エレノアは烈火のごとき嚇怒を覚えるとともに、形容しがたい絶望感に打ちひしがれた。

 煙を上げて落下してゆく機体。激しい音を立てて燃えゆくその場にしがみついたまま、獣となり果てたオズは魔術を発動する。雷鳴のような声を上げると、指揮をとっていた部隊の一部が吹き飛んだ。
 やがて、血を流したまま飛び立つと、サンベルク帝国の兵士たちを次々と蹴散らしていく。背中には無数の鉄の矢が刺さっていた。

「ヴ、アアアアッ!」
「三時の方角、来ます!」
「はっ……なり果てて知性を失ったか、黒翼の王よ!」
「グァアアアア!」
「魔族ごときが、尊き愛を授かれると思うな!」

 まるで、火の海の上を飛ぶ、大きな黒い鳥のようだった。オズが叫ぶと空気が振動する。炎の渦がサンベルク帝国の兵士たちに襲い掛かり、丸焼きにしていった。だが、ハインリヒの指揮により、オズは集中砲撃を受ける。
 エレノアは青筋を流し、首を力なく左右に振った。それでもオズは攻撃をやめないのだ。とうに動ける状態ではない。乱血薬がオズの痛覚を麻痺させているだけなのだ。
このままゆけばエレノアの愛する者は確実に死んでしまう。エレノアとの思い出も忘れ、憎しみと悲しみに飲まれたままに死んでしまう。

「やめて…オズ、もう、これ以上苦しまないで」

 エレノアの涙が地面を濡らしていった。
 そこら中でサンベルク帝国の民の悲鳴が聞こえる。魔族の嘆きが聞こえる。オズだけではない。キキミックやガストマ、フィーネにベス。城下町で仲良くなった民たちの顔が浮かぶ。
 もし、皆が乱血薬を口にしていたら――?

 エレノアははじめて心から憎悪した。サンベルク皇帝を名乗る者を睨みつけ、立ち上がる。

(私が、諦めてはいけない…!)

 おそらくキャロルやターニャ、チムが己の身を案じているだろうと理解はしていたが、エレノアには己の無事を伝えにゆく猶予がなかった。

「かならず、おまえの望み通りにはさせぬ!」
「ならぬぞ。エレノア」

 身を翻しその場を駆けだそうとするエレノアを、皇帝直属の兵士たちが塞ぎこむ。十を超える数であったが、エレノアは怯むことなくそれらを圧倒した。

「…邪魔をするな!」

 瞬きをしたのちにその場に立っていたのはエレノアのみであった。エレノアの躰には青い光が浮かび、瞳は宝石のごとく輝いている。兵士たちの力に干渉し、無効化をしたのだ。

「く…、ははっ…どうあがこうとも、あの者はじきに死ぬぞ」

 サンベルク皇帝を名乗る者は、くつくつと笑う。

「死なせない」
「ああ…、腹立たしい。殺すだけでは飽き足らないな。八つ裂きにして、首を公に晒すとしよう。そうだ、そうしよう。そうして腐った肉を野良犬に食わせよう。死んでもなお私のエレノアを奪おうとするのだから、綺麗な死にざまなど与えてやるものか」
「…そんなこと、絶対にさせないわ!」

 深い嫉妬を露わにする男は、砲撃を受けて火の海に落下してゆく黒い物体を見てほくそ笑んだ。オズだ。
 エレノアは愕然とし、再度身を翻す。豪奢な装飾をすべて外し、走るうえで邪魔になる布地を破り捨てた。

(この争いをとめなければ!)

 エレノアは火の海と化した城下町へ単身で飛び込んだ。

 ターニャはチムを連れて、火の手が回る城下町を走り回っていた。

「エレノア皇女殿下はおられぬか!」

 突如宮殿にて爆発音が鳴り響き、瞬く間に城下町一帯が火の海と化した。信じられない話だが、子どもの頃より伝え聞かされてきた神話のように魔族から襲撃を受けたのだという。
 まずは祈りの儀式のために大聖堂に向かったエレノアの身が案じられた。何故、このような時にそばに仕えていなかったのか。ターニャは深く悔いた。同様に落ち着かない様子のキャロルに一言伝え、自分も連れていけと聞かないチムとともに大聖堂までやってきた。

 だが、様子がおかしい。
 エレノアがいないのだ。いや、そればかりか十を超える兵士が倒れている。それも、皇帝直属の近衛兵士だ。状況を確認しに行くため、チムを物陰に隠れるように命じ、ターニャは周囲を見て回った。
城下町を一望できる高台にて、サンベルク皇帝は取り乱す様子なく、穏やかに笑いながら城下町を見下ろしていたのだ。

 ターニャは声が出なかった。何故、国の緊急事態に微笑むことができるのか。しばらくその場に立ち尽くしたのち、慌てて跪く。
サンベルク帝国で最も権威のある人物に、何故、違和感を覚えているのか。

「ご、ご無事で何よりでございます。皇帝陛下」

 とっさに視線を床に向ける。

「エレノアを探しているのかい? あの子はね、燃える城下へと入ってしまったよ」
「は…?」
「君を信頼しての頼みだ。どうか探してきてくれないか。なれ果てた魔族に食われてしまうやもしれぬ」

(何故、そのように微笑まれながらおっしゃられるのだ…?)

 ターニャはなおも違和感が募った。それに、倒れていた兵士はなんだ。大の男が気絶をしている。斬られた様子もなければ、躰の一部を食われたわけでもない。いったい、誰に―――。

「…こ、皇帝陛下の仰せのままに。この命に代えてでも、皇女殿下をお守りいたします」

 浮かんだ疑念は喉の奥に飲み込んだ。
 敬意を払うとサンベルク皇帝は、なおのこと慌てるそぶりもなく城下町を眺めている。

「頼んだよ。エレノアは私の大事な子なのだ」
「…も、もちろんで、ございましょう」

 ターニャは敬礼をし、その場をあとにした。物陰に隠れていたチムを連れて、火の粉が飛ぶ町中を駆けていく。

(それにしても、皇女殿下はいったいどうして、このような危険を…!)

 歴史と威厳を重んじる王都の建造物が燃えていく。一部ではがれきになり、崩れているものもあった。そればかりか、焼け死んだ民、そして魔族に食われた民が転がっている。そのそばで泣いているのは幼子であった。
 戦場であってもこれほど絶望が漂う光景を目にしたことがない。赤く染まった空。王都に向けてと飛んでくる無数の黒い物体は、すべて魔族だった。

「どうして…そんな…!」
「チム、あれはおまえの仲間か?」
「そう…だよ。里の、みんなだ。ああ、なんで……どうなってるの、みんな、みんな死んじゃうよ! おれたちの肉体を強くする乱血薬を使ってるんだ!」