セレーナ・アポロンは今でもまだはっきりと覚えている。

後にして思えば、それはたぶん初恋と呼べるなにか。

ただよく言われるみたいに、甘くはない。むしろ顔が歪むくらいには苦い。

なぜなら、その思いを抱いてしまったのは、婚約者の弟だったのだから。


アルバ・ハーストン。
彼と出会ったのは、クロレルとの婚約成立を記念して催されたハーストン屋敷・宴会場でのことだった。


完全なる政略結婚だ。
その日は、クロレルとの初めての顔合わせでもあった。

それまで両親からは、
「見目もよく、火属性魔法にも長けており、人間性も抜群」とクロレルのことを聞かされていた。

それならば、受け入れるしかない。
伯爵家に生まれついた以上は仕方がない。

そんなふうに自分なりの覚悟を決めていたセレーナであったが、

「まぁ見た目は悪くないな。今日からお前は俺様の婚約者だ」

クロレルの有様は、どう見たって聞いていた評判とは違った。

ろくに喉を通らぬ食事を終えて、二人きりになったところで言われたのがこれだ。

「……よろしくお願い申し上げます」
「ふん、これでお前は俺のもんだ。ま、結婚相手が落ちこぼれのカス弟じゃなく、俺でよかったな。たしかに正妻にはちょうどいい」

最低の人間だとしか、形容できなかった。

たしかに見た目は美しい。が、その心のうちはひどく歪んでいる。

それは、短い会話の中でも、滲み出ていた。
鑑定眼を使わなくても、セレーナには『勘』もある。

そもそも、さっそく所有物のように扱ってくる人間がいい性格なわけがない。

「ありがとうございます……」

ただそれでも貴族の令嬢である以上、断りを入れることはできなかった。

自分の意思とは関係なく、親に敷いてもらった道を踏み外さずに歩くことが令嬢としての使命なのだからーー。

大人しくしていたら、つつがなく顔合わせが終わる。


休憩時間になると、私は「トイレ」と嘘を言って屋敷の庭へと出向いた。

というか気づけば向かってしまっていた。

たぶん荒んだ心を、花々で癒したかったのだと思う。

「……あなたは、セレーナ様。こんなところでなにを?」

そこで、アルバに出会った。

彼はベンチに座り、つまらなさそうに花を眺めていた。
とろんとした目には、眠気が漂う。

「少し落ち着きにきたの」
「そうですか。まぁいきなりの婚約なんて、普通は受け入れられませんよね」

図星だったが、セレーナは答えられない。

そもそも初対面は得意ではないし、あのクロレルの弟だからと警戒もしていた。もしかしたら裏で繋がっている可能性もある。

黙りこんでいたら、彼はなにやらポケットを探り出した。

「これ、食べます?」

出てきたのは、紙に包まれたマフィンだった。

……全くもって理解ができなかった。
セレーナが目を点にして、相変わらず一言も発せないままでいると、彼がそれを差し出して言う。

「さっき、全然ご飯食べてなかったでしょう?」
「…………なんでそれ」
「スプーンが動いてなかったの、見えていたので。どうぞ」
「でも、あなたが食べるために取ってきたんじゃないの」
「気にしないでください。ほら、もう一つありますから」

アルバは反対のポケットから、本当にまたマフィンを取り出す。

お腹も空いていた。それに甘いものは好物だ。

セレーナは誘惑に負けて、それを受け取りベンチに腰掛ける。

もちろんアルバとは距離をとっていたが、彼はそれについてなにも指摘などしない。
ただただマフィンを食べはじめる。

見ているとお腹が鳴りそうになって、セレーナは恐る恐るながら一口齧ってみた。

じんわりと砂糖の甘さが広がっていく。
ほっとする感覚が胸に落ちてきた。

「さしでがましいですけど、あんまり肩肘張ってても仕方ないですよ、セレーナ様」

半分ほど食べたところで、アルバが言う。

心にかけていた枷が、マフィンの甘さによって緩んでいた。


それに、アルバにはクロレルとはまったく違う。

例えるならば、綿毛みたいな柔らかい雰囲気を彼はまとっていた。

背中を曲げて膝に肘を突き、ぼーっと花壇に視線をやる彼を見ていたら、すっと言葉が出てくる。

「……あなたは自由なのね。貴族らしくない」
「いいえ、まだまだ自由じゃないですよ。でも、やりたいようにしたいとはずっと思ってます」

「貴族ならそうはいかないでしょ」
「そんなことないと思いますけど。逃げたかったら逃げればいいんですよ。別に、ずっと貴族に縛られてなくたっていい」

それはまるで、さっき食べたマフィンのようにじんわりと。

それは、セレーナの内側に沁み入ってくる言葉だった。

単純で、しかも無責任な言葉だ。

逃げた後のことなんか、考えてもいないだろう。


でも、そのおかげでセレーナは随分と気が楽になっていた。

思えば、立場や責任という言葉で、自分をがんじがらめに縛っていたのはセレーナ自身だったのかもしれない。

「逃げたければ逃げればいい、か。すごいわね、その言いよう」
「もしかして、もう嫌になりましたか? うちの兄は癖が強いですから」
「……さぁね」

セレーナは、屋敷の大時計に目をやる。
じきに戻らなければならない時間だ。

だが、もう少しだけ。綿毛みたいなアルバの雰囲気に包まれていたい。
そんなふうに思ってしまった。

「ねぇもうちょっと、ここにいてもいいかしら」
「……えっと?」
「戻りたくないの。少しでいいから、お願い。逃げてもいいって言ったのは、あなたでしょ?」

彼はしょうがなさそうにこめかみをかいた後、こくりと首を縦に振った。

「なら、屋敷の中でも案内するよ。ここにいたら、すぐに見つかるだろうし」
「それ、いいわね」

アルバに案内され、会場から離れた入り口よりハーストン家の屋敷へと入る。

流石に辺境伯家だ。
その内装は、アポロン家よりも数段立派で、セレーナは感心し見て回る。

「アルバ、あの飾られてる角はなに?」
「たしか、鹿型の魔物・スノーチェルバの角だった気がしますね。細かいことは忘れました」

「そうなの。面白いものがあるわね、初めて見たわ」
「そんなに面白くないと思いますけど……?」
「私、魔物とかを図鑑で見るのが好きなの」

気づけば、誰にも話したことのない自身の趣味を話すまでになっていた。

アルバの纏う雰囲気が、セレーナに自然とそうさせたのだ。

そんな束の間の逃避行がはじまって、どれくらい経ったろうか。

やがて屋敷の中が騒がしくなってくる。

「おっと、そろそろ捜索が始まってるみたいですね」
「……もう予定から30分以上は過ぎているもの。仕方ないわ」

十分逃げた方だ。
これくらいで終わっておかなければ、あとあと面倒なことになる。

そんなことは全てわかっていたのに、

「…………もう少し、逃げたい」

口をついて出たのは、理屈ではなく溢れてきた思いそのものだった。

とんだ、わがまま令嬢だ。
それも、婚約者の弟にこんなことを言うだなんて、ふしだらだと思われるかもしれない。

けれど、彼はにっと口端を吊り上げる。

「じゃあ、もう少しだけ逃げましょうか。俺もあんな退屈な会に戻るのはごめんです。とっておきの場所があるんですよ」

アルバはそう言うと、セレーナの手を取り、屋敷の中を駆ける。

途中、うっかりハーストン家の執事に遭遇しそうになった時は、アルバはセレーナを自分の着ていたジャケットで覆い隠してくれた。

「このようなところを彷徨って、なにをしているですか、アルバ様」
「ちょっと用事があったんだ。それで、セバスはここでなにしてるの」
「それがセレーナ様がどこかへいなくなってしまったのです! アルバ様も探すのをお手伝いください」

二人の会話を聞きながら、アルバの匂いに勝手にどきどきとしてしまったのは秘密だ。

そんな事件もありながら、アルバとセレーナは目的の場所にたどり着く。

そこは、最上階のバルコニーだった。
涼しい秋風が吹く中、見渡せばさっきの花壇だけではなくハーストンシティ城下の全てが目に入る。

「まぁまぁいい景色でしょう? ぼーっと眺めて、日がな暮らしたいくらいには」
「……そうね」

美しい景色だった。それはきっと、一緒に見ているアルバも含めて。

彼がにっと笑いかけてくる。
この時はじめて誰かの笑顔を見て、胸が熱くなった。

「また静かになりましたね。少しは打ち解けられたかと思ったんですけど」

ほんの短い時間だった。
けれど、最初とはまるで違う。

言葉が出なくなったのは、別の理由だ。認めてはいけないけれど、アルバへの思いのせい。

二人、ただ景色を見る。
そんな間にも、屋敷が騒然としているのは、遠くから聞こえてくる声でわかった。

「……戻るわ、私」

本音を言えば、この甘さをもっとゆっくり味わっていたかった。

名残惜しさは一度で飲み込めないほど、喉元に引っかかっている。

ただそれでも、戻らないわけにはいかない。ここが潮時だろう。

「そうですか。その方がいいかもしれませんね」

アルバが目を伏せながら言う。

どうやら、彼なりに寂しいと思ってはくれているらしかった。

ならば十分だ。十分、この気持ちは報われた。
それに、何もかもなくなったわけではない。

今日のこの時間があったから、私は今少しだけ前向きに歩き出せる。

「本当に嫌になったら逃げるわ。やるだけやってみて、無理だと思ったらそうする。それでいいんでしょ?」
「……それ、俺が吹き込んだって兄に言わないでくださいよ。面倒くさいので」
「当然よ。私も面倒ごとは嫌だもの。じゃあ、またね」

セレーナはそう言うと、アルバを残して再び宴会場へと向かう。
そしてこのまま、クロレルの婚約者となる。それは避けられない。

けれど、本当に嫌になったらやめればいいのだ。

そう心の内で繰り返していると、ずっと靄がかかっていた心の中が晴れ上がってくる。ふわふわと綿毛が舞うような、穏やかな気分だ。

いつか、また会えるだろうか。ううん、きっと会えるに違いない。

だからこの思いは、それまで胸の内に秘めておこう。



ーーセレーナがそう決めた数ヶ月後のこと。

いい加減にクロレルの態度や振る舞いに苛立ちを覚え始めた頃、彼の雰囲気が突然に変わった。

アルバみたく綿毛のような、穏やかなそれに。