その夜、自身の内に渦巻(うずま)く感情にいてもたってもいられなくなった千鶴は、夜遅く母屋の一室を訪れた。

 入室の許可を得ることもせず、急襲するかのように扉を開け、部屋の主の元に行き、訴える。

「南山教授。桜病の抗毒素血清はまだできないのでしょうか」

 いきなり部屋に飛び込んできた千鶴に南山は驚くが、鬼気迫る表情を前に咎めることはせず、沈痛(ちんつう)な面持ちで千鶴の言葉に答えを返した。

「残念ながら、今やっと検体の馬が毒素に慣れてきた状況で、抗体ができるまでには達していない」

 南山の返答に、千鶴は瞳いっぱいに涙を溜めて懇願(こんがん)する。

「どうにか、実験を早めていただくことはできませんか」

 その言葉に南山は眉間に(しわ)を作る。

 医の道に関わるものであれば、新薬の開発を急くことがどれだけ危ういことか分かるはず。看護婦も例外ではない。

 ところが、今の千鶴はそれが分かっていない。

 桐秋のことをどうにかしようとするあまり、周りが、簡単なことが見えていないのだ。

 その原因が南山には分かっていた。

 南山は桐秋と千鶴の関係性の変化に気が付いていた。

 が、それを咎めることはしなかった。

 千鶴はそうした関係にあっても看護婦の職務を(おろそ)かにすることなく桐秋の看護にあたってくれていたし、何より、千鶴との関係は桐秋の心身にもいい影響を与えていたからだ。

 最近では、あんなに反発し合っていた父である南山にも、柔和な顔を見せるようになっていたほど。

 ゆえに南山は、千鶴には医者としても、桐秋の父としても感謝していた。

 しかし今の千鶴の行動は、一人の女として桐秋を慕うが故の、己の感情に突き動かされた盲目的な行い。

 南山は以前の自分に既視感(きしかん)を覚える。

――過ぎる思いは冷静さを欠き、時に正常な判断をできなくさせます。

 そんな女の前で南山ができるのは、医師としてまがいもない現実を伝え、冷静になるよう(さと)すこと。

「できる限り迅速(じんそく)に実験を進められるよう、研究室で一丸となって桜病研究に取り組んでいる。

 だが、未知の抗毒素血清ゆえに慎重に研究を進める必要がある」
 
 直と逸らさず、千鶴の瞳を見つめ、南山は言う。

 次いで、避けては通れない血清の更なる事実も千鶴に告げる。

「それにもし抗毒素血清ができたとしても、副作用の可能性だってある」

「副作用」

 南山が発した不穏(ふおん)な気配のある単語に、千鶴は言葉の意味を飲み込むように繰り返す。

「そもそも、抗毒素血清を作るのは馬で、人間ではない。

 血清を打つことは、種の異なるあいだでの体液の受け渡しとなる。

 よって、馬で作られた抗体を人間に取り込む際、人の体はそれを異物として認識し、拒絶反応を起こすこともある。

 それは最悪、死に至る危険性も(はら)んでいるのだ。

 特に今の弱っている桐秋の体ならば、なおさらその可能性は高い」

 南山から告げられた死を感じさせる言葉に、千鶴は身体の(しん)が抜け落ちたように口が開き、つと身体が崩れる。

 南山は二人を大きく隔てていた重厚な書斎机を回り込み、深くうなだれる千鶴の肩に優しく手を置く。

「私たちもあきらめずに、抗毒素血清を完成させられるよう努力するつもりだ。

 だからきみはきみのできることで、桐秋の力になってほしい」

「・・・」

 重き真実に顔を伏せていた千鶴だったが、最後の言葉にようやく頷き、光る両の目をゆっくりと南山に合わせるのだ。