「桐秋様を探していたんです」
「探す」
南山は怪訝な表情を浮かべる。
「始めに言われましたね。
なぜ、あの子は桐秋様のためにそこまでするのかと。
・・・初恋だそうです。
幼い頃、桐秋様に会って自分は救われたのだと。
ところがその際、桐秋様の肌に直に触れてしまった。
桐秋様に初めて会った時、千鶴は自身の病がどういうものか知りませんでした。
初潮を迎え、幼児期の桜病が完治した後も、私は桜病のことを千鶴には話しませんでした。
幼児期に父親から桜病のことを告げられていたようですが、私はそれを否定していたのです」
西野は一度口をつぐみ、間を置いて話し出す。
「けれども、千鶴は疑っていました。
それで私が持っていた父親の研究資料を私の留守中に見たのです。
そこで自分が幼少期の桜病に罹っていたということを確信し、触れた相手に感染させてしまう可能性を知った。
千鶴があの頃、幼児期の桜病に罹っていた頃、父親以外に触れた相手が桐秋様だったのです。
しかしその時は、桐秋様の素性に関することは何も分からなかった。
そこで桜病に罹ったかもしれない名も知らぬ初恋の君を探すために、千鶴は派出看護婦になることを決意したのです。
桜病など感染症の隔離患者には、派出看護婦が多くあてがわれますから。
その情報網で探そうとしたのでしょう。
はからずしも、あなたが現れたことで千鶴の願いは叶うことになった」
そこで西野は言葉を切り、千鶴の父として、医者として正面にいる患者の父に事実を告げる。
「南山教授、桐秋様の桜病は千鶴が幼少期、自身の病を知らずに桐秋様に触れてしまったことで感染した病気です。
北川が作ったものではなく、北川が感染したものと同じ、千鶴の患っていた幼児期の桜病。
それがなぜ北川のようにすぐに発症せず、大人になって現れたのか、私にはわかりません」
当時桐秋は子どもだったため、潜伏し、大人になって発症したのかもしれない。
「それでも、千鶴の血から作られた抗毒素血清が桐秋様のお体に効いているのなら間違いないでしょう」
西野は先ほど渡した血清について触れる。
「あの日、桐秋様が吐血された日。
千鶴は自分の血が、桐秋様の桜病に対する抗毒素血清になりえないかと訴えに来ました」
桐秋の病の原因となった自分なら、一度幼児期の桜病を克服している自分の血なら、桐秋の桜病に対する抗体がないかと。
「私はその可能性を分かっていて、あえて言っていませんでした。
桜病の真実を知っていたからこそ、これ以上この病に関わることで娘になにかを求めたくなかった。
彼女のわずかな血でさえもそのために提供させたくなかった。
あなたの息子さんが死ぬことになろうが、私は娘の方が大事だった。
私はその時になってやっと、自身の中でくすぶっていた漠然とした不安の正体を自覚しました」
――分かっていたのだ。
「千鶴はきっと己の大切なもののためならば、自身の身など簡単になげうつ。
それを父として医者として分かっていた。
だからこそずっと不安を感じていたのです」
はからずも、こうなることが分かっていたからこそ、西野は娘が南山家に行くことを反対した。
「そうして、あの子は桐秋様の研究を側で支えるうち、自分の血の価値に気づいてしまった。
愛する人を助けてほしいと泣きながら懇願する娘を前に、父として秘密を黙っておくことはできなかった。
けれども、あの子の血を採ることもできなかった。
ですから、貴方にすがったのでしょう」
西野は南山に目線をやる。
南山は言葉を発するため、手をつけていなかったテーブルの茶を少しむせて、それでも無理に飲み込んだ。
この状況なら毒でも仕込まれてもおかしくはなかったが、幸いそれは極めて苦いだけの普通の緑茶だった。
「驚いた。
馬で生成する抗毒素血清の副作用について話した後、では人ではどうかと尋ねてきたのだから」
――私は幼少期に桜病に罹り、それを克服しています。
ですから、桐秋様の桜病に対する抗体をもっているかもしれません。
どうか私の血から血清を抽出していただけませんでしょうか。
「人間間の体液の譲渡だから副作用の可能性も少ないはずだと訴えてきた。
私はすべてを超越した彼女の発言に、何をいっているのか、はじめ理解できなかった。
だが、言葉の意味を少しずつ咀嚼するうちに、桐秋の病状に焦る私の頭は、彼女の提案が今の桐秋にできる最良の治療ではないかと思えた。
浅ましくも私は、彼女に冷静になれと諭しておきながら、目処の立たぬ馬の血よりも、目先のうら若き乙女の血を欲したのだ」
南山の声にこみ上げるものが滲む。
「皮肉でしょう。
自分が殺した人の娘が、自分の妻を殺した病のもととなった娘が、自分の息子の命を救おうとしている」
何の戯曲だろうかと。
「でも疑わないでほしいのは、あの子が貴方の息子さんを救おうとしたのは、今まで話してきた後ろ暗い背景はまったく関係ありません。
ただそこにあったのは、あの子が純粋に真っすぐに桐秋様を想う心だけ。
幼い頃からずっと慕い続けてきた初恋の人を救いたいという澄んだ気持ちだけ。
私たちのこんなどす黒い感情など、微塵もないのです。ただただあの子が桐秋様を救いたいと願った心は、この上なく真っ白な想いで満ちている」
そういって、一つ西野は涙をこぼす。
南山は最後に問う。
「その子は今どこに」
西野は夕暮れを表す影が半分落ちた壁に目をうつす。
そこに飾られているのは一枚の色あせた雛菊の栞。
それは親友がささやかに上げた結婚式の返礼品。
結婚式の夜、深酒の勢いで告げられたのろけ話。
妻の故郷には変わらぬ友情を謳った詩があるのだと。
そこに出てくる花が雛菊なのだと。
嬉しそうに語り、自分にそれを渡してきた。
そして、自分たちは変わらぬ友情を杯に交わし合った。
遠い遠い日の友情を思う。
その親友が最期に残した大切な宝もの・・・。
「娘は成人期の桜病を発症しました。もうここにはいません」
「探す」
南山は怪訝な表情を浮かべる。
「始めに言われましたね。
なぜ、あの子は桐秋様のためにそこまでするのかと。
・・・初恋だそうです。
幼い頃、桐秋様に会って自分は救われたのだと。
ところがその際、桐秋様の肌に直に触れてしまった。
桐秋様に初めて会った時、千鶴は自身の病がどういうものか知りませんでした。
初潮を迎え、幼児期の桜病が完治した後も、私は桜病のことを千鶴には話しませんでした。
幼児期に父親から桜病のことを告げられていたようですが、私はそれを否定していたのです」
西野は一度口をつぐみ、間を置いて話し出す。
「けれども、千鶴は疑っていました。
それで私が持っていた父親の研究資料を私の留守中に見たのです。
そこで自分が幼少期の桜病に罹っていたということを確信し、触れた相手に感染させてしまう可能性を知った。
千鶴があの頃、幼児期の桜病に罹っていた頃、父親以外に触れた相手が桐秋様だったのです。
しかしその時は、桐秋様の素性に関することは何も分からなかった。
そこで桜病に罹ったかもしれない名も知らぬ初恋の君を探すために、千鶴は派出看護婦になることを決意したのです。
桜病など感染症の隔離患者には、派出看護婦が多くあてがわれますから。
その情報網で探そうとしたのでしょう。
はからずしも、あなたが現れたことで千鶴の願いは叶うことになった」
そこで西野は言葉を切り、千鶴の父として、医者として正面にいる患者の父に事実を告げる。
「南山教授、桐秋様の桜病は千鶴が幼少期、自身の病を知らずに桐秋様に触れてしまったことで感染した病気です。
北川が作ったものではなく、北川が感染したものと同じ、千鶴の患っていた幼児期の桜病。
それがなぜ北川のようにすぐに発症せず、大人になって現れたのか、私にはわかりません」
当時桐秋は子どもだったため、潜伏し、大人になって発症したのかもしれない。
「それでも、千鶴の血から作られた抗毒素血清が桐秋様のお体に効いているのなら間違いないでしょう」
西野は先ほど渡した血清について触れる。
「あの日、桐秋様が吐血された日。
千鶴は自分の血が、桐秋様の桜病に対する抗毒素血清になりえないかと訴えに来ました」
桐秋の病の原因となった自分なら、一度幼児期の桜病を克服している自分の血なら、桐秋の桜病に対する抗体がないかと。
「私はその可能性を分かっていて、あえて言っていませんでした。
桜病の真実を知っていたからこそ、これ以上この病に関わることで娘になにかを求めたくなかった。
彼女のわずかな血でさえもそのために提供させたくなかった。
あなたの息子さんが死ぬことになろうが、私は娘の方が大事だった。
私はその時になってやっと、自身の中でくすぶっていた漠然とした不安の正体を自覚しました」
――分かっていたのだ。
「千鶴はきっと己の大切なもののためならば、自身の身など簡単になげうつ。
それを父として医者として分かっていた。
だからこそずっと不安を感じていたのです」
はからずも、こうなることが分かっていたからこそ、西野は娘が南山家に行くことを反対した。
「そうして、あの子は桐秋様の研究を側で支えるうち、自分の血の価値に気づいてしまった。
愛する人を助けてほしいと泣きながら懇願する娘を前に、父として秘密を黙っておくことはできなかった。
けれども、あの子の血を採ることもできなかった。
ですから、貴方にすがったのでしょう」
西野は南山に目線をやる。
南山は言葉を発するため、手をつけていなかったテーブルの茶を少しむせて、それでも無理に飲み込んだ。
この状況なら毒でも仕込まれてもおかしくはなかったが、幸いそれは極めて苦いだけの普通の緑茶だった。
「驚いた。
馬で生成する抗毒素血清の副作用について話した後、では人ではどうかと尋ねてきたのだから」
――私は幼少期に桜病に罹り、それを克服しています。
ですから、桐秋様の桜病に対する抗体をもっているかもしれません。
どうか私の血から血清を抽出していただけませんでしょうか。
「人間間の体液の譲渡だから副作用の可能性も少ないはずだと訴えてきた。
私はすべてを超越した彼女の発言に、何をいっているのか、はじめ理解できなかった。
だが、言葉の意味を少しずつ咀嚼するうちに、桐秋の病状に焦る私の頭は、彼女の提案が今の桐秋にできる最良の治療ではないかと思えた。
浅ましくも私は、彼女に冷静になれと諭しておきながら、目処の立たぬ馬の血よりも、目先のうら若き乙女の血を欲したのだ」
南山の声にこみ上げるものが滲む。
「皮肉でしょう。
自分が殺した人の娘が、自分の妻を殺した病のもととなった娘が、自分の息子の命を救おうとしている」
何の戯曲だろうかと。
「でも疑わないでほしいのは、あの子が貴方の息子さんを救おうとしたのは、今まで話してきた後ろ暗い背景はまったく関係ありません。
ただそこにあったのは、あの子が純粋に真っすぐに桐秋様を想う心だけ。
幼い頃からずっと慕い続けてきた初恋の人を救いたいという澄んだ気持ちだけ。
私たちのこんなどす黒い感情など、微塵もないのです。ただただあの子が桐秋様を救いたいと願った心は、この上なく真っ白な想いで満ちている」
そういって、一つ西野は涙をこぼす。
南山は最後に問う。
「その子は今どこに」
西野は夕暮れを表す影が半分落ちた壁に目をうつす。
そこに飾られているのは一枚の色あせた雛菊の栞。
それは親友がささやかに上げた結婚式の返礼品。
結婚式の夜、深酒の勢いで告げられたのろけ話。
妻の故郷には変わらぬ友情を謳った詩があるのだと。
そこに出てくる花が雛菊なのだと。
嬉しそうに語り、自分にそれを渡してきた。
そして、自分たちは変わらぬ友情を杯に交わし合った。
遠い遠い日の友情を思う。
その親友が最期に残した大切な宝もの・・・。
「娘は成人期の桜病を発症しました。もうここにはいません」