走馬灯のごとく駆け巡る記憶の数々。エレノアの頬には意図していない涙が流れていた。
 サンベルク帝国で伝え聞かされてきた神話は捏造されていた。それだけでなく、エレノアが信じてきた祖国は不純な動機から設立された、愚かな国家であったという事実に動揺が隠せない。

 人々はいったい何を信じさせられていたのか。
 何のためにひたむきな努力を強いられていたのか。
 何より、ひだまりのようにあたたかく、崇高な存在であると敬意を払っていた己が情けない。

「おまえが生まれてくることを、私は心から楽しみにしていたのだよ」

 加えては、エレノアの正面で微笑んでいる者はエレノアの父でなければ、誰でもない存在であり、女神オーディアや魔神デーモスを陥れた反逆者であった。
 変わりなく穏やかに笑いかけてくる様子に、エレノアは身震いを覚えた。

 よもや、敬意を払う必要もない。サンベルク皇帝――否、人間に成り代わっている形のない存在は、エレノアが女神オーディアの申し子であったから丁重に扱ったのだ。そればかりか、真の父と母を殺めている。

「民を、私を、ずっと騙してきたのね」

 エレノアはそう考えただけで泣いてしまいそうであった。エレノアの心のよりどころは幼い頃よりサンベルク皇帝だけだった。
 父や母を恋しく思いながら離宮での孤独な生活を耐え忍んできたが、それこそ貴重な力を持つエレノアをただ隔離していたにすぎない。

「騙してなどいないよ。事実、私はこの国を創造したのだ。そして、おまえや民たちの父となり、慈しんでいたのだよ」
「いいえ、騙している。あなたは、民のことなど少しも考えてはない。夢を見ることを禁じ、娯楽を禁じ、怠惰を悪とすることで、民の心を従順にする。……そう、信心深い民の心を利用し、扱いやすいようにしていた」

 女神オーディアの怒りがエレノアの意識の中へと伝わってくる。この者のせいで、人間と魔族はいったいどれほどの年月を争いあってきたのか。どれほどの血が流れたのか。どれほどの命の灯が消えたことか。このような世を女神オーディアも魔神デーモスも望んではいなかった。

「力というものは絶対なんだ。これがあればどんな者でも私の声に耳を傾けてくれる。願いを聞き入れてくれるのだからね」
「…だから、辺境の地の民を差別すると?」
「ごく当然ではないのかな。彼らは女神オーディアの加護を受けない。そういう者は誰からも相手にされないのが道理だよ」

 エレノアは怒りで小刻みに震えた。この得体のしれない者は私欲を満たすためだけに、己の国を創造したのだ。エレノアが信じていたものがどんどん崩れ去っていく。

「エレノア、できればおまえには何も知らないままでいてほしかった」

 そうして、ただ祈れというのか。今日この日も、エレノアはそのために大聖堂へ赴いたのだから。
 頑なに躰が拒んだのはこれがはじめてだった。手足が鉛のように重くなり、動かない。己の力で魔族たちを殺してしまっている――そう思うと、嘆かわしくてならなかった。

「おまえが、魔族の王と結ばれたいなどと言うものだから」

 サンベルク皇帝を名乗る者は憫笑を浮かべる。

「私は、誰に何と言われたって、オズワーズを心から愛している。それに、あなたに口出しされる筋合いはない」

 エレノアは敬虔に言い放った。

(民の目を覚まさせねば。でも、どうやって?)

 この国の民であれば誰もが崇める王だ。皇女であるエレノアは長らく離宮に隠れていたために発言力が乏しい。
 対峙している男は分かりやすく苛立っているようであった。