「っは……ぁ、はぁ……」
最悪な目覚めだった。俺は飛び起きるなり、首に手を当てた。脈がある、生きている。あれが夢だと分かると、俺はほっと息を吐いてまたベットに倒れこんだ。額に滲んだ冷や汗が止まらない。
この世界に来てから何度も何度もこの夢を見た。
始めに来た日だってそうだった。悪夢から目覚めると知らない場所で深い眠りについていて、今はたくさんの部屋に掛けられているネームプレートも数個しかなくて。
色々な部屋をうろうろと彷徨っていると誰かに会ったような気がする。そこで数分立ち話をして……。
「まただ、また思い出せない」
俺は1日で人の記憶がなくなっていった。その日見たもの、読んだ本の内容、香り、味、生命を感じられないものは全て覚えていられる。
けれど、その日に出会った人、交わした言葉、一度眠ってしまえば全て忘れて、忘れてしまわないように寝ずにいようとしても、12時になれば強制的に意識がシャットダウンして気づけば朝になっている。
「おはよう」と気さくに話しかけてくれた人が誰なのか分からない。
「大丈夫?」と心配してくれた人の名前も、心配してくれたことさえ覚えてはいられない。
その度にずっとずっと罪悪感ばかりが募って、そのうち手を差し伸べてくれる人に申し訳なくなって、俺はこの自由な世界で誰とも関わらずひっそりと暮らすようになった。
「今日はどうしよう。教会の隅で読書でもしようか」
予定が決まれば話は早い。コーヒーメーカーでコーヒーを淹れている間にワイシャツに着替え、ネクタイを締める。
気づけば赤いランプが点滅していて「私を忘れないで」と主張していた。
「……忘れてないよ」
俺は茶色の液体を3口、口に含むと部屋をあとにした。
まだ空は暗い。暗いうちから行動しないと誰かにエンカウントしてしまうから、俺の移動は基本早朝が深夜だ。草木を分けて、裏道を進んでいく。これが恐らく最短ルートだと信じている教会への行き方だった。数分後、白を基調とした建物が見えてきて、誰もいないことを確認すると俺は入口に足を踏み入れる。
ここにくると胸のざわめきが少し落ち着く気がした。誰にも会わない、誰も傷つけない。それだけで胸のつっかえが消える。読書に熱中すればその効果は相乗され、その時だけ俺はこの世界で存在していいように思えた。
昨日の続きのページを開く。栞を捲ればそこには一際大きいフォントでタイトルが綴られていた。
「タンザナイトの驚くべき秘密……」
タンザナイト……。何故か分からないが胸がズキッと痛む。どこか体がおかしくなってしまったのか?けれど体の不調は感じられない。妙だなと思いつつ先に進むことにした。
『読者の皆さんは、タンザナイトという宝石をご存知だろうか。
澄んだブルーとバイオレットのグラデーションが特徴的な鉱石だ。その美しさから人気が向上しているのだが、その鉱石には一つ欠点があることはご存知だろうか』
これ以上は読みたくない、本能的にそう感じた。ここで本を読んでれば気分が楽になるはずなのに、今日は息が重かった。肺が押しつぶされて、文字が歪んで、体が文章を拒否しているようだ。
「こんなこと……ここに来て初めてじゃないか……?」
でもこれだけ拒否反応が出てるのだ。きっと知ってはいけないし……知らなければいけないことなのだろう。
誓う、ここに書かれていることは俺だけで受け止めるから、誰にも口外しないから。
どうか許してくれ。
俺が知ることを咎めないでくれ。
ふっと体に取り憑いていたものが消えたような気がした。目の前の違和感も消え、また先ほどと同じように文字が読めるようだ。
「これは契約みたいなものなのか……?」
俺が心の中で約束したから、知ることを許された。それは同時に俺が約束を破れば、俺はこの世界から消されてしまうことを意味していた。
覚悟を決めろ、俺。
瞬きを一度。震える指で隠していた次の行に目をやる。
『この鉱物はダイヤモンドの1000倍の希少価値があり、寿命は僅か10年と言われている』
呼吸が止まった。記憶から何かが一気に溢れてくる。
深海、青色、宝石、光、笑顔、希望、タンザナイト、むすび、むすび、むすび
「むすび……っ」
俺の希望は……消える運命だった。
「駄目だ……タンザナイトだけは……駄目なんだ」
不思議だった。ここに来る前の深い眠りで出会ったことのない少女が微笑みを浮かべていて。それで俺はこの光を離してはいけないと必死に掴んだ。そうしたら少女は吃驚するほど穏やかな表情を浮かべ大丈夫だよと言ってくれた。
その瞬間、前世の記憶が抜け落ちていった。今でも薄っすら残る辛くて悲しくて消えてしまいたいと思っていた感情、それが君によってすべて浄化された。
少女の名前はむすびだ。底抜けの明るさを持つ、光のようなタンザナイトの少女だ。
そして俺は冷え切った掌を引いてくれた少女のことがずっと……。
「何で……出会ったことのない神様はどうして俺から全てを奪うんだよ……」
タンザナイトの少女はきっとタンザナイトの特徴を引き継ぐのだろう。だったら君は死んでしまう。寿命がきて、俺より先に逝ってしまう。
嫌だ。俺はむすびに生きてほしい、生きて誰よりも幸せになって欲しいと願う。
俺でなくていいから、好きな人と番になって幸せな人生を歩んでほしいと思う。
「絶対に守る」
無茶をさせないようにすれば少しでも寿命を伸ばせるのかもしれない。
手探りながらも、何か行動を起こさなければ死んでしまう。
「……まずはむすびの行動範囲を狭めなくては」
誰にも気づかれぬように行動しよう。リーダーって奴に捕まると俺はもう何もできなくなってしまう。事情を話せば約束を破ることになるので協力者を募ることも出来ない。
一人でやるしかない。
プレッシャーに押しつぶされそうだ。人の命を救う、そんなこと俺にできるのだろうか。
自問自答しながらふらふらと歩いて帰路につく。
薔薇の棘が首に刺さって、思わず顔をあげる。血が流れているけれどお構いなしに空を見上げた。朝焼けの空は俺を嘲笑うかのように眩しく鮮やかに輝いている。
突然「あっ」と鈴を鳴らしたような声が遠くから聞こえた。肩をびくっと震わせて一歩、また一歩と後ずさる。
運命とは無慈悲なものだ、今日以上にそう思わされた日はない。
「はじめまして!」
青い髪と透き通った瞳。誰に対しても愛想よく、くるくると変わる表情。
会いたくないのに、誰よりも会いたかった少女がそこにはいた。