幼い頃、両親に連れられて訪れた屋敷の庭に不思議な桜の木があった。桜はみな薄桃色だと思っていた八重は、その薄い黄色の花に見入っていた。

「その桜、気に入った?」

桜を熱心に見ていた八重は、そう声を掛けられて飛び上がるほどびっくりした。声の方を振り向くと、屋敷の陰から利発そうな顔をした男の子が微笑みを湛えて出てきた。

「はい。これは桜……、なんですか? こんな色の桜は初めて見ました」

八重の言葉に気を良くしたのか、少年はふふ、と笑うと八重の隣に来て桜を見上げた。

「この桜はおじいさまが小さい頃に飢えられたものなんだって。鬱金桜と言って、おじいさまはこの桜が大好きで、僕の名前にもしたくらいなんだ」

「ではあなたは鬱金さんと言うのですか?」

「ふふ。それが違うんだよ。僕の名は浅黄というんだ」

「浅黄さん……」

八重が彼の名前を口の中で転がすと、浅黄は嬉しそうに微笑んだ。

「浅黄と言うのは鬱金桜の別名なんだ。この名前がある限り、僕はおじいさまに見守られている気分になるんだ」

誇らしそうにそういう彼に、素敵な名前ですね、と八重も微笑む。

「そう思ってくれる? じゃあ君には記念にこの花を上げるよ」

浅黄はそう言って木によじ登ると、桜を一輪、枝からもぎ取って八重の手に載せてくれた。

「今日の記念。また逢えたらいいね」

にこにこと朗らかに微笑む浅黄に、八重はありがとうございます、と礼を言った。

「こんなきれいな桜、ただ枯らしてしまうのは忍びないですね。栞にして大事にします」

そっと手のひらに包んだ、淡い黄色の桜を見つめて八重がそう言うと、そうしてくれると贈った甲斐があるよ、と浅黄も言った。

家に帰る時に両親にそのことを話すと、良い記念が出来たわね、と喜んでくれた。




八重の家は勲功を治めたことによる子爵家で、つつましやかな暮らしをしていた両親だったが、豊かな財を惜しみもなく一人娘の八重に使った。八重に掛ける父母の愛情は底深く、幼い頃から勉学に励み、習字や茶華道、ピアノなどを習い、ゆくゆくは貞淑な令嬢と目されていた。

ところがその両親が、流行りの感冒を悪化させて相次いでこの世を去った。齢十四の八重は男爵である叔父の家に預けられ、小学校を卒業した後、女学校に進むことを止めさせられた。

叔父の家には同い年の従姉妹がいた。物静かな八重と違い、派手なことを好む従姉妹は、八重が両親からの形見として持って来た着物も帯もかんざしも何もかもを取り上げて自分のものにした。人に逆らったことのなかった八重の必死の抵抗は、居候だからという一言でなかったことにされ、また父の財産を継いだ叔父もそれを止めず、おまえは居候なのだから、と、八重に使用人の仕事を宛がった。

元来おっとりした八重だったから、叔父の言動に反抗などできなかった。愛情深く豊かな生活は過去になり、叔父一家にかしづく日々が続いていた。

「八重! いつまで掃除をしているの! 雨が降りだしそうなのに、洗濯ものも干したままで!」

その日も叔母から叱責が飛んだ。廊下を雑巾がけしていた八重は、仕事が遅いと言って、持っている木の棒で八重の腕を叩いた叔母に向かって頭を下げ、申し訳ありません、と謝罪する。

「本来だったらお前のような愚図など、役立たずとして家を追い出してもおかしくない所ですよ! それを使ってやってることに、感謝はしているんでしょうね!?」

「はい、奥さま。至らない点が多く、申し訳ありません」

八重を見下ろす叔母にもう一度頭を下げて、謝罪する。廊下に額を擦りつければ、更に用事を言いつけられる。

「掃除は直ぐに終わらせなさい。洗濯ものを取りこんだら、あやめに傘を届けなさい。あの子、今日、傘を持って行かなかったから、雨に濡れると風邪をひいてしまうわ」

あやめと言うのは八重の従姉妹だ。今日は女学校の友達と新しく出来たカフェーへ行くのだと、朝、楽しそうに話していたのを、身支度を手伝っていた八重は聞いていた。

「はい、わかりました、奥さま。急いで傘を届けてきます」

「ああ、それから、帰りにお饅頭を買ってきて。午後にお茶を入れますから、そのお茶うけよ」

「はい、必ず」

言うことを言ってしまうと、叔母はもう八重に興味をなくしたように背を向けて去って行った。廊下の掃除はまだ終わっていないし、叔母の言うように雲行きも怪しい。早く掃除と洗濯ものを片付けて、あやめに傘を届けなければ。八重はあわただしく動き始めた。長い廊下を冷たい水に浸した雑巾で拭ききり、雨が落ちる前に干していた洗濯物を取り寄せ、たすきを外して家の裏戸からあやめの華やかな洋傘を持って、学校へ向かった。

どんよりと黒く垂れこめた雲が空を覆う帝都の街には、あたたかそうなインパネスコートやショールを身に着けた人々が行きかっていた。その中を、ぼろの紬だけの身なりで、俯いて歩いていく。顔を上げれば、華やかな装いの人々に、羨ましい気持ちが出てしまうからだ。

(身寄りのなくなった私を引き取ってくださったんだもの。おじさまもおばさまも、悪い人じゃないわ)

はあ、とあかぎれだらけになった手に息を吹きかけ、あたためながら女学校へと急ぐ。山手の一画にあるその女学校は、軽快なバランスの取れたフランス詰みの緋色のレンガ造りの建物で、丁度授業が終わったところだったのか、学生たちが煉瓦門をくぐって出てきているところだった。八重はその正門から出てくる生徒を見逃さないでいられる、少し離れた場所に立った。門の前には迎えの人力車がいっぱい待っていたからだった。

暫く寒い空の下待っていると、あやめが友人二人と共に門を出てきた。半結びをした髪の毛を大きなリボンで縛り、薄桃地に椿の文様をあしらった着物に赤色の袴を着たあやめは、どうやらこの三人でこれからカフェーに行くらしく、おしゃべりが途切れない。黒々と重く空を覆っている雲をちらと見て、八重はあやめに声をかけた。

「あやめさん」

呼びかけた声に、あやめが振り向く。友達と話していた時の名残の笑顔が、八重を見て一変、見下す目つきに変わる。

「なに? 八重に用などないのだけど」

「あ、あの。奥さまが、あやめさんが傘をお持ちじゃないとおっしゃって……。雨も降りそうですし、風邪をお召しになるといけないとおっしゃって」

そう言って八重があやめの傘を差し出すと、八重はその、自分の傘を持つ八重の手を見て、まなじりを吊り上げた。

「その汚れた手で、わたくしの傘を持って来たの? わたくしの傘が汚れてしまうじゃない」

「も、申し訳ありません……」

身を縮めて俯くと、あやめの友達が口を開いた。

「あやめさん、この人は?」

「ああ、家で使っている小間使いなの」

あやめの言葉に彼女の友人二人がじろじろと八重のことを観察する。ぶしつけな視線が痛かったが、なんとか奥歯を噛んで耐えた。

「まあ。わたくしたちと同じくらいの年頃なのに、垢ぬけないのね」

「仕方ないのよ。素地も教養もない子だもの」

両親が健在だったら、こんな風には言われなかったのに。そう思うが、死んだ人は生き返らない。未成年の身で路頭に迷わなくて良かったのだと、八重は考え直した。

「あやめさん。では確かに傘をお渡ししましたので、私は帰りますね」

「でも、降ってもいないのに傘を持ち歩くのは面倒だわ。……そうだ。八重、この傘、お前が持って帰りなさい。わたくし、道中で雨に降られたら、新しい傘を買うわ。その方が、お買い物も出来るし、お前が触った傘を持たなくても済むし、わたくし、その方が良いわ」

贅沢好きの叔父一家は、八重の実家の財産を自分の家に湧いた湯水のように使っていた。決して享楽のためにお金を使わなかった父母を思うと、八重はやるせなくなるが、それも口には出せない。はい、と首肯すると、もう八重には目もくれないあやめたちと別れて、来た道を戻る。お遣いを言いつかっているから、叔母ごひいきの店まで行かねばならない。天気がもってくれれば、と思いながら、八重は急ぎ足でその場を去った。



「毎度あり。いつもごひいきにありがとうね」

「こちらこそ、ありがとうございます」

和菓子屋の店主にそう言われて店を出る。軒の上の空はどんより重たく垂れこめて、今にも雨が落ちて来そうである。立ち並ぶ商店に集う人々も、足早に駅や家へと向かって歩いている。

(早く帰らないと、降ってきてしまうわね……)

八重は饅頭の包みをしっかり持って、帰りを急いだ。商店の通りを抜け、家の近くの公園まで戻って来ると、とうとう空からぽつぽつと雨粒が落ちてきた。

(大変。あやめさんはちゃんと傘を買えたかしら……)

八重も、自分用のみすぼらしい和傘を開いて、饅頭を守る。そのまま近くの公園の脇を通り過ぎようとした時、公園の大きな桜の木の下の三人用の腰掛に座っている男性を見つけた。男性は帝国海軍の軍服を着ており、トランクケースを傍に置いたまま、雨が落ち来る空を見つめていた。

(濡れて、風邪をひかないかしら)

そう思ったら、足が男性の方へ向いた。

「もし。濡れるとお風邪をお召しになりますよ」

八重が声を掛けると、男性は八重を振り返った。

美しい人だった。切れ長の双眸にスッと通った鼻梁。薄く、端が持ち上がった唇に、絹糸のようにサラサラの髪の毛。背広の皴から見て均整の取れた体躯であることも分かった。八重は落ちる雨から彼を助けようと、自分の傘を彼に差しかけた。

「やあ、ありがとう、お嬢さん」

そう微笑まれて、思わずどきりとする。今の家に引き取られてから、知らない男性に微笑まれたのは初めてだったからだ。おおよその世の人は、八重の綻んだ粗末な身なりを笑ったり同情したりした。屋敷の使用人たちのように給金が出るわけでもない八重は、どの使用人よりもボロの着物を着ている。こんな風に正面切って微笑まれたのなんて、もう十年以上経験がない。

「か、傘もお持ちにならず、なにをされていたのですか? お風邪を召されます」

軍服を身に着けていることからも、青年が華族なのだということが分かる。そんな人が、傘も持たずに何をしているのだろう、という素直な疑問だった。青年は人懐こい笑みを浮かべてこう言った。

「今日、欧州から帰ったばかりでね。傘の持ち合わせなど、無かったんだよ」

欧州……。やはり八重とは住む世界の違う人だ。

「お宅はこのあたりですか? 宜しければこの傘をお使いください。ぼろ傘ですが、無いより雨をしのげます」

八重はそう言って自分の傘を差しだした。青年は驚いたように、それは申し訳ないよ、と手を横に振った。

「いえ、私はこちらの従姉妹の洋傘(もの)も持っておりますし、家も近くです。もし私のことを気にされているのでしたら、ご心配には及びません」

八重がそう言うと、青年は、君は親切な子だね、と言って頷いた。

「ではお心遣い、ありがたく頂戴しようかな」

「はい」

傘を受け取ってもらって安心すると、八重は青年に頭を下げて公園を去ろうとした。すると。

「明日、傘を返しにこの公園に来るよ。待っている」

そんなことを言われて、言いつけのあった時にしか家から出られないのだが、八重は了承してしまった。




家に帰ると叔母に、饅頭の包みが濡れていることを叱られた。あやめの洋傘は、青年にああいった手前、公園から見える範囲では差しておらねばならず、青年から死角に入ったところで閉じはしたのだが、濡れてしまった。角を曲がってあやめの傘を閉じてからは雨の中を濡れて帰って来ており、結果、饅頭の包みは濡れてしまった。おまけに夕方帰って来たあやめは、女学校の帰りに八重と会わなかったと叔母に愚痴をこぼした。

「雨が降ってきて仕方なく傘を買ったのよ。わたくしだって、八重が傘を持ってきてくれれば、傘を新調するなんて考えないわ」

あやめの言葉に叔母が八重を叩いた。

「お前は言いつけられたことも満足に出来ないの!?」

叩かれた勢いで廊下に倒れ伏したが、あやめの言うことは違う、と八重は言いつのった。

「あやめさまが、新しい傘を買いたいからとおっしゃったのです。本当です……」

しかし叔母は八重の言葉を言い訳だと理解した。

「あやめに無駄遣いの罪を擦(なす)り付けようというの!? おまけに自分の傘を忘れて行ったからと言って、下働きのお前があやめの傘を使うなんて、お前は本当に根性が曲がっている! 今日は夕飯抜きです! 反省しなさい!」

最後にもう一度八重の頬を叩いて、叔母は部屋へと帰って行く。八重の隣であやめがくすりと笑った。

「お前が汚い手でわたくしの傘を持ったからいけないのよ」

ふふふ、と機嫌よく奥に行くあやめの背中を、八重は項垂れながら見送った。



翌日八重は、叔母に文句を言われないように家じゅうをピカピカに磨き上げると、裏戸から家を抜け出して公園へ向かった。必要な時以外、八重を閉じ込めていた屋敷を無断で出ると、心臓がどきどきした。

(奥さまに知られたら、きっと酷く折檻される)

でも。

(傘を返してもらいに行くだけだもの)

そう思って、春まだ早い風の中を公園へ急ぐ。走るから、余計に心臓が跳ねた。体の底から水が沸騰するかのようになにかがざわめきたつのを、我慢できない。

(どうしちゃったのかしら、私。そもそもあんな古い傘を、わざわざ返しに来てくれる人がいるのかしら?)

華族の位に居る人が使うのにも不似合いだったのに、それを持って、また公園に来てくれるなんて、本当は冗談だったのでは? そんな風に思ったのに、葉のない寂しい木々が立ち並ぶ公園に足を踏み入れると、昨日と同じところに青年が居て、八重はなんだか胸の奥がじん、と痺れてたまらなくなった。青年は今日は着物を着ており、そのたたずまいもくちなしの花の様で似合っている。走ってきて乱れた前髪を手で直しておずおずと青年に近づくと、青年は読んでいた本から顔を上げて、やあ、と朗らかに笑った。その笑顔にどきりと心臓が鼓動を叩く。

「こ、こんにちは」

頭を下げると、青年は本を脇に置いて、椅子に立てかけてあった八重の傘を手に取った。

「昨日、これを嫁してもらったおかげで、風邪をひかずに済んだよ。ありがとう。君はやさしい子だな」

「い、いえ! 困ったときはお互い様です!」

当たり前のことを褒められて、少し照れる。饅頭屋の主人のように、得意先と店、などという理由なしに人から褒められるなど、もうずっとないことだったので、青年の言葉が胸に染みた。

「これは傘の礼だよ。おうちの方と一緒に食べるといい」

そう言って青年が風呂敷から取り出したのは、銀座に店を構える和菓子屋の包みだった。流石にぼろ傘の礼としては不釣り合いで、八重は驚いてしまう。

「こ、こんな高価なもの、頂けません……。そもそも、その傘で雨漏りがしないか気にしていたくらいですのに……」

おろおろする八重に対し、青年は明朗に笑った。

「ははは。では饅頭ではなく傘を買って来ればよかったかな。次はそうしよう。取り敢えず僕はまんじゅうを食べないから、これは君に受け取ってもらわないと困ってしまう」

う、う……。差し出された包みの逃げ場がない。最後にずいっと差し出されて、八重は包みを受け取らざるを得なくなった。

(こんな立派なお店の包み、家に持って帰ったら、なにを言われるだろう……)

不安な気持ちが顔に出てしまったようだった。青年に、迷惑だっただろうか、と残念そうに問われてしまい、決して自分に向けられた厚意が嫌だというわけではない真実(こと)を伝えなければならなかった。

「あのっ、……あの、ご厚意とても嬉しいです……。ですが、私のような身分の人間には高級すぎて……」

「君は僕の身分を見越して傘を貸してくれたわけではないだろう? だったら僕も、その恩情に温情で応えたい。これは人の自然な気持ちだと思うが、君はどう思う?」

確かに青年の言うことは正論ではあるが、しかし八重にも事情がある。

「でも、私は下働きの娘です。この包みを持って帰ったとして、旦那さまや奥さまにどう説明したらいいのか、良い案が思い浮かびません……」

そう聞くと青年は、そうだったのか、と言って桜の木の下にある椅子に座ると、持っていた饅頭の箱の包みを開きだした。ぱりぱりと包装紙を開くと、白い箱の中に和紙に包まれた上品な大きさの饅頭が六つ、整列していた。

「そら。これを袂に入れて、持って帰りなさい。仰々しい箱などなくても、この小さな饅頭六つなら持って帰れるだろう?」

そう言うと青年は八重の手を持って、その上に饅頭を六つ、載せてくれる。大きな手が八重の手に触れて、かああ、と顔に熱が集まるのが分かった。

「さあ、袂に仕舞いなさい。仕事の合間にわざわざ来てくれて、ありがとう。帰国早々、良い人に出会えて、僕は嬉しかったよ」

「あ、はい……」

そう言って青年が促すから、仕方なく八重は饅頭を袂に仕舞った。その時、昨日木で叩かれたあざが袖口から出てしまった。

「君、その傷跡は何だい?」

「あっ、たいしたことではございません。私が愚図なのがいけないのです」

さっと傷を隠す八重の弁明に、しかし青年は眉を寄せた。

「暴力か……。そのような事、本来だったら許してはおけないが……」

「いえ、本当にお気になさらず。私は養って頂いている身ですので」

見ず知らずの人に心配してもらう程のことでもないと、八重はぱたぱたと顔の前で手を振る。しかし、もともと通りすがりで終わっていてもおかしくなかった人と、こうやってまた会えて、話が出来ただけでも奇跡だと思うのに、これきりになってしまうのが寂しい、八重は思った。彼の人好きする笑みが、そう思わせたのかもしれない。口ごもっていると、青年は微笑んで、君、名前は? と聞いてきた。

「……って、名を聞く前に名乗らないのは筋が通らないか。僕は宮森浅黄という。君は?」

浅黄……。その名は八重が大切な大切な宝物として、脳裏に刻んでいた名だった。幼い頃の、まだ苦労を知らなかった時の思い出。今も大事にとってある、黄緑色の桜の栞。しかし、宮森と言えばここら一帯の中でも高位の華族だ。先の大戦での息子の軍功も高く、天皇陛下からのお声がけもあったとのこと。そんな身分になってしまった幼い頃の彼と、今の自分が同じ思い出を共有できるわけがなかった。

「……八重、……と、申します……。斎藤男爵家で、働いております……」

「ほう、斎藤殿のところで」

「ご、ご存じですか?」

「そうだな、貰っている縁談のうちのひとつだ。令嬢が居るのだろう? しかし斎藤家は道楽のし過ぎで家が傾きかけていると聞く。娘を差し出そうというのも、その金策の為だろうな」

あやめとの縁談……。八重は目の前が真っ暗になった。幼い頃から心のよりどころにして来た桜の主(ぬし)が、あやめと結婚するのを見届けなければならない現実があるかもしれないことに、八重は落胆した。

「まあ、そういう縁談は多いのだけど、しかし本心で言うと、そういう縁談は好かない」

浅黄の言葉を聞いて、八重は少し安堵した。しかし個人の意見が通るほど、身分のあるものの結婚は自由ではない。浅黄も、あやめではないかもしれないが、家の為に結婚をするのだろう。そう考えると気持ちが沈んでしまいそうになったので、話題を変えようと試みる。