夫人というには若く、乙女というには落ち着いた印象の女性は、鏡台の前で丁寧に髪をすいていた。
柔らかな髪をなでるのは桜の彫物が入った艶やかな桐の木櫛。
愛する夫が、髪を切ったのをきっかけに贈ってくれたものだ。
その人の髪は、肩につかないほどに短く切られ、緩やかに波打つ。
それは今流行のパーマではなく彼女本来の髪質。
絹糸のように美しい毛髪は、朝のうららかな光を受け、きらきらときらめく。
もう髪を黒く染める必要も、長く伸ばす必要もない。
髪を今の長さに切った時も、夫は短い髪も似合っていると褒めてくれた。
彼女が髪型を決める理由はそれだけでいい。
またこの髪は手入れも楽で、非常に助かっている。
これは今の彼女にとってとても重要なことだった。
「きゃー」
支度を終えた女性が膝を上げたところに、可愛らしい声が届く。
彼女が髪を切ることになった一つの要因。
いつも彼女が身支度するまでは寝ているし、起きたとしても夫が見てくれているが、何かあったのだろうか。
鏡台から離れ、廊下に出るとちょうどその原因が、前から抱きついて来た。
緩やかに波打つ髪質は母譲り、子どもならではの柔らかい質感も相まって綿飴のようにふわふわと空気をふくんでいる。
雲のような髪に覆われた真っ白な顔は、ほっぺたが桜のように、唇は桜の実のように赤く色めき、くりくりとした目が愛らしい。
幼少時の美桜にそっくりだ。
違うとすれば、父親譲りの濡羽色の髪と、黒瑪瑙に輝く瞳。
「おかあしゃま」
幼児は舌足らずな口で母を求め、笑顔でだっこをせがんでくる。
どうやら、母を探してここまで来たらしい。
探し人たる美桜はそれに微笑み、喜んで答える。
右腕に娘のお尻を乗せ、幸せな重みを感じる。
また少し重くなっただろうか。
数年前までは、この幸福な重さを自分が胸に抱くことができるとは思わなかった。
――――――
桐秋と再会した後、美桜は自分の桜病に対する抗毒素血清を作るにおよぶ経緯を聞いた。
美桜の体液から作られた抗毒素血清のお陰で、自身の桜病が完治した桐秋は、あらためて千鶴の身許を調査したらしい。
その中で美桜の過去を知り、成人期の桜病を患う可能性に気づいた桐秋は、急ぎその治療法を探すための研究に勤しんだ。
が、なかなか思うようには進まない。
桐秋が研究を行っていた抗毒素血清。
それは、美桜の父が作っていた人為的な桜病や、その基となった幼児期の桜病に効き目があるもので、美桜が患った成人期の桜病には効果が期待出来なかったという。
しかし、思わぬところから、手掛かりが手に入る。
美桜の母方の祖父から南山宛てに便りが送られてきたのだ。
手紙には美桜の患っている成人期の桜病を治すための抗毒素血清の生成法と、そこにおよぶまでの経緯が記されていた。
――それは十年以上前、美桜の父が、義父にあてた手紙に始まる。
美桜の祖父は、自身の妻と娘を亡くしたショックで母国の英国へと帰っていた。
父はその祖父に連絡をとり、自身の妻、義母、娘が感染した病気のことを告げたらしい。
加えて、手紙と共に多額の現金、妻の桜病菌のサンプルも一緒に送り、送付したお金で、ドイツの血清療法を開発したチームに、成人期桜病の抗毒素血清の開発を依頼してほしいと頼んだ。
そのお金は破傷風の予防薬と偽り、桜病の病原菌を売って得ていた法外な報酬。
祖父は、すぐさま老体を押して、ドイツに渡り、チームの元を訪れた。
しかし、どんなにお金があっても、当時は桜病のような、毒素を原因とする病気に対して、同様の依頼が殺到していたらしく、順番を待たなければならなかった。
実際に桜病の研究が開始されたのは、数年後。さらに抗毒素血清生成法の開発には、また数年が費やされた。
そうしてようやく開発された生成法を伝えようと、美桜の祖父は日本に手紙を書いたが、父と連絡がとれない。
そこで祖父は、日本にいた頃に懇意にしていた南山に連絡を取ったのだ。
桐秋はすぐさま、その開発された手法を元に、実験に取り掛った。
桐秋の治療のためと提供されていた美桜の血液から、成人期桜病菌の毒素を取り出し、抗毒素血清を作りだしたのだ。
その話を聞いて、美桜は複雑な心境になりながらも涙した。
確かに、お金を作る方法として、多くの人を苦しめた父のやり方は決して許されるものではない。
また、そこには復讐の意図もあったのだろう。
それでも父は、美桜の病を治すために、尽くしてくれていた。美桜が成人期の桜病になる可能性さえ予期し、行動を起こしてくれていた。
そこまでして美桜が生きることを望んでくれていたのだ。
美桜はそれが、娘として嬉しかった。
さらにそれを聞いて美桜が思ったこと、父は南山を憎みきれなかったのではないかということ。
祖父に連絡を取った時点で、父は自分の命が長くはないことを分かっていたはずだ。
難しい案件ゆえに、自分の生きているうちに、桜病の抗毒素血清が完成するとは思ってもいなかっただろう。
けれども父は、自分が死んだ後のことを祖父には伝えていなかった。
南山が自分の妻のために犯した過ちのこともだ。
ならば、父と連絡が取れない祖父が頼るのは、来日中一番親交のあった南山だろう。娘夫婦の仲人も務めたのだから。
きっと父はそれを分かっていたはず。
どこかで、南山の良心にかけていたのかもしれない。
そう思うにいたった美桜は、自身の病状が落ち着いた後、桐秋と共に南山の元を訪れた。
西野から桜病の真実を聞かされた南山は、深い自責の念を抱き、医者を辞めていた。
南山が犯した、たった一つの罪。
多くの人が大切な時間を失うことになったわずかな刻の過ち。
それがなければ未来は代わっていたのかもしれない。
母も父も死ななかったのかもしれない。
それでも、美桜は南山を恨むことが出来なかった。
桐秋のことを共に支える中で、この人が家族を何より大事に想う、心の温かい人だと知ったから。
桜病を患っている美桜が桐秋に連れられ、再び南山家に戻ってきた時も、いの一番に出迎え、己のしたことを真っ先に謝ってくれた。
美桜の謝罪も受け入れてくれた。
そんな優しい人だから、心の底から己の咎に苦しんでいる。
――負の連鎖はここで終わりにするべきだ。
過去を嘆いたって今は代わらない。
未来に生きるなら、愛する人をこの世に誕生させてくれた大切な人を恨みたくはない。
だからこそ、美桜は自身の生きる未来が現実となった瞬間に、自分の考える父の思いを伝えることにしたのだ。
美桜は父の話を終えると、最後にゆっくり優しい声で、相手の身体にしみこむように告げた。
「互いに傷つきました。
ですから、もうこれで終わりにしましょう」
それは、美桜自身への言葉でもある。
その言葉に南山は嗚咽をこぼし、美桜に、父に母にやはり謝った。
それでも、最後は少しだけ顔を上げて、笑みを浮かべてくれた。
千鶴の好きなしわくちゃな人を安堵させる笑顔を。
それが長きにわたる桜の病を終わらせた瞬間になった。
その後、美桜は南山家の離れで桐秋に看護されながら療養生活を送り、一年後には健康な体を取り戻すことができた。
桐秋の強い要望により、美桜はそのまま南山家に世話になることになり、離れは二人の愛の巣となる。
それから二人は結婚の準備を進めていたが、式の前に子の妊娠が分かった。
かくして今、美桜は桐秋の妻であり、現時点では一人の子の母である。
――――――
「お花、お花」
この幸せにいたるまでの過去に、思いを馳せていた母を腕の中の娘は急かす。
美桜が意識を今に戻し、娘に目をやると、幼子は遠くの花を指さしていた。
いつもこの時間に庭の花に水をやっているのを覚えているのだろう。
美桜は暴れる娘を下ろし、手を繋いで庭に向かう。
「きれいねー」
そこら一面に広がるのは鮮やかな薄紅の花畑。
一つ一つの花弁は薄く儚いが、無限に連なることで、それは美しい桃色の絨毯を作っている。
どこまでも広い空の下、ゆったりと花を揺らす様は、人の心を柔らかにする。
親子二人、笑顔で明媚な花園を眺めていると
「ここにいたのか」
声が聞こえたかと思うと、娘は宙に浮き、美桜はたくましい腕に抱かれていた。
隣には、美桜の愛しい人が立っていた。
娘は、大好きな父に抱き上げられてきゃっきゃと嬉しそうにはしゃいでいる。
そして、いつのまにか摘んでいた花を父に見せる。
「お花。お花」
桐秋は微笑み、優しく娘に教える。
「ああ、お花。コスモスだ。秋の桜。父と母の花だ」
それは今、眼下を埋め尽くしている花。
美桜の体には桜の花粉が毒になるため、桐秋は代わりにコスモスの花を庭いっぱいに植えてくれた。
美桜が桜に似ているといった思い出の花を。桐秋に捧げた純潔の麗しい花を。
桜にも劣らない美しい花畑を家族三人で見つめる。
大好きな花を大切な人たちと眺めることができ
る。
夢にまで見た幸せな時間。
幸福にひたる美桜は桐秋の肩に頭を預ける。
桐秋もそれを受け止め、両手にもった大事なものを包み込む。
――愛は人を人を狂わし、桜は人を死に至らしめる。
――されど、たくさんの幸せを、思い出を、宝物を私に授けてくれた。私はそれを抱き、これからの日々を生きていく。
父が吐いた最期の言葉。あれには続きがあった。
それは、父が桜病のことを祖父に伝えた際、祖父が返信として父に送った手紙に記した言葉だった。
桜と愛は不幸だけを残したわけではないと。
それ以上の幸福、実りをもたらしてくれたと父を諭す言葉だった。
桜病について、真実を深くは知らされていなかった祖父だったが、父の鬼気迫る文面に何かを感じとり、その文言を記したのだろう。
それを父は今際の際に吐いた。吐血のせいですべて告げることが出来なかったのだ。
美桜は最期の瞬間に向けられ、忘れかけていた父の表情を思いだした。
それは無念そうではなく、憎しみに囚われているのでもなく、ただただ慈しみ、愛に満ちたまなざしだった。
――あれは子を想う親の目。自身も子どもをもつ今なら分かる。父は自分を愛してくれていたのだ。
確かに苦しい時もあった。
悲しい時も、つらい時も、けれど決して不幸だけではなかったと。
父の宝として、一心に愛を受ける幸福な刻もあったのだ。
呪詛のように思えた最後の言葉で、一切が黒く塗りつぶされていた。
いやそれさえきっと、幸せな未来を願う言葉だったのだ。
思い出すきっかけを授けてくれたのは、やはり美桜の心から愛する人。
あの幸せの園で向けられた言葉をこの人に返そう。
――私は貴方といると幸せになれる。
花畑を見ながら、幸福な思い出を懐古する中で、つと美桜は疑問がわいた。
「そういえば、桐秋様はいつ、私が幼き日に会った少女だと分かったのです。
西野の父から聞いたのですか」
桐秋は美桜の言葉に、少し考える素振りを見せると、笑みを浮かべて告げる。
「君に看病されているときから、何かと君をあの少女に重ねることが多かった。
確信をもったのは、別荘で真珠の髪飾りを贈ったとき」
断定する言葉に千鶴は首をかしげ、桐秋は話を続ける。
「君の耳たぶの裏には花の模様になっている五つのほくろがある。
幼い頃、君に花冠をねだられた時に、そのほくろを見たことがあった。
そして、別荘で君にカチューシャを着けた時、それが見えたんだ」
美桜は自身も知らなかった身体の特徴と真実に驚く。
「そうだったのですね」
「君は折々にその片鱗を覗かせていた。
雪山にジャムをのせて食べたときなんて、感想も表情も昔の君とまるきり変わらなかった。
でも君は正体を隠したいようだったし、私は思い出の花の精ではなく、今の君自身を愛していたから別に話さなくてもいいと思ったんだ。
まあ、君が妖精に重なったことで私は自身の想いを気づけたし、運命だとは感じたがね」
そう言っていたずらっ子のように笑う目の前の人が、美桜はこの上なく愛おしい。
そんな甘い雰囲気の両親を前に、空気を読むこともなく、二人の小さな幸せの宝物は、自分を抱いている父のシャツを引っ張る。
「お花。お花。もっともっと」
それに桐秋と美桜は互いに柔らかな笑顔を浮かべながら、花畑に足を向ける。
満開の花の海を、土を踏み、地に根をはやした足取りで前に進む。
これからもきっと二人を、いや家族をたくさんの困難が襲うだろう。
けれど、もう決してそこを独りで歩もうとは思わない。
互いが互いの死の淵を乗り越えた二人は、もう独りで生きられないことを知っているから。
互いが互いの側にいれば、春の陽だまりのようなあたたかさが二人を包むことを知っているから。
だからこそ、彼ら生きて共に歩むのだ。
この永遠ともいうばかりの長い長い花盛りを。
柔らかな髪をなでるのは桜の彫物が入った艶やかな桐の木櫛。
愛する夫が、髪を切ったのをきっかけに贈ってくれたものだ。
その人の髪は、肩につかないほどに短く切られ、緩やかに波打つ。
それは今流行のパーマではなく彼女本来の髪質。
絹糸のように美しい毛髪は、朝のうららかな光を受け、きらきらときらめく。
もう髪を黒く染める必要も、長く伸ばす必要もない。
髪を今の長さに切った時も、夫は短い髪も似合っていると褒めてくれた。
彼女が髪型を決める理由はそれだけでいい。
またこの髪は手入れも楽で、非常に助かっている。
これは今の彼女にとってとても重要なことだった。
「きゃー」
支度を終えた女性が膝を上げたところに、可愛らしい声が届く。
彼女が髪を切ることになった一つの要因。
いつも彼女が身支度するまでは寝ているし、起きたとしても夫が見てくれているが、何かあったのだろうか。
鏡台から離れ、廊下に出るとちょうどその原因が、前から抱きついて来た。
緩やかに波打つ髪質は母譲り、子どもならではの柔らかい質感も相まって綿飴のようにふわふわと空気をふくんでいる。
雲のような髪に覆われた真っ白な顔は、ほっぺたが桜のように、唇は桜の実のように赤く色めき、くりくりとした目が愛らしい。
幼少時の美桜にそっくりだ。
違うとすれば、父親譲りの濡羽色の髪と、黒瑪瑙に輝く瞳。
「おかあしゃま」
幼児は舌足らずな口で母を求め、笑顔でだっこをせがんでくる。
どうやら、母を探してここまで来たらしい。
探し人たる美桜はそれに微笑み、喜んで答える。
右腕に娘のお尻を乗せ、幸せな重みを感じる。
また少し重くなっただろうか。
数年前までは、この幸福な重さを自分が胸に抱くことができるとは思わなかった。
――――――
桐秋と再会した後、美桜は自分の桜病に対する抗毒素血清を作るにおよぶ経緯を聞いた。
美桜の体液から作られた抗毒素血清のお陰で、自身の桜病が完治した桐秋は、あらためて千鶴の身許を調査したらしい。
その中で美桜の過去を知り、成人期の桜病を患う可能性に気づいた桐秋は、急ぎその治療法を探すための研究に勤しんだ。
が、なかなか思うようには進まない。
桐秋が研究を行っていた抗毒素血清。
それは、美桜の父が作っていた人為的な桜病や、その基となった幼児期の桜病に効き目があるもので、美桜が患った成人期の桜病には効果が期待出来なかったという。
しかし、思わぬところから、手掛かりが手に入る。
美桜の母方の祖父から南山宛てに便りが送られてきたのだ。
手紙には美桜の患っている成人期の桜病を治すための抗毒素血清の生成法と、そこにおよぶまでの経緯が記されていた。
――それは十年以上前、美桜の父が、義父にあてた手紙に始まる。
美桜の祖父は、自身の妻と娘を亡くしたショックで母国の英国へと帰っていた。
父はその祖父に連絡をとり、自身の妻、義母、娘が感染した病気のことを告げたらしい。
加えて、手紙と共に多額の現金、妻の桜病菌のサンプルも一緒に送り、送付したお金で、ドイツの血清療法を開発したチームに、成人期桜病の抗毒素血清の開発を依頼してほしいと頼んだ。
そのお金は破傷風の予防薬と偽り、桜病の病原菌を売って得ていた法外な報酬。
祖父は、すぐさま老体を押して、ドイツに渡り、チームの元を訪れた。
しかし、どんなにお金があっても、当時は桜病のような、毒素を原因とする病気に対して、同様の依頼が殺到していたらしく、順番を待たなければならなかった。
実際に桜病の研究が開始されたのは、数年後。さらに抗毒素血清生成法の開発には、また数年が費やされた。
そうしてようやく開発された生成法を伝えようと、美桜の祖父は日本に手紙を書いたが、父と連絡がとれない。
そこで祖父は、日本にいた頃に懇意にしていた南山に連絡を取ったのだ。
桐秋はすぐさま、その開発された手法を元に、実験に取り掛った。
桐秋の治療のためと提供されていた美桜の血液から、成人期桜病菌の毒素を取り出し、抗毒素血清を作りだしたのだ。
その話を聞いて、美桜は複雑な心境になりながらも涙した。
確かに、お金を作る方法として、多くの人を苦しめた父のやり方は決して許されるものではない。
また、そこには復讐の意図もあったのだろう。
それでも父は、美桜の病を治すために、尽くしてくれていた。美桜が成人期の桜病になる可能性さえ予期し、行動を起こしてくれていた。
そこまでして美桜が生きることを望んでくれていたのだ。
美桜はそれが、娘として嬉しかった。
さらにそれを聞いて美桜が思ったこと、父は南山を憎みきれなかったのではないかということ。
祖父に連絡を取った時点で、父は自分の命が長くはないことを分かっていたはずだ。
難しい案件ゆえに、自分の生きているうちに、桜病の抗毒素血清が完成するとは思ってもいなかっただろう。
けれども父は、自分が死んだ後のことを祖父には伝えていなかった。
南山が自分の妻のために犯した過ちのこともだ。
ならば、父と連絡が取れない祖父が頼るのは、来日中一番親交のあった南山だろう。娘夫婦の仲人も務めたのだから。
きっと父はそれを分かっていたはず。
どこかで、南山の良心にかけていたのかもしれない。
そう思うにいたった美桜は、自身の病状が落ち着いた後、桐秋と共に南山の元を訪れた。
西野から桜病の真実を聞かされた南山は、深い自責の念を抱き、医者を辞めていた。
南山が犯した、たった一つの罪。
多くの人が大切な時間を失うことになったわずかな刻の過ち。
それがなければ未来は代わっていたのかもしれない。
母も父も死ななかったのかもしれない。
それでも、美桜は南山を恨むことが出来なかった。
桐秋のことを共に支える中で、この人が家族を何より大事に想う、心の温かい人だと知ったから。
桜病を患っている美桜が桐秋に連れられ、再び南山家に戻ってきた時も、いの一番に出迎え、己のしたことを真っ先に謝ってくれた。
美桜の謝罪も受け入れてくれた。
そんな優しい人だから、心の底から己の咎に苦しんでいる。
――負の連鎖はここで終わりにするべきだ。
過去を嘆いたって今は代わらない。
未来に生きるなら、愛する人をこの世に誕生させてくれた大切な人を恨みたくはない。
だからこそ、美桜は自身の生きる未来が現実となった瞬間に、自分の考える父の思いを伝えることにしたのだ。
美桜は父の話を終えると、最後にゆっくり優しい声で、相手の身体にしみこむように告げた。
「互いに傷つきました。
ですから、もうこれで終わりにしましょう」
それは、美桜自身への言葉でもある。
その言葉に南山は嗚咽をこぼし、美桜に、父に母にやはり謝った。
それでも、最後は少しだけ顔を上げて、笑みを浮かべてくれた。
千鶴の好きなしわくちゃな人を安堵させる笑顔を。
それが長きにわたる桜の病を終わらせた瞬間になった。
その後、美桜は南山家の離れで桐秋に看護されながら療養生活を送り、一年後には健康な体を取り戻すことができた。
桐秋の強い要望により、美桜はそのまま南山家に世話になることになり、離れは二人の愛の巣となる。
それから二人は結婚の準備を進めていたが、式の前に子の妊娠が分かった。
かくして今、美桜は桐秋の妻であり、現時点では一人の子の母である。
――――――
「お花、お花」
この幸せにいたるまでの過去に、思いを馳せていた母を腕の中の娘は急かす。
美桜が意識を今に戻し、娘に目をやると、幼子は遠くの花を指さしていた。
いつもこの時間に庭の花に水をやっているのを覚えているのだろう。
美桜は暴れる娘を下ろし、手を繋いで庭に向かう。
「きれいねー」
そこら一面に広がるのは鮮やかな薄紅の花畑。
一つ一つの花弁は薄く儚いが、無限に連なることで、それは美しい桃色の絨毯を作っている。
どこまでも広い空の下、ゆったりと花を揺らす様は、人の心を柔らかにする。
親子二人、笑顔で明媚な花園を眺めていると
「ここにいたのか」
声が聞こえたかと思うと、娘は宙に浮き、美桜はたくましい腕に抱かれていた。
隣には、美桜の愛しい人が立っていた。
娘は、大好きな父に抱き上げられてきゃっきゃと嬉しそうにはしゃいでいる。
そして、いつのまにか摘んでいた花を父に見せる。
「お花。お花」
桐秋は微笑み、優しく娘に教える。
「ああ、お花。コスモスだ。秋の桜。父と母の花だ」
それは今、眼下を埋め尽くしている花。
美桜の体には桜の花粉が毒になるため、桐秋は代わりにコスモスの花を庭いっぱいに植えてくれた。
美桜が桜に似ているといった思い出の花を。桐秋に捧げた純潔の麗しい花を。
桜にも劣らない美しい花畑を家族三人で見つめる。
大好きな花を大切な人たちと眺めることができ
る。
夢にまで見た幸せな時間。
幸福にひたる美桜は桐秋の肩に頭を預ける。
桐秋もそれを受け止め、両手にもった大事なものを包み込む。
――愛は人を人を狂わし、桜は人を死に至らしめる。
――されど、たくさんの幸せを、思い出を、宝物を私に授けてくれた。私はそれを抱き、これからの日々を生きていく。
父が吐いた最期の言葉。あれには続きがあった。
それは、父が桜病のことを祖父に伝えた際、祖父が返信として父に送った手紙に記した言葉だった。
桜と愛は不幸だけを残したわけではないと。
それ以上の幸福、実りをもたらしてくれたと父を諭す言葉だった。
桜病について、真実を深くは知らされていなかった祖父だったが、父の鬼気迫る文面に何かを感じとり、その文言を記したのだろう。
それを父は今際の際に吐いた。吐血のせいですべて告げることが出来なかったのだ。
美桜は最期の瞬間に向けられ、忘れかけていた父の表情を思いだした。
それは無念そうではなく、憎しみに囚われているのでもなく、ただただ慈しみ、愛に満ちたまなざしだった。
――あれは子を想う親の目。自身も子どもをもつ今なら分かる。父は自分を愛してくれていたのだ。
確かに苦しい時もあった。
悲しい時も、つらい時も、けれど決して不幸だけではなかったと。
父の宝として、一心に愛を受ける幸福な刻もあったのだ。
呪詛のように思えた最後の言葉で、一切が黒く塗りつぶされていた。
いやそれさえきっと、幸せな未来を願う言葉だったのだ。
思い出すきっかけを授けてくれたのは、やはり美桜の心から愛する人。
あの幸せの園で向けられた言葉をこの人に返そう。
――私は貴方といると幸せになれる。
花畑を見ながら、幸福な思い出を懐古する中で、つと美桜は疑問がわいた。
「そういえば、桐秋様はいつ、私が幼き日に会った少女だと分かったのです。
西野の父から聞いたのですか」
桐秋は美桜の言葉に、少し考える素振りを見せると、笑みを浮かべて告げる。
「君に看病されているときから、何かと君をあの少女に重ねることが多かった。
確信をもったのは、別荘で真珠の髪飾りを贈ったとき」
断定する言葉に千鶴は首をかしげ、桐秋は話を続ける。
「君の耳たぶの裏には花の模様になっている五つのほくろがある。
幼い頃、君に花冠をねだられた時に、そのほくろを見たことがあった。
そして、別荘で君にカチューシャを着けた時、それが見えたんだ」
美桜は自身も知らなかった身体の特徴と真実に驚く。
「そうだったのですね」
「君は折々にその片鱗を覗かせていた。
雪山にジャムをのせて食べたときなんて、感想も表情も昔の君とまるきり変わらなかった。
でも君は正体を隠したいようだったし、私は思い出の花の精ではなく、今の君自身を愛していたから別に話さなくてもいいと思ったんだ。
まあ、君が妖精に重なったことで私は自身の想いを気づけたし、運命だとは感じたがね」
そう言っていたずらっ子のように笑う目の前の人が、美桜はこの上なく愛おしい。
そんな甘い雰囲気の両親を前に、空気を読むこともなく、二人の小さな幸せの宝物は、自分を抱いている父のシャツを引っ張る。
「お花。お花。もっともっと」
それに桐秋と美桜は互いに柔らかな笑顔を浮かべながら、花畑に足を向ける。
満開の花の海を、土を踏み、地に根をはやした足取りで前に進む。
これからもきっと二人を、いや家族をたくさんの困難が襲うだろう。
けれど、もう決してそこを独りで歩もうとは思わない。
互いが互いの死の淵を乗り越えた二人は、もう独りで生きられないことを知っているから。
互いが互いの側にいれば、春の陽だまりのようなあたたかさが二人を包むことを知っているから。
だからこそ、彼ら生きて共に歩むのだ。
この永遠ともいうばかりの長い長い花盛りを。