投函した後、取材先の古民家カフェに向かった。

 店仕舞いをした商家、仕舞屋を改装したカフェが目立つ。一度店仕舞いをした家が、また店として息を吹き返すことに趣を感じたが、軒先にある折り畳み式の陳列棚であるばったり床几がどこも仕舞われたままなのを見て、商家としての目覚めに不完全さを感じた。

 町中には商品を片手に、歩く、写真を撮る若者たちがいた。
 綺麗に着飾り、見目の良い商品と一緒にカメラに収まる人は、SNSに投稿するのだろうと思われる。

 画像投稿系SNSや動画投稿サイト、場合によっては私の書くようなネットの記事でも、自らの笑顔で商品をおすすめする人々がいる。そうなりたいという訳ではないけど、そういう人を見ると、私の笑顔はどうしてここまで魅力がないのかと思わせられる。

 私が書いた記事でも、店主の笑顔と共に写すこともあった。仕事に誇りを持った満面の笑みを見て、どこで身につけたんだろうと思った。

 私とて、面白いだとか喜びを感じていない訳ではない。ただそれが顔に上手く表れないのだ。
 恐らくわずかに苦々しい顔をして、人々の横を通り過ぎた。

 取材先の古民家カフェに着くと、取材を予約していた者であることを伝え、カウンター席に通していただく。

 そこでメニューの文面からも店のこだわりが伺える特製弁当を頼んだ。

 漆の弁当箱に入った中身は細やかで、ほうれん草の緑や人参の橙など、自然の持つ色が目を彩る。

 ハヤシライスを食べてきた私だけど、歩いてきたせいか冬を前にして草木を食む鹿のように、この小さなおかずの一つ一つを食べ進めることが出来た。

 食べ終えた弁当の感想と共に、店の成り立ちやアピールポイントなどを聞き出し、取材を進める。
 昔は引っ込み思案だったけど、今は他人に興味を持ち、ライターとして取材が出来るまでになった。

 お客さんへの対応で店長が席を外している間に、文章を組み立てながら、筆休めに空の弁当箱を眺めていると、食べ物を仕切っていたバランが目に留まった。小さな小皿の中で更に仕切るバラン。何てことない消耗品だけど、細やかさと彩りの象徴に思えたのだ。

 この古民家カフェは居心地良く感じ、個人としても利用したいと思った。

 そして記事も提出し終え、あの手紙を投函して一週間した頃。宅配便が来た。

 箱には天地無用のシール。店長の名前のある宛名書きには、やはり差出人の住所は書かれていなかった。

 横長の箱を開けると、ガムテープで固定されたプランターに、土から小さく平たい単葉が芽を出していた。名前もわからない、草としか言いようがないものだった。
 同梱の手紙には、生えますと書かれていた。

 どこまでも店長らしい。どんな言葉よりも店長を物語っている。
 天地無用と書いたとはいえよくもここまで無事に来れたものだ。プランターを取り出してじっと覗き込む。

 草木も仕舞うこの季節に、顔を出す芽が微笑ましく見えた。

 その後、店の常連客の一人と顔を合わせる機会があり、何が送られてきたのか聞くと、手作りのお面だったという。私一人だけ不思議なものを贈られたのではないとわかり、少し安心した。

 店長からの贈り物としての話はこれで終わりなのだけど、この草にはまだ続きがあった。

 あの古民家カフェに来て、顔を覚えていた店長に声をかけられ言葉を交わしていると、話の流れで送られてきた草の写真を見せることになった。
 店長は画面を指差し

「これ、葉蘭ですよ。弁当のバランの元になった植物です」

 この草が葉蘭であることが判明した。

「はらん?」

 横に座っていた、ここの馴染みらしい女子高生が気にかけるので、画面を見せる。

「バランってwww(草を生やす)みたいだけど、本当に草なんだ!」

 何がツボに入ったのかはよくわからないけど、彼女は笑っていた。

 それから平常の顔に戻ってスマホに文字を打ち込み、アップした〜と画面を見せてくれる。ガチの草という文と共に葉蘭の写真が載せられ、笑顔の絵文字が打たれていた。

 今は絵文字さえ打っておけば、外部の人に笑っていることが伝わるんだ。この世の中、自分の顔を載せる人ばかりではない。

 かくして本物の笑顔を見せなくても笑いが伝わるようになった。これからの人々はどんな笑い方をするのだろう、と視線を宙に浮かべる。

 私は笑顔を見せることが得意ではない。だから言葉で、何を見たのか、何が楽しかったのかを綴るんだ。

 そう思うと私は居ても立っても居られず、仕事に使うタブレットで、仕事と紐付けたSNSアカウントに言葉を打ち込み出した。


  私の言葉は顔よりものを言う。