魔族の子どもはエレノアの治癒のおかげで一命をとりとめた。目覚めた時、不安そうに泣いていたが、エレノアの姿を見るなり安堵の表情を浮かべる。

「エレ…ノア? エレノアだ!」

 魔族の里で暮らしている子どもであった。サンベルク帝国の対魔族兵器の襲撃の際、民を庇いたてるエレノアを見ていたのだ。とびつくように抱き着くと、辱めを受けた恐怖を思い出したがごとく震え始めた。

「お、おれ…! 怖かっ…た」
「ええ、もう大丈夫よ」
「も、森で遊んでいたら、いきなり、や、槍で…!」
「よくここまで頑張ったわね、ほんとうに、偉いわ」

 エレノアはたまらなくなり強く抱き締めた。

(こんな子どもに…許されないことだわ)

 おそらくは、この子どもを魔族たちの前に晒し上げ、逆上をして向かってきたところを罠にはめる算段であったのだろう。エレノアは、こんなことは考えたくはなかった。

「あ、あの…皇女殿下、本当になんの問題もないのでしょうか…?」

 エレノアが魔族の子どもを宥めていると、物陰からターニャが顔を出した。神話で聞かされていただけの魔族が目の前にいることで、ターニャの警戒心をあおっているようであった。

「ひい! に、人間っ!」

 遠くからキャロルも見守っているが、それにようやく気付いた魔族の子どもは顔を真っ青にして怯えた。

「大丈夫よ。あの二人は、あなたにひどいことをしないわ」
「…で、でも、エレノア以外の人間は、おれ、怖いよ…」

 大きな目玉を潤ませて、エレノアにしがみつく。

「ターニャ、もう少し警戒を解いてはくれないかしら。この子が怖がっているわ」
「で、ですが…」
「お願いよ。この子は、私たちを害することはないわ」

 エレノアがターニャを諭すと、観念したように肩を落とした。だが、はじめて接する魔族に緊張は隠せないようであったが。

「そ…その、申し訳なかった。貴殿に危害を加えないと誓おう」

 ターニャが膝をついて魔族の子どもにぎこちなく声をかける。キャロルはその一部始終を見てクスクスと笑っていた。

「本当に…? 怖くない人間なの…?」
「ああ、怖くない。皇女殿下の御前で、嘘偽りは申し上げない」

 魔族の子どもはほんの少し安堵をした様子であった。ターニャの態度は少々ぎくしゃくしているが、エレノアには彼女が魔族を受け入れてくれたことが何よりもうれしかった。

「ここにいれば、あなたを辱めた者たちは手出しができないわ。だからどうか、安心して」
「……エレ、ノア」
「すごく、怖かったでしょう。痛かったでしょう。心細かったでしょう。さぞ…人間が恨めしかったでしょう」

 ぎゅっと抱き締めてやると、魔族の子は壊れたように泣き喚いた。躰の傷は癒えども、心の傷は簡単には癒えないのだ。一度、恐怖の底に沈んだ経験は、魔族の子どもの中に永遠につきまとう。ましてやこの子の血縁の怨恨、そして悲しみは、すさまじいだろう。
 何故、争いあわねばならないのか。何故、憎しみあわねばならないのか。エレノアは悲しく喘いだ。

「怖かったよおお! 呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる!って、何度も…思った!」
「…ええ」
「エレノアはおれたちの里、守って、くれたけど…やっぱり、人間は…怖いし、憎いよ」
「ええ」
「なんでおれが、こんな目に…! はやく、里に帰りたいよおお…!」

 魔族の子どもの嘆きをエレノアはただ受け止めた。そして心に誓う。必ずやこの子を魔族の里に返してやらねばと。

「大丈夫。私が何とかしてみせるわ」
「ぐずっ…、本当、に?」
「ええ。だからどうか、元気を出して。それから…よければ教えてほしいのだけれど、あなたのお名前は?」

 エレノアが魔族の子どもに問いかける。

「チム、だよ」

 一つ目の鬼形の魔族の子どもは、エレノア、ターニャ、そしてキャロルを見回して名前を口にする。
 ターニャとキャロルはチムの凄惨な叫びに心を打たれているようであった。

「素敵な名前。ねえ、ターニャもキャロル女官長もそう思うでしょう?」

 エレノアはターニャとキャロルにも魔族と関わりを持ってほしかった。そして願わくば、チムにもエレノア以外の人間と打ち解けてほしかったのだ。

「ええ、とっても。ねえ、ターニャ」
「…っ、ま、まあ、そうですね。たくましい男児に育つ名でありましょう」

 キャロルは恐れることなくチムのもとに歩み寄り、挨拶をする。ターニャに促すと、咳払いをして遠回しに褒めてくれた。
 チムは“たくましい”という言葉が気に入ったのか、うれしそうに飛び上がった。

「ほ、本当か! オズワーズ様のように、おれもなれるか?」
「…あ、ああ。そのオズワーズ殿がどのような方であられるのか、存じ上げてはいないが、おそらくは、その……、だからっ、貴殿はあのような辱めを受けてもなお、根気強く生きておられるのだ。私は、その雄姿を称えたい」

 ターニャは言いにくそうにしていたが、エレノアは彼女が嘘をつけない愚直すぎる人間であることを知っていた。それがチムにも伝わったのだろう。きらきらした瞳をターニャに向ける。

「ターニャは男性に負けないくらいに、とっても強いのよ」
「そうなのか…!?」
「このお部屋で過ごしているのも退屈するでしょうから、傷が完治したら、稽古をつけてもらうといいわ」
「…皇女殿下っ!?」