「貴女様は、突然現れた私にも優しく声を掛けてくださった。
しかし、私はいきなり麗しい人に声をかけられたことに驚き、逃げ出してしまった。
その勢いのまま家に帰りました。
紅い木をみたことや美しい少年に出会ったこと、今まで出会ったことのなかった未知のものに触れた衝撃で、父の恐怖を忘れられていたのです」
父親は逃げだし、ワンピースを汚して帰ってきた娘を見ても、何も言わなかった。
「逃げ出したこともあってか、その日は血は採られませんでした。
それでもまた、次の日からは血を求められる日々。
でもあの真っ紅な木や美しい貴方様のことを思い出すと、それが心の縁になったのか、不思議と乗り切ることができたのです」
女子は胸の前で手を重ね、握りしめる。
「それから一週間ほど経った頃でしょうか、父が家を空けることがありました。
私は紅い木と貴女様に再び会いたくなり、家を出ました」
あの日辿った道を懸命に思い出し、再び白塀の前に立った。
「ついこの間まで、紅い枝の合間に青い空が覗いていた景色が、仰ぐ視界すべて、薄紅の雲で埋め尽くされていました。
花がすべて開いたのだと、私は胸を高鳴らせ、以前くぐった穴を探しました。
しかし、穴はどこにもありません」
以前くぐった穴は塞がれていた。
どうしたものかと悩んでいると、近くの沿道の巨木が目に留まる。
それは白塀にも届きそうな大きさで、自分にも登れそうな剪定のなされていない木だった。
「私は、近くの木を伝って白塀の上に登りました。
そこから目的の花木の幹へとつたいました。
入ったのは、体が全てが可憐な花束に埋め尽くされた、夢のような世界。あまりの夢心地に油断していたのでしょう。幼い私は足を滑らせました」
とてつもない衝撃と痛みを覚悟した、しかし、
「そこは貴方様の膝の上だった。
私を待っていたのだとおっしゃってくださいましたね。
貴女様は私のことを花の精だと例えてくださったけれど、私にも貴女様が夢物語の王子様のように思えました。
花で満たされた世界の中、私を腕に抱いて、柔らかに微笑む様は、母が寝物語に読んでくれた絵本の、きらきらと輝く王子様そのものだったのです」
女子はその時の思い出がまるでそこに存在するかのように、空気を含ませた左手を右手で包むように胸の前に合わせる。
感慨に浸る様は、薄金の髪と陶器のような肌が相まり、まるで天使が祈るかのよう。日の光に反射してきらめく金色の髪には、《染めていた》頃の黒はもうどこにも残っていない。
「けれど、私は母が亡くなって以来、父以外の人間と関わったことがなかったため、どうしていいかわからず、再び逃げ出そうとしました」
まさか飛び降りた先に人がいるとも思わなかったのだ。
「そんな私を貴女様はことさら優しい声で呼び止め、宝石のような美しいクッキーをくださいましたね。
バターがたっぷりと使われた木苺ジャムのクッキーは、口いっぱいに香ばしい香りが広がりました。
木苺のジャムは酸っぱくて、でもとても甘くて、私の頬はすぐに崩れました。」
一つ食べると止まらず、差し出されるままに、無我夢中で食べた。
幼さ故の行動ではあるが、今思い出すととても恥ずかしい。
甘さをはらんだ酸っぱい思い出。
「それから、貴方様が私に爛漫に咲き誇る花木が『さくら』という名なのだと教えてくださった。
満開に咲いた桜を幹の真下から見上げた様は、生まれてこの方、見たことがないほどに幽玄で美しかった。
視界いっぱいの可憐な花が、春の青い光を浴びて淡く輝いて見えました。しかし、同時に私はその光景に恐怖も感じました」
花の一つは一つは、自分の幼い小さな手でも簡単に潰れそうなのに、
一斉に咲き誇り、自身の頭上を覆い隠さんばかりに取り囲む様は、己を世界で独りの存在にするかのようで恐ろしかった。
一斉に散り、花吹雪が身体を包み去る様は、自分の大事な何かを奪われていきそうで怖かった。
「貴方様は私のそんな心情を察して下さったのか、私が満天の桜を見上げて不安そうな顔を見せるたび、隣にいて安心するように柔く微笑んでくださった。
だから私はいつも心穏やかに桜の美しさを堪能することができたのです。
そのようなことを繰り返しているうちに、私は桜ではなく、桜の中で微笑む貴方様に見とれるようになっていきました」
あの頃を思い出すかのように、女は咲き誇る桜を見上げる。
隣に寄り添う人はもういない。
「そうして、貴方様と桜の魅力に惹きつけられた私は、父の目を盗んでは家を出て、貴女様の家に行きました。
貴女様はいつもクッキーを手に、温かな笑顔で私のことを迎えてくださいました」
たくさんの心弾む刻。
「木苺のクッキーを食べたり、西洋の本を読み聞かせてくださったり、私が、花冠が欲しいとねだると、貴女様は花園で一生懸命、花を連ねてくださった。
難しい顔をしながらも、最後まで作り上げてくださった花冠を、貴女様は不格好だとおっしゃったけれど、私にとっては宝石が埋め込まれた金の冠よりも、ずっと価値のあるものだった。
あの春の陽だまりの温かな日々は、私にとって今でも大切な宝物です」
胸にあてる手に思いを馳せる。
しかし、私はいきなり麗しい人に声をかけられたことに驚き、逃げ出してしまった。
その勢いのまま家に帰りました。
紅い木をみたことや美しい少年に出会ったこと、今まで出会ったことのなかった未知のものに触れた衝撃で、父の恐怖を忘れられていたのです」
父親は逃げだし、ワンピースを汚して帰ってきた娘を見ても、何も言わなかった。
「逃げ出したこともあってか、その日は血は採られませんでした。
それでもまた、次の日からは血を求められる日々。
でもあの真っ紅な木や美しい貴方様のことを思い出すと、それが心の縁になったのか、不思議と乗り切ることができたのです」
女子は胸の前で手を重ね、握りしめる。
「それから一週間ほど経った頃でしょうか、父が家を空けることがありました。
私は紅い木と貴女様に再び会いたくなり、家を出ました」
あの日辿った道を懸命に思い出し、再び白塀の前に立った。
「ついこの間まで、紅い枝の合間に青い空が覗いていた景色が、仰ぐ視界すべて、薄紅の雲で埋め尽くされていました。
花がすべて開いたのだと、私は胸を高鳴らせ、以前くぐった穴を探しました。
しかし、穴はどこにもありません」
以前くぐった穴は塞がれていた。
どうしたものかと悩んでいると、近くの沿道の巨木が目に留まる。
それは白塀にも届きそうな大きさで、自分にも登れそうな剪定のなされていない木だった。
「私は、近くの木を伝って白塀の上に登りました。
そこから目的の花木の幹へとつたいました。
入ったのは、体が全てが可憐な花束に埋め尽くされた、夢のような世界。あまりの夢心地に油断していたのでしょう。幼い私は足を滑らせました」
とてつもない衝撃と痛みを覚悟した、しかし、
「そこは貴方様の膝の上だった。
私を待っていたのだとおっしゃってくださいましたね。
貴女様は私のことを花の精だと例えてくださったけれど、私にも貴女様が夢物語の王子様のように思えました。
花で満たされた世界の中、私を腕に抱いて、柔らかに微笑む様は、母が寝物語に読んでくれた絵本の、きらきらと輝く王子様そのものだったのです」
女子はその時の思い出がまるでそこに存在するかのように、空気を含ませた左手を右手で包むように胸の前に合わせる。
感慨に浸る様は、薄金の髪と陶器のような肌が相まり、まるで天使が祈るかのよう。日の光に反射してきらめく金色の髪には、《染めていた》頃の黒はもうどこにも残っていない。
「けれど、私は母が亡くなって以来、父以外の人間と関わったことがなかったため、どうしていいかわからず、再び逃げ出そうとしました」
まさか飛び降りた先に人がいるとも思わなかったのだ。
「そんな私を貴女様はことさら優しい声で呼び止め、宝石のような美しいクッキーをくださいましたね。
バターがたっぷりと使われた木苺ジャムのクッキーは、口いっぱいに香ばしい香りが広がりました。
木苺のジャムは酸っぱくて、でもとても甘くて、私の頬はすぐに崩れました。」
一つ食べると止まらず、差し出されるままに、無我夢中で食べた。
幼さ故の行動ではあるが、今思い出すととても恥ずかしい。
甘さをはらんだ酸っぱい思い出。
「それから、貴方様が私に爛漫に咲き誇る花木が『さくら』という名なのだと教えてくださった。
満開に咲いた桜を幹の真下から見上げた様は、生まれてこの方、見たことがないほどに幽玄で美しかった。
視界いっぱいの可憐な花が、春の青い光を浴びて淡く輝いて見えました。しかし、同時に私はその光景に恐怖も感じました」
花の一つは一つは、自分の幼い小さな手でも簡単に潰れそうなのに、
一斉に咲き誇り、自身の頭上を覆い隠さんばかりに取り囲む様は、己を世界で独りの存在にするかのようで恐ろしかった。
一斉に散り、花吹雪が身体を包み去る様は、自分の大事な何かを奪われていきそうで怖かった。
「貴方様は私のそんな心情を察して下さったのか、私が満天の桜を見上げて不安そうな顔を見せるたび、隣にいて安心するように柔く微笑んでくださった。
だから私はいつも心穏やかに桜の美しさを堪能することができたのです。
そのようなことを繰り返しているうちに、私は桜ではなく、桜の中で微笑む貴方様に見とれるようになっていきました」
あの頃を思い出すかのように、女は咲き誇る桜を見上げる。
隣に寄り添う人はもういない。
「そうして、貴方様と桜の魅力に惹きつけられた私は、父の目を盗んでは家を出て、貴女様の家に行きました。
貴女様はいつもクッキーを手に、温かな笑顔で私のことを迎えてくださいました」
たくさんの心弾む刻。
「木苺のクッキーを食べたり、西洋の本を読み聞かせてくださったり、私が、花冠が欲しいとねだると、貴女様は花園で一生懸命、花を連ねてくださった。
難しい顔をしながらも、最後まで作り上げてくださった花冠を、貴女様は不格好だとおっしゃったけれど、私にとっては宝石が埋め込まれた金の冠よりも、ずっと価値のあるものだった。
あの春の陽だまりの温かな日々は、私にとって今でも大切な宝物です」
胸にあてる手に思いを馳せる。