばれたのは。
南くんの存在に気がついた母は、少しだけたじろぐような表情を見せたけれど、すぐに般若のような顔に戻る。
「すみれと一緒にサボったの、あなた?」
あろうことか、南くんへと詰め寄り、説教を始めようとしたのだ。これには我慢できなくて、たまらず二人の間へと躍り出る。
「南くんは関係ないよ! やめて、巻き込まないで!」
「うるさいわね!」
バシッ、と強烈な痛み。だけど身体としての痛みよりも、この瞬間をクラスメイトである南くんに見られてしまったという衝撃の方が大きかった。情けなくて、申し訳なくて、消えたくなる。
目を見開いた南くんが、私を背中に庇って立つ。そんなことをさせてしまっていることが本当に苦しくて、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
「今日は家に入れないから! 反省しなさい!」
ヒステリックな声とともにバタンと閉まったドア。
家の中で受ける身体への痛ぶりよりもずっと、今の方が痛い。
「ごめん、ごめんね、南く……」
「静かに。行こう、花宮さん」
謝罪を遮った南くんは、私の手を引いて夜の道を歩き出した。
「今のは、その……」
公園のベンチで、必死に言葉を手繰り寄せる。どうにかして繕わないと。ごまかさないと。そんな思いだけがぐるぐると頭の上を回って、はやくはやくと気持ちを焦らせる。
「別に言わなくていいよ、何も聞かないから。それよりも、今日これからどうするか考えよう」
そう言いながら、近くにあった自販機で南くんが買ったのはコーンポタージュ。視線を上げると、「はい」とぬくもりを手渡される。
「……ありがとう。あの、お金は」
「そんなの俺の奢り。真面目だなあ、花宮さんは」
真面目とかではなく常識なんじゃ……?と思うけれど口には出さずありがたく受け取る。
「あったかい……」
コーンの甘さとスープのあたたかさが冷え切った身体と心を包み込んでいく。微かに笑った南くんは、ふいにじっと、私を見つめた。
「な、なに……?」
「あ、いや。花宮さんって、そんなふうに笑うんだなって」
「え?」
「学校ではいつもかたい顔してて、その、なんていうか。うん、やっぱなんでもない。忘れて」
よくわからないけど、なぜかアタフタする南くんは気を改めるように咳払いをして、虚空を見つめた。
「俺に何かできることがあったら、何でも言って。その……俺んちに空き部屋もあるからさ、力になれるかもしれないし。一日寝泊まりすることくらい────」
「花宮!!」
被さるように夜の公園に響いた高い声。鼓膜を震わせた瞬間、じわりと心があたたかくなる。
「藍琉……?」
驚いたように目を見開いた南くんに目もくれずに、迷いなく私のもとへと駆け寄ってくる、彼。
「ごめん。会話がちょっと聞こえてきたから、つい」
「何がつい、だよ」
柄にもなく苛立ったようすの両者。静まり返っていたはずの公園が、ひどく騒がしくなる。
「とにかく、花宮は俺が預かるから。悠太はもう帰っていいよ」
「藍琉に言われる筋合いはないんだけど」
悠太、藍琉。二人がそんなふうに下の名前を読んで、荒っぽい口調で話すような仲だとは思っていなかった。
二人のことを私は何も知らないんだなとしみじみ思っていると、「行くよ」と声を上げた梵くんが私の手を握った。
「ちょ、ちょっと待って」
手を引かれて駆け出す前に、くるりと振り返る。街灯だけが灯る闇の中で、南くんがこちらを向いて立っていた。
「ありがとう、南くん。すごくすごく助かりました」
「花宮さん」
「私も会えて嬉しかった。あと、コーンポタージュも、ありがとう」
それだけを伝えて、梵くんに引かれるまま夢中で走る。今の出来事で分かってしまった自分の気持ちをかき消すように。
(私はきっと────)
差し込む月光が、心の奥底に眠る気持ちをすべて露わにしてしまうようで。
私はそっと、繋ぐ手に力を込めた。
*
「お邪魔します……」
促されるまま靴を脱ぎ、梵くん宅へとお邪魔した……のだけれど。やけに静かな家の中に、違和感が膨らんでいく。
夜だし、もしかするとみんなもう眠ってしまっているのかもしれない。そう思い込んで安心に落とし込もうとしたのだけれど、だとするとかなりやばいのでは……?とまたすぐに不安に変わる。
だって寝て起きて家に見知らぬ女子がいたら、普通は驚くのではないだろうか。いくら息子の友達だとしても……いろいろ思うところがあるだろう。
「梵くん、親の方は」
「ああ。俺片親で、母さんはたぶんリビングにいると思うけど。俺から言っておくよ」
「だめだよ、挨拶させて」
ぶんぶん首を振ると、「必要ないのに」とため息を吐いた梵くんはリビングへと引っ込んでいった。それから梵くんの後ろにつづいて、細身の女性が顔を出す。
「こんばんは。私、梵くんのクラスメイトの花宮すみれといいます。事情があり、今夜お世話になることはできますでしょうか」
「ああ、そうですか。はい、わかりました」
その受け答えに、また違和感。言及することも、不思議に思うこともなく。ストン、と。
受け入れるというより、端から興味がないような。
「ね。必要ないって言ったでしょ」
私の家庭とは全然違う。うちは異性はおろか、同性の同級生すら家にあげてはならないのだから。
夜、アポ無しで突撃しても忠告の一つすらないなんて。私がいうことではないかもしれないけど、それでもどこかおかしい。
けれど、もしかすると私の家が異常なだけで、一般家庭はみんなこんな感じなんだろうか。娘や息子が家に誰を連れ込んでも、平気なの?
「部屋はこっち」
案内されるまま部屋に入る。ここはどうやら、梵くんの部屋らしい。
「ベッド、好きに使ってくれていいから。俺は他の部屋で寝るし」
「気、遣わせちゃって……ごめん」
「別に。じゃあ、おやすみ」
パタン、と閉まった扉。春のにおいがする部屋は、どこか別の世界みたいだ。
「梵くんの、へや……」
思えば、暴力に怯えなくていい夜は久しぶりだった。
ベッドにすがるように座って、しばらく天井をながめる。
(すごく濃い一日だったな……)
最近は一日の密度が濃い。楽しさとつらさが半分の割合で混ざっていく日常。だけど、もうこんな迷惑はかけられないから、楽しい日常から卒業しなければならない。また、地獄へと戻らないといけない。
楽しさが増えるたび地獄と迷惑が増えるなら、私はどちらも捨てることを選ぶ。
そんなことを考えていると、ゆっくり睡魔が襲ってきて、私は静かに意識を手放した。
*
それから、何事もなかったかのように過ぎ去っていく日々。だけど少し前とは違うところがあるとするならば。
南くんの、私を見つめる瞳が以前より柔らかくなったこと。そして、梵くんが学校を休みがちになったということ。
後者は私にとって大問題で、日に日に心配が募っていく。けれど学校に出てきた日はいつもと変わらないようすだから、余計に困惑するのだ。
そんなある日のことだった。三日ぶりに登校してきた梵くんは、私のもとへと近づいてきて、躊躇なく手をとった。クラスメイトがいるにも関わらず、なんの恥じらいも見せない梵くんに私の方がアタフタしてしまう。
「そ、梵くん……?」
「ちょっと、きて」
「えっ……」
ざわざわ騒がしくなる教室。すれ違う担任が「またお前たちか」と声を上げているのが聞こえた。だけど、梵くんは止まらず小走りのまま、廊下を進んでいく。きっと彼が向かっているのは屋上。
トクン、トクンと期待で胸が高鳴っていくのを感じながら、あの夜の誓いを思い出して私は思わず、その手を振り払ってしまった。
階段の踊り場で、まっすぐ向かい合う。梵くんは驚いたような、悲しそうな色を瞳に交えていた。ぎゅっと胸が締め付けられるけれど、私の境遇的にこれ以上はダメだということも痛いほど分かっているから、私は彼の視線を振り解くことしかできなかった。
「もう、今までみたいなことはできない。梵くんと過ごした日々が楽しかったのは事実。だけど、もうこれ以上巻き込めない。私、やっぱり真面目卒業はできないみたい。真面目卒業するための単位が、手に入る状況じゃないの」
お金がなければ、学力がなければ、行きたい高校にいけないように。家庭環境が最悪な私は、『真面目卒業』など到底できやしない。最初から不可能なことだった。
だけど、紛れもなく楽しかった。あんなに楽に息を吸える日が来るなんて、思いもしなかった。
「今までありがとう、梵くん。でも、ごめんね」
ぼろぼろ。
「あれ、おかしい、な」
涙が溢れて、止まらない。膨らんでしまった想いは、どうしたって消えてくれないのに。
切ない、苦しい。こんな気持ち、知らない。
「またそうやって誤魔化す。泣いてるじゃん、素直にならないと」
そう言って引き寄せられて、また溢れる気持ちは。たとえ嘘をついてでも隠さないと、なかったことにしないと、いけない状況だから。
もし、私が一般家庭に生まれて、愛されて育っていたとしたら。おかえりと言って迎えてくれる家族がいて、私の行動を見守ってくれて、褒めてくれて、心配してくれたならば。
きっと私は梵くんと一緒に、これからもいられたはずなのに。今は、梵くんの何も知らない故の言葉が、心臓を突き刺してくる。
「梵くんには……分からないよ」
鈍い感情を含んだ声が洩れる。一瞬、梵くんが息を呑んだのを見て、私は迷うこともしないままその先を続けてしまった。
「あんなに家族に優しくされて、大切にされてる梵くんには分からないよ。何をやっても、どんなことを言っても許される梵くんと私は違う」
あんなふうに、子供のすることに干渉しない親だったら。殴ったり蹴ったり、家から追い出したりしない親だったら。そしたらなにか……変わっていたのかな。涙とともに、血反吐のように溢れ出す言葉。
「梵くんの立場で、梵くんの生きてる環境だったとしたら簡単なことかもしれないけど、だけど私は────」
「花宮だって分かってないじゃないか」
「なにが」
「俺がどんな気持ちで毎日生きてるか、どんな世界で生きてるかなんて知らないだろ。家族に大切にされてる? どんなことをしても許される? それがどれだけつらいか、花宮は分かんないだろ。腫れ物みたいに扱われる気持ちなんて知らないだろ。俺は……花宮が羨ましいよ」
「なにそれ、意味わかんない……!!」
羨ましい。その言葉すら皮肉に聞こえて、カッとなった私は振り返ることなくその場を逃げ出した。
あれのどこが羨ましいのだろう。なんにも、知らないくせに。
引きとめてくれるかもしれない、と少しだけ期待したけれど、梵くんの声が背中を追いかけてくることはなかった。