*
――原始。それは、毒の霧がかかり、大陸全土が怒りと悲しみ、絶望により赤く染まった頃よりも前のこと。
太陽が輝く青々とした空の下に、白銀の髪を靡かせている女がいた。
「もう! またそのような場所で昼寝などしてっ、時間に遅れてしまうわよ!」
透き通った声を張り上げる。女の視線の先には、立派な木の下で寝転がっている男がいる。
「そう急くな。オーディア」
「急くわよ…! だって明日は私たちにとってすごく大事な日になるのよ? ――デーモス」
一対の大きな翼に、凛々しい角。畏怖すら抱くほどの美貌を宿した男は、魔族であった。そして、デーモスの正面に座り込んだ女は、碧眼をもつ人間であった。
のちに神と崇められることになるオーディアとデーモスは、深い愛情でつながっていた。
「ああ、分かっている」
「ぜんっぜん、分かっていないわよ! この前だって、私との逢瀬を忘れて、魔族の兵の稽古につきっきりだったようだし!」
「あれは、仕方がなかった」
「…まったくもう、あなたって人は」
デーモスは躰を起こすと、眩しい太陽を見上げ目を細めた。オーディアはデーモスに手を差し出し、にっこりと笑う。
「行きましょう。お父様もお母様も首を長くして待っていらっしゃるわ」
みずみずしい草木の緑を踏みしめ、オーディアとデーモスは並んで歩く。道すがら彼らに声をかけてくる者たちがあった。
「おーい、オーディア、それにデーモスも!」
「今日も仲睦まじいねえ!」
人間と魔族が畑道具を持って、ともに土を耕していた。農作業を中断して声をかけると、オーディアは小さく手を振りかえす。デーモスは何もいわずに視線だけを寄こした。
「やあお二人さん、お元気そうで何よりだ!」
「いよいよ明日は、“結びの誓い”を立てるんだって?」
「これでさらに、世が明るくなるなあ!」
畦道の反対側から歩いてくる者も、人間とそして魔族たちであった。人間が運べぬ重い荷物を魔族が背負い、人間は壊れてはいけない貴重品を運んでいる。
人間が得意な作業、そうでない作業、魔族が得意な作業、そうではない作業がすべてにおいて存在し、民はそれらを分け合って生活していた。
「どうか祝福してくれるとうれしいわ」
オーディアは頬を染めて微笑む。
オーディアとデーモスはあくる日に“結びの誓い”をたてる予定となっている。
これは代々、人間の姫と魔族の王が築き上げるものだとされており、種族問わずに民衆はこの日を心待ちにしている。
誓いをたてた当日は、大陸中が鮮やかな花々で覆いつくされ、人間の姫と魔族の王の成就を祝福をするのだ。
オーディアとデーモスは、しきたりとは関係なく強く惹かれ合った。ヒカゲ草の咲き誇る中で逢瀬をし、ともに空を飛び回り冒険の旅をしたこともある。
「ともにあろう。オーディア」
デーモスは穏やかな表情を浮かべ、オーディアを見つめた。オーディアもまた深く頷き、二人の愛を確かめ合った。
「──ならぬ」
――だが、民衆が祝福する片隅に、暗澹とする者がいた。
その者は人でも魔族でもなかった。誰も名を知らぬ、形がない存在。幸せに胸を躍らせているオーディア、そしてそれをやさしく見守るデーモスの背中を見つめ、嫉妬の感情を募らせる。
己は誰にも認識をされない。形がなく、美しくない。種族の垣根を越えて互いに手を取り合う民衆は美しく、眩しかった。それらの架け橋となる人間の姫と魔族の王は、神々しく、恨めしかった。負の感情が募るごとに、嫉妬がぶくぶくと大きくなった。
形がない存在は、その夜、酔いつぶれた人間の魂をのっとり、オーディアに接触した。オーディアに問うた。
「魔族の王を、愛しているか」
すると、“愛している”と返ってくる。形がない存在は、猛烈に嫉妬をした。己には迷わず応えるほどに愛する存在がいないからだ。
あくる日の早朝、形がない存在は、寝室で眠っていたオーディアの父の魂をのっとり、デーモスに接触した。そして、デーモスへも同じ問いをぶつける。
「娘を、誠に愛しているか」
するとやはり“愛している”と返ってくる。形がない存在は、さらなる嫉妬に支配された。この者たちは愛し、愛されている。己は誰にも認知されず、愛されることがない。そして、愛す気持ちも知らない。祝福してくれる民もどこにも存在しない。
何故だ。何故…己だけ。
――羨ましい。
羨ましい。羨ましい。
羨ましい!羨ましい!
己も慕われたい。己も褒めたたえられたい。認められたい。なのに、闇の力を宿す魔族の男が何故、白銀の乙女に想われている? 可笑しい。何故、己は愛されていないのか。何故、この者だけ享受できるのか。
……ああ、そうだ。
であれば、己が奪ってしまえばいい。
「それは残念だ。私がたった今、殺してしまった」
形のない存在は、デーモスに残酷すぎる嘘をついた。オーディアの白銀の髪に似せたものを作り、はらはらとデーモスの眼前に振り落とす。しまいには、碧色の玉石を目玉に見立て、丁寧に渡してやる。
「なぜだ」
「ただ殺したかったからだ」
「なぜ、殺した!」
「本当は、娘が邪魔だったからだ」
デーモスは怒りと悲しみに狂った。形のない存在は、魔族の王の慟哭を目にして、はじめて嫉妬以外の感情を抱いた。形のない存在は、悦んだ。
負の感情に支配されたデーモスは、魔族を率いて人間の地を攻め入った。しだいに理性をなくし、ただの獣と化していく魔族に人間たちは成すすべもない。青々としていたはずの空に暗雲が立ち込め、毒の霧がかかり、大陸全土は、怒り、悲しみ、絶望で埋め尽くされる。
オーディアは嘆いた。己の声がもうデーモスには届かなくなってしまったからだ。なれ果てたデーモスの躰を抱き締め、何度も名を呼ぶ。
だが、猛獣のような唸り声を向けられるばかりであり、時にはオーディアにさえも牙を向いてきた。
「さあ、これからは我々の世界を築こう。オーディア」
形のない存在は、オーディアの父の魂をのっとったまま平然と声をかける。オーディアはうなるデーモスを抱き締めたまま、わが父を模した者を睨みつけた。
「あなたは誰。お父様ではないわ」
本来であれば、“結びの誓い”を立てるはずであった。花々が咲き誇り、異種族間の契りが祝福されるはずであった。だが――、その日は悪夢に変わった。
「ああ、なるほどようやく気付いたか」
「お父様に、デーモスに……、愛する者たちに、何をしたの!」
オーディアは涙を流しながら声を張り上げた。その間にも、理性を失った魔族は人間を食らい続ける。オーディアはこのように残酷な世を望んではいなかった。
「オーディアを殺したと伝えた。すると、どうだ、怒りに飲み込まれた」
「…!」
「何故、闇の力を宿す魔族の王ばかりが愛される? 妬ましい。だから、嘘をついて狂わせてやった」
形のない存在は、オーディアの父の姿をしたまま淡々と口を開いた。つい出来心で手を出してしまった、とばかりの言い方に今度はオーディアが怒る番であった。
「決して――…おまえだけは、許さぬ!」
オーディアは持てるすべての力をつかって、愛するものたちの尊厳をせめて守ろうとした。力を使い果たせば、オーディアの肉体は消えてしまうと理解していても、やめることはできなかった。
「いつか…、宿願の子がこの無念を晴らす! かならずや、この惨劇を祝福へと導く光となり、おまえの身を焼くであろう!」
オーディアは愛する大地に緑を、愛する人間に命を、愛する魔族に安らかな眠りを授けた。そして、己の血を雨に変え大地にしみ込ませ、自らを神格化したのである。
オーディアは最後まで、デーモスに寄り添うようにして消え去った。形のない存在は、それにさえも嫉妬をした。
(何故だ……何故、魔族の王などのために! ともに私と世を滑るはずのオーディアが奪われた!)
己には身を呈してまで庇い立てる者はいないのに、と唇を結ぶ。
(まあ……よい。じきに、オーディアと等しき力を継ぐ子が現れる)
真っ赤に燃え上がっていた空にはやがて青天が降り注ぐ。木々の緑は息を吹き返し、新しい時代が訪れる。
厄災の事実は、形のない存在――オーディアの父を模した者により捻じ曲げられ、やがてオーディアの力を引き継ぐ子が誕生すると、大地の女神オーディアを崇め奉るサンベルク帝国が建国された。
オーディアとデーモスは、ついに最後まで結ばれることはなかった。
――原始。それは、毒の霧がかかり、大陸全土が怒りと悲しみ、絶望により赤く染まった頃よりも前のこと。
太陽が輝く青々とした空の下に、白銀の髪を靡かせている女がいた。
「もう! またそのような場所で昼寝などしてっ、時間に遅れてしまうわよ!」
透き通った声を張り上げる。女の視線の先には、立派な木の下で寝転がっている男がいる。
「そう急くな。オーディア」
「急くわよ…! だって明日は私たちにとってすごく大事な日になるのよ? ――デーモス」
一対の大きな翼に、凛々しい角。畏怖すら抱くほどの美貌を宿した男は、魔族であった。そして、デーモスの正面に座り込んだ女は、碧眼をもつ人間であった。
のちに神と崇められることになるオーディアとデーモスは、深い愛情でつながっていた。
「ああ、分かっている」
「ぜんっぜん、分かっていないわよ! この前だって、私との逢瀬を忘れて、魔族の兵の稽古につきっきりだったようだし!」
「あれは、仕方がなかった」
「…まったくもう、あなたって人は」
デーモスは躰を起こすと、眩しい太陽を見上げ目を細めた。オーディアはデーモスに手を差し出し、にっこりと笑う。
「行きましょう。お父様もお母様も首を長くして待っていらっしゃるわ」
みずみずしい草木の緑を踏みしめ、オーディアとデーモスは並んで歩く。道すがら彼らに声をかけてくる者たちがあった。
「おーい、オーディア、それにデーモスも!」
「今日も仲睦まじいねえ!」
人間と魔族が畑道具を持って、ともに土を耕していた。農作業を中断して声をかけると、オーディアは小さく手を振りかえす。デーモスは何もいわずに視線だけを寄こした。
「やあお二人さん、お元気そうで何よりだ!」
「いよいよ明日は、“結びの誓い”を立てるんだって?」
「これでさらに、世が明るくなるなあ!」
畦道の反対側から歩いてくる者も、人間とそして魔族たちであった。人間が運べぬ重い荷物を魔族が背負い、人間は壊れてはいけない貴重品を運んでいる。
人間が得意な作業、そうでない作業、魔族が得意な作業、そうではない作業がすべてにおいて存在し、民はそれらを分け合って生活していた。
「どうか祝福してくれるとうれしいわ」
オーディアは頬を染めて微笑む。
オーディアとデーモスはあくる日に“結びの誓い”をたてる予定となっている。
これは代々、人間の姫と魔族の王が築き上げるものだとされており、種族問わずに民衆はこの日を心待ちにしている。
誓いをたてた当日は、大陸中が鮮やかな花々で覆いつくされ、人間の姫と魔族の王の成就を祝福をするのだ。
オーディアとデーモスは、しきたりとは関係なく強く惹かれ合った。ヒカゲ草の咲き誇る中で逢瀬をし、ともに空を飛び回り冒険の旅をしたこともある。
「ともにあろう。オーディア」
デーモスは穏やかな表情を浮かべ、オーディアを見つめた。オーディアもまた深く頷き、二人の愛を確かめ合った。
「──ならぬ」
――だが、民衆が祝福する片隅に、暗澹とする者がいた。
その者は人でも魔族でもなかった。誰も名を知らぬ、形がない存在。幸せに胸を躍らせているオーディア、そしてそれをやさしく見守るデーモスの背中を見つめ、嫉妬の感情を募らせる。
己は誰にも認識をされない。形がなく、美しくない。種族の垣根を越えて互いに手を取り合う民衆は美しく、眩しかった。それらの架け橋となる人間の姫と魔族の王は、神々しく、恨めしかった。負の感情が募るごとに、嫉妬がぶくぶくと大きくなった。
形がない存在は、その夜、酔いつぶれた人間の魂をのっとり、オーディアに接触した。オーディアに問うた。
「魔族の王を、愛しているか」
すると、“愛している”と返ってくる。形がない存在は、猛烈に嫉妬をした。己には迷わず応えるほどに愛する存在がいないからだ。
あくる日の早朝、形がない存在は、寝室で眠っていたオーディアの父の魂をのっとり、デーモスに接触した。そして、デーモスへも同じ問いをぶつける。
「娘を、誠に愛しているか」
するとやはり“愛している”と返ってくる。形がない存在は、さらなる嫉妬に支配された。この者たちは愛し、愛されている。己は誰にも認知されず、愛されることがない。そして、愛す気持ちも知らない。祝福してくれる民もどこにも存在しない。
何故だ。何故…己だけ。
――羨ましい。
羨ましい。羨ましい。
羨ましい!羨ましい!
己も慕われたい。己も褒めたたえられたい。認められたい。なのに、闇の力を宿す魔族の男が何故、白銀の乙女に想われている? 可笑しい。何故、己は愛されていないのか。何故、この者だけ享受できるのか。
……ああ、そうだ。
であれば、己が奪ってしまえばいい。
「それは残念だ。私がたった今、殺してしまった」
形のない存在は、デーモスに残酷すぎる嘘をついた。オーディアの白銀の髪に似せたものを作り、はらはらとデーモスの眼前に振り落とす。しまいには、碧色の玉石を目玉に見立て、丁寧に渡してやる。
「なぜだ」
「ただ殺したかったからだ」
「なぜ、殺した!」
「本当は、娘が邪魔だったからだ」
デーモスは怒りと悲しみに狂った。形のない存在は、魔族の王の慟哭を目にして、はじめて嫉妬以外の感情を抱いた。形のない存在は、悦んだ。
負の感情に支配されたデーモスは、魔族を率いて人間の地を攻め入った。しだいに理性をなくし、ただの獣と化していく魔族に人間たちは成すすべもない。青々としていたはずの空に暗雲が立ち込め、毒の霧がかかり、大陸全土は、怒り、悲しみ、絶望で埋め尽くされる。
オーディアは嘆いた。己の声がもうデーモスには届かなくなってしまったからだ。なれ果てたデーモスの躰を抱き締め、何度も名を呼ぶ。
だが、猛獣のような唸り声を向けられるばかりであり、時にはオーディアにさえも牙を向いてきた。
「さあ、これからは我々の世界を築こう。オーディア」
形のない存在は、オーディアの父の魂をのっとったまま平然と声をかける。オーディアはうなるデーモスを抱き締めたまま、わが父を模した者を睨みつけた。
「あなたは誰。お父様ではないわ」
本来であれば、“結びの誓い”を立てるはずであった。花々が咲き誇り、異種族間の契りが祝福されるはずであった。だが――、その日は悪夢に変わった。
「ああ、なるほどようやく気付いたか」
「お父様に、デーモスに……、愛する者たちに、何をしたの!」
オーディアは涙を流しながら声を張り上げた。その間にも、理性を失った魔族は人間を食らい続ける。オーディアはこのように残酷な世を望んではいなかった。
「オーディアを殺したと伝えた。すると、どうだ、怒りに飲み込まれた」
「…!」
「何故、闇の力を宿す魔族の王ばかりが愛される? 妬ましい。だから、嘘をついて狂わせてやった」
形のない存在は、オーディアの父の姿をしたまま淡々と口を開いた。つい出来心で手を出してしまった、とばかりの言い方に今度はオーディアが怒る番であった。
「決して――…おまえだけは、許さぬ!」
オーディアは持てるすべての力をつかって、愛するものたちの尊厳をせめて守ろうとした。力を使い果たせば、オーディアの肉体は消えてしまうと理解していても、やめることはできなかった。
「いつか…、宿願の子がこの無念を晴らす! かならずや、この惨劇を祝福へと導く光となり、おまえの身を焼くであろう!」
オーディアは愛する大地に緑を、愛する人間に命を、愛する魔族に安らかな眠りを授けた。そして、己の血を雨に変え大地にしみ込ませ、自らを神格化したのである。
オーディアは最後まで、デーモスに寄り添うようにして消え去った。形のない存在は、それにさえも嫉妬をした。
(何故だ……何故、魔族の王などのために! ともに私と世を滑るはずのオーディアが奪われた!)
己には身を呈してまで庇い立てる者はいないのに、と唇を結ぶ。
(まあ……よい。じきに、オーディアと等しき力を継ぐ子が現れる)
真っ赤に燃え上がっていた空にはやがて青天が降り注ぐ。木々の緑は息を吹き返し、新しい時代が訪れる。
厄災の事実は、形のない存在――オーディアの父を模した者により捻じ曲げられ、やがてオーディアの力を引き継ぐ子が誕生すると、大地の女神オーディアを崇め奉るサンベルク帝国が建国された。
オーディアとデーモスは、ついに最後まで結ばれることはなかった。