「昨日の件、部下より報告がございました。エレノア皇女殿下の身に何かあれば、と。このハインリヒ、生きた心地がいたしませんでした」
「……」
「いったい何故、あのような場所に? 魔族どもに、何か、脅されていたのでは?」
「そのようなことはございません」
「清らかな皇女殿下が、あのような、陽もささぬ汚れた場所にあってはなりません。ああ……もしくは、御心を操る魔術でもかけてられておられたのでしょう!」

 野心を宿す力強い瞳。快活な声はよく応接室に響き、エレノアの胸に突き刺さった。ハインリヒは己の正義を疑わない。曲げない。それは、サンベルク帝国の民の性質、そのものであった。

「ハインリヒ様、私は」
「ですが、もうご安心ください。今後は、このハインリヒがあなた様のおそばでいつまでもお守り申し上げます」
「…っ、私は、」
「エレノア皇女殿下はこの世の神秘。あんな醜い魔族の王の隣に並ぶなど、あってはならな――…」

 エレノアはそこで沸点が上がった。

「それ以上、何も言わないで。彼を、魔族を、侮辱することはこの私が許さないわ」

 エレノアはこのようにあからさまな敵意を誰かに向けたことなどなかった。たとえ、エレノアが愛すべきサンベルク帝国の民であろうとも、許容できない発言であった。
 眉を吊り上げるエレノアに、ハインリヒは押し黙った。そして、さらにエレノアは告げる。

「王都に戻りましょう。皇帝陛下に私から、じきじきに申し立てをしたいと思っているの」
「なっ…、何を、仰るのですか」
「それから、ハインリヒ様。あなたからの求婚のお話も。せっかくよくしていただいたのに、ごめんなさい。私には、伴侶にしたい方がいる。だからあなたの気持ちに応えることが……できない」

 迷いのない言葉だった。
 エレノアの中には常にオズがいる。オズのぬくもりを今でも忘れていない。オズからの愛以外、迎え入れることはできないだろう。
 離宮から出たばかりの頃は、まさか己がこれほどまでの激情を抱くことになるとは思いもしなかった。恋など愛など、少しも語れなかった。だがどうだろう、オズと離れてからはより一層、強く愛おしさを覚えている。みなぎるような心強さと、胸の奥に隠れている寂しさ。
 ――これが、誰かを愛するということ。

 ハインリヒは愕然と眼を見開き、やがて、途方もない遠くを見つめる。

「そうか……あの下劣な王め」
「…え?」

 エレノアには届かぬ小さな声で呟く。そしてエレノアの前に跪くと、忠誠を誓うごとく熱烈な視線を向けてくる。

「憚りながらこのハインリヒ、それでも皇女殿下をお慕い申し上げております」
「ですから」
「ひと時の冒険譚に夢を見られたのでしょう。貴殿があるべき場所は、このサンベルク帝国。故に、あなた様を守り抜くことができるのは、この私でございます。ほかの誰でもなく」
「私は!」
「断言しましょう。皇帝陛下は、皇女殿下のお望みを聞き入れてはくださらない。……絶対に」

 発言に被せるようにハインリヒが強気に述べたが、エレノアには理解が及ばなかった。何故、ハインリヒがそうだと言い切れるのか。サンベルク皇帝は慈悲深い男であることを、エレノアが誰よりも知っている。娘を真心を込めて愛し、一人の女として幸せになってほしいと願ってくれたその人が無碍にするはずがない。

 まもなくして、王都へ向かう馬車が到着する。
 エレノアはその日、辺境の地ニールをあとにした。