夜中、きっともう明け方に近かっただろう。三時半とか、四時とかそんな微妙な時間帯俺は目覚めた。起きた瞬間から張り詰める空気が違うように感じる。酷く胸騒ぎがして、息が苦しかった。こんなこと、今まで経験したことない。けれど、これを見過ごせば後悔する。本能がそう言っている。
二度寝なんて出来るわけがなかった。むせるような肺への圧迫を堪えて俺は部屋を飛び出す。薄暗い廊下に間隔の空いた蛍光灯が三つ。ほとんど視界は黒で塗りつぶされているのに何故だかそれははっきりと俺の目に映った。

「紙……?」

ドアノブに紙が括り付けられている。両隣の部屋をさっと確認しても、どの部屋にもそれは括られておらず俺だけのようだ。結び目を解いて部屋に持ち込む。部屋の電気をつけることも忘れて慌てて紙を開いた。
最初は何も見えなかった。だが、暗闇に慣れた瞳は段々とその文字を浮き出させる。



『さよなら。ありがとう   むすび』



その文字が見えた瞬間俺は膝から崩れ落ちた。倒れたフローリングの床が冷たい。ああ、そういえば息をしなきゃな。あれ、いままでどうしてたっけ。息ってどうやって酸素を吸って、どうやって二酸化炭素と幸せを外に吐き出すんだっけ。
嘘なんだ、これは。きっと悪夢なんだ、それかドッキリなんだろう。鳥籠の住民は皆悪戯好きだもんな。

「なぁ……誰か否定してくれよ。俺が……暴走するのを……咎めて」

止める手も、叱る声も何もない。
ただここにあるのは、俺の空っぽの心とむすびが死んでしまうという事実だけだった。
諦めたくない。失いたくない。そんな正義のヒーローみたいな考えはない。
まだ何も俺は恩返しできていない。
俺はここに来てからずっと、ずっと、君に貰いっぱなしで。友達の作り方も、名前も、息の仕方も、君が与えてくれたもの全てで構成されたのが俺という存在だとしたら、何一つ返せていない俺はどうして生きているんだろう。
俺に全てをくれた君がどうして死ぬの。

「息をしてくれなきゃ……何もしてやれない。俺に会いに来てくれなきゃ、言いたいことすら言えないだろうが」

俺はこの期に及んでまだ駄目人間みたいだ。君から会いに来てくれることばかり想像して、自らは動こうとしない。
自分のことだから自分が一番よく分かっている。
怖いのだ、命を失う瞬間を目の前で見届けるのが。

「怖いなんて、今更何言ってんだよ俺。もう十分だろ。一体今まで君からどれだけの幸せを貰ってきたと思ってるんだ。そんな君が一人で逝くこと以上に怖い事なんてないだろ。そんなの許されちゃ……駄目だろ」

脳裏で君の笑顔が弾けた。
気づけば俺は走っていた。
無我夢中で足を前へ前へと動かす。君が何処にいるのかは検討がついていた。誰にも見つからない場所、教会の近くの森だ。
薄明かりの街灯を頼りに道を進む。息が苦しい。立ち止まって一度深呼吸したい。このままじゃ肺が潰れてしまう。
けれどそれ以上に会いたかった。
はやく、夜が明けてしまうより早く、死神が君の命を刈り取るよりも早く、君に会いたい。会えなきゃ嫌だ。君に逢いに行くんだ。
涙が溢れた。俺は初めて泣き方を知った。
嗚呼ほら、また君のお陰で新しいことを知ってしまう。こんなの、知ったってどうしようもないのに。一度覚えた涙の形は留まることなく頬を流れ続ける。
走って、走って、走った先に少女の後ろ姿があった。

仰向けで倒れるその横顔は月の光を浴びて、きらきらと輝いていた。

「むすび」
「……こんぱる?」

君は驚いた表情を浮かべて振り返る。澄んだ瞳に星が映り込んで綺麗だった。

「……皆に伝えちゃった?」
「いや、俺だけだよ」
「じゃあいーや。こっちおいで、こんぱる」

君は意外にも飄々としている。あんな紙を残したのだからてっきり慌てふためいてるのかと気にしていたのは杞憂だったようだ。
俺は素直に君の隣に腰を落とす。君は俺と目を合わせようとはしない。真っ直ぐ前を向きながら語った。その瞳は遠くの遠くを捉えていた。

「私ねぇ最初から分かってたんだよ自分の寿命」

俺は思わず「え……」と声が漏れる。
知っていた?自分が死ぬことを。
何で?誰か教えたのか。
まさか、俺が口を滑らせた?
脳内で様々な憶測が飛び交う。
そんな俺の心情を察してか、君は小さく首を振った。

「この世界を作った人が血迷ったのか知らないけれど、最初に目覚めた時にね隣に本が置いてあって自分の名前と名前の由来と寿命について書かれてたの」
「……なんて書いてあったか聞いてもいいか?」
「お前の……お前の寿命はあと二カ月で尽きるからその前に自分の出来ること、したいことを精いっぱいしなさい。むすびという名前には誰かと誰かの心を『むすぶ』という意味が込められているから、いずれ現れるたくさんの人々と心と心を結んで救ってあげなさいって書いてあった。だから私は出来るだけたくさんの人と出会って、友達になって、皆で盛り上がって」

君はそこで言葉を一度区切る。ふっと横を盗み見ると、目尻に涙を溜めて今にも泣きだしそうな少女がそこにはいた。

「最初は救ってあげなさいって命令から出来た友情なはずなのに……気づけば打算なしに皆のことが好きになってて……その度に苦しくて。
 皆優しいから、きっと私が死ぬって知ったら泣いちゃうだろうなって思った。けど、こんぱるは私が死んでも泣かなそうだからさ、唯一最期に一緒にいてもいいなって思えたの」

胸が軋む音がする。
そうか、君は俺と仲が良いから選んでくれたのでなく、消去法だったのか。
期待してはいけなかったのに期待してしまう。傷つくのは自分だと言うのに、俺は学んでなかったようだ。

「ふふ、重大な役目かな?突然ドアに手紙があって吃驚したでしょ」
「もし俺が間に合わなかったらどうしてたんだよ」
「その時はその時だね。一人で勝手に石になってるよ。……でも来てくれるって確信があったからね」

それは、ずるいだろう。
さっきからずっと心臓の音がうるさい。心臓だけじゃなくて全身を巡る血が脈打って、網膜や鼓膜や骨髄まで揺れている。
緊張と高揚、今の俺は少しおかしくなっている。

「こんぱるにはね、私の伝言を私が居なくなった後伝えてほしい。もし君が来てくれたら、言おうって思ってたことがあるの」

なに?と問いかけようとした瞬間右手に温もりが伝わった。
俺の手は白く細い指に絡んでいる。
思わず目を見張ると、君はようやく俺と目を合わせた。鮮やかな青の瞳がきゅっと細められる。
俺は、圧倒されて何も口にできなかった。

「私は鳥籠の外に羽ばたいていったよって」

君は石になって縛られるんじゃなくて、この体から解放されるんだ。羽を大きく伸ばして羽ばたいていく、君にとって死とはそういうものらしい。

「むすびは後悔はないのか」

俺は無意識にこんなことを聞いていた。君は当たり前のように笑う。

「ないよっ!だって幸せだったもん。前世で何をしていたかなんて分かんないけれど、いつの時代を生きていた私よりも一番満たされていたって言いきれる」
「……俺は後悔ばかりだよ」
「なんでこんぱるが、」
「むすびを救うことばかりに気を取られて、肝心なことに今気づいたから。もう少し早く気づければ良かったなと思った」

君がいつもしているように口角を上にあげる。眉を下げれば俺は自然に笑みを浮かべていた。

「ありがとう」

俺は言葉を忘れていた。
心で抱くだけでは何も伝わらないというのに、一人で勝手に募らせて一度だって自分の感情を言葉にのせて誰かに吐いたことはなかった。

「たくさん俺に与えてくれてありがとう」
「なーに?急に、いつものこんぱるらしく無いじゃん」
「君は俺の希望だったよ、いつだって」
「……くさいセリフを言うね」
「むすびは自分の石言葉って知ってる?」

君は静かに首を振る。

「誇り高き人物、希望、それが君の言葉だ」
「えっ」
「だから、一人で死ぬ必要はないんだ。君はここの全員の希望で皆が誇れる人物なんだから」

君はもう一度泣きそうな顔で笑った。
俺だって涙が溢れそうだったけれど今は全ての力を、想いを、言葉に込める。

「負い目を感じるな、悲しませるなんて思うな。むすびがいなくなっても、君がしたことが消えるわけじゃない。君は誰かに悲しまれるくらい沢山の人に沢山のことを与えたんだって自分自身を認めればいい」
「……私は、私の使命を遂行できたと思う?」
「ああ、立派にやり切ったよ」
「そっか……よかった」

安心したような表情になったあと、隣の少女は芝生に倒れ込む。もう起き上がる力が無くなってしまったみたいだ。
俺も真似して隣に寝転んだ。木の縁が紫に染まる。夜明けは近い。

「一つだけ……聞いてもいいか」

首を傾げる君、キラキラと輝く瞳が俺の顔を反射させる。

「もし、番おうと言ったら……俺と番になってくれたか?」

一呼吸の後、君は目を逸らす。

「……秘密だよ。ただ、あえて言うとしたら」
「……?」
「出会えてよかったよ、こんぱる。私がみんなの希望だとしたら、君は私にとっての希望だ」
「そんなわけ、」
「他じゃない私が言ってるの。最期くらい素直に受け止めなさい」

柔らかい表情、やっぱり俺は君のことが

「ありがとう」

俺から力ない声が漏れた。繋がれていた右手の力がプツっと糸が切れたように脱力される。ハリと柔らかさを失ったその手が滲んでいく。目から零れた涙が君の手のひらを濡らした。
やがて少女の体は光を纏う。不謹慎だが綺麗だと思った。蝶が羽ばたくとき同時に鱗粉が舞うような、そんな神秘さを持ち合わせている。
君の肌から、伏せられた睫毛から、鮮やかな青色の髪から一度全ての色が抜け落ちて真っ白になった。
次の瞬間、一滴の青のインクが落とされる。
水の波紋をなぞるように青はゆっくりと君の体を染めていき、やがてそれは小さな石になった。

タンザナイト

深い青と淡紫色が淡く光る幻の宝石。
瞳にそれが映りこんだ瞬間、何故だか堰を切ったように涙が止まらなかった。
悲しいのによかったなんて感情が沸き上がる。
ようやく解放された、元の姿に戻れたと石が喜んでいるような気がした。

「すまない、許してくれ泣くことを」

喉の奥で堪えていた嗚咽と共に俺は泣いた。笑うことも泣くことも今日一日で学んでしまった。教えてくれたのは君だ。

『こんぱるは私が死んでも泣かなそうだからさ、唯一最期に一緒にいてもいいなって思えたの』

君の言葉がリフレインする。
そんなの無責任すぎるだろう、むすび。
俺が悲しまないと思ったのか?俺が泣かないなんていつ言ったんだよ。
誰よりも君を想っている。誰よりも君を救いたかった。誰よりも後悔ばかりで、誰よりも君が居なくなったことを認めたくなくて。
そして誰よりも


「愛してるなんて言わせんなよ……」


葉が光を透かし、掌の小さな鉱石を反射させる。朝日だった、夜は明けたようだ。
俺の希望は、初めて出会った時と同じ姿になってしまった。
けれど、それでもいい。また一からやり直せばいい。この世界で出会えなくても、次の世界で出会えばいい。
君はここにちゃんといる。小さくなってしまったし、動かないし、喋れない。でも、今だって光を受けて煌めいている。俺の折れそうな心を必死に繋ぎとめてくれている。
俺はその光を辿ってまた前に進むのだ。辛いけれど、悲しいけれど、やるせないけれど、失った君が大切にしていた仲間に向き合おう。忘れてしまうことを恐れて、立ち上がる事すら諦めるのはもう辞めだ。覚えていなくたって何度も話かければ、いつかは忘れないでいられるような気がした。
と言ってもそう簡単な話じゃない。

「むすび」

顎から滑り落ちた雫が、青紫の上で水滴をつくる。

「俺はこれから更に苦しいことが待っているだろうな。むすびを救おうと必死になってた時より大変だと思う時期がくるかもしれない」

そんな時
もし、もう一度俺の前に現れてくれたら。

「……どうか、笑って俺の名前を呼んでくれ。今度はちゃんと覚えているから。むすびが俺のこと何も覚えていなくても、この名前は君がくれたんだよって俺が教えるからさ。……むすびに貰ったもの全部君にまた伝えるからさ」

そんな奇跡が鳥籠の中で起こりうるのかは誰にも分からない。
けれど、願うくらいはいいだろう。君を糧にして生きると誓ったのだから。
午前五時半、朝焼けの空に青が溶けていく。
少年はただ一人の少女を想っていた。
ずっと、ずっと。