その夜は、初めての風呂上がりの蒼くんを見て、翌朝は眠そうな寝起き一番の蒼くんを見て、朝食を共にした。
 こんな初めてづくしのチャンスは滅多にない。というか私の特権かもしれない。一時的だけれど――。
 でも、好きになってはいけない。
「いってらっしゃーい」
 お母さんはあとから来るらしい。蒼くんの保護者も兼ねてとのことだ。
「同居のことは言わないでよ」
「バレてもかまわないと思うけど。なにか困る?」
「私なんかと住んでたらまずいでしょ」
「私なんかって何だよ? からかわれるとか、心配することないって。俺とおまえがどうなることはないってことはわかりきってることだ」
 心がぽきっと折れてしまった。
「私は、零時くんと楽しい高校生活送るんだから」
 いつのまにか蒼くんと私は一緒に登校している。同じ家なのだから、当然だけれど。
 この人は王子様的なポジションだから、周囲のみんなはきっとさからえないんだ。
 ちょっとわがままで、自己中だけど、人間的に魅力があるからみんなが集まってくるんだろうな。
「俺は、正当な理由があるし、同居を隠すつもりはないから」
 結果的に一緒に登校することになる。しばらくは、毎日一緒に登校することになるのだろうか。
 一緒のご飯を食べて一緒のお風呂に入って一緒の家で寝る。家族じゃん。
 しかも、ずっと片思いしていた人。その人の素顔が垣間見れる。
 あくびをする瞬間、彼の一瞬の素が見える。お風呂の後は濡れたままドライヤーはしない派らしい。
 ご飯を食べるときは、好きな物は最後に残す派。目玉焼きにはしょうゆ派。
 昨日一日でわかったことだ。自分の目で見たことだ。
 でも、私は確実に失恋しているし、恋が芽生える気配はない。
 これ以上嫌われないようにしないと。
 たわいのない話をしながら、校門をくぐる。桜の花が舞う。
 ずっと待っていた瞬間。
 思っていた再会とは全然違ったけれど、この景色は想像通り。
 青い空に白い雲。ピンク色の桜の花道が私たちを待っている。
 少し背伸びして勉強して入った高校。
 お母さん経由で蒼くんがこの高校を受けると聞いていたから、ダメもとで受験した公立高校。
 学力も全然違うけれど、結果的に一緒の高校に入ることができた。
 一緒に校門に足を踏み入れる。
 そよ風が春色になっている。気持ちがいい優しい温度。
 入学式での蒼くんは、やっぱりとってもかっこよく、新入生代表の言葉を述べた。
 この高校は県内でも一位、二位を争う偏差値だ。
 蒼くんは県内の学力トップか。
 王冠と赤いマントが似合いそう。王子様みたいなオーラがある。
 髪の毛の感じも、目鼻立ちも、顔の形も、肌質も、筋肉の付き方から骨格まで見事なまでに好みの姿。
 外見が好みというだけで、ただ憧れて見ているだけでもいいかもしれない。
 彼の姿に射抜かれる。また出会えてよかった。
 しかも、私は彼の寝起き姿も彼の風呂上がりの色気のある濡れた髪も知っている。
 きっとこの学校でその姿を見た者はいない。
 変な優越感を感じてしまう。
 実際入学する生徒には学力に幅があって、私と蒼くんはだいぶ偏差値が違うことはわかっている。
 美優は勉強ができるらしいという噂だ。きっと二番あたりではないかという自己採点結果らしい。
 やっぱり二人はお似合いだ。

 自宅に帰ると、制服から私服に着替えるけれど、やっぱり蒼くんがいる手前、少しかわいらしい洋服に手が伸びる。
 これなら、部屋着としても違和感なく女の子らしいだろうか。
 自分が馬鹿だということは知っている。
 とっくに失恋しているし、相手にされていない。
 でも、彼の前ではかわいらしい女の子でいたい。
 この上なく、身勝手な願望だな。
 帰宅すると――
「蒼くんのことは嫌いだから安心して」
 思ってもいないことが口から出る。なんだかムカついたからだ。
「ファンレターくれたのに、嫌いなんだ?」
 にんまりと見つめられる。ファンレターを蒼くんに書いた覚えはない。
 私服姿に着替えた蒼くんはなぜか私が書いたことがあるファンレターを持っている。
 空野奏多先生へと書いた封筒をなぜ、蒼くんが持っているの?
 これは、大手出版社編集部にだいぶ前に送ったものだ。
 受験中、一生懸命に想いを伝えたくて書いた手紙だ。
「なんで、蒼くんがこの手紙を持っているの?」
「さて、なんででしょうか? おまえ、バイトしない?」
「は?」
「俺は空野奏多として小説家としての顔を持つ。でも、恋愛経験がないし、人を好きにもなれないから、相手の反応とかリアルなものを描けない。疑似キャラとして小説のモデルになってほしい」
 脳内が追い付かない。目の前にいる初恋の人が大好きな小説家、空野奏多で、その人に小説のモデルのバイトをしないかと持ち掛けられているの?
「でも、小説のモデルって私は演技ができないし」
「いいんだよ、おまえは俺のことが好きなわけだろ。つまり、リアルな反応を見ることができる。しかも同居ときたら、もっとリアルな日常が描ける」
 にこりとする。王子様スマイル全開。
「今度描くのはもっと素朴でどんくさくてイケてないヒロインだから。おまえが適役だと思ったんだ。片思いを必死にできるピュアなタイプだと再会した時にこれだと思ってな。なぜかガキの頃の記憶がなかったから、おまえがどういう奴かも昨日知ったんだけど。まさか十年前の気持ちを今でも持ち続けている人間がいるなんて国宝級かもしれないって思った。これは、お前にだけは空野奏多だということを教えた上で協力してもらいたいと思ったんだ。こんなに熱いファンで一途な奴は、なかなかいないしな」
 私のことディスってるよね。
 黒歴史を知られた気分。でも、大好きな小説家の小説のモデルになれるのも魅力的。
「ちゃんと謝礼はする。印税で金はあるからさ」
「やっぱりすごいね。勉強もできるのに文才もあるんだね」
 心から尊敬。目の前にいるのが大好きな小説家の先生だなんて。
「どんな気持ちになるのか教えてほしい。俺は、感情があんまり動かないんだ」
「でも、あんなにきれいな恋愛小説を書いていたよね?」
「あれは、ほとんど想像の世界。でも、何作品も書いているとワンパターンになってしまうし、リアルさが必要だなって思ってさ」
 目の前にいる美しい初恋の人が憧れの小説家だったなんて。
 それだけで心臓がバクバクしてしまう。
 私服姿の蒼くんもやっぱりかっこいい。
「こんな距離だとどんな気持ちになる?」
 ものすごく顔が近い。壁ドンと言われる体勢だ。人生初の壁ドンが初恋の人。
 視界に入る蒼くんはとても美しく、はかない顔をしていた。
 目はくりっとしていてまつげが長くて顔は小顔で。
 思わず心臓が早く動きすぎて気を失いそうになる。
「感想をメッセージで俺に送れ」
「もしかして、相手の心が本当に読めないの?」
 眉をひそめる。
「悪いか」
 少し戸惑った顔をする。この人の弱点がわかった。人の心がわからないのか。だから、あんなに冷たい言葉を放つことができるのか。
 妙に納得する。
「恋愛に疎いんだね。女心もわからないし。空野奏多先生って思ってたのと全然違う。恋愛経験値ゼロなのに、恋愛小説で泣かせているなんて人生面白いよね」
 恋愛なんてしなければいい。鑑賞用にしよう。割り切ろう。
「もしかしたら、交通事故で私が助かったのは蒼くんのおかげかもしれないね。あの時、必死に祈ってくれたんでしょ」
「全然覚えてない。というかなんで俺がおまえのことを必死に祈ったのかもわからねー」
 表情も言葉づかいもなんだか冷たい。
「あの時は、優しい男の子だったのに、いつの間にかこんな人になってしまったなんて、残念」
「残念で悪かったな。おまえも随分口だけは達者だよな。これから、色々と実験して感想を述べてもらう。バイト代は出すから」
「色々って?」
 焦ってしまう。色々の種類はどの程度だろう。
「そんなに怖がるようなことはない。一緒にデートをした感想でもいい」
「空野奏多先生が私をそんなに頼っているなんて、ここは一肌ぬぐしかありませんね」
 ぐふふと笑いがこみ上げる。
 本当に恋愛に無頓着なのに恋愛小説を書いているなんて笑いが止まらなくなる。
「空野奏多の小説を待っている人がたくさんいるよ。だから、ファンとして協力したい」
「こんなに想いのこもったファンレターはおまえが初めてだ。本当によく読み込んでいて、ファンの視点からの意見もほしくてさ」
 一応、必要とされていることが嬉しくなる。
「バイト代ってお金ってことでしょ。それよりも、一緒にどこかにでかけたり、食事をしたり、勉強を教えてもらったほうが嬉しいんだけど」
「そんなことでいいのか?」
「そんなことのほうがお金でもらうよりずっと楽しいでしょ。主席の人に教えてもらうのも特権だしね」
 意外な顔をして私を見る。
 こんなにも冷たい男とまだどこかに行きたいと思っている私は馬鹿かもしれない。
 でも、きっと昔の彼はどこかに潜んでいるはずだ。
 だから、痕跡を探りたいような気持もあった。
 会っていない間の知らない彼のことを知りたいという気持ちもずっと持っていた。
「恋愛小説書きながら思うことがあるんだ。一生同じ人を愛することってすごく難しいから、人はフィクションの世界にそれを求めるのかなって。おまえは、ずっと俺のことを好きだったんだって?」
 からかうような瞳だ。恥ずかしい。
「母親に聞いてる。一途な人間って珍しいタイプだよな」
「だって、蒼くんが言ったんだよ。十年後にまた会いに来るから。大好きだよって」
「まじで覚えてねー。でも、それ、ネタになるからメモしとく」
 小説家としてプロらしい行動をする。
「たまに夢を見るの。合言葉を二人で決めたんだよね。でも、いつもそこだけもやがかかって聞こえないんだ」
「合言葉……全然覚えてねーよ」

 二人でリビングに向かう。そろそろ夕食の時間だ。家全体においしい香りが立ち込める。
 テレビがついているけれど、お母さんは食事の準備でただ流しているだけだ。
 最近流行なのかCMにアニメのきれいな映像が使われている。思わず見入ってしまう。
 声優も多分今人気の二人を起用しているらしい。
 いわゆる高校生カップルもののCMだ。
 実際はお菓子のCMなのだけれど、何のCMなのか最後までわからない仕組みになっている。
 ストーリーは片思いの女子が憧れの男子に告白しようとして、お菓子を渡すというショートストーリー。
 絵柄がかわいいのと、吸い込まれるような躍動感のある映像が一瞬でも視聴者の目を奪う、
 照れた二人が見つめあったところに、ナレーションが入る。
「青春の味は忘れられない。アオハルの味」
 最近何度か耳にしたCMだ。
 蒼くんは恋愛小説家としてのインスピレーションが働いたのか、青春は、アオハル。なんてメモしている。
「ねぇ、このCM、蒼くんと羽留みたいだよね。アオハルなんて言ったら二人の名前をまとめて呼べるから時短になりそう」
 お母さんがいつも通りの優しい笑顔で言った。
 この言葉がとても引っかかった。
 猫かぶりの王子様。その笑顔は憎めない。
 ずっと嫌な奴だと思っていても、一瞬の笑顔がかき消す。
 猫かぶりの王子様が多分思い描いていた蒼くんの印象そのもの。
 考え方や価値観が変わってしまっただけなのかもしれない。
 いじわるだけど、時々すごく優しい目をする。
 少しだけでも一番近くにいられるならば、私は幸せかもしれない。
 にこりと笑う笑顔はとても爽やかで、心が射抜かれる。
 容姿のいい部分を読み上げるだけでも、すごくすごくたくさんドキンとするキュンなポイントが詰まっている。
 これって、惚れているからなのだろうか。
 一般的に言って、蒼くんはかっこいいから、たいていの人は同意すると思う。
 でも、私の場合、ずっと慕っていた人だから、余計に全てが良く見えているのかもしれない。
 蒼くんの食事の姿勢はすっときれいで、箸の持ち方もちゃんとしている。
 ちゃんと教育されて育ったことがわかる。育ちの良さがにじみ出ていた。
 どんなに不真面目に見せようとしていても、彼の本当の根っこは真面目でちゃんとしている。
 私にはわかる。

 私はごちそうさまとだけ言って、皿を片付けて、そのまま部屋に戻った。
 これ以上蒼くんの隣にいるなんて緊張して食事も喉を通らないし、疲れたというのが本音だった。
 ベッドになだれ込むようにして、そのまま寝そべる。とりあえずスマホを触る。
 気づくと、蒼と書かれたアイコンから友達申請が来ていた。
 これって今同居している蒼くんが友達申請してきたの?
 そもそも同居してる上、同じ学校なんだからあえてSNSでつながる必要はないと思うんだけれど。
 感想送れっていってたもんな。
 蒼くんのアイコンは青空を撮影した写真だった。
 これって申請を許可するべきだよね。
 猫かぶり王子様は、私の前では素を出す。クラスメイトには見せない怖い顔をする。
 それを想像するとうんざりしてしまった。
 クラスメイトとして、つながること自体は悪くないよね。
 少し深呼吸してから、指の先に力を込めて申請許可のボタンを押す。
 すると即効メッセージが送られてきた。
『次の小説のネタでリアル感を出したい。片思いの相手からメッセージが届いたらどんな反応なのか、どんな気持ちになるのか知りたいんだ。だから、さっそく協力してくれ』
 早速の協力依頼か。学校でも自宅でもSNSでも繋がり過ぎじゃない?
 蒼くんは私なんかと四六時中繋がっているのは、嫌じゃないのだろうか。
 小説のためならば、空野奏多は何でもするのかもしれない。
 恋愛経験ゼロの超鈍感男だから、恋愛小説をリアルに描くのは本当は苦戦してたんじゃないのかな。
 持ち前の文章力で不足分は補っていたのかもしれない。情報は映画やドラマから情報は仕入れていたのかもしれないけれど。
『わかった』
 ぶっきらぼうな返事をする。
『いろいろメッセージをやり取りしたお礼は何がいい?』
 すぐ隣の部屋にいる人とアプリを通してやりとりしているなんて、なんだかむずがゆい感じだ。
『勉強教えてほしい』
 これは切実な願いだった。最下層で入学した私と一位入学の彼では天と地の差がある。
 今後も勉強面で苦戦することは目に見えている。
 勉強を教えてもらうならば、自宅のリビングでもできることだ。
 ゆえに、クラスメイトに知られることもない。
 これぞ一石二鳥。有能な家庭教師を雇ったようなものだ。
『了解』
 スタンプが送られてきた。案外かわいいスタンプを使うことに意外性を感じる。
 あの不愛想男が、こんなにかわいい動物スタンプを使うなんて笑える。
『おまえからのファンレター大事に持ってるから』
 顔から火が出そうになる。知らない作家の大先生に送ったからこそ、恥ずかしい言葉も書けた。
 でも、まさか幼なじみでクラスメイトで同居している人がその作家だったなんて――恥ずかしすぎる。
『あれは、あなたにではなく、空野奏多先生宛てだからね』
 顔が火照りながらも懸命にスマホに文字を打ちこむ。
『俺が空野奏多だけど』
 案外蒼くんの返信は早い。
 壁一つしか隔てていないのだから、直接会話してもいいけれど、メッセージだから伝えられることもある。
 メッセージだから、どうでもいいことでも打ち込んでもいいのかもしれない。
 私がずっと好きだった人は猫かぶり王子様に変貌していた。
 今、同居している主席のクラスメイトはベストセラー作家の空野奏多だった。
 やっぱり頭が混乱する。
 容姿がかっこいいけど、恋愛の好きだと思っているわけでもない。
 そもそも恋愛に憧れていた?
 私は架空の人間にずっと恋をしていただけなのかもしれない。