翌日。お母さんに勘繰られるのが嫌で、私は寝不足のまま渋々通学していた。
「はぁ……」
 けれど、とても学校に行く気にはならない。教室に入ったときのみんなの視線を想像しただけで、吐きそうになる。

 このまま、どこかに消えてしまいたい。本気でそう思う。とはいえそんな勇気すら、私にはとてもないけれど……。

 キャンディさんの言葉を思い出しながら、なんとか足を前に踏み出す。けれど踏み出すたびに、足元が石になっていくようだった。

 結局私は教室に行くことができずに、保健室に直行した。

「……ごめんなさい」 
 保健室で、私は登校早々先生に頭を下げた。

「どうして謝るの? あみちゃんはなんにも悪くないよ。学校、休まずに来てくれてありがとう。偉いわ」
「……うん」
 先生は教室に行かずに保健室に来た私を、怒ることも事情を聞くこともなく、優しく受け入れてくれた。

「暑くない? 今日は湿気があるからいやねぇ」
「大丈夫……です」

 いつもの調子とまったく変わらない穏やかな、のほほんとした声で先生は言う。

「昨日は眠れた?」
「……あんまり」
 小さく首を振ると、先生は優しく笑った。
「そっか。じゃあ、少し眠るといいわ。いい時間に起こしてあげるから」

 私は素直に頷いて、一番手前のベッドに潜り込んだ。


 * * *


 それからどれくらい経ったのだろう。遠くから、ちゅんちゅんという軽やかな鳥のさえずりが聞こえた。

 ハッと目を覚まして、一瞬自分がどこにいるのか混乱する。しかしすぐに独特の白い天井と色褪せたカーテンを見て、ここが学校の保健室であるということを思い出した。 

 むくりと身体を起こすと、右腕側に重みと誰かの息遣いを感じて眉を寄せる。訝しげに思って息遣いの方へ視線をやると……。

「えっ……?」

 視線の先には、まるで絵画のように美麗な寝顔があった。
 スツールに座った茅野くんが、私が眠っていたベッドに突っ伏すようにして眠っていた。

「わっ!?」

 思わぬひとの姿に、私は大きく声を上げる。

 え、な、なんで!? なんで茅野くんが私のそばに!?

 慌てて起き上がって、ベッドの隅に寄る。

 すると、私の声に目を覚ました茅野くんがハッと顔を上げた。目が合い、青ざめる。
 咄嗟に逃げようとした私の手を、茅野くんがパッと掴んで引き止めた。

「あ、ま、待って! お願い、待って!」

 どこか切実な響きのその声に、動きが止まる。
「それ以上後退ったら、落ちるから」
「あ……」

 振り返ると、私はベッドの端ギリギリに身を寄せていた。茅野くんは私から手を離すと、もう一度スツールに座り直した。

「……驚かせてごめん。でも、ちょっとでいいから聞いてほしいんだ」

 まっすぐな茅野くんの視線に、私はベッドに座り直した。すると、私が了承したと解釈したのか、彼は静かな声で話し始めた。

「まずは昨日のこと、悪かった」
「…………」
 茅野くんは立ち上がり、頭を下げた。

「大場を苦しめる気はなかったんだ。でも俺、大場が苦しんでることに気付かずに追い詰めてた。本当にごめん」

「ただ、仲良くなりたかっただけだった。……その、入学したときからずっと、大場と話してみたいって思ってたから」

 茅野くんの告白に、私はきょとんとなる。
 
「仲良く……?」
「うん。友だちになりたかったんだ」
 私は目を瞠る。
「うそ……」
 吐息を零すように否定すると、茅野くんは優しく微笑んだ。
「うそじゃないよ」

 うそだ。だって、あの王子様が? 私と? でも、なんで?

 私はわけが分からず、困惑気味に茅野くんを見上げる。

「俺も同じなんだよ、大場と」
「同じ?」
 茅野くんは頷き、真剣な表情で私に言った。
「俺……キャンディっていうアカでRe:STARTに登録してるんだけど、分かるかな……?」

 昨日もDMしたんだけど、と、茅野くんは恥ずかしそうに頬を染めてもじもじとしている。

 突然茅野くんの口から飛び出したRe:STARTというワードに、私の頭の中ははてなマークでいっぱいになる。
 沈黙して考え込む。

 ――キャンディ。

 ……キャンディ?

 キャンディって、もしかして……AMのフォロワーで、唯一の友だちの、あのキャンディ? でも、キャンディさんは、私の……。

 え、え、どういうこと?

 キャンディさんは、いつも優しい言葉で包み込むように私に元気をくれたひと。私の精神安定剤だった、たったひとりのひと……。

 包みの端と端がキュッと結ばれた、可愛らしい飴玉のアイコンがパッと頭に浮かぶ。

「えぇっ!? うそ、茅野くんがキャンディさんなの!?」

 待って待って。ということはつまり、私は今までずっと、茅野くんのことを好きだったってこと……?

 心臓が激しく脈を打ち出し、全身が熱くなる。私は頬を両手で隠したまま、おずおずと茅野くんを見た。

「ほ、本当に茅野くんが、キャンディさんなの……?」

 茅野くんは顔だけでなく、耳まで真っ赤にして俯いた。

「俺、実は中三の頃からずっとAMのファンだったんだ。でも、そのことはずっと隠して生きてきた。俺のキャラじゃないし……だから、俺がアニメとかコスプレイヤー好きっていうのは、クラスのみんなは知らないんだよね」
「…………」

 驚きで次の言葉が出てこない。沈黙していると、茅野くんは私が引いていると思ったのか、自嘲気味に笑った。

「……あー……ハハ。キモいよな。学校では王子様とか言われて必死でキャラ作ってるくせに、裏ではアニメとか漫画大好きで、隠れて裏アカでオタ活してるんだから」

 その顔は今にも泣きそうで頼りなくて、儚い。

 胸がチクリとした。

 周りに勝手に決め付けられたイメージで、自分が自分から切り離されていく恐怖。それは、私もよく知っている。

「引いたよな……」

 茅野くんの沈んだ声に、胸が苦しくなる。
 このひとも、同じだったんだ。私と同じように、苦しんでた。
 瞼が熱くなって、喉が絞られるように苦しくなった。まっすぐに茅野くんを見つめ返し、首を横に振る。

「……引かないよ。好きなものを好きって正直人言うのは、勇気がいることだと思う。隠そうとするのは普通だし、その気持ち、私にはよく分かる」

 そう返すと、茅野くんは一度驚いた顔をしたあと、嬉しそうに目を細めた。

「……ありがとう。大場なら、絶対そう言ってくれると思ってた」

 茅野くんの陽だまりのように柔らかい声と、キャンディさんが私に送り続けてくれた優しい言葉たちがぴったりと重なる。

『僕がいるよ』
『僕は味方だよ』
『大好きだよ』

 私はいつも、キャンディさんに救われるばかりで、ちゃんと彼に返していただろうか。彼を救えていただろうか――?

「私……」

 声が震える。

 キャンディさんも、私と同じだったんだ。だからこそ、私をあんなに励ましてくれてた……。

「俺さ」と、茅野くんが喋り出す。

「高校で初めて大場を見たときから、AMに似てるなぁって、ずっと気になってたんだ。だからいつも話しかけようと思ってたんだけど、全然隙がなくて……気付いたらもう半年経ってたんだよな」
「じゃあ茅野くん、入学したときから私のこと……?」

 茅野くんはしおしおと頷いた。

「入学式のときに大場を見て……その、一目惚れってやつ?」

 学校で私を意識するその間も、茅野くんはキャンディとしてAMと接していた。ネットで仲良くなっていくにつれて、もしかしてと思っていたことがさらに真実味を帯びてきたのだという。

「そうなったらもう、我慢できなくなって突っ走ってた」

 本当に、ごめん、と茅野くん――キャンディさんは少しだけ早口で言った。