暑さは盛りを迎え、湿り気を帯びた土はじっとりとした空気を生みだす。身体にも、心にも応える季節。
千鶴は気分だけでも暑さを和らげようと、午後の休憩にビードロの杯に氷を浮かべた涼しげな白い飲み物を用意する。
桐秋がその色に
「牛乳か」
と尋ねると、千鶴は首を横に振る。
「乳酸菌飲料というものです。母屋の女中さんから栄養があり、おいしいとお聞きしましたので、原液を少し分けていただきました」
乳酸菌飲料。確か腸の調子を整えるという謳い文句で、一年ほど前に販売されたものだったか、と桐秋は思いだしながらそれを口に運ぶ。
ごくり、一口喉を滑らせる。
――甘いな。
初めて飲んだ感想はそれだった。
しかしどこか酸味も感じ、後味はすっきりしていて上手い。
桐秋はそのままごくごくと乳酸菌飲料を飲みながら、眼だけをちらりと横に向ける。
そこにはいつものように桐秋の口元を注視する千鶴の姿。
件のことがあってから、千鶴に何度か視線を外すようにお願いした。
が、千鶴は桐秋の食べ具合がどうしても気になるようで、言われたことを守ろうとしながらも、つい見てしまう。
したがって今は、桐秋が慣れてきたこともあり、千鶴の好きなようにさせている。
されど今日は、桐秋の飲み具合というより、飲み物自体が気になっているらしい。
視線がグラスの液体に注がれている。桐秋は千鶴に尋ねる。
「どうした。これに気になることでもあるのか」
その問いに千鶴はもじもじと手の手根部をすりあわせ、ためらいながらも気になっていたことを口にする。
「その飲み物は、初恋の味がするそうです」
千鶴の思いがけない言葉に桐秋は
「は・・・」
と気の抜けた声が出る。
千鶴は頬を赤らめ、恥ずかしそうに告げる。
「昨年その乳酸菌飲料が発売された時、雑誌に初恋の味がすると書いてあったのです」
桐秋は千鶴の言葉に呆気にとられながらも、ふっと目を細め、硝子の入れ物を手に尋ねる。
「まだ残りはあるのか」
千鶴はあと一杯分残っていると答える。
それを聞いた桐秋は、
「そうしたら君も飲んでみればいい」
と千鶴に勧めた。
「これは桐秋様のためにいただいたものなので、私は結構です」
そう言って千鶴は固辞するが、桐秋は
「私には甘すぎてこの一杯で十分だ」
と告げる。
千鶴は逡巡する様子を見せながらも、好奇心には勝てなかったのか、台所に下がり、同じものを持ってくる。
千鶴は未知なる液体を前に居住まいを正し、熱い茶を飲むかのように右手を器の横に添える。
初めてのものにどきどきする気持ちを抑え、グラスを正面から見据える。
意を決し、そろりと口に含むと
「おいしい」
とはじける笑みを浮かべた。そんな千鶴に、桐秋は少しからかうように尋ねる。
「初恋の味はしたか」
千鶴は問われた後、目を一度ぱちくりとさせ、もう一度それを口に含む。
よく味わうようにしてごくりと飲み込み、ひと息置いた後、ぽつり、ぽつり答える。
「桐秋様がおっしゃったように、とても、甘い味がいたします。
ですが、その中に少しの酸っぱさも感じます。
これが初恋の味、というならば、そうかもしれません。
私の初恋も、素敵な甘い思い出の中に、少しだけ、気恥ずかしい、甘酸っぱいような思い出がありましたから」
千鶴は昔の思い出に浸っているのか、長いまつげに影を作りながら、グラスの氷を指で回す。
千鶴にしては珍しい、少し行儀の悪い行い。
けれどそれは、一瞬垣間見えた千鶴の“素”の姿。
思いもしなかった千鶴の初恋の話に、桐秋は短く
「そうか」
とだけ返す。
桐秋は少し胸がつかえる想いがした。千鶴の初恋の話を聞いたからだろうか。
想いを流し込むように、桐秋は残り一口分の白い液体を喉に通す。
が、それは原液が混ざり切らず、底に残っていたものだったのか、甘く、重く、喉に残る。
先ほど感じたすっきりとした甘さとは違い、とても甘苦く不快なもの。
今の桐秋の心のように思えて、少しのいらつきを感じる。
どうにもならないモヤモヤを少しでも解消するため、桐秋は最後に残ったどこまでも澄んだ氷片を、歯で強引にかみ砕いた。
千鶴は気分だけでも暑さを和らげようと、午後の休憩にビードロの杯に氷を浮かべた涼しげな白い飲み物を用意する。
桐秋がその色に
「牛乳か」
と尋ねると、千鶴は首を横に振る。
「乳酸菌飲料というものです。母屋の女中さんから栄養があり、おいしいとお聞きしましたので、原液を少し分けていただきました」
乳酸菌飲料。確か腸の調子を整えるという謳い文句で、一年ほど前に販売されたものだったか、と桐秋は思いだしながらそれを口に運ぶ。
ごくり、一口喉を滑らせる。
――甘いな。
初めて飲んだ感想はそれだった。
しかしどこか酸味も感じ、後味はすっきりしていて上手い。
桐秋はそのままごくごくと乳酸菌飲料を飲みながら、眼だけをちらりと横に向ける。
そこにはいつものように桐秋の口元を注視する千鶴の姿。
件のことがあってから、千鶴に何度か視線を外すようにお願いした。
が、千鶴は桐秋の食べ具合がどうしても気になるようで、言われたことを守ろうとしながらも、つい見てしまう。
したがって今は、桐秋が慣れてきたこともあり、千鶴の好きなようにさせている。
されど今日は、桐秋の飲み具合というより、飲み物自体が気になっているらしい。
視線がグラスの液体に注がれている。桐秋は千鶴に尋ねる。
「どうした。これに気になることでもあるのか」
その問いに千鶴はもじもじと手の手根部をすりあわせ、ためらいながらも気になっていたことを口にする。
「その飲み物は、初恋の味がするそうです」
千鶴の思いがけない言葉に桐秋は
「は・・・」
と気の抜けた声が出る。
千鶴は頬を赤らめ、恥ずかしそうに告げる。
「昨年その乳酸菌飲料が発売された時、雑誌に初恋の味がすると書いてあったのです」
桐秋は千鶴の言葉に呆気にとられながらも、ふっと目を細め、硝子の入れ物を手に尋ねる。
「まだ残りはあるのか」
千鶴はあと一杯分残っていると答える。
それを聞いた桐秋は、
「そうしたら君も飲んでみればいい」
と千鶴に勧めた。
「これは桐秋様のためにいただいたものなので、私は結構です」
そう言って千鶴は固辞するが、桐秋は
「私には甘すぎてこの一杯で十分だ」
と告げる。
千鶴は逡巡する様子を見せながらも、好奇心には勝てなかったのか、台所に下がり、同じものを持ってくる。
千鶴は未知なる液体を前に居住まいを正し、熱い茶を飲むかのように右手を器の横に添える。
初めてのものにどきどきする気持ちを抑え、グラスを正面から見据える。
意を決し、そろりと口に含むと
「おいしい」
とはじける笑みを浮かべた。そんな千鶴に、桐秋は少しからかうように尋ねる。
「初恋の味はしたか」
千鶴は問われた後、目を一度ぱちくりとさせ、もう一度それを口に含む。
よく味わうようにしてごくりと飲み込み、ひと息置いた後、ぽつり、ぽつり答える。
「桐秋様がおっしゃったように、とても、甘い味がいたします。
ですが、その中に少しの酸っぱさも感じます。
これが初恋の味、というならば、そうかもしれません。
私の初恋も、素敵な甘い思い出の中に、少しだけ、気恥ずかしい、甘酸っぱいような思い出がありましたから」
千鶴は昔の思い出に浸っているのか、長いまつげに影を作りながら、グラスの氷を指で回す。
千鶴にしては珍しい、少し行儀の悪い行い。
けれどそれは、一瞬垣間見えた千鶴の“素”の姿。
思いもしなかった千鶴の初恋の話に、桐秋は短く
「そうか」
とだけ返す。
桐秋は少し胸がつかえる想いがした。千鶴の初恋の話を聞いたからだろうか。
想いを流し込むように、桐秋は残り一口分の白い液体を喉に通す。
が、それは原液が混ざり切らず、底に残っていたものだったのか、甘く、重く、喉に残る。
先ほど感じたすっきりとした甘さとは違い、とても甘苦く不快なもの。
今の桐秋の心のように思えて、少しのいらつきを感じる。
どうにもならないモヤモヤを少しでも解消するため、桐秋は最後に残ったどこまでも澄んだ氷片を、歯で強引にかみ砕いた。