何度忘れても君を好きになる

 まどろみの中、何度も同じ夢を見る。
 夢ではない過去にあった現実だと認識はしている。
 大好きな幼なじみの彼はいつも私にささやく。
 いつも曖昧な夢の中のぼんやりとした記憶――。
 たしかに彼の声は鮮明に刻まれている。
 でも、何という会話をしたのか、朧気で、不確かでほとんど覚えていない。
「合言葉は○○○○だよ。これは魔法の言葉だよ」
 その台詞はなんとなく覚えているけれど、肝心の合言葉の部分はいつも夢の中でも無音だ。起きている時間に必死に思い出そうとしても、全く思い出せない。その合言葉はなぜ魔法の言葉なのだろう。それを言うと何かが起こるというのだろうか。たしかに、大好きだった彼と会話をしたことは覚えている。でも、なぜそんな話をしたのかも前後のことは覚えていない。

 幼いときに仲が良かった蒼《あお》君。
 蒼色がよく似合う元気で優しい少年だった。
 蒼い空の下にはいつも蒼くんがいた。
 記憶の中の蒼くんはいつも笑っていた。
 だから、彼が同じ高校に入るということを知った時には、胸が高鳴った。
 親同士が仲が良かったので、引っ越して時は経ったものの同じ高校に受かったことを知った。蒼くんはこの町に戻って来たのだ。
 だからこそ、再会のその瞬間を心待ちにしていたのはいうまでもない。
 彼のことは大好きだと胸を張って言えた。
 お別れしたのは小学一年生の頃。十年後にまた会えたらいいねと言っていたことが実現した。
 また、出会えたら合言葉は「○○○○だよ」。
 声変わりする前のかわいらしい声。優しく包み込まれる感じがする。
 思い出せない合言葉にモヤモヤは止まらない。心臓がむずがゆい。かゆいところに手が届かないとはこのことだろうか。

 そんなことを思いながら、高校の予備登校へ向かう。
 蒼くんが同じ高校に入学したと母親に聞いていた。
 きっと運命の再会だ。
 初恋は実らないなんてことはない。
 ドキドキしながらクラス発表の掲示を見る。
 たくさんの名前が紙の上に溢れていたが、探していたのは清野蒼《きよのあお》という名前のみ。
 クラス発表を見ると、同じクラスに、なんと、蒼くんの名前がある。
 神様、ありがとう!! 普段は神様なんて拝みもしないくせにこんな時だけ感謝してしまう。
 慣れない教室に入ると知らない人ばかり。教室には独特の緊張感が流れていた。
 すぐに見てわかった。背も伸びて、大人びているけど、絶対にこの人が蒼くんだと確信した。笑顔の蒼くんがいる。それだけで嬉しい。声を掛けようかと思ったけれど、何やら少し派手な感じの女子と談笑していて、とても入れそうにもない。同じ中学の友達だろうか。幼稚園の頃から男女分け隔てなく接する子どもだった。誰にでも優しいのは健在だと思った。
 結局、声をかけることもできず、ホームルームが始まった。名前を呼ばれるので、きっと私の存在に気づくだろうと思う。でも、終始彼と目が合わない。
 帰り際、蒼くんが一人になるのを見計らって声をかけてみる。
 胸が高鳴る。ドクンドクンと心臓が波打つ。
 下唇を噛み締めて、手のひらをにぎる。
「蒼くん、久しぶり」
 一瞬の沈黙が走るが、蒼くんのまなざしは冷たく鋭い。まるで、知らない人に対する警戒心をあらわにする。
「誰だよ、おまえ」
 10年間待ちわびた言葉がこれとは、神様は残酷なことをする。
 冗談ではなく、真顔だった。
 完全に忘れ去られていた。現実を受け入れられない。
 でも、小学一年生の記憶くらいならば覚えているだろう。
 でも、その時の感情を10年維持できるかというと、そうでもないかもしれない。
 今更ながら、現実を見る。
 あぁ、恋心は私の一方通行だったんだ。
 思い続けていたのは私だけだったんだ。
「私の名前は舞空羽留《まいそらはる》」
「わりいけど、おまえのことは全然記憶にないんだよな。母さんにも、知り合いの子が同じ高校に入ると聞いていたけど、本当に思い出せなくてさ。記憶力には自信がある方なんだけどな」
 派手な女子はメイクをばっちりしていて、同じ歳なのに全然別世界の人みたいだった。聞き耳をたてていたらしく、かなり仲がいい様子だ。
「俺、この町で過ごしたことは覚えているんだ。でも、本当におまえのことだけ思い出せないんだよ」
 申し訳無さそうに言われる。
 私のことだけ思い出せない? やっぱり嘘だと信じたい。
「別にどっちでもいいけどな。なぜだかはわからないけれど、おまえの記憶だけ抜け落ちてるんだよ。知らない記憶があるなんて、気持ち悪いだけだ」
 蒼くんは変わってしまった。
 心底嫌な顔をされるなんて。これ以上嫌な顔をされたら私の心臓は壊れてしまう。
 蒼くんの顔立ちは、両方を兼ね備えている。かわいいしかっこいい。一言で言えば、見た目がいい顔立ちは変わらない。少しばかり大人びただけ。少しばかり派手でおしゃれな雰囲気になっただけ。別人のように変わってしまったのは内面なのかもしれない。
 気持ち悪い生き物を見るかのような冷たい眼差し。
 今後、蒼くんのことは忘れよう。
 関わらずに生活しよう。
 そう決めていたのに――自宅に帰ると、見慣れない車が停まっていた。
「お久しぶり。羽留ちゃん」
「蒼くんのお母さん!!」
 久々に会った蒼くんのお母さんはとても優しい笑みを与えてくれた。
「こんにちは」
「しばらくの間、蒼を羽留ちゃんのうちに居候させてもらいたいと以前からお願いしていたのよ。実は、夫が海外転勤になったの。でも、蒼は日本の高校に通いたいと言っているのよ。転勤が決まったのが急だったの。いい物件が見つかるまでお願いするわ」
 お母さんはにこにこして引き受けてしまっていた。勝手に相談なく引き受けるなんてひどいよ。
「え? 嘘でしょ?」
 思わず固まってしまった。なぜ、あんな冷たい男と学校だけでなく、安息の地である自宅で過ごさなきゃいけないのだろうか。たとえそれが、初恋の大好きな人だとしても。正確に言えば、初恋の大好きだった人。過去形だ。
「早速今日から、こちらのお宅でお世話になります。よろしくおねがいします」
 礼儀正しい挨拶。大人の前だと別人のように優等生。
 猫を被るとはこのことかもしれない。
「あの時は、大変だったわよね。私たちが引っ越す少し前に羽留ちゃんが事故に遭ったことがことがあったわよね」
 そういえば、小学一年生のころ交通事故に遭って、入院したことがある。死んでもおかしくなかったけれど、奇跡的にけがを負うことなく回避したらしい。気を失った私を見て、蒼くんは救急車を呼んでくれたと聞いた。大泣きして大変だったとも聞いた。入院中だったから、急に引っ越すことになった蒼くんは、挨拶することもなく行ってしまった。退院するといつのまにか、蒼くんは引っ越ししてしまった」
「あの後、うちの蒼の様子が少しおかしかったのよね」
「どういうことですか?」
「しばらく、事故の記憶やこの町であったことの記憶がなくなったみたいなの」
「一時的な記憶喪失じゃないかしら。幼い子どもにはショックだったと思うし」
 羽留の母親が心配そうな顔をする。
「今でも覚えていないんですよ。羽留さんのことは記憶からなぜか抜けてしまっているんです」
 蒼くんは姿勢もよく礼儀正しい言葉遣いをする。
 学校ではもっとあからさまに邪険な顔をするくせに、親の前だと丁寧に名前に「さん」づけだ。
 変わったんだなぁと改めて蒼くんの顔をじっと見つめる。
 蒼くんの顔はアイドルみたいに整っていて、かわいらしいというか綺麗というか――女子の私よりもずっと美しい。
 羨ましくなってしまう。さらさらした髪の毛も長いまつげも大きな瞳も全部がかっこいい。
 母親同士が学生時代からの親友だ。今でも仲良しということで、同居の話はスムーズに進んでいった。
「俺、記憶には自信あるんだけどな。どうにもおまえのことだけ思い出せないのはむずがゆくてさ」
 無意識に距離を取ってしまう。
 あんなに会いたかった人が今隣にいるのに、すごく遠い。
「おまえさぁ、俺のこと好きだったりする?」
 予想もしないストレートな質問に驚き怒る。
 顔はきっと真っ赤になり、驚きと怒りの混じったどうにもならない表情になっていたかもしれない。
 自分の顔が想像もつかなかった。十年間ずっと会いたかった人。
 その人は私のことを忘れていた。夢と現実は違う。
 恋愛物語というものはお互いがずっと大切に想いあっているものが王道だ。
 しかし、私は恋愛物語の主人公ではない。
 忘れられているのが現実で、相手にもされていない。
「たしかに、昔のあなたのことは好きだったけど、今のあなたのことは好きじゃない」
 思った以上に大きな声が出る。
「そんなこと言っていいのかな? 後悔するかもよ?」
 ピコンとスマホの音が鳴る。
「あ、美優かよ」
「美優ってさっき教室にいた女子?」
「そうそう」
「もしかして、彼女だったりするの?」
「いや、友達以上恋人未満の関係。おしかけ彼女みたいな感じだけど、好きになるまで恋人未満でいいって言ってくれていてさ」
 一瞬で衝撃波をくらう。私の心は撃沈する。まるで隕石が落ちて来たかのようだ。今日は衝撃が多すぎる。
「って言っても、まぁ形だけかな。何度も告白されても、好きにはなれてないんだ。美優のことは嫌いじゃないけどさ。中学の時からその関係は続いていて、恋人未満」
 この男、非常に冷酷だ。女子の恋心をわかってない。
「俺は、そーいう心が欠落してるのかもしれない。一度も恋愛心を抱けない自分がいたんだよな」
「変な奴」
「おまえこそ、彼氏とかいねーのかよ。まぁ、いなそうだよな。男子と話すのに慣れてなさそうだし、顔立ちもぱっとしないしな」
 苦笑いされる。絶対に馬鹿にしてるでしょ。
「馬鹿にしないでよ。私だって、告白されたことはあるんだからね」
「でも、付き合ってないんだ?」
「好きな人じゃなかったから断ったの。でも、その人は同じ高校で同じクラスになったよ。今でも好きだって言ってくれてる」
 この話は本当だ。中学が一緒だった大滝零次。彼は私のことが好きだといつも言ってくれる。
 だから、異性としての意識はしているけれど、蒼くんのことが好きだから、ずっと断っていた。
 でも、今日、断る理由がないことに気づく。
「零次くんと付き合ってもいいかもしれない」
「零次君っていうのか。物好きな奴もいるんだな」
 まじまじと顔を見られる。
「おまえはこの写真と全然変わんねーな。地味だし、鈍臭そうだし」
「蒼くんって昔はもっと優しかったんだよ。また会えたら一緒に遊ぼうねって言ってくれた。私のことを大好きだって言ってくれたんだよ。私は、ずっと会えるのを楽しみにしていたのに」
「俺、おまえのことはタイプじゃないし、好きじゃない」
 好きじゃないしという言葉が何回も耳の奥で響く。
 五回から十回はリフレインしているような気がする。
「おまえ、この小説家が好きなのか?」
 蒼くんが指を差したのは、空野奏多という小説家の小説だった。ウェブ小説出身で既に5冊ほど出版しているプロの小説家だ。素性は明かしておらず、男性か女性かもわからない。年齢も不詳だ。大人気の作家で、超売れっ子だ。この部屋に空野奏多の小説が5冊並んでいる。実は、これは保存用で、部屋には何度も読んだ読書用のものも5冊ある。私はというと、新刊が楽しみな大ファンの一人だ。
「私、小説よりは漫画のほうが読む比率は高いけれど、空野奏多の作品はなぜかドストライクなんだよね。読みやすいし、きれいできゅんとする描写が多いでしょ? 実は、ファンレターも書いたことあるんだけどね。返事はもちろんもらえないけど、読んでもらえたかもしれないと思うと嬉しいよね」
「俺、人を好きになれないのかもしれない。そういう感情になれなくってさ」
「嘘? 小さなときは何回も好き好き言ってきたじゃん」
「信じられないな。明日の入学式で新入生代表の言葉を頼まれてるんだけど、めんどくさいな」
「ということは、一位で入学ってこと? こんなにちゃらちゃらした雰囲気を醸し出してるのに?」
「一位入学は、いかにも勉強してますっていう雰囲気じゃないとダメっていう決まりはないだろ?」
「そのとおりだけど……」
「羽留。蒼くんのお母さんが帰るから、挨拶して」
 お母さんの声がする。
「はーい」 

 リビングへ行くと、蒼くんのお母さんは不動屋に寄って、すぐに空港へ向かうらしい。
 蒼くんは自立した大人になっていた。
 しかもイケメン秀才ときた。まるで王子様だ。でも、私はお姫様なんかじゃない。
 つまり、運命の相手ではないということだ。
「うちの蒼、生意気だけど、よろしくね。本当に羽留ちゃんのことは覚えていないみたいで、ごめんね。あの頃、羽留ちゃんのことを大好きだったのよ。だから、事故に遭って入院したときに、神社に行ってお参りするって走っていったことがあったわ。まだ幼かったから、私が付き添ったんだけど。この町にある記憶を司るって言われている記憶の神様がいると言われていた神社だったと思うわ。まさか、ただのいいつたえだと思うけど、あれから、蒼の記憶は抜け落ちた部分が一部あるような気がするの。悪気はないから、ごめんなさいね」
「少しの期間ですし、今まで会えなかった分、蒼くんと過ごせるのも悪くはないですよ」
 これは本心だった。半分だけだけれど。正直今の蒼くんと過ごせることが楽しいのかはわからない。
 でも、今までの空白を埋められそうな気がする。
 今まで家着でだらだら過ごしていた自宅。髪の毛もぼさぼさでおでこ全開にしていたけど、これからは蒼くんがいる。
 つまり、食事の時も、お風呂の時も、寝るときも同じ屋根の下にいる。部屋は皮肉にも隣同士。
 気を抜けない。恥ずかしい姿は見せられない。元々、好みじゃないって言われているけれど、もっと幻滅されないように、自宅でもかわいい服を着て、髪型にも気を遣って、少しでもかわいいかもって思われたい。これは、勝手な独りよがりな願望だけれど、印象をいい方にしたいと思っている。
 あぁ、私はこんなにも蒼くんが好きなんだな。好きと嫌いの感情が入り混じる。
 外出するほど派手できちんとしていないけれど、部屋着としてもおかしくないけれどかわいい服を選ぶ。
 私は毎日こんなことをすることになるのだろうか。
 ずっと会いたかった蒼くんがすぐ手の届くところにいる。
 夢の中でしか会えなかった蒼くん。
 でも、これからは嫌でも毎日会えるんだよね。
 
 その夜は、初めての風呂上がりの蒼くんを見て、翌朝は眠そうな寝起き一番の蒼くんを見て、朝食を共にした。
 こんな初めてづくしのチャンスは滅多にない。というか私の特権かもしれない。一時的だけれど――。
 でも、好きになってはいけない。
「いってらっしゃーい」
 お母さんはあとから来るらしい。蒼くんの保護者も兼ねてとのことだ。
「同居のことは言わないでよ」
「バレてもかまわないと思うけど。なにか困る?」
「私なんかと住んでたらまずいでしょ」
「私なんかって何だよ? からかわれるとか、心配することないって。俺とおまえがどうなることはないってことはわかりきってることだ」
 心がぽきっと折れてしまった。
「私は、零時くんと楽しい高校生活送るんだから」
 いつのまにか蒼くんと私は一緒に登校している。同じ家なのだから、当然だけれど。
 この人は王子様的なポジションだから、周囲のみんなはきっとさからえないんだ。
 ちょっとわがままで、自己中だけど、人間的に魅力があるからみんなが集まってくるんだろうな。
「俺は、正当な理由があるし、同居を隠すつもりはないから」
 結果的に一緒に登校することになる。しばらくは、毎日一緒に登校することになるのだろうか。
 一緒のご飯を食べて一緒のお風呂に入って一緒の家で寝る。家族じゃん。
 しかも、ずっと片思いしていた人。その人の素顔が垣間見れる。
 あくびをする瞬間、彼の一瞬の素が見える。お風呂の後は濡れたままドライヤーはしない派らしい。
 ご飯を食べるときは、好きな物は最後に残す派。目玉焼きにはしょうゆ派。
 昨日一日でわかったことだ。自分の目で見たことだ。
 でも、私は確実に失恋しているし、恋が芽生える気配はない。
 これ以上嫌われないようにしないと。
 たわいのない話をしながら、校門をくぐる。桜の花が舞う。
 ずっと待っていた瞬間。
 思っていた再会とは全然違ったけれど、この景色は想像通り。
 青い空に白い雲。ピンク色の桜の花道が私たちを待っている。
 少し背伸びして勉強して入った高校。
 お母さん経由で蒼くんがこの高校を受けると聞いていたから、ダメもとで受験した公立高校。
 学力も全然違うけれど、結果的に一緒の高校に入ることができた。
 一緒に校門に足を踏み入れる。
 そよ風が春色になっている。気持ちがいい優しい温度。
 入学式での蒼くんは、やっぱりとってもかっこよく、新入生代表の言葉を述べた。
 この高校は県内でも一位、二位を争う偏差値だ。
 蒼くんは県内の学力トップか。
 王冠と赤いマントが似合いそう。王子様みたいなオーラがある。
 髪の毛の感じも、目鼻立ちも、顔の形も、肌質も、筋肉の付き方から骨格まで見事なまでに好みの姿。
 外見が好みというだけで、ただ憧れて見ているだけでもいいかもしれない。
 彼の姿に射抜かれる。また出会えてよかった。
 しかも、私は彼の寝起き姿も彼の風呂上がりの色気のある濡れた髪も知っている。
 きっとこの学校でその姿を見た者はいない。
 変な優越感を感じてしまう。
 実際入学する生徒には学力に幅があって、私と蒼くんはだいぶ偏差値が違うことはわかっている。
 美優は勉強ができるらしいという噂だ。きっと二番あたりではないかという自己採点結果らしい。
 やっぱり二人はお似合いだ。

 自宅に帰ると、制服から私服に着替えるけれど、やっぱり蒼くんがいる手前、少しかわいらしい洋服に手が伸びる。
 これなら、部屋着としても違和感なく女の子らしいだろうか。
 自分が馬鹿だということは知っている。
 とっくに失恋しているし、相手にされていない。
 でも、彼の前ではかわいらしい女の子でいたい。
 この上なく、身勝手な願望だな。
 帰宅すると――
「蒼くんのことは嫌いだから安心して」
 思ってもいないことが口から出る。なんだかムカついたからだ。
「ファンレターくれたのに、嫌いなんだ?」
 にんまりと見つめられる。ファンレターを蒼くんに書いた覚えはない。
 私服姿に着替えた蒼くんはなぜか私が書いたことがあるファンレターを持っている。
 空野奏多先生へと書いた封筒をなぜ、蒼くんが持っているの?
 これは、大手出版社編集部にだいぶ前に送ったものだ。
 受験中、一生懸命に想いを伝えたくて書いた手紙だ。
「なんで、蒼くんがこの手紙を持っているの?」
「さて、なんででしょうか? おまえ、バイトしない?」
「は?」
「俺は空野奏多として小説家としての顔を持つ。でも、恋愛経験がないし、人を好きにもなれないから、相手の反応とかリアルなものを描けない。疑似キャラとして小説のモデルになってほしい」
 脳内が追い付かない。目の前にいる初恋の人が大好きな小説家、空野奏多で、その人に小説のモデルのバイトをしないかと持ち掛けられているの?
「でも、小説のモデルって私は演技ができないし」
「いいんだよ、おまえは俺のことが好きなわけだろ。つまり、リアルな反応を見ることができる。しかも同居ときたら、もっとリアルな日常が描ける」
 にこりとする。王子様スマイル全開。
「今度描くのはもっと素朴でどんくさくてイケてないヒロインだから。おまえが適役だと思ったんだ。片思いを必死にできるピュアなタイプだと再会した時にこれだと思ってな。なぜかガキの頃の記憶がなかったから、おまえがどういう奴かも昨日知ったんだけど。まさか十年前の気持ちを今でも持ち続けている人間がいるなんて国宝級かもしれないって思った。これは、お前にだけは空野奏多だということを教えた上で協力してもらいたいと思ったんだ。こんなに熱いファンで一途な奴は、なかなかいないしな」
 私のことディスってるよね。
 黒歴史を知られた気分。でも、大好きな小説家の小説のモデルになれるのも魅力的。
「ちゃんと謝礼はする。印税で金はあるからさ」
「やっぱりすごいね。勉強もできるのに文才もあるんだね」
 心から尊敬。目の前にいるのが大好きな小説家の先生だなんて。
「どんな気持ちになるのか教えてほしい。俺は、感情があんまり動かないんだ」
「でも、あんなにきれいな恋愛小説を書いていたよね?」
「あれは、ほとんど想像の世界。でも、何作品も書いているとワンパターンになってしまうし、リアルさが必要だなって思ってさ」
 目の前にいる美しい初恋の人が憧れの小説家だったなんて。
 それだけで心臓がバクバクしてしまう。
 私服姿の蒼くんもやっぱりかっこいい。
「こんな距離だとどんな気持ちになる?」
 ものすごく顔が近い。壁ドンと言われる体勢だ。人生初の壁ドンが初恋の人。
 視界に入る蒼くんはとても美しく、はかない顔をしていた。
 目はくりっとしていてまつげが長くて顔は小顔で。
 思わず心臓が早く動きすぎて気を失いそうになる。
「感想をメッセージで俺に送れ」
「もしかして、相手の心が本当に読めないの?」
 眉をひそめる。
「悪いか」
 少し戸惑った顔をする。この人の弱点がわかった。人の心がわからないのか。だから、あんなに冷たい言葉を放つことができるのか。
 妙に納得する。
「恋愛に疎いんだね。女心もわからないし。空野奏多先生って思ってたのと全然違う。恋愛経験値ゼロなのに、恋愛小説で泣かせているなんて人生面白いよね」
 恋愛なんてしなければいい。鑑賞用にしよう。割り切ろう。
「もしかしたら、交通事故で私が助かったのは蒼くんのおかげかもしれないね。あの時、必死に祈ってくれたんでしょ」
「全然覚えてない。というかなんで俺がおまえのことを必死に祈ったのかもわからねー」
 表情も言葉づかいもなんだか冷たい。
「あの時は、優しい男の子だったのに、いつの間にかこんな人になってしまったなんて、残念」
「残念で悪かったな。おまえも随分口だけは達者だよな。これから、色々と実験して感想を述べてもらう。バイト代は出すから」
「色々って?」
 焦ってしまう。色々の種類はどの程度だろう。
「そんなに怖がるようなことはない。一緒にデートをした感想でもいい」
「空野奏多先生が私をそんなに頼っているなんて、ここは一肌ぬぐしかありませんね」
 ぐふふと笑いがこみ上げる。
 本当に恋愛に無頓着なのに恋愛小説を書いているなんて笑いが止まらなくなる。
「空野奏多の小説を待っている人がたくさんいるよ。だから、ファンとして協力したい」
「こんなに想いのこもったファンレターはおまえが初めてだ。本当によく読み込んでいて、ファンの視点からの意見もほしくてさ」
 一応、必要とされていることが嬉しくなる。
「バイト代ってお金ってことでしょ。それよりも、一緒にどこかにでかけたり、食事をしたり、勉強を教えてもらったほうが嬉しいんだけど」
「そんなことでいいのか?」
「そんなことのほうがお金でもらうよりずっと楽しいでしょ。主席の人に教えてもらうのも特権だしね」
 意外な顔をして私を見る。
 こんなにも冷たい男とまだどこかに行きたいと思っている私は馬鹿かもしれない。
 でも、きっと昔の彼はどこかに潜んでいるはずだ。
 だから、痕跡を探りたいような気持もあった。
 会っていない間の知らない彼のことを知りたいという気持ちもずっと持っていた。
「恋愛小説書きながら思うことがあるんだ。一生同じ人を愛することってすごく難しいから、人はフィクションの世界にそれを求めるのかなって。おまえは、ずっと俺のことを好きだったんだって?」
 からかうような瞳だ。恥ずかしい。
「母親に聞いてる。一途な人間って珍しいタイプだよな」
「だって、蒼くんが言ったんだよ。十年後にまた会いに来るから。大好きだよって」
「まじで覚えてねー。でも、それ、ネタになるからメモしとく」
 小説家としてプロらしい行動をする。
「たまに夢を見るの。合言葉を二人で決めたんだよね。でも、いつもそこだけもやがかかって聞こえないんだ」
「合言葉……全然覚えてねーよ」

 二人でリビングに向かう。そろそろ夕食の時間だ。家全体においしい香りが立ち込める。
 テレビがついているけれど、お母さんは食事の準備でただ流しているだけだ。
 最近流行なのかCMにアニメのきれいな映像が使われている。思わず見入ってしまう。
 声優も多分今人気の二人を起用しているらしい。
 いわゆる高校生カップルもののCMだ。
 実際はお菓子のCMなのだけれど、何のCMなのか最後までわからない仕組みになっている。
 ストーリーは片思いの女子が憧れの男子に告白しようとして、お菓子を渡すというショートストーリー。
 絵柄がかわいいのと、吸い込まれるような躍動感のある映像が一瞬でも視聴者の目を奪う、
 照れた二人が見つめあったところに、ナレーションが入る。
「青春の味は忘れられない。アオハルの味」
 最近何度か耳にしたCMだ。
 蒼くんは恋愛小説家としてのインスピレーションが働いたのか、青春は、アオハル。なんてメモしている。
「ねぇ、このCM、蒼くんと羽留みたいだよね。アオハルなんて言ったら二人の名前をまとめて呼べるから時短になりそう」
 お母さんがいつも通りの優しい笑顔で言った。
 この言葉がとても引っかかった。
 猫かぶりの王子様。その笑顔は憎めない。
 ずっと嫌な奴だと思っていても、一瞬の笑顔がかき消す。
 猫かぶりの王子様が多分思い描いていた蒼くんの印象そのもの。
 考え方や価値観が変わってしまっただけなのかもしれない。
 いじわるだけど、時々すごく優しい目をする。
 少しだけでも一番近くにいられるならば、私は幸せかもしれない。
 にこりと笑う笑顔はとても爽やかで、心が射抜かれる。
 容姿のいい部分を読み上げるだけでも、すごくすごくたくさんドキンとするキュンなポイントが詰まっている。
 これって、惚れているからなのだろうか。
 一般的に言って、蒼くんはかっこいいから、たいていの人は同意すると思う。
 でも、私の場合、ずっと慕っていた人だから、余計に全てが良く見えているのかもしれない。
 蒼くんの食事の姿勢はすっときれいで、箸の持ち方もちゃんとしている。
 ちゃんと教育されて育ったことがわかる。育ちの良さがにじみ出ていた。
 どんなに不真面目に見せようとしていても、彼の本当の根っこは真面目でちゃんとしている。
 私にはわかる。

 私はごちそうさまとだけ言って、皿を片付けて、そのまま部屋に戻った。
 これ以上蒼くんの隣にいるなんて緊張して食事も喉を通らないし、疲れたというのが本音だった。
 ベッドになだれ込むようにして、そのまま寝そべる。とりあえずスマホを触る。
 気づくと、蒼と書かれたアイコンから友達申請が来ていた。
 これって今同居している蒼くんが友達申請してきたの?
 そもそも同居してる上、同じ学校なんだからあえてSNSでつながる必要はないと思うんだけれど。
 感想送れっていってたもんな。
 蒼くんのアイコンは青空を撮影した写真だった。
 これって申請を許可するべきだよね。
 猫かぶり王子様は、私の前では素を出す。クラスメイトには見せない怖い顔をする。
 それを想像するとうんざりしてしまった。
 クラスメイトとして、つながること自体は悪くないよね。
 少し深呼吸してから、指の先に力を込めて申請許可のボタンを押す。
 すると即効メッセージが送られてきた。
『次の小説のネタでリアル感を出したい。片思いの相手からメッセージが届いたらどんな反応なのか、どんな気持ちになるのか知りたいんだ。だから、さっそく協力してくれ』
 早速の協力依頼か。学校でも自宅でもSNSでも繋がり過ぎじゃない?
 蒼くんは私なんかと四六時中繋がっているのは、嫌じゃないのだろうか。
 小説のためならば、空野奏多は何でもするのかもしれない。
 恋愛経験ゼロの超鈍感男だから、恋愛小説をリアルに描くのは本当は苦戦してたんじゃないのかな。
 持ち前の文章力で不足分は補っていたのかもしれない。情報は映画やドラマから情報は仕入れていたのかもしれないけれど。
『わかった』
 ぶっきらぼうな返事をする。
『いろいろメッセージをやり取りしたお礼は何がいい?』
 すぐ隣の部屋にいる人とアプリを通してやりとりしているなんて、なんだかむずがゆい感じだ。
『勉強教えてほしい』
 これは切実な願いだった。最下層で入学した私と一位入学の彼では天と地の差がある。
 今後も勉強面で苦戦することは目に見えている。
 勉強を教えてもらうならば、自宅のリビングでもできることだ。
 ゆえに、クラスメイトに知られることもない。
 これぞ一石二鳥。有能な家庭教師を雇ったようなものだ。
『了解』
 スタンプが送られてきた。案外かわいいスタンプを使うことに意外性を感じる。
 あの不愛想男が、こんなにかわいい動物スタンプを使うなんて笑える。
『おまえからのファンレター大事に持ってるから』
 顔から火が出そうになる。知らない作家の大先生に送ったからこそ、恥ずかしい言葉も書けた。
 でも、まさか幼なじみでクラスメイトで同居している人がその作家だったなんて――恥ずかしすぎる。
『あれは、あなたにではなく、空野奏多先生宛てだからね』
 顔が火照りながらも懸命にスマホに文字を打ちこむ。
『俺が空野奏多だけど』
 案外蒼くんの返信は早い。
 壁一つしか隔てていないのだから、直接会話してもいいけれど、メッセージだから伝えられることもある。
 メッセージだから、どうでもいいことでも打ち込んでもいいのかもしれない。
 私がずっと好きだった人は猫かぶり王子様に変貌していた。
 今、同居している主席のクラスメイトはベストセラー作家の空野奏多だった。
 やっぱり頭が混乱する。
 容姿がかっこいいけど、恋愛の好きだと思っているわけでもない。
 そもそも恋愛に憧れていた?
 私は架空の人間にずっと恋をしていただけなのかもしれない。
 
 その日から、メッセージのやり取りは始まった。
 とりあえず私は片思いの冴えない女子の設定らしい。
 あまりにも自分に適任で、蒼くんはちゃんと人を見て、うまい具合に選別しているのだろうと思う。 
 設定が送られてきたけれど、身長や雰囲気、性格もほぼ私そのものの主人公。
 ごく普通、どちらかといえば普通以下の女子が空野奏多の新作のヒロインなのかぁ。
 今まではもっと美人だとか、影のあるヒロインが多かった気がする。
 何のとりえもない、ただ一途な平凡女子をヒロインにしたから、書きにくいのかもしれない。
 作者本人がハイスペックだから、平凡な人間の心はきっとわからないのだろう。
 小説家としての新境地としてはありなんだろうけれど、リアルを追求するのならば、この方法は悪くない。
 空野奏多からのヒロインシチュエーションアルバイト。この状況を楽しんでいる自分がいることは否定はしない。
 蒼くんのアイコンがスマホに表示されると私の心は舞い上がる。まるで散った桜の花びらが風で舞い上がるかの如くだ。
 見込みのない恋なのに、これこそ、片思いのポンコツ女そのもの。
 あぁ、きっと蒼くんはそーいう私を見越して頼んできたのか。
 どうせなら楽しむしかないか。

『おはよう』
 片思い設定の私は自分からメッセージを送る。
 でも――返事が来ない。
 ある程度髪を整えて、制服に着替えてから朝食をとる。
 返事がないなんて。同居だから、すぐ話はできるけれど。
 でも、この設定、片思いだから、相手は冷たいってこともあるよね。
 両思いのラブラブじゃないんだから。
 相手はプロの小説家だ。
 しかも冷徹ときた。これは当然のシナリオだろう。

「おはよう」
 朝は弱い蒼くんは青ざめた顔で顔を洗い終えて、なんとか挨拶をしている雰囲気だ。
 これってスマホ自体見ていないのでは。
 あの低いテンションではスマホを見る余裕すらもなさそうだ。
 こんな一面を知っているのは私だけの特権かな。
「何、にやついてるんだよ」
 眠そうなまぶたをなんとかこじあけながら、会話をしている。
 これだけで、私は幸せを感じてしまった。
 蒼くんは王子様キャラだからなんとなくシルクのパジャマを着ているような気がしていた。
 けれど、実際は何でもないTシャツに短パンという実にラフな格好で寝ているらしい。
 これは、自宅の部屋着と兼用のようだ。
 こんな情報は私しか知らないだろう。
 憧れの人が目の前に朝一番にいるなんて――幸せ過ぎて死んでしまうかも。
 とろけそうな自分がいた。
「蒼くん、スマホ見てないでしょ」
「あぁ、どうせ、おはようとかメッセージ入れたんだろ。まだ見てないけど」
 じっと顔をのぞきこまれる。
「おまえって、やっぱりアホっぽい顔してるな」
「朝一番にいうセリフ?」
「これからメッセージの相手になってもらうお礼に、今夜、勉強くらい教えてやるよ。入学してすぐ模試あるから、ヤバいんじゃないの?」
「たしかに。すっかり忘れてた」
「やっぱりアホか」
 顔を洗った蒼くんは特に化粧水をつけてもいないのに、お肌がみずみずしくて、つるつるしている。理想の肌を持っている。
 口は悪いけれど、外見は完璧なんだよね。羨ましいな。
 やっぱり目玉焼きにはしょうゆをかけて、トーストをかじる蒼くん。
 私は、というと何もつけずに食べちゃうタイプ。
 そして、かりっとしたトーストが蒼くんは好きみたいだけど、私はそのまま柔らかい食パンを食べる方が好きだったりする。
 お互いマーガリンを塗るけれど、私は追加でイチゴジャムを塗る。
 飲み物は、お母さん特製のスムージー。
 豆乳やバナナも入っているから、小松菜や人参の味はあまり気にならない。
 甘党の私の大好きな飲み物。
 制服に着替える蒼くんを待たずに高校へ向かう。
 蒼くんは気にしていないみたいだけど、私はとっても人目が気になる。
 学校一秀才でイケメンの蒼くんがうちに居候しているなんて、バレたら何を言われるかわからない。
「おい、待ってるのが設定ってもんだろ」
「設定?」
「小説のキャラクターだよ。次回作のヒロインは融通がきかないけれど一途なタイプ。つまり、俺が着替えるのを待ってるんだよ」
「設定なんて作者じゃない私は知らないよ。それに、現実、面倒なことになるから、学校で話したり同居のことは話さないでよ」
「なんで?」
 本当に何も感じていない超鈍感男。こちらのことも少しは察してほしい。
「好きな男子と登校するならどんな会話するのか、体感したくてさ」
 怒りがこみ上げる。
「だいたい、私は、あんたのことなんて好きでも何ともないし。アホとか言うようなデリカシーのない人を片思いするつもりはないから。あの約束は撤回して。もう、次回作のヒロイン役は他の人に頼んで!!」
 自分でも予想外の反発だった。
 それくらいずっと不満が募っていたのかもしれない。
 どこか私のことを馬鹿にしていることは感じ取っていた。
 気まずい顔をして、ただ立ち尽くしている蒼くん。
 距離を置いて私たちは歩いた。
 なんとなくスマホをチェックする。
 蒼くんからのメッセージは来ていない。
 心のどこかでごめん、なんていうメッセージが届いているかもなんて期待している私はアホだ。
 たとえば、主人公ではない男子と出かけた時の様子なんか小説家としての興味は持つかもしれない。
 ちっぽけな反骨精神。
 わかっている。全く相手にされていないし、恋愛対象になんて思われていない。
 でも、それは他の女子に対しても同じだ。
 全員同じ条件の元、興味を持たれていないだけだ。
「おはよー、蒼」
 美優の声がする。
 そして、呼び捨てという所もなにげに聞きづてならないな。
 幼なじみの私ですらくんづけなのに。
 それくらい距離が近いのかな。
 友達以上恋人未満だって蒼くんも言ってた。
 って友達以上ってどういうこと?
 恋人未満はわかる。でも、友達以上ってことは友達を含むけれど、それ以上の何かしらの絆とか信頼関係があるってことだよね。
「相変わらず、朝は弱そうだね」
 あくびをしながら答えているのが聞こえる。
「夜まで勉強してたとか、キャラじゃないよね」
 笑いながらからかっている。
「小説読んでた」
 もしかして、美優にも売れっ子小説家っていうことは言ってるのかな。友達以上だもんね。
「またまたぁ。蒼は活字は読まない主義でしょ。せいぜい漫画か動画を見てたってところでしょ」
 知らないの? あの人気小説家、空野奏多が目の前の男子高校生だよ。
「ばれた? 今はまってる動画があってさ。漫画の字を読むのもめんどくさい、みたいな感じ」
 だるそうに答える。
「蒼らしいなぁ。私も小説って全然読まないんだけど、今度映画化されるっていう空野なんとかっていう恋愛小説の映画は見たいな。小説を読むつもりはないけどね。せめてコミカライズしてくれたら読むんだけどね」
 二人の会話のテンポがよくって耳に入ってくる。
 これ、小説に使えそうな感じだよね。
 小説家だってこと秘密にしているんだ。そして、活字嫌いっていうキャラを作ってるんだ。
 意外な一面だ。蒼くんの本当って何だろう。多分昨日は新作の構想を練ってたり、何かしら執筆してたような気がするけど。
 ノートパソコンが設置されていることは知っている。空野奏多の新作、読みたいなぁ。
「空野なんとかだっけ。映画は観に行ってもいいかもな」
 まるで他人事だ。本人のくせに。
 その日、気を遣ってなのか、蒼くんは教室内で話しかけてこなかった。
 私が怒りを露にしたから面倒になったのかもしれない。
 私の視線の先にはクラスの王子様の彼がいる。
 いつも仲間に慕われて真ん中に君臨している。
 でも、彼の視線の先には私はいない。
 同じクラスでもなく、同居していなかったら、一生しゃべることがなかったんだろうな。
 親同士が仲がよくて、幼少期に関係がなかったら、話すこともないくらい遠い距離。
 でも、あの人が超人気作家の空野奏多先生だなんて誰も思わないんだろうな。
 スマホにメッセージが表示される。
『昼休み屋上に来い』
 既読にはしたが、行くとは返事していない。
 一応まだ怒っているからだ。
『弁当箱が逆になってる』
 メッセージを読んで慌てて確認すると、蒼くんの弁当箱が私のほうに入っていた。
 これは、交換しないと、同居のことを知られてしまう。
 昼休みになると、そーっと弁当箱を入れたバッグを持って屋上に向かう。
 遅れて蒼くんがやってきた。
「わりい」
 弁当箱を交換する。すぐに立ち去ろうとしたが、腕を掴まれた。
「あのさ……」
 すこし気まずい顔をするが、すぐにまっすぐに目を向けられた。
「俺のことが嫌だとしても、空野奏多として協力を願いたい」
 珍しい、蒼くんがこんなに下手にでるなんて。
「今日はごめん。昼飯、ここで食ってけよ。今日は天気がいいし、飛行機雲もきれいな直線を描いているしな」
「なによ、その理屈。誰かに見つかったらどうするの?」
「俺はかまわない。でも、春風を感じながら飯食ったほうが得した気分になるだろ」
「まるで空野奏多の文章に出てきそうだね」
「っていうか俺が空野奏多だし」
 よくよく間近で見ると空野奏多がこの空の下にいるのかぁ。
 一緒に同じお弁当を食べているなんて、不思議。
 一緒の景色を見て、飛行機雲を眺める。
「昨日の夜は小説書いていたの?」
「まぁな」
「みんなには秘密なの?」
「まぁな」
 みんなの中にいるときよりも少しばかり無口な王子様が隣にいる。
 もしかしたら、こっちのほうが素なのかもしれない。
「せっかくだから、ここで食べようかな」
 同じメニューを一緒に食べる。
「もしかしたら、神社に記憶を持っていかれてしまったのかもしれないね。あの時、奇跡的に無事だったし。蒼くんの恋する心も神様が持って行ったのかもしれないね」
「おまえ、その発想おもしろいな」
 たまごやきをつまみながら思案する。
「アホって言って悪かったな。今日の夜、宿題教えてやるから、チャラにしてくれ」
 この人なりに、悪いと思っていたのかな。
 少し意外だ。
「あのさ、最初に俺のこと好きって言ってたけど、思い出の中の好きってことだろ。今の俺のことは好きじゃないってことだろ」
 ここで、好きなポイントを話したいところだけれど、どうせ私のことなんて相手にしてくれないだろうし、何よりも癪だ。
「あなたは、外見はたしかに美しい顔立ちだし、スタイルもいいけれど、性格は最悪だと思う。頼まれても付き合いたいとは思えないけどね」
 ついきつい口調で言ってしまった。
「なるほどね」
 お茶を一口のんで、納得する。
「反論しないんだ?」
「客観的に俺のことを批判する奴なんていないから、裸の王様状態かなって思ってさ。きつい一言を言われたほうが自分を見つめ直す機会になるし」
 真面目な顔をしてお弁当をしまう。
 こんなことを言われたら、ますます素敵だなって思ってしまう。
「あのさ、あえて素敵なポイントを挙げるとすると――文章力の豊かさとか礼儀作法がちゃんとしているところとか、見えないところで努力しているところとか。見た目だと、いつも姿勢がいい所とか。手が大きくて、案外筋肉がついているところとか。肌がきれいで、色が白いところとか」
 案外素敵なポイントを言えることに恥ずかしくなる。そんなにじっくり見ていたのかとか、気持ち悪いって思われるかもしれない。
 重くならないように、何とかフォローしないと。
 一息つくと、蒼くんは少しばかり笑ったように思う。
「案外内面も評価はしてくれているんだな。顔だけが好きだって告白されたことが結構あってさ。なんで、顔だけでそんなに俺のこと好きになれるのかわかんなくて、ずっと断ってきたんだ。でも、俺の行動とかを含めて好きって言われたら付き合ってもいいかもって思うかもしれないな」
「美優もきっと内面も好きだって思ってくれてるよ」
「何度も冗談の延長で付き合おうって言われたけど、どこが好きか聞くと、顔って言われてさ。なんだか納得いかなくって」
「馬鹿、それは照れ隠しだよ」
「正面切って大好きなポイントを挙げるなんて勇気がいることだし、とっても恥ずかしいんだよ。だから、あえて言わないだけだよ」
「でも、おまえは今褒めてくれたじゃん」
「今のは話の成り行きだよ。私の中では幼少期の蒼くんがいて――また会おうっていう約束と好きだって言われた嬉しい記憶だけが残っていた。だから、初恋を今でも引きずっているだけなのかもしれない。でも、美優は初恋を引きずっているわけじゃないでしょ。今のあなたが好きなんだと思う」
「そうじゃないけど、疑似恋愛してみたらきっと空野奏多としての新境地が開拓できるような気がするんだよね」
「お前、いいこというな。ということは、形だけでも俺が誰かと付き合えば、雰囲気だけはつかめるかもしれないよな。あのさ、俺の素敵ポイントって他にどんなところがある?」
「個人的にいいと思う所だけれど、朝起きたばかりの眠そうな蒼くんはピカイチでかわいいと思う。それに、お風呂上がりのドライヤーしないでリビングでくつろいでる姿も濡れ髪が2割増しの大人っぽさを出してると思うし……って何言ってるんだろ」
 自分で言っていて恥ずかしくなる。
「じゃあ、俺と付き合え」
「はぁ? 何言ってるの?」
「もちろん疑似恋愛でいいからさ。俺がお前を好きにはなっていないけど、お前は俺のことを相当好きな部分がある。それに、お前は空野奏多の大ファンだ。次回作に協力するべきだろ」
 平然とした顔で言われてしまう。
「付き合ってるみたいなこと、ってそんな大人みたいな恋愛は無理だよ」
「はぁ? 何を想像してるんだよ。普通にゲームしたり、どこかに出かけたり、メッセージを送りあったり、そんな普通の日常の延長だよ。その中に、新作のインスピレーションが浮かぶかもしれないから」
「でも、私みたいなのと恋愛みたいなことをすること自体、嫌じゃないの?」
「なんで?」 
 不思議そうな顔をする。
「別に好きじゃないけど嫌いとも言ってないよ」
 まぁ、そうだけど。
 居候の蒼くんは来客扱いで一番先のお風呂に入る。
 二番目に私が入る。これは、普通の流れだけど、本当はそんなことすら嬉しいって思っているなんて知られたら、ドン引きされちゃうんじゃないだろうか。そんな私のことを見透かしたかのように、蒼くんはこちらを見る。
「俺のことを恋愛対象ではなくても、推しくらいには思ってくれてるだろ。じゃあ、推しの後に入浴するのはどんな気持ちになる?」
 まさか、心の中を読まれたの?
 顔が真っ赤になったのが自分でもわかる。絶対に頬が熱い。
「推しは――尊いものだから。神聖な領域に入らせていただいているっていう感覚かもしれない。これは、私が推している声優の場合だけど」
「ふぅーん、俺は推しじゃないんだ?」
 顔が近い。どうしよう。
「推し――です」
「素直でよろしい」
 大きな手のひらで頭を撫でられる。
 珍しい笑顔はとってもかわいい表情で、あざとかわいいという表現がよく似合う。
 この人、私の気持ちを知っていながらもてあそんでるんだ。
 多分、リビングでの濡れ髪も私の反応を見て楽しんでいたのかもしれない。
 朝は、多分本当に弱いのだと思うけれど。
「これから、俺の仮の彼女になってくれる羽留ちゃん。よろしくな」
 笑顔でいたずらな微笑みを向ける。
 髪の毛をわしゃわしゃと撫でる。
 思わず片目をつぶってしまった。
 多分私は愛玩犬扱いなのだろう。
 恋愛対象とは違ったとしても、かわいいと愛でる対象ではあるのかな。
「どうせなら、映画は空野奏多本人と行かない?」
「空野奏多本人って……蒼くんと行くってこと?」
「初夏には上映されるだろ。俺は映画のほうにはほぼノータッチだから原作者だけど詳しくはわかってなかったりする」
「なんで、あなたみたいな恋愛鈍感男があんなに泣ける恋愛小説を書けるの?」
「設定上、問題があるだろ。純愛設定なんだから、他の男と出かけるの禁止。彼女が浮気性っていうのも問題だしさ」
「でも、まぁ私たちは仮の恋愛関係なんだからそこまで厳しくしなくてもよくない?」
「よくない」
 妙に頑固なところがなんとも言えない。どうせ、私たちはただの仮の恋人。しかも、シチュエーションだけを小説のネタのために行う関係。
「そこに心がないと、小説のネタとして使えないんじゃない?」
「そこは、さっき確認したから大丈夫。お前、俺のことだいぶいいと思ってくれてるっぽいしな」
 顔が赤面状態が続く。さらに度合いが増したような気がする。
「じゃあ、手を繋ごうか」
「はい? 今は昼休みで学校だよ」
「小説のネタの臨場感に協力しろ。手を繋いだリアル感を文字に表したいんだよ。お前は空野奏多の一番の理解者だからさ」
 思わず胸がきゅっとなる。命令形なのが、なぜかぐっとくる。
 私でも何か役にたてるのだろうか。
 大好きな小説家で大好きな人。
 隣にいる蒼くんが手を差し出す。
 全く照れた様子はない。
 相変わらずのポーカーフェイスだなぁとまじまじとみつめるが、彼は本当に小説のために私と手をつないでいるらしい。
 私のことなんか眼中にないから仕方ないかと思う。諦めるのと、ドキドキするのが同居する。
 変な感じだ。私だけがまっかに頬が熱くなっている。
「ほら、もっとこっちに来い」
 無言で引き寄せられる。
 思ったより大きな手のひらは包み込んでくれる。安心するな。
「感想は? あとで100字以内でメッセージで送信しろ」
 なによ、まったく場の雰囲気とか考えてないなぁ。
 女優だと思えばいいのか。
 例えば、ドラマや映画に出ている人たちは好きではなくても、好きだと見せかけた演技をする。
 それと同じだ。
 メッセージを放課後送信した。
『体が熱くてドキドキする。蒼くんの体温が感じられる』
『なるほど。体感温度は一番わかりやすい表現になりそうだな。体温、いいワードだ。あと、何か感じたことはあるか?』
『蒼くんの香りがいい感じだなって』
『俺、匂うか?』
 珍しく動揺する顔をする。かわいいな。
 自分の腕のあたりの匂いを嗅ぐ。
『いい匂いがする。まるで青空の下の樹木みたいな感じ』
『なんだよ、その匂い。でも、それもリアルな感想でいいな。嗅覚は恋愛には必要視点だな』
『あと、気になった点は?』
『頭が真っ白になったかな。男子と手をつなぐことなんて初めてだし』
『初めてなのか?』
『蒼くんは手をつなぐのは、初めてではないの?』
『初めてではないよ』
 蒼くんの初めては私ではないという事実にショックを受ける。
 美優は何度も蒼くんの香りを感じて、体温を感じたのかな。
 何度もドキドキして、いつかは自分だけの恋人になってほしいと何度も願ったのかな。
 ライバルの美優の気持ちがわかるような気がする。
 私の場合、嫌いだと思っても、やっぱり嫌いになれない。
 離れようと思っても、家でも学校でも一緒で、彼の秘密も共有している。
 好きにならないほうが難しいよ。
 横にいる端正な顔立ちの王子様は恋愛に全くの無頓着さを見せるけれど、一番恋愛を知ろうとしている。
 不器用な人なのかもしれない。
 この人が私のものになるなんて思えないけれど、ただ、隣にいれたらいいな。
『もしかして、手つなぎが初めてではないと聞いて、がっかりしたか?』
『ほんの少しだけ、がっかりしたかもしれない』
『昔おまえと手をつないでいたんだろ。だから。初めてじゃない。わかりやすいな。相当、俺に惚れ込んでるんじゃね?』
 まっすぐに言ってくれたその言葉が嬉しくて、つい、にんまりしてしまう。
 私の顔の筋肉は相当正直者らしい。
『ただ、隣にいられたらいいなって思った』
 今日の感想を一言で述べてみる。
 毎晩、夜は勉強を教えてくれた。私への対価としての彼なりの優しさなのかもしれないけれど――厳しい。
 鋭い目つきで鬼教官の如く叩き込まれる。
 蒼くんは地頭がいいから、呑み込みが早い。だから、できない私のような人間のことがあまり理解できないらしい。
「おまえ、こんな問題もわかんないのか」
 と言いつつ、何とかわかりやすく説明してくれる。
 数学の応用問題あたりだと、何度か聞いてなんとか解ける問題も多々ある。
「今回のヒロインは、まさに勉強が苦手なポンコツ女子だからリアルな状況が書きやすいな」
「ちなみに、そのヒロインと主人公って結ばれるんだよね?」
「結ばれないけど」
 あっさり否定される。
「どんなに好きになっても、好きになってもらえない恋愛っていうのもありかなって思って」
「何それ、全然今までの泣ける系ハッピーエンドじゃないじゃん」
「ちゃんと伏線回収できるようにしてるから、最後は泣けるよ」
「空野奏多ファンとしては、ハッピーエンド希望なのに」
「恋によってはハッピーエンドになるかどうかなんてわかんないだろ。現実なら尚更だ」
 蒼くんはパソコンに向かって、小説を書いているみたいだ。
 一番緊張するのは蒼くんの部屋で勉強している事。
 協力の対価としてはあまりにも甘辛すぎる。
 甘いは、好きな人と一緒にいられることだけれど。
 辛いは、蒼くんの勉強に対する指導の厳しさだ。
 小説を書いている蒼くんの横顔はとても真剣できれいだ。
 真摯に向き合う姿は誰よりもかっこいい。
 再会して最初こそ、がっかりしたというか変化に戸惑ったけれど、彼のことを知るともっと魅力を感じた。
 この人は、人一番努力家で辛抱強い王子様なのかもしれないと惚れ惚れする。
「手が動いてないぞ。ちゃんと解け」
「ちょっと、見惚れてました」
 正直者になろうと思う。言葉にすることによって、せめてこの人に私の気持ちが届けばいい。超鈍感王子様なのだから。
「なんだよ、きもちわりーな」
「ひどーい、私の顔はたしかに、美優ほどかわいくないし、世間一般からみたら、多く見積もって中の上。いや、中の中くらいだと思うけどさ」
 蒼くんが笑う。
「自分で中の上とか言うか?」
「少し盛ってみただけで、本当は中の下だということはわかっているから」
 頬が赤らむ。
「別に、俺は美優と比べてなんていないし、世間一般基準と比べてもいないから卑屈になるな」
「だって、蒼くんは美男子で私といたら不釣り合いだっていわれる容姿をしてるよ。スクールカースト最上位の蒼くんと私が一緒にいること自体、おかしいよ」
「その考え方、おかしいと思うけどな。だいたい、スクールカーストって何だよ。誰が分類してるんだよ。容姿だって、誰が良し悪しを決めてるんだ?」
「……」
 何も答えられない。世間一般的な考えだと思い込んでいた。
 スクールカーストや容姿の分類なんて自分が決めつけていただけ?
 きっと周囲も同じことを考えているだろうとは思う。
 でも、スクールカーストなんて、誰が決めたなんて聞いたことがあるわけでもない。
 自分自身の思い込みだった?
 蒼くんのそういった考え方はとてもまっすぐで好きだな。
 いけない。また、好きなポイントが増えてるよ。
 小説を書きながら、こちらを向いて蒼くんが私を見つめる。
「明日の土曜日疑似デートな」
 決定事項という言い方をする。相変わらず自分勝手な人。
 疑似という言葉がなかったらどんなに嬉しいだろうか。
 疑似というのは小説のリアル感を出すためだから、仕方がない。
 そうでなければ誘われることもないだろう。
 実際暇で何も予定はない。
「どうせ暇人なんだから、俺のために空けとけよ」
 この言い方、俺様王子様だなぁ。でも、蒼くんだから許せてしまう自分が情けない。
「でも、どこに行くの?」
「そうだな、遊園地とアクアリウムが一体となったテーマパークとかどうだ? あまりうちの学校の生徒もいないだろうし」
「たしかに街中だと誰に会うかわからないよね」
「俺は別に誰に会っても構わねーけど、おまえが人目が気になるんだろ。俺は頼んでいる立場だし、学校で嫌な思いをさせたいとは思わないからさ」
「意外と配慮があるというか、優しいね」
「俺の次回作はおまえにかかっていると言っても過言ではないからな」
「空野奏多の次回作が私にかかっている……」
 嬉しくて照れくさい。
「お前の仕草、すげえ参考になる。わかりやすい顔するからな」
「だって、ずっと蒼くんのことを好きだと思って生きてきたんだもん。その人と、一緒に住んで一緒に勉強して一緒に出掛けるなんてうれしいでしょ」
「最近、ちょっとずつ素直になってきたんじゃねーの?」
「恋愛超鈍感男には、ちゃんと言葉で伝えたほうがいいかなって。それが、空野奏多の新作につながるわけでしょ」
 蒼くんの指が私のおでこに触れる。
 優しい目をして私の前髪をかき分けて目をみつめる。
 ドキドキがとまらない。このまま瞳を閉じたほうがいいだろうか。
「なぁ、こういうシチュエーションってどんな感じ? 形に残したいからメッセージで送ってほしい」
「もしかして、小説のネタでこんなことしたの?」
「こんなことって前髪に触れただけだろ」
 そう言われると身も蓋もないが、実際かなり距離が近づいたような気がした。
 部屋に戻ってメッセージを送る。
『指がおでこにふれるときゅんと胸が弾むんだよね。胸がしめつけられそうになって、これからどう動いたらいいかわからなくなったっていう感じ』
『なるほど。きゅんかぁ。いい擬音語だな。一言で色々なものが詰まってる言葉だよ』
 小説のネタで平然とこういうことができるなんて、犯罪だ。
 心の泥棒に値する。って本人は微塵も感じてもいないみたい。
 でも、ここまで恋愛に無関心というか鈍感だと他に好きな人ができそうもないから、安心だな。
「風呂、先に入ったから、どうぞ」
 蒼くんの声が聞こえる。
「はーい」
 下に行くと、リビングで濡れ髪のまま麦茶を飲む蒼くんがいる。
 やっぱり、かっこいい。
 いつも長い前髪とば別でおでこ全開状態。
 おでこを出してもかっこいい人はかっこいいんだなと納得する。
 イケメンの特権。どんな髪型でもかっこいいということだ。
 じっとみつめていると目があう。
「もしかして、風呂上がりの姿に見とれてた?」
 冗談じみた本気顔で言う。いじわるな人だ。
「別に……少しばかり見ていただけよ」
「俺のあとは、おまえがふろに入るんだから、間接風呂みたいな感じか」
 間接風呂? 初めて聞いた言葉だけれど、間接キスみたいな意味合いだろうか?
「はい、この麦茶飲んでみて」
「ん……?」
 何もわからずごくりと飲んでみる。
「こーいうのって間接キスっていうらしいぞ」
 かあーっと顔が熱くなる。私、無意識に誘導されたの?
 親がいない隙を見計らってそんなことをしてくるなんて不意打ちだ。
 しかも、顔立ちは芸能事務所に所属していると言われてもおかしいくらいの美形。
「初めての間接キスの味はいかがかな?」
 わざと丁寧な言葉を使う。
「ちょっと、ただの麦茶の味に決まっているでしょ」
「うーん、そこはもっと文学的にきれいな感じの表現がないわけ?」
 また小説のネタかぁ。常に頭は小説のことでいっぱいなんだな。売れっ子の人気小説家なのだから、当然のことだ。
「でも、不意打ちの間接キスはありえないでしょ」
「一般的にはイチゴ味とかミント味とかっていうよな」
「これがサイダーだったら、サイダーの味っていうけどね」
「それ、いいかも。初恋の味はサイダーの味っていうのも響きがいいよな」
「まぁ、麦茶の味よりかっこいいというか、爽やかな印象だよね」
「ファン第一号だし、一番の協力者であるおまえには、一番最初に次回作を読んでもらう権限を与える」
「うれしい!!」
 思わず嬉しくて残った麦茶を飲み干す。
「麦茶、全部飲んじまったのか」
「はい……すみません。って蒼くんが私に勝手に渡して来たんでしょ」
 向こうの部屋からお母さんの声がする。
「羽留。早くお風呂に入りなさいよ」
 蒼くんが耳打ちする。
「今日の風呂は青空の下の樹木の香りがするから」
 にやりと笑う。今日、私が屋上で昼休みに述べた言葉を引用している。
 たしかに、蒼くんのお風呂のあとだから、彼の香りがすることは否めないけれど……。
 好きな匂いなんだ。落ち着く香り。でも、絶対にそんなこと本人には言えないけれど。
「いつも私をからかって、おもしろいの?」
「おもしろいよ。おまえって本当に顔に出やすいからからかい甲斐があるってもんだよな」
 ケラケラ笑う。蒼くんの笑顔はいつもどこかいたずらを含んでいる笑いだ。
 その後、入浴すると、青空の下の樹木の香りが本当にした。蒼くんがいないときはしなかった香りだ。
 これが最近はあたりまえになっているけれど、今後はいつかは別な家に引っ越してしまう。今の関係は難しいのだろうな。
 入浴しながら一抹の寂しさにおそわれる。
 でも、幸せに包まれている方が割合としては高い。
 まるで蒼くんに包まれているみたいで、どんな入浴剤よりも疲れを癒す効果がてきめんだ。
 たとえそれが疑似恋愛で疑似デートだとしても、偽りだとしても、私の好きは本物だから、舞い上がってしまう。

 デート当日――
「蒼くんにとっては、特別なことでもなんでもないんだろうけどね」
「俺にとっては結構特別なことだよ。おまえみたいに何でもはっきり怒ったり意見する女は周囲にいなかったし。空野奏多を純粋に好きだと言ってくれた女もいなかった。大ファンだと言ってくれる本音で何でも言ってくれる人と出かけるっていうのは初めてだからさ」
 なによ、ちょっと期待させるようなことを言わないでほしい。
 美優の足元にも及ばない私。
 ふと、昨日の言葉を思い出す。
「その考え方、おかしいと思うけどな。だいたい、スクールカーストって何だよ。誰が分類してるんだよ。容姿だって、誰が良し悪しを決めてるんだ?」
 確かに、蒼くんは美優と私を比べる発言はしていない。上下を言ったこともない。どっちが美しくて秀でているかなんて私が勝手に思っているだけだ。
「じゃあ、蒼くんの初めてのデートは私ってことで」
 にこりとしてみる。
「デートか、まぁそうかもな」
 え? 否定しないんだ。そこは絶対断固否定されるかと思っていた。驚きだ。
 一緒にいて心地いい感じ。でも、少しばかり恥ずかしくてくすぐったい感じ。
 憧れの人と、(仮)の初デート。仮でも何でもいいや。
「おまたせ」
「おまえ、それ、昨日必死で考えた服装だったりする?」
「必死ってわけじゃないけれど――まぁそれなりにはね」
「否定しないところが素直でよろしい」
 蒼くんはというと、全体的に爽やかという感じだ。白いTシャツに黒いスキニーデニムパンツ。
 これは、足が長くて細くないと絶対に似合わないという印象だ。
 白いTシャツの上には、青いワイシャツを羽織っている。
「青、似合うね」
「そうか。名前が蒼だからな」
「青色と蒼くんの名前って何が違うの?」
「水や空など、自然界にある澄んだ青。信号の緑色を青信号というように、緑色も青。野菜の青物も青だ。実際は緑色でも、青色として一般的に言われているものが意外とあるらしい。藍色や群青色などの濃い青色も青。で、俺の名前の方は、草木などの深い青色を差すらしい。日本の伝統色の「蒼色」は青色ではなく緑色らしい。なんでこの漢字にしたのかというと、漢字がカッコいいと思ったからだってさ。単純なんだよ」
「空野奏多ほどの人でも、スランプってあるの?」
「ある程度作品を書いていくと、自分の中のネタを使い切った感じがあってさ。より良い作品を書きたい、前作よりもいい作品を書きたいと思うと、慎重になってしまう自分がいる。実体験がないと新境地も拓けないと思うし」
 意外だった。完璧で勉強も友達関係も全てそつなくこなす人だと思っていたけれど、今、壁にぶち当たっていたのか。
 だから、私なんかに身分を明かしてまでお願いしてきたのかもしれない。
 一番のファンだからこそ助言できることもあるかもしれない。
 電車に乗って、遊園地に向かうまで、私たちの会話は途切れたり気まずくなることはなかった。
 自然に会話が生まれて流れていく感じだ。
 幼なじみだからだろうか。
 太陽の下の蒼くんの髪の毛はいつもより茶色く見えて、サラサラした感じがさらに増す。
 髪の毛も傷んでいなくて、つやがある。肌同様美しいな。
「作品を作るって更に欲が増すんだよな。高みを目指したいというかさ。だから、つい、もっといいものを書きたいっていう欲が出て、次回作が慎重になっているんだ」
「じゃあ、気分転換ってことで。今日は楽しもうよ。取材も兼ねて一石二鳥でしょ」
「じゃあ、あのジェットコースターからいってみようか」
「私、絶叫系苦手なんだけど……」
 冷や汗が浮かぶ。
「俺が隣にいるから、大丈夫」
 何よそれ、嬉しいセリフを言われると何かを期待してしまう。
 あっちとしては何も深い意味がないとしても、深い意味として受け取ってしまう。
 手を引っ張られる。手をつなぐわけではないけれど、手を持たれた感じ。
 手のぬくもりが温かい。
 繋がっているっていうのはこういうことを言うのかもしれない。
 心が繋がっているわけではないけれど、手だけでも繋がっていたい。
 超苦手な絶叫系ジェットコースターに乗り、私の手は確実に震え冷たくなっていた。
「本当に苦手なんだな」
 気を遣ってくれたのか、手をほどかずにいてくれる。
 苦手なジェットコースターに乗るのと、蒼くんとの手つなぎどちらがいいかと言われたら、手つなぎがいいに決まっている。
「ったく、仕方のない奴だ。あそこのベンチで休むぞ」
「蒼くんは平気なの?」
「こーいうの大好きだ」
 本当に楽しそうな顔をする。
「よかった」
「何がだよ?」
「蒼くんが思いの外楽しそうだから、今日ここにきてよかったと思ったの」
「おまえって、自分が楽しいっていう基準じゃなくて、他人を中心に考えるんだな。俺とは全然違う。これも、キャラクターの参考になるな」
「私、友達が多い方じゃないし、特別モテるわけでもない。つまり、相手に合わせないと一人ぼっちになっちゃうでしょ。だから、自然とそういった考えになるのかも」
「小さい時からそうだったのか?」
「どうかな。気づいたら、いつのまにかそうなっていたんだと思う」
 ベンチに座ると、蒼くんが持参したペットボトルを二本取り出す。
「今日は間接キスじゃないからがっかりするなよ」
「もう、すぐそーいうこというんだから」
 私は顔を赤らめながら、昨日の夜を思い出す。
 ただ、同じコップの麦茶を飲んだだけなのに。
 ずっと疑似デートできたらいいのに。
 こう思っているのは私だけなのだということは重々承知だ。
 まだ、本当の恋なんてわからない。
 でも、好きだと思う気持ちはたしかにここにある。
 隣にいる蒼くんと一緒にいたい。好きになってもらいたい。
 好きになってもらいたいは、到底無理なことだと思う。
 ずっと片思いだとしても、見返りなんて求めないから、好きでいさせてほしい。
 声が好き。肌のぬくもりが好き。瞳が好き。髪の毛が好き。筋肉の付き方も背の高さも全部好き。
 好きなポイントを挙げたらもっともっとある。きりがない。
 この距離が少しでも心地いいと思ってくれたら幸いだ。
 アクアリウムレストランは思ったよりもずっと雰囲気がいい。
 全体的に海をイメージしたレストランの館内は青色で覆いつくされている。
「どれにする?」
「私はアクアマリンパスタのお店がいいな。全部美味しそうだし、食後に深海のパフェなんかも美味しそうじゃない?」
「たしかに。パスタが全体的におしゃれだな。女性受けしそうなネーミングだし、色合いもいい。深海のパフェも全体的に青い感じが魅惑的だな」
「私は昔から、珍しいものが好きなんだよね。例えば、青い食べ物や青い花とかあんまりないじゃない? あえて着色したのかもしれないけれど、見つけるときれいだなって思って、つい手に取ってしまうんだよね」
「本当に青が好きなんだな」
 一瞬蒼が好きに聞こえる。
 それも間違ってはいないので、否定はしないでおこう。
「パスタは深海のマリンパスタにしようっと」
「げっ、それはチャレンジャーだな。青いクリームに覆われてるけど」
「水族館に行った後に、記憶を司るっていう神社に寄って帰らない?」
「あの神社か?」
「いつも夢を見るんだ。蒼くんと約束したんだけど、肝心の合言葉の部分が思い出せないんだよね。夢の中でもそこは聞こえないの」
「俺、本当に記憶をそこだけ失ってるから、あながちあの神社とは何か関係があるのかもしれないな」
「今日の感想、聞いてもいいか?」
「珍しいね。わざわざ丁寧に断りを入れるなんて」
「まずは、蒼くんって猫を被ってるんだなって思った。いつも完璧で大人の前では礼儀正しい優等生なのに、私の前だと横柄な態度だし、冷たい言葉を浴びせるし。でも、他の人が知らないあなたを知れたということは得したような気持ちになったかなぁ」
「悪いか。人間裏表の顔はあるだろ」
「でも、蒼くんの本当の顔は私しか知らないんだろうなぁって」
「それって、嬉しいのか?」
「あったりまえでしょ」
「面白い奴だな。青い食べ物をあえて食べる奴も初めて見たし」
「私は、空野奏多の力になりたいって思ってる。もちろん、蒼くんのために私は尽くしたいという気持ちもあるし」
「おまえは裏表がない奴だな」
 蒼くんがにこっとすることは滅多にない。
 でも、本当に心を開いた笑いはすぐに私にはわかる。
「少しだけでも、蒼くんの本当の部分に触れていたいって思う」
 少しばかり珍しく蒼くんが照れているように思う。
「本当の部分、文章に入れるには悪くないな。尽くしたいという気持ちっていうのも今時珍しい考えだし、キャラとしては立つかもしれないな」
「本当にいつも小説のことばかり考えているよね。本当にプロなんだなって尊敬する」
「おまえは、そんなに人を褒めることに恥ずかしさとか抵抗はないのか?」
 更に珍しく視線を逸らしつつ、私をちらりと見る。
「開き直ってしまったというのはあるけど、一生懸命応援したいなって思うし。好きという気持ちには抗えないでしょ」
「こんな人間もいるのか……」
 少しばかり笑いながら、少しばかり認めてくれたような発言。
「蒼くんと一緒に食事ができて、ここに来れてよかったよ」
「そうだな」
 珍しく否定的な発言をしないんだ。ちょっとびっくり。
 一緒に食器を片付けて、一緒にアクアリウムの入り口に向かう。
「じゃあ、手を繋ぐか」
「からかっているでしょ」
「おまえの嬉しそうな顔を見てると、俺も嬉しくなるからさ」
 無理矢理手を繋がれる。
 手を繋いだ高校生の男女を見た人たちは、本物の恋人だと思うだろう。
 本当は違うんだけどね。私のただの片思い。
「帰宅途中に神社があるから、寄ってみるか。夢ってどんな夢を見るんだ?」
「夢はずっと小さなときから定期的に見ていたの。だから、忘れないでいられたのかもしれない。蒼くんが声変わりする前の声で優しく私に語り掛けてくれるんだ。合言葉は〇〇〇〇だよって」
 一瞬固まる。記憶の糸を辿る。
 一瞬桜吹雪の風に包まれる。
 ぴん、と言葉が鮮明に浮かんだ。
 ずっと探していたのにずっとわからなかった合言葉。
 蒼くんが語り掛けてくれた言葉。
「合言葉はアオハルだよ」
「え?」
「ずっと夢の中でもやがかかっていた言葉が今見えたの。CMで最近、青春をアオハルと呼ぶっていうのがやってるでしょ。あれ、十年前のリメイクなんだって。昔のCMをSNSで見つけたの。子供ならば、自分の名前がCMで連呼されてるのを見たら、印象に残るでしょ。しかも、私たち二人の名前を合わせたような言葉だから」
 一緒に電車に乗って帰路につく。
 神社と言ってもそんなに大きな神社ではなく、石段も何百とあるわけではない。
 赤く光る夕焼けが少しばかりまぶしい。
「夕焼けってさ。いろんな色でできているらしいよ」
「オレンジとか赤っていう印象が強いけど」
「時間帯によって紫にも赤紫にもオレンジにも赤にもなる。それが虹みたいにあわさった時間帯が好きだな」
「そういえば、空野奏多の作品にも夕焼けの描写はわりとあるよね」
「空野奏多っていうペンネームの由来は、空を見て考えたんだよ。本名だと身バレすると活動しづらいだろ。空の彼方には何があるんだろうって思ったんだよ。小さい時に虹の上を歩くことができると思っていた時期があってさ。虹の彼方には何がある? みたいな絵本があったんだよな」
「私も、その絵本を読んだことがあるかも。虹の上を橋を渡るかのように歩けるっていう話でしょ」
「空の彼方にある何者かになりたいなって思ったんだ。なんか、すげーものが待ってるような気がするだろ。ファンレター送ってくれただろ。編集部に届いた第一号だったんだ。ファン第一号って作家にとっては超嬉しい出来事だからずっと大切にファンレターは保管していたんだ。今時手紙で感想送ってくれるなんて相当読み込んで気に入ってくれてるっていう証拠だろ。当然名前と住所も知っていた。それで、母親の友達で居候するところの娘の名前と住所が一緒だったから、はじめはどんな顔して会えばいいかわかんなかった」
「でも、不思議だよね。蒼くんの目の前で私が交通事故に遭って、蒼くんが助けを呼んでくれたとは聞いたけれど、蒼くんが神社に祈ってくれたって聞いてから無事だったのは、そのおかげなのかなって思ったの。だから、この神社の神様に記憶をかえしてもらおう」
 夕焼けの中の神社はますます厳かで不思議な空気が漂っているように感じる。
「神様、もし、蒼くんの記憶をもっているならば、蒼くんに返してください!!」
 人目を気にする蒼くん。
 幸い人は誰もいない。
「あの時は、助けてくれてありがとうございます!!」
 大き目の声を出す。もちろん、神様からの返事はない。
 蒼くんの手を握り、「合言葉は――」と言って先程の言葉を言うようにうながす。
 蒼くんは、少しばかり面倒くさそうな顔をする。
 でも、手をぎゅっとして強制的に言うように目配せする。
 あれ、今日は何回この人の手を握ったのだろう。 
 もはや、あたりまえになっていることに気づく。
「「アオハル!!!!」」
 二人の声が重なる。
 私たちの名前を合体させた言葉。蒼と羽留。
 すると、元々階段下よりも気温が低い神社の空気が更に下がる。
 夕陽の光が急に強くなる。
 赤、紫、オレンジ、黄色、透明な光も入り混じる。
 散っていたはずの桜の花びらが突如舞い上がる。
 まるで私たちの周囲を取り囲むかのように、迎えてくれているかのように――。
 記憶の糸が繋がる感じがする。
 蒼くんの手が、更に私の手を強く握る。
 見えない糸が繋がる――光が繋ぐ記憶――。
 まるで映画のように幼少期の映像が三百六十度に現れる。
「羽留ちゃん?」
 一瞬、呼吸を置いてから、別人のように優しい声で蒼くんが私を見つめる。
「ちゃんづけ?」
「思い出したんだよ。ずっと忘れていた。羽留ちゃんとの記憶」
 そこにいたのは、十年前に別れてそのまま成長した蒼くんだった。
「嘘? やっぱり合言葉は記憶を戻す言葉だったの?」
 にこやかに優し気に笑う蒼くんとの距離は確実に縮まっていた。
「ここで一生懸命祈ったんだっけ。大好きな羽留ちゃんが死にませんように。ケガをしませんようにって」
「この神社が記憶と引き換えにねがいをかなえてくれるというのは本当だった?」
「かもな」
「じゃあ、私のことを好きだったっていうことを思い出してくれたんだね。十年後にまた会おうという言葉も」
「まあな」
「じゃあ、好きって言ってよ」
「ちょっと待てよ。そんな恥ずかしいことできるわけねーだろ」
 やっぱり、蒼くんは成長して、いわゆるクールキャラになってしまったらしい。
「私のこと好きなくせに!!」
「……秘密」
 今まで見たことがないくらい、蒼くんの顔は赤くなっている。
「顔が真っ赤だよー」
「夕陽のせいだよ」
 必死に顔を隠そうとする蒼くんはいじらしい。
「相変わらず、本心を隠した猫かぶり王子様なんだから。私がずっと好きだって思っていたのは蒼くんだよ。再会できて嬉しいけど、当面の目標は好きって言ってもらうことかなー」
「そんなこっぱずかしいこと言えるかよ。次回作で俺と羽留の話をデフォルメした話を書きたいと思う。そこに俺の気持ちを書くから。あと、ファン第一号として最初の読者になってほしい」
 つい、嬉しさのあまり、抱きついてしまう。
「本当に、羞恥心というものを知らない奴だな。でも、羽留のおかげで次回作のキャラが固まった。ラストはハッピーエンドに変更する」
「羽留ってよんでくれるのもうれしい」
「これから、何度でも呼んでやるよ」
「何度でも呼ばれてやるよ」
「俺のことは、呼び捨てでいいから」
「これから、よろしくね、蒼」
「こちらこそ、よろしくな、羽留」
 呼び捨ては距離がぐっとちぢまる。
「いつか好きって言わせてみせるんだから」
「恥ずかしいから、言わねーけど、小説の中で羽留への気持ちは綴るから」
 猫かぶりな本性を見せない王子様は多分、好きとは正直に言わないだろう。
 思いえがいていた王子様ではなかったけれど、俺様な素直じゃない王子様も魅力的だ。
 私の前だけでは猫をかぶらない本当の蒼が見れたらそれはそれで幸せだ。
「もし、言うとしたら――いまわの際にいってやるよ」
「いまわの際?」
 小説家の蒼は語彙力が多い。私は乏しいので、帰ったら辞書を引いて調べないとわからない言葉も多々ある。
「帰ったら、辞書で調べてみるがいい」

 少し後になって知った言葉。
 いまわの際とは――死に際、最期の時。
 つまり――蒼は羽留とずっと一緒にいたいという最高に素敵な言葉をおくってくれたということだ。

 アオハル=青春と世間では言われている。
 せいしゅんの読み方を訓読みにしたものがアオハルだ。
 青春とは人生の春。若くて活気のある時期。
 蒼と羽留の物語はこれからもづついていく。
 もし、また蒼か羽留の記憶が無くなってしまっても、またお互いを好きになる自信はあるから。
 もし、離れてしまうことがあっても――二度目、三度目と再会したら、絶対に何度でも君を好きになる。

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