桐秋が千鶴を拒んだ日から、二人の間には薄い幕のようなものが張り巡らされるようになった。

 別荘の透けるような天蓋よりも薄いが、本人達の目にはありありと見えている障壁。

 想うがゆえに傷つけたくない。想うがゆえに刻みつけて欲しい。

 互いを想う気持ちは同じであるのに、その有り様ですれ違っている。

 それでも夜は二人、手を繋いで眠る。

 これまでなくしてしまえばほんとうに何もかもが離れてしまいそうで、互いに自然に手を握っていた。

 切れたと思っても、互いの間には透明な蜘蛛(くも)の糸のような目に見えない絆がある。

 それが根底(こんてい)で二人を引き寄せる。

 それほどまでに二人は深く繋がってしまっているのだ。


——そんな日々のある夜、桐秋は夢をみた。

 盛りを迎えた花のもとに幼子を抱えた女がいる。

 二人は嬉しそうに笑っている。

 女の顔は見慣れた顔。

 この世で最も愛する女だ。

 その女人に抱かれて笑う幼子は自分に瓜二(ふりふた)つ。

 二人は幸せそうに薄紅の花を眺めている。

 そこで目が覚め、横を見ると、健やかに眠る夢と変わらぬ愛しい女がいた。

 その寝姿をいつまでも見ていたい。

 もっと近くに寄って顔が見たいと思い、彼女に近づこうとすると、桐秋は眠ってなお、互いの手が繋がれたままであったことに気づく。

 彼女と手を握ることは、それで一つの身体であったのではないかというくらい違和感がない。

 どこかの国の言い伝えによると、体の一部が繋がっていると、互いの夢が共有されるという。

 そして、夢は自身の願望(がんぼう)を写す鏡。

 今しがたの夢は、彼女の夢が自分に流れてきたのかと桐秋は思う。

――もし、今見た夢が彼女の願う未来なら、千鶴は自分がいなくなっても、自分との子どもがいれば幸せだと感じてくれるのか。笑って過ごすことができるのか。

――自分はもうすぐ死ぬ。

――だが、彼女に笑顔をもたらしてくれる存在を残して死ねるのなら。

――彼女が一生自分を想い続けてくれるのなら。

 自分でも甘い考えだなと桐秋は思う。

 寿命が見えて、気が弱くなっているのだろうか。

 ぽたり。

 布団に雫が落ちる。

 桐秋ははたと、顔に手をやった。

 いつのまにか自身の頬が濡れていたことに気づく。

――自分はあの夢を見て涙を流していたのか。

 そのような当たり前な異変にさえ、桐秋は顔に()れるまで気づかなかった。

 しかし、いったん気づいてしまえば、それは他のことにも心づく(かぎ)となる。

 明白で単純な肉体の変化は、桐秋の心の内をも明瞭にしてみせたのだ。

 桐秋の心中をぐるぐるとうねり、渦巻いていた気持ちが、固く結んでとれない蝶結びが、端っこの紐をきっかけとして(なめ)らかに解けるように、するすると容易(ようい)に解けていく。

 黒いもやが取り除かれ、鮮明になったのは、自分の心の奥にあって揺るがない想い。

――そうだあれは彼女の夢であり、自分の夢だ。

 彼女の夢が流れ込んできたと思い込んでいたが、あれは自分の願望だ。

 願いだ。

 父のいない母にさせてはならないとか、他人と幸せになってほしいだの、千鶴のためだと御託(ごたく)をならべたところで、千鶴自身それを望んでいない。

 だれへの言い訳にもなっていないのだ。

 それを除いてしまえば、桐秋の根底には夢にさえにじみ出てしまうほどの、千鶴への狂おしい想いしか残っていない。

 だれにも千鶴を渡したくない。

 再度、眠っている千鶴の顔を見つめる。

 より一層愛おしく見える健やかで幸せそうな寝顔。

 誰にも見られたくない桐秋だけのもの。

 彼女に自分のこの気持ちを伝えよう。

 それが彼女を世間の波風にさらすことになろうが、きっと彼女は笑って受け入れてくれるはずだ。

 桐秋はそう決意し、そのための最後の準備を始めるのだった。