その日は月に一度の祈り日であったが、エレノアはいつになく寝覚めが悪かった。また、不思議な夢を見たのだ。
 おそらくは女神オーディアが見せているものであるのだろうが、どうにもエレノアの意識に訴えかけてくる。

 エレノアは夢の中でまた水の中にあった。前回と異なるのは、湖面に何かが映っていることであった。白銀の髪の女――おそらくは、エレノアの母である人がそこにはいた。赤子を抱き、森の中をひた走っている。

『どうか、どうかこの子だけは…!』

(母上…!)

 血相を変えて足を進める母は、何者かから逃げているようであった。先般の幸福溢れる内容から一転して、いったい何があったのか。そこには、父であるサンベルク皇帝の姿はないようであった。

『エレノア、あなたにはどうか…あなたらしい人生を、歩んでほしいのよ…!』

 エレノアが何度も声をかけるが、届かない。そして辺りは暗く暗転し、目覚めると高い天井が広がっていたのであった。
 エレノアはひどい胸騒ぎがした。とっさに窓辺を見やり、イェリの森に思いをはせる。

(オズ…大丈夫、よね…?)

 エレノアは両手を組みあわせて、静かに祈った。

「お師匠! ……こうか!」
「いいや、脇が締めが甘い」
「…こうか!」
「それでは懐ががら空きだ」

 身支度を済ませてエレノアが寝室から出てくると、バルコニーでチムが木刀を振るっていた。ターニャの厳しい指導に打ちひしがれることなく、チムは日々鍛錬を積んでいる。

(あのように恐ろしい思いをしたのに、勇敢だわ)

 いつか、人間と魔族がこのように力を合わせることができたのなら、とエレノアは夢を抱く。

「すっかり回復されたようで、何よりですね」
「ええ、そうね」
「ターニャもまんざらでもないようですし、これで、皇帝陛下のお心にも響くものがあればよいのですが…」

 しばしバルコニーで繰り広げられる光景を眺めていると、キャロルが声をかけてくる。
 今日は祈り日だ。この日こそはサンベルク皇帝のお目通りが叶うはず。エレノアは自らを奮い立たせた。

 清めの儀式を済ませ、エレノアは大聖堂へと向かったが、この日は普段と様子が違っていた。祈り日の際には、民衆で宮殿前広場が埋めつくされるほどであるが、この日にかぎっては一人としてその姿はなかった。
 エレノアは異様に思いながらも、重厚感のある扉に手をかける。中に入ると、サンベルク皇帝が出迎えた。

「皇帝陛下におかれましては、ご機嫌麗しく存じ奉ります」
「御機嫌よう。愛し子よ」

 エレノアは礼をとる。敬愛すべきサンベルク皇帝を前にして、何故、違和感を覚えているのか。先般の出来事があったというのにも関わらず、その穏やかすぎる笑みに、エレノアは躰を強張らせた。

「エレノア、私はね、本当におまえを大切に思っているのだよ」

 エレノアの心情を知ってか知らずか、サンベルク皇帝は説き伏せるように告げる。

「であるから、此度の件は…本当に残念であった」
「皇帝陛下…?」
「どうして、“大地の姫君”は…こうも魔族に惹かれてしまうものか」

 サンベルク皇帝は嘆息する。

(何をおっしゃっているの…?)

 エレノアは得体のしれぬ不安に駆られた。敬虔なサンベルク皇帝の表情が、笑っているのに冷たいのだ。

「そういう、因果にあるのかな。世を見せぬように閉じ込めておいたとしても、引き寄せあうようだ。…まったく、忌々しいかぎりだよ」

(閉じ、こめる…?)

 エレノアは愕然とした。目の前にいるのは、本当にわが父、サンベルク皇帝であるのだろうか。

「エレノア、おまえはね、女神オーディアの再来なのだ。なんせ、宿願の子だと、お告げがあったそうだからね」
「ち、ちうえ…? それは、どういう」

 サンベルク皇帝は不気味なまでに清らかに微笑む。

「それともう一つ、伝えておこうか。騙していて悪かったと思ってはいるが…私はエレノア、おまえの真の父ではないのだよ」
「え…?」
「驚いたかい? 無理もない。なんせ、おまえの父と母は、この私が密に殺したのだからね」

 エレノアは鈍器で殴られたような衝撃に打ちひしがれる。

(どういう…こと? 何かの、聞き間違いではないの?)

 ふるふると首を振って、事実ではないと否定をする。だが、サンベルク皇帝は憐れむ目を向けてくるばかりであった。

「悲しいね。悲しかろう。私も心苦しいよ」
「嘘、です」
「何故殺したか、分かるかい? ああ、分からないだろう」
「そ…んな、そんな」
「あの親子は、実に煩わしかったよ。私からおまえを隠そうとしたのだからね」

 エレノアは膝から崩れ落ちた。夢に出てきた父は、サンベルク皇帝ではなかった? 本物の父は、母とともにこの男に…殺された?

「愛おしいエレノアよ。“大地の姫君”の祈りにより得られた、女神オーディアの加護が、いったい何に使われていたのか…考えてみたことがあるかい?」

 サンベルク皇帝は女神オーディアの像を見つめ、恍惚と目を細める。エレノアは、これは何かの悪夢であってほしいと願わずにはいられなかった。
 エレノアは幼い頃から、父であるサンベルク皇帝を敬愛していた。離宮での孤独な夜には、父や母の温もりを恋しく思っていた。なのに、それが、すべて謀られたことであったなどと、信じたくはなかったのだ。

「民の…、暮らしを豊かにする、ため…では、ないのですか」
「半分はあっているが、それでは及第点というところだね」

 何か、恐ろしい予感があった。エレノアは、この先の答えを聞きたくはなかった。

「――…魔族を殲滅するために、使っているに決まっているだろう?」

 目の前が真っ暗になる。

「対魔族兵器はね、女神オーディアの加護により機能している。だから、おまえがあれに干渉できたのは、そのためだよ」
「嘘よ…嘘よ! そんなもの!」
「エレノア、悲しいけれどこれが真実なんだ。懸命に祈ってくれて、ありがとう。おかげで多くの魔族を葬ることができた」

(私が…私の力が、魔族たちを傷つけた…? 殺した…?)

 わなわなと震え、絶望がエレノアを支配する。何も知らないまま、祈りつづけていた。サンベルク帝国の繁栄のためと思い、清らかな祈りを捧げていた。あまりに無慈悲すぎる真実に、エレノアは何の言葉も出せなかった。

「騙していてすまなかったよ。寂しい幼少期を過ごさせてしまったことも。けれどそれは、女神オーディアの再来であるエレノアを、どうしても…あの忌々しい魔族の王に奪われたくなかったからなんだ」
「私の幸せを願ってくれたことも…偽りだったのですね」
「いいや、私はおまえを本当に愛しているんだよ。できればこのまま何も知らないままに、あたたかな家庭を築いてほしかったよ」

 エレノアは大きく息を吸って、顔を上げる。サンベルク皇帝はなおのこと陽だまりのような笑みを向けてくる。途端に、エレノアには得体のしれぬ人物に映った。

(“──ない”)

 すると、エレノアの視界が途端に乱れた。燃え盛る大地、赤く染まった空。白銀の髪の女が黒い何かを抱き締め、対峙している者を睨みつけている――。

(“決して――…おまえだけは、許さぬ!”)

 脳裏に響いたのは女神オーディアの怒りの声であった。エレノアが瞬きをするとその残像は消え去った。
 嫌な胸騒ぎが止まらない。何故か、今己がおかれている状況に既視感があった。

「あなたはいったい…誰なのですか」

 サンベルク皇帝はにっこりと笑って答えた。

「さて…誰であるかな。とにかく今日は良き日だ。エレノアに伝承の真実を伝えてあげようか」

 “良き日”。その言葉に、背筋が凍る。思い浮かべたのはオズの姿だった。