時は明治。早坂夕子は東京の神田に生まれた。体が弱く学校にはあまり通えなかったが、独学で多くの本を読み勉強していた。そんな夕子にも数少ない近所の友人がいた。彼女の友人、春子も文学が好きな少女だった。
 ある日、春子に連れられて神田明神に行くと数人の少年がいた。境内で遊んでいて意気投合したらしい。彼らは全員文学を愛し、いつか文芸雑誌を立ち上げようと志を同じくする仲間たちだった。それが高遠との出会いだった。
 彼らは好きな作品について語り合い、時に小説を書いては回し読みして感想を送り合った。彼らは筆名を各々名乗るようになった。高遠は静月と、夕子は小町と名乗った。
 静月と小町は、ともに平安文学を愛した影響か、作風が少し似通っていた。腕前は小町の方が二枚も三枚も上手であった。小町は静月の感想を一番楽しみにしていたし、静月も作品を書けば真っ先に小町に読ませた。小町の小説はどんどん精錬されていった。
 静月は小町の体調が悪いときは時折見舞いに行った。静月は季節の花を押し花にして栞を作って小町に届けた。

 やがて彼らも青年となった。体の弱い小町以外は定職に就き、春子は結婚が決まった。そして、時を同じくして静月もお見合いをすることになった。静月は髪結いの家系であったため、得意先との縁談をすることになった。もう今までのように集まれなくなると思い、リーダー的存在であった沢野という男が各々短編小説を書いて、記念誌を発行しようと言い出した。
 執筆期間中に静月の結婚が決まった。締め切りの数日前、小町は自分を今夜家まで両親に見つからないように迎えに来てほしいと静月に伝えた。両親の目を盗んで神社に連れて行ってほしいと。二つ返事で静月は了承した。

 月明かりのまばゆい夜だった。少しだけ、小町の足元はふらついていた。

「小町、もしかして具合が悪いんじゃないのか?」

「ええ、少し。でも、大丈夫。無理を言ってすまないね」

 小町は書き上げた原稿を手渡した。タイトルは『髪結いと押し花』

「静月に真っ先に読んでほしくてね」

間違いなく傑作だった。情景描写がこれ以上ないくらいに美しく、主人公の淡い少女時代が描かれていた。そして、最後には今生の別れとなる男の幸せを願う描写があった。
 静月は無我夢中で読んだ。主人公のモデルが小町、男のモデルが静月であることはすぐに分かった。何度も何度も読み返したいと思った。

「預かってほしい。沢野との約束の日に私は行けるか分からない。近頃体調がすぐれなくてね」

「そうしたらまた見舞いに行くよ」

「奥様に申し訳ない。大丈夫。静月と過ごした日々は押し花のように美しく残っているから、私は生きていけるよ」

「小町、僕は……」

静月は小町の腕を取る。顔を伏せて嗚咽を漏らしながら言った。

「ずっと君の……物語を愛している」

静月は小町を一人の女性として愛していた。しかし、それは許されないことだった。

「ええ、私も。私の物語を愛してくれてありがとう」

 数日後の締め切り日、小町は体調が悪く姿を現さなかった。静月は神社の近くまで来たが、小町がいないことを確認すると気配を消してその場を立ち去った。この物語を自分だけのものにしたいと思った。
 静月はその後すぐ結婚し、数か月で妻が身ごもった。静月はそのころ、必死で小町に応えられるような小説を書こうとあがいていた。小町への返事がわりの小説が書けたら、小町の作品とともに雑誌に載せようと思った。風の噂で、免疫力の低下していた小町が労咳、今でいう結核にかかったと静月は知った。

 身重の妻がいる身で伝染病の小町に会うことは許されない。才能の無い自分には小町の生きている間に自分の気持ちを伝える物語は書けない。静月の中に、一つの狂った感情が生まれた。

 小町が自分を深く恨めば、死後に霊となって会いに来てくれるのではないか。小町が自分を呪い殺してあの世へと連れて行ってくれるのではないか。

 初めて『髪結いと押し花』を読んだとき、そんな感情は微塵もなかった。自分だけのものにしたいと思った物語を、静月は自分の作品として新聞社に持ち込んだ。確実に採用されるという確信が静月の中にはあった。静月の読みは当たり、『髪結いと押し花』は爆発的ベストセラーとなった。

 小町は病床で静月の裏切りに発狂した。許さない、許さない。誰よりも信頼していた静月だから預けたのに。私の人生のすべてを踏みにじった静月だけは絶対に許さない。六条の御息所よ、私に力を貸してください。あの男だけは絶対にたたり殺す。と、深い憎悪を抱いたまま昏睡状態に陥った。

 執筆活動に励んでいた静月だったが、「高遠静月」というブランドを愛する大衆以外の審美眼のある人間のお眼鏡にかなう小説は当然書けなかった。小町が昏睡状態に陥ったという噂を聞くと、家主の目を盗んで小町の病床に忍び込んだ。

「すまなかった、小町。僕を恨んでおくれ。僕を連れて行っておくれ」

静月の声は小町には届かない。今にも止まりそうな呼吸を漏らす唇に口づけを交わして、小町の家を後にした。翌朝、小町は息を引き取った。

 その後、静月は象牙の塔にこもるようになる。家族とも会うことなく、出版社に完成した原稿を送るだけの日々を送った。待てど暮らせど、小町は現れなかった。9か月後、静月は結核を発症した。もう自分には時間がない。
 小町、どうか自分を殺しに会いに来てくれ。そのためだけに自分は外道に身を落としたのだから。愛した女性に呪い殺されたいという願望を具現化した静月の遺作、それが『黒い夕顔』だった。