廊下を直進し、玄関横の自室に戻る。
奥の襖を開け、畳んでしまってある布団に顔を押し付けて、声が出ないように泣く。
上段にしまってある布団は、千鶴が立って顔を埋めるにはちょうどいい高さで、行儀が悪いことはわかっていたが、千鶴はしばらく布団に突っ伏し泣いていた。
やっとのことで涙が止まり、顔を上げて鏡台を除くと、目の周りは真っ赤に腫れていた。
千鶴は手ぬぐいを持ち、台所の裏手にある井戸に向かう。
井戸に設置された手押しポンプを勢いよく押し、バケツに水を溜める。
千鶴は溜まった冷たい水を両手ですくうと、息を深く吸い、それを顔めがけて思いっきりぶつけた。
着物が濡れるのもかまわない。何度も何度もぶつける。
洗うのではない、ぶつけるのだ。
千鶴にとって、気持ちの切り替えの儀式。
ひとしきりそれをすると手ぬぐいにしばらく顔を押し付ける。
一切の負の感情をここに置いていく。
うじうじするのは終わり。
顔を上げたら前しか見ない。
今から自分がしなければならないことだけを考えるのだ。
――千鶴は勢いよく顔を上げる。その瞳は強く光る。何かを決めたまなざしだ。
そしてその決心を実現させるため、千鶴は離れとは反対方向にある建物へと歩を進めた。
*
南山家本邸の洋間の一室。
部屋の各所には舶来品と思われる彫刻や絵画が飾られ、横の壁一面には多様な言語で書かれた分厚い洋書や医学の専門書が並ぶ。
本棚の間には飾りではない暖炉もあり、春の冷える夜に薪を爆ぜさせながら煌々と、燃え盛る。
何もかもが千鶴を威圧しているかのような空間。それでも千鶴は深く頭を下げ、この部屋の主人たる男性に願い出る。
「どうか、桐秋様の研究を続けることを許可していただけませんでしょうか」
書斎の主、南山は革張りの書斎椅子に深く座り、パイプ型の煙草に口を付けている。
火をつけては煙を吸って吐き、少し置いては再びマッチで火をつけ、煙をくゆらせる。
近所の洒落たこの型の煙草を嗜む老人は、パイプ煙草は火種を消さないように、吸っていない時も定期的に空気を送り込むのだと言っていた。
ところが南山は一度吸っては、何かを考える面持ちで長く煙草から口を離す。
その間にも火種は消えてしまうため、火は何度も付け直されている。
その動作が何度か続いた後、南山は最後にことさら煙を長く吐くと、千鶴に険しい目を向け、問いかける。
「なぜ君は、桐秋の研究を続けさせたい。
桐秋の研究内容は、本人の病気である桜病そのものだ。
その危険性はわかっているね。
ここに来てもらう時にも話したが、桐秋は桜病の研究過程で病気になってしまったかもしれないんだ。
そんな研究を続けさせられるわけないだろう」
南山からの重い言葉を受け止めながらも、負けず千鶴は南山に自身の想いを伝える。
「はい、桜病が重篤な病であるということは重々承知しております。
私がこちらに来る際も、その危うさゆえに最初は父に反対されました。
ですが、私はそれにとらわれるあまり、大事なことを忘れておりました」
「大事なこと」
訝しげに南山は千鶴を見る。
「確かに、桜病は有効な治療法も確立されていない、恐ろしい病です。
だんだんと桐秋様の体を蝕んでいくでしょう。
ですが、今の桐秋様はまだ多くのことを望める体なのです。
病人は、病気にかかっている人間ですが、病気以外、普通の人間と変わりません。
普通の心で、普通の望みをもっているのです。
しかし、病を得ているばかりに、行動は制限され、自由はありません。
誰かにうつる感染症ならなおさらです。
健康な人たちは、病人が自由を奪われることを、仕方がないと言うでしょう。
病気だからと。治すためだと。
所詮は他人事です。
でもそれが万が一、自分に降りかかるとなるとどうでしょうか。
自分はまだ動けるのに、普通のものを食べることできるのに、何もかもが制限される。
少しの望みさえ叶えられない。
それはとてもはがゆく、恐ろしいことなのではないでしょうか。
また、その制限は、患者により一層、死を感じさせることにもつながるのではないでしょうか。
私を含め、今までの看護婦達はその胸中を察して、だれよりも桐秋様のお気持ちに寄り添わなければならなかったのに、そのお心を無視して行動し、桐秋様をひどく傷つけてきました」
千鶴の言葉に南山は何も言わず、次の言葉を待つ。
「だからこそ、わが身に降りかかったつもりで、あらためて自分が桐秋様に何ができるか考えました。
桐秋様に対する看護の改善はもちろん、制限はありますが、願うことをできるだけ叶えて差し上げたい。
中でも一番に望まれていることが、桜病の研究ではないかと思ったのです。
桐秋様が、桜病の研究を続けていらっしゃるのに気づいたのは、今日のことです。
しかし、あの部屋の様子から察するに、桐秋様は、桜病と診断され、自由を奪われてなお、研究を続けていらっしゃったのではないでしょうか。
この一月、桐秋様のご様子を伺って参りましたが、あのように真剣に何かに打ち込まれている姿を見たことはありません」
千鶴が桐秋の状態を確認する数少ない機会の中で、見る顔はいつも無表情。
何事にも無関心な顔だった。
それが今日、千鶴が桐秋の部屋に入った時に見た顔は、本に必死に噛り付く、鬼気迫る逼迫した形相。
冷たい表情しか見ていなかった千鶴は、桐秋の中に、そんな熱い部分があるのだと驚いた。
と同時に、あまりの変わりように別人かと不安になり、思わず声をかけてしまった。
さらにその勢いのまま、諫めてしまった。
それほどまでに桐秋は、桜病の研究に一心に取り組んでいたのだ。
「桐秋様が何のために、あそこまで桜病の研究をなさるのか。
・・・・私にはわかりません。
ですが、それを望まれるのであればお側でお支えしたいと思ったのです。
あれほどまでに打ち込まれることがあれば、生きる活力にもなりえるのではないでしょうか。
もちろんお体に触らないよう工夫します。
どうか、桐秋様の研究を続けさせて差し上げてください」
千鶴は、南山の目を正面から直と見つめると、深く頭を下げる。
千鶴の訴えを聞いた南山は、吸ったままの葉っぱが浮いたパイプの穴に、細長く先が平らな棒を押しつけ、表面をならす。
そこに再び火をつけ、ゆっくりと煙を口に回す。
それを細く長く吐くと、目をつむり、深く腰掛けた体制のままで千鶴に告げた。
「直接の研究は認められない」
南山の否定の言葉に千鶴は下げたままだった悲痛な表情を勢いよくあげた。
しかしそこにあったのは、いつも自分に向けられる安堵を与えてくれる笑み。
「が、文献による研究は考えよう。
千鶴さん、桜病の研究を行いながら、治療もできる看護計画を作りなさい。
それを見て、研究続行の可否を判断させて貰う」
研究を認めてもらえる機会を得たことに、千鶴は喜び、南山の目を見て礼を言う。
南山に向けられる千鶴のまっすぐな瞳。
初めて会った時に向けられたどこまでも澄んだまなざしと似ている。
その意志をもった揺るぎない眼に南山はこの子は誰かのためならば、自分よりも大きい何かに立ち向かう強い人間なのだと改めて思い知らされる。
そんな千鶴の瞳を南山は前面に受け止め切れず、視線を逸らし、後ろを振り向いた。
窓越しに暗くなった庭を見つめる。
奥には、今は夜の闇に隠れた、大切な宝物を閉じ込めた家がある。
そして、ぽつり、独り言のようにつぶやいた。
「私も君と同じことをした。
医者なのに、父親なのに、桐秋の胸の内をくみ取れず、すべてを取り上げてしまった。
妻の時のように、失うことを恐れるあまり」
医師でなく、一人の男親の嘆き。
千鶴はそれに間を置き、ゆったりと語り掛けた。
「医者ではなく親ならば、大切な人であればあるほど、そう思うのではないでしょうか」
千鶴の目の前にいるのは、大きな背中を気弱に縮こまらせた、一人の子の父。
「親ならば、子にどうしてでも生きていて欲しいと思うはずです。
起き上がれなくても、寝たきりでも、生きていてくれればなんでもいいと。
しかし過ぎる思いは冷静さを欠き、時に正常な判断をできなくさせます。
本人が真に望んでいることさえも気づけなくなる。
そのような時は私に大事なことに気づくお手伝いをさせてください。
きっとそれも看護婦の仕事ですから」
そう微笑みながら優しく告げる千鶴に、南山は庭を見つめたまま震える声で
「ありがとう」
と言葉を返した。
奥の襖を開け、畳んでしまってある布団に顔を押し付けて、声が出ないように泣く。
上段にしまってある布団は、千鶴が立って顔を埋めるにはちょうどいい高さで、行儀が悪いことはわかっていたが、千鶴はしばらく布団に突っ伏し泣いていた。
やっとのことで涙が止まり、顔を上げて鏡台を除くと、目の周りは真っ赤に腫れていた。
千鶴は手ぬぐいを持ち、台所の裏手にある井戸に向かう。
井戸に設置された手押しポンプを勢いよく押し、バケツに水を溜める。
千鶴は溜まった冷たい水を両手ですくうと、息を深く吸い、それを顔めがけて思いっきりぶつけた。
着物が濡れるのもかまわない。何度も何度もぶつける。
洗うのではない、ぶつけるのだ。
千鶴にとって、気持ちの切り替えの儀式。
ひとしきりそれをすると手ぬぐいにしばらく顔を押し付ける。
一切の負の感情をここに置いていく。
うじうじするのは終わり。
顔を上げたら前しか見ない。
今から自分がしなければならないことだけを考えるのだ。
――千鶴は勢いよく顔を上げる。その瞳は強く光る。何かを決めたまなざしだ。
そしてその決心を実現させるため、千鶴は離れとは反対方向にある建物へと歩を進めた。
*
南山家本邸の洋間の一室。
部屋の各所には舶来品と思われる彫刻や絵画が飾られ、横の壁一面には多様な言語で書かれた分厚い洋書や医学の専門書が並ぶ。
本棚の間には飾りではない暖炉もあり、春の冷える夜に薪を爆ぜさせながら煌々と、燃え盛る。
何もかもが千鶴を威圧しているかのような空間。それでも千鶴は深く頭を下げ、この部屋の主人たる男性に願い出る。
「どうか、桐秋様の研究を続けることを許可していただけませんでしょうか」
書斎の主、南山は革張りの書斎椅子に深く座り、パイプ型の煙草に口を付けている。
火をつけては煙を吸って吐き、少し置いては再びマッチで火をつけ、煙をくゆらせる。
近所の洒落たこの型の煙草を嗜む老人は、パイプ煙草は火種を消さないように、吸っていない時も定期的に空気を送り込むのだと言っていた。
ところが南山は一度吸っては、何かを考える面持ちで長く煙草から口を離す。
その間にも火種は消えてしまうため、火は何度も付け直されている。
その動作が何度か続いた後、南山は最後にことさら煙を長く吐くと、千鶴に険しい目を向け、問いかける。
「なぜ君は、桐秋の研究を続けさせたい。
桐秋の研究内容は、本人の病気である桜病そのものだ。
その危険性はわかっているね。
ここに来てもらう時にも話したが、桐秋は桜病の研究過程で病気になってしまったかもしれないんだ。
そんな研究を続けさせられるわけないだろう」
南山からの重い言葉を受け止めながらも、負けず千鶴は南山に自身の想いを伝える。
「はい、桜病が重篤な病であるということは重々承知しております。
私がこちらに来る際も、その危うさゆえに最初は父に反対されました。
ですが、私はそれにとらわれるあまり、大事なことを忘れておりました」
「大事なこと」
訝しげに南山は千鶴を見る。
「確かに、桜病は有効な治療法も確立されていない、恐ろしい病です。
だんだんと桐秋様の体を蝕んでいくでしょう。
ですが、今の桐秋様はまだ多くのことを望める体なのです。
病人は、病気にかかっている人間ですが、病気以外、普通の人間と変わりません。
普通の心で、普通の望みをもっているのです。
しかし、病を得ているばかりに、行動は制限され、自由はありません。
誰かにうつる感染症ならなおさらです。
健康な人たちは、病人が自由を奪われることを、仕方がないと言うでしょう。
病気だからと。治すためだと。
所詮は他人事です。
でもそれが万が一、自分に降りかかるとなるとどうでしょうか。
自分はまだ動けるのに、普通のものを食べることできるのに、何もかもが制限される。
少しの望みさえ叶えられない。
それはとてもはがゆく、恐ろしいことなのではないでしょうか。
また、その制限は、患者により一層、死を感じさせることにもつながるのではないでしょうか。
私を含め、今までの看護婦達はその胸中を察して、だれよりも桐秋様のお気持ちに寄り添わなければならなかったのに、そのお心を無視して行動し、桐秋様をひどく傷つけてきました」
千鶴の言葉に南山は何も言わず、次の言葉を待つ。
「だからこそ、わが身に降りかかったつもりで、あらためて自分が桐秋様に何ができるか考えました。
桐秋様に対する看護の改善はもちろん、制限はありますが、願うことをできるだけ叶えて差し上げたい。
中でも一番に望まれていることが、桜病の研究ではないかと思ったのです。
桐秋様が、桜病の研究を続けていらっしゃるのに気づいたのは、今日のことです。
しかし、あの部屋の様子から察するに、桐秋様は、桜病と診断され、自由を奪われてなお、研究を続けていらっしゃったのではないでしょうか。
この一月、桐秋様のご様子を伺って参りましたが、あのように真剣に何かに打ち込まれている姿を見たことはありません」
千鶴が桐秋の状態を確認する数少ない機会の中で、見る顔はいつも無表情。
何事にも無関心な顔だった。
それが今日、千鶴が桐秋の部屋に入った時に見た顔は、本に必死に噛り付く、鬼気迫る逼迫した形相。
冷たい表情しか見ていなかった千鶴は、桐秋の中に、そんな熱い部分があるのだと驚いた。
と同時に、あまりの変わりように別人かと不安になり、思わず声をかけてしまった。
さらにその勢いのまま、諫めてしまった。
それほどまでに桐秋は、桜病の研究に一心に取り組んでいたのだ。
「桐秋様が何のために、あそこまで桜病の研究をなさるのか。
・・・・私にはわかりません。
ですが、それを望まれるのであればお側でお支えしたいと思ったのです。
あれほどまでに打ち込まれることがあれば、生きる活力にもなりえるのではないでしょうか。
もちろんお体に触らないよう工夫します。
どうか、桐秋様の研究を続けさせて差し上げてください」
千鶴は、南山の目を正面から直と見つめると、深く頭を下げる。
千鶴の訴えを聞いた南山は、吸ったままの葉っぱが浮いたパイプの穴に、細長く先が平らな棒を押しつけ、表面をならす。
そこに再び火をつけ、ゆっくりと煙を口に回す。
それを細く長く吐くと、目をつむり、深く腰掛けた体制のままで千鶴に告げた。
「直接の研究は認められない」
南山の否定の言葉に千鶴は下げたままだった悲痛な表情を勢いよくあげた。
しかしそこにあったのは、いつも自分に向けられる安堵を与えてくれる笑み。
「が、文献による研究は考えよう。
千鶴さん、桜病の研究を行いながら、治療もできる看護計画を作りなさい。
それを見て、研究続行の可否を判断させて貰う」
研究を認めてもらえる機会を得たことに、千鶴は喜び、南山の目を見て礼を言う。
南山に向けられる千鶴のまっすぐな瞳。
初めて会った時に向けられたどこまでも澄んだまなざしと似ている。
その意志をもった揺るぎない眼に南山はこの子は誰かのためならば、自分よりも大きい何かに立ち向かう強い人間なのだと改めて思い知らされる。
そんな千鶴の瞳を南山は前面に受け止め切れず、視線を逸らし、後ろを振り向いた。
窓越しに暗くなった庭を見つめる。
奥には、今は夜の闇に隠れた、大切な宝物を閉じ込めた家がある。
そして、ぽつり、独り言のようにつぶやいた。
「私も君と同じことをした。
医者なのに、父親なのに、桐秋の胸の内をくみ取れず、すべてを取り上げてしまった。
妻の時のように、失うことを恐れるあまり」
医師でなく、一人の男親の嘆き。
千鶴はそれに間を置き、ゆったりと語り掛けた。
「医者ではなく親ならば、大切な人であればあるほど、そう思うのではないでしょうか」
千鶴の目の前にいるのは、大きな背中を気弱に縮こまらせた、一人の子の父。
「親ならば、子にどうしてでも生きていて欲しいと思うはずです。
起き上がれなくても、寝たきりでも、生きていてくれればなんでもいいと。
しかし過ぎる思いは冷静さを欠き、時に正常な判断をできなくさせます。
本人が真に望んでいることさえも気づけなくなる。
そのような時は私に大事なことに気づくお手伝いをさせてください。
きっとそれも看護婦の仕事ですから」
そう微笑みながら優しく告げる千鶴に、南山は庭を見つめたまま震える声で
「ありがとう」
と言葉を返した。