エスメルダ王国の独身寮に住む私。ついでに言えば、この国の王族とは親族だ。よって勝手知ったる我が家のごとく、王城内の廊下を最短距離で移動し、あっという間に我が国の第二王子殿下こと、エリオット兄様の部屋に到着した。
「たのもー、たのもー!」
「アリシア様。今日はまた、いつにも増してお元気ですね。どうかされましたか?」
頑丈な木の扉の前に立ちはだかり、私の行方を阻止する男性の名はトム。彼は顔馴染みだけれど、私の結婚相手ではない近衛騎士だ。
「トム様、可及的速やかにそこをおどきになってくださらない?」
「殿下とお約束が?」
「ええ、そうなの」
私は口から出まかせを発すると同時に、嘘がバレる前にと、トムを容赦なく突き飛ばす。
「わっ」
トムがよろけた隙に盗賊も真っ青な勢いで、扉にかけられた魔法のカラクリを瞬時に解除。そして素早くエリオット兄様の執務室に体を滑り込ませた。
「失礼します」
部屋をぐるりと見回し、来客がない事を確認したのち、息を大きく吸い込む。
「エリオット兄様、大変なの!それと、喉も乾いたわ!」
私は要望を一気に伝え、黒いローブを翻すと、ソファーにドスンと腰を下ろす。
「アリシアか。丁度君に確認したい事があったんだ。もしかして私の思いが通じたのかな?」
私より三歳年上で既婚者な上に、すでに子宝に恵まれ、父親となった従兄のエリオット。そんな順風満帆である人生を送る彼は、既婚者の余裕を見せつけるかのように、執務机の向こうから突然の来訪に驚く事なく、私に声をかけてきた。
「私に確認?それは後で大丈夫です。とにかく私の抱える秘密のほうが、重要である事は間違いないもの」
「一体どうしたのさ」
片手に水の入ったグラスを持ちながら、エリオット兄様が私に近づく。
「驚かないで下さいね」
私は真剣な表情でエリオット兄様の顔を見つめる。
「我が国にスパイが侵入している可能性があります」
はっきりと告げ、兄様から水を受け取る。そして迷わずコップに口をつけ、ぐびぐびと飲み干した。
「ぷはー。ありがとうございます。生き返りました」
空になったコップをテーブルに置き、私はソファーの上で居住まいを正す。
「それで、どうしてスパイだなんて思いついたのかな?」
エリオット兄様は執務椅子に座り直す。そして肘掛けにもたれ掛かり、興味深げな視線をよこした。
兄様のいいところは、こういう所だ。
私なんかよりずっと忙しいにもかかわらず、誰かが持ち込む問題を頭ごなしに否定することなく、とりあえず話を聞いてくれる姿勢を見せてくれる。こういった部分は人として率先して見習いたい部分である。
「思いついたわけではありません。あれはそう、おとといの朝のことでした。私はこの窓から飛び降りてきた怪しい人物に遭遇したんです」
「おととい?」
「はい。デビュタントのお披露目舞踏会が王城で開催された日の翌々日の朝です。徹夜明けの私がこの下の廊下を歩いていると、上から怪しい男が飛び降りてきたんです。位置的にこの部屋から飛び降りたと、私はそう確信しています」
私はその時の様子を思い出しながら、ゆっくりと告げる。
「舞踏会が行われると警備手配やら、式典参加やら、何かと忙しいから……って私の事はどうでも良いんだったな」
エリオット兄様は愚痴りかけて、途中で言葉を止めた。
「で、怪しい人物に遭遇して、アリシアはどうしたの?」
「それは……その時はスパイだなんて思いつかなかったので、とっさに魔法で水のクッションを作って助けてしまいました」
私は即座に身柄を拘束すべきだったと、自分の呑気で親切すぎる行動を反省する。しかし、あの時は徹夜明けで、頭が働いていなかったのだから仕方がない。
(それに帝国の軍服を着ていたし)
迂闊に動いて国際問題に発展するよりは、マシだったと思いたい。
「なるほど。謎は解けた」
エリオット兄様は国民全てを虜にする、爽やかな笑みを浮かべた。そして立ち上がり窓際までゆっくりと移動すると、そこから下を見下ろす。
「何の謎が解けたのですか?」
「おいで、ここにくればわかるから」
兄様は窓の外を指差しながら答えてくれた。私は腰を落ち着けたばかりのソファーから立ち上がり、彼の隣に並び立つ。
「そこにいるよ」
兄様が指先を向けた木には、ブルーバードと呼ばれる小鳥がいた。空に溶け込むような鮮やかな青色の小鳥は、我が国では「幸せを運ぶ鳥」として馴染みある鳥だ。
「あ、巣がある」
ブルーバードは枝を集めた巣の縁にとまり、羽根を休めている。
巣の中には産まれたばかりらしい、小さな雛がパクパクと嘴をあけ、こちらに顔をのぞかせていた。
「可愛いですね」
「そうだね。実は数日前。この部屋を訪れた者がいてね」
「ほほう」
「彼は僕と同い年で、独身で、親友でもある人物なんだが」
「なるほど?」
「やはり今の君と同じように、彼はここから外の景色を眺めていたんだ」
エリオット兄様は目を細める。
「そしたらさ、雛が巣から落ちそうな事に気付いて、こちらが止める間もなく窓から身投げしたんだよ」
「え、魔法でなんとかすればいいのに」
随分と間抜け……というか動物的思考を持った人だなと思った。
(あ、でもそっか)
私はエリオット兄様の言いたい事に気付く。
「もしかしてその人が、ローゼンシュタール帝国の皇子だという、オリヴァー殿下なのですか?」
「あぁ、そうだ」
「だったら、窓から身を投げる事なんて、ますますしたら駄目なのに。大事な皇子殿下にもしもの事がある方が大変です。我が国のせいになっちゃうかも知れないし。即座に魔法で助けてあげればよかったんですよ」
(エリオット兄様が)
私は無言の圧をかける。
「アリシアならそう言うと思った。でも本当に彼は素早くてね。止めようもなかったんだ」
エリオット兄様は苦笑いする。
「私たちの感覚だと、魔法でどうにかすればいいと思うのは当たり前のことだ。でも彼は帝国の人間だから。自分が何とかしなければと、勝手に身体が動いていたそうだよ」
私は兄様の言わんとする事が分かり、口を閉ざす。
魔法で解決すればいい。すぐにそう思ってしまうのは、私がエスメルダ王国で魔法が使える側にいる人間だからだ。けれど世の中には魔法が使えない人が沢山存在する。
そして私たち特別な力を持つ者は、持たない者の気持ちを忘れてはならぬとされている。
「君はこの国で死ぬまで働きたい。そう願っていると記憶しているけれど。それって国際結婚には興味がないってことでいいのかな?」
「それは……」
(結婚を取るか、仕事をとるか、二択ってことだよね)
何の脈絡もなく、究極の選択を迫られた私は困り果てる。
なぜなら私はどっちも欲しいから。
結婚して家庭を築きたいという夢もあるし、仕事にもやりがいを感じている。けれど今私が携わる仕事はエスメルダ王国にいないと出来ないもの。
だとしたら、国際結婚を選んだ場合、仕事は諦めなければならないという事になる。
「エリオット兄様は、なぜそんな突拍子もない事を私に聞くんですか?」
とっさに答えを導き出せなかった私は、質問で誤魔化す。
「君は私のお気に入りの妹だから。幸せになってもらいたいと願うのは当たり前だろう?」
何となくはぐらかされた事は理解した。
「結局のところ、ブルーバードを助けようと自らが動いた事。それを愚かな行動だと思うか、優しさ溢れる素晴らしい行動だと捉えられるか。その思い一つにかかってるよね。ところで」
エリオット兄様はそこで一旦言葉を区切ると、執務机に向かう。そして引き出しの中をがさごそと漁り、一枚の真っ白な封筒を取り出した。
「今度、建国三百八年を記念した舞踏会があるんだけど、陛下が是非君にも参加してもらいたいってさ」
「…………」
やたら「陛下」の部分を強調して告げる兄様。
「受け取ってくれない?」
優しい笑みと共に差し出されたのは、エスメルダ王国の紋章が金箔で押された、白い封筒。
これは確実に父と母が陛下に頼み込んだ作戦に違いない。なぜなら私は既にその舞踏会に参加しない旨を、実家の両親に伝言済みだったからだ。
「ほら受け取って。私の顔を立てると思ってさ」
「…………」
私は渋々といった感じで手を伸ばし、エスメルダ王国の紋章が入った封筒をエリオット兄様から受け取る。そんな私に対し、兄様はひと仕事終えたとばかり、ふぅと安堵の息を吐いた。
「その舞踏会には、未婚者が多く参加するし、何よりローゼンシュタール帝国から派遣された外交使節団の面々も参加するから。きっと君にとって見聞を広げる有意義な会になると思うよ」
兄様は気遣うように告げると、執務椅子に優雅に腰を下ろす。
(これ以上政務の邪魔をするわけにはいかないか)
そう思った私はいまさらエリオット兄様に対し、淑女の礼を取る。
「ありがとうございます。エリオット兄様」
「私も君を呼び出す手間が省けたから、気にしないでいいよ」
「……はははは」
私は完全敗北を感じ、再度頭を下げた。そして近衛騎士であるトムが開け放った扉からしずしずと退出する。
「やっぱりエリオット兄様には敵わないわね」
廊下に出た私はうっかり受け取る事になってしまった舞踏会の招待状に、とりあえず恨みがましい視線を落としたのであった。
「たのもー、たのもー!」
「アリシア様。今日はまた、いつにも増してお元気ですね。どうかされましたか?」
頑丈な木の扉の前に立ちはだかり、私の行方を阻止する男性の名はトム。彼は顔馴染みだけれど、私の結婚相手ではない近衛騎士だ。
「トム様、可及的速やかにそこをおどきになってくださらない?」
「殿下とお約束が?」
「ええ、そうなの」
私は口から出まかせを発すると同時に、嘘がバレる前にと、トムを容赦なく突き飛ばす。
「わっ」
トムがよろけた隙に盗賊も真っ青な勢いで、扉にかけられた魔法のカラクリを瞬時に解除。そして素早くエリオット兄様の執務室に体を滑り込ませた。
「失礼します」
部屋をぐるりと見回し、来客がない事を確認したのち、息を大きく吸い込む。
「エリオット兄様、大変なの!それと、喉も乾いたわ!」
私は要望を一気に伝え、黒いローブを翻すと、ソファーにドスンと腰を下ろす。
「アリシアか。丁度君に確認したい事があったんだ。もしかして私の思いが通じたのかな?」
私より三歳年上で既婚者な上に、すでに子宝に恵まれ、父親となった従兄のエリオット。そんな順風満帆である人生を送る彼は、既婚者の余裕を見せつけるかのように、執務机の向こうから突然の来訪に驚く事なく、私に声をかけてきた。
「私に確認?それは後で大丈夫です。とにかく私の抱える秘密のほうが、重要である事は間違いないもの」
「一体どうしたのさ」
片手に水の入ったグラスを持ちながら、エリオット兄様が私に近づく。
「驚かないで下さいね」
私は真剣な表情でエリオット兄様の顔を見つめる。
「我が国にスパイが侵入している可能性があります」
はっきりと告げ、兄様から水を受け取る。そして迷わずコップに口をつけ、ぐびぐびと飲み干した。
「ぷはー。ありがとうございます。生き返りました」
空になったコップをテーブルに置き、私はソファーの上で居住まいを正す。
「それで、どうしてスパイだなんて思いついたのかな?」
エリオット兄様は執務椅子に座り直す。そして肘掛けにもたれ掛かり、興味深げな視線をよこした。
兄様のいいところは、こういう所だ。
私なんかよりずっと忙しいにもかかわらず、誰かが持ち込む問題を頭ごなしに否定することなく、とりあえず話を聞いてくれる姿勢を見せてくれる。こういった部分は人として率先して見習いたい部分である。
「思いついたわけではありません。あれはそう、おとといの朝のことでした。私はこの窓から飛び降りてきた怪しい人物に遭遇したんです」
「おととい?」
「はい。デビュタントのお披露目舞踏会が王城で開催された日の翌々日の朝です。徹夜明けの私がこの下の廊下を歩いていると、上から怪しい男が飛び降りてきたんです。位置的にこの部屋から飛び降りたと、私はそう確信しています」
私はその時の様子を思い出しながら、ゆっくりと告げる。
「舞踏会が行われると警備手配やら、式典参加やら、何かと忙しいから……って私の事はどうでも良いんだったな」
エリオット兄様は愚痴りかけて、途中で言葉を止めた。
「で、怪しい人物に遭遇して、アリシアはどうしたの?」
「それは……その時はスパイだなんて思いつかなかったので、とっさに魔法で水のクッションを作って助けてしまいました」
私は即座に身柄を拘束すべきだったと、自分の呑気で親切すぎる行動を反省する。しかし、あの時は徹夜明けで、頭が働いていなかったのだから仕方がない。
(それに帝国の軍服を着ていたし)
迂闊に動いて国際問題に発展するよりは、マシだったと思いたい。
「なるほど。謎は解けた」
エリオット兄様は国民全てを虜にする、爽やかな笑みを浮かべた。そして立ち上がり窓際までゆっくりと移動すると、そこから下を見下ろす。
「何の謎が解けたのですか?」
「おいで、ここにくればわかるから」
兄様は窓の外を指差しながら答えてくれた。私は腰を落ち着けたばかりのソファーから立ち上がり、彼の隣に並び立つ。
「そこにいるよ」
兄様が指先を向けた木には、ブルーバードと呼ばれる小鳥がいた。空に溶け込むような鮮やかな青色の小鳥は、我が国では「幸せを運ぶ鳥」として馴染みある鳥だ。
「あ、巣がある」
ブルーバードは枝を集めた巣の縁にとまり、羽根を休めている。
巣の中には産まれたばかりらしい、小さな雛がパクパクと嘴をあけ、こちらに顔をのぞかせていた。
「可愛いですね」
「そうだね。実は数日前。この部屋を訪れた者がいてね」
「ほほう」
「彼は僕と同い年で、独身で、親友でもある人物なんだが」
「なるほど?」
「やはり今の君と同じように、彼はここから外の景色を眺めていたんだ」
エリオット兄様は目を細める。
「そしたらさ、雛が巣から落ちそうな事に気付いて、こちらが止める間もなく窓から身投げしたんだよ」
「え、魔法でなんとかすればいいのに」
随分と間抜け……というか動物的思考を持った人だなと思った。
(あ、でもそっか)
私はエリオット兄様の言いたい事に気付く。
「もしかしてその人が、ローゼンシュタール帝国の皇子だという、オリヴァー殿下なのですか?」
「あぁ、そうだ」
「だったら、窓から身を投げる事なんて、ますますしたら駄目なのに。大事な皇子殿下にもしもの事がある方が大変です。我が国のせいになっちゃうかも知れないし。即座に魔法で助けてあげればよかったんですよ」
(エリオット兄様が)
私は無言の圧をかける。
「アリシアならそう言うと思った。でも本当に彼は素早くてね。止めようもなかったんだ」
エリオット兄様は苦笑いする。
「私たちの感覚だと、魔法でどうにかすればいいと思うのは当たり前のことだ。でも彼は帝国の人間だから。自分が何とかしなければと、勝手に身体が動いていたそうだよ」
私は兄様の言わんとする事が分かり、口を閉ざす。
魔法で解決すればいい。すぐにそう思ってしまうのは、私がエスメルダ王国で魔法が使える側にいる人間だからだ。けれど世の中には魔法が使えない人が沢山存在する。
そして私たち特別な力を持つ者は、持たない者の気持ちを忘れてはならぬとされている。
「君はこの国で死ぬまで働きたい。そう願っていると記憶しているけれど。それって国際結婚には興味がないってことでいいのかな?」
「それは……」
(結婚を取るか、仕事をとるか、二択ってことだよね)
何の脈絡もなく、究極の選択を迫られた私は困り果てる。
なぜなら私はどっちも欲しいから。
結婚して家庭を築きたいという夢もあるし、仕事にもやりがいを感じている。けれど今私が携わる仕事はエスメルダ王国にいないと出来ないもの。
だとしたら、国際結婚を選んだ場合、仕事は諦めなければならないという事になる。
「エリオット兄様は、なぜそんな突拍子もない事を私に聞くんですか?」
とっさに答えを導き出せなかった私は、質問で誤魔化す。
「君は私のお気に入りの妹だから。幸せになってもらいたいと願うのは当たり前だろう?」
何となくはぐらかされた事は理解した。
「結局のところ、ブルーバードを助けようと自らが動いた事。それを愚かな行動だと思うか、優しさ溢れる素晴らしい行動だと捉えられるか。その思い一つにかかってるよね。ところで」
エリオット兄様はそこで一旦言葉を区切ると、執務机に向かう。そして引き出しの中をがさごそと漁り、一枚の真っ白な封筒を取り出した。
「今度、建国三百八年を記念した舞踏会があるんだけど、陛下が是非君にも参加してもらいたいってさ」
「…………」
やたら「陛下」の部分を強調して告げる兄様。
「受け取ってくれない?」
優しい笑みと共に差し出されたのは、エスメルダ王国の紋章が金箔で押された、白い封筒。
これは確実に父と母が陛下に頼み込んだ作戦に違いない。なぜなら私は既にその舞踏会に参加しない旨を、実家の両親に伝言済みだったからだ。
「ほら受け取って。私の顔を立てると思ってさ」
「…………」
私は渋々といった感じで手を伸ばし、エスメルダ王国の紋章が入った封筒をエリオット兄様から受け取る。そんな私に対し、兄様はひと仕事終えたとばかり、ふぅと安堵の息を吐いた。
「その舞踏会には、未婚者が多く参加するし、何よりローゼンシュタール帝国から派遣された外交使節団の面々も参加するから。きっと君にとって見聞を広げる有意義な会になると思うよ」
兄様は気遣うように告げると、執務椅子に優雅に腰を下ろす。
(これ以上政務の邪魔をするわけにはいかないか)
そう思った私はいまさらエリオット兄様に対し、淑女の礼を取る。
「ありがとうございます。エリオット兄様」
「私も君を呼び出す手間が省けたから、気にしないでいいよ」
「……はははは」
私は完全敗北を感じ、再度頭を下げた。そして近衛騎士であるトムが開け放った扉からしずしずと退出する。
「やっぱりエリオット兄様には敵わないわね」
廊下に出た私はうっかり受け取る事になってしまった舞踏会の招待状に、とりあえず恨みがましい視線を落としたのであった。