「あら、ベス。ご機嫌よう!」
「ご、ご機嫌よう…! なんだか照れ臭いな、この挨拶」

 エレノアはベスのそばまで駆け寄り、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。元気そうでよかった、とエレノアは胸を撫でおろす。

「あの…その節は大変お世話になりました」
「いいえ、無事に引き合わせることができてよかったわ」
「この子、あの日からあなたに憧れてしまったようで…」
「あら、そうなの? なんだか恥ずかしいわ…」

 ベスの母親が恭しく頭を下げる。エレノアはうれしさとともに、罪悪感を抱いた。この瞬間ですら、エレノアは己の正体を明かしてはいないからだ。もしも仮にこの場でマントを脱ぎ、オズの魔術が作用していない真の姿を晒したのなら、どうなるものか。

(きっと私を糾弾する。そればかりか…)

 エレノアは自身に嫌気すら感じた。これでは、ただ己がたのしいだけだ。オズの背中を追いかけていたいのに。

「おぉ~、泣き虫ベス、元気かあ? おお、それにエレノアにフィーネも。今日は人間を買いにきたのか?」
「あらあら、見てたわよぉ? この前は立派だったわねえ」
「よおフィーネ、あんまりエレノアの嬢ちゃんを連れまわしてくれるなよお?」
「うっせえな、じじいども! エレノアはこうみえてあたしよりもお転婆なんだよ!」
「なるほど、そりゃあいいことだ。今度うちの店に遊びに来な。迷子探しを買って出てくれた礼に、サービスしてやっからさ」

 エレノアがフィーネやベスとともにいると、通りすがる魔族の民がしきりに声をかけてくる。中には面識のないはずの者まで、エレノアの顔と名前を知っているようであった。
 瞬く間にエレノアたちの周囲は賑わい、談笑がはじまる。

(悲しい運命をたどっているのに、どうしてか、とてもあたたかいわ…)

 サンベルク帝国ではどうしてこのようにならないのだろう。エレノアは、ハインリヒの辺境の地の民への態度を思い浮かべた。
 魔族の民たちのように等しくあれないのか。この期に及ぶまで、わが国の実態を知りえていなかった己が恥ずかしくなった。

「ありがとう。お言葉に甘えて、今度お邪魔させていただくわ」
「ああ、ぜひ来てくれ! エレノアのようなべっぴんが来てくれたら、辛気臭いうちの店にも花が咲くってもんよ」
「へえ~…誰が辛気臭いってえ?」
「……ひ、ひい! なんだ、お前さんいつのまに!」

 壮年の魔族の男は妻らしい女に尖った耳をつかまれる。血相を変えた様子に、エレノアはクスクスと笑ってしまった。



「それにしても、今回もかなりの兵が徴収されたみてえだなあ」

 フィーネやベスと顔を合わせていると、大柄のトカゲ型の魔族の男が低い声でつぶやく。

「おかげさまで人間にありつけてるわけだが…その分、こちらの消耗も激しいだろう」
「きっと、ほとんどのやつが秘薬を飲んでお陀仏さ。俺たちはそいつらの分まで、たくましく生きなきゃならねえ」
「秘薬…?」

 エレノアは男に問いかける。すると男は、胸もとから小さい巾着を取り出してその中身をエレノアに見せてくれた。

「お嬢ちゃんは知らねえのか。これだよ。乱血薬」
「乱血薬…」
「なんだ、持ってねえのか。ここらではだれでも所持してるんだぜ。いつ何が起こるかもわからねえ。そうなると、家族は自分の手で守らねえといけねえからな」

 エレノアは人間であるため、当然のことながら乱血薬がどのようなものであるのかは分からない。首を傾けていると、フィーネも胸もとから巾着を取り出して見せてくれた。禍々しいまでの紅色に輝く、飴玉のようなものだった。

「これは、よほどの時がないかぎり、口にすることは禁じられているんだ」
「ごめんなさい、私何も知らなくて」
「まあ、いいところのお嬢様だしな。力を強制的に開放して、死に至らしめる薬…なんて、持っていてほしくはなかったんだろ」

 エレノアは衝撃のあまりに言葉を失った。

(死に至らしめる…?)

 見れば、幼子であるベスの胸もとにも巾着がぶらさがっている。ベスの母親もそうだ。エレノアは愕然とした。

「あたしらは覚悟をもって戦ってる。いざというときは自分を犠牲にしてでも、同胞を守る」
「…そん、な」
「僕も、マンマを守るんだ!」

 エレノアがさらに悲しかったのは、自己犠牲を厭わない雰囲気がそこら中から沸き起こっているからだ。

 エレノアは唇を噛み、こぶしを握る。一刻もはやく王都へ戻り、サンベルク皇帝に申し立てをせねばならない。慈悲深いサンベルク皇帝であれば、エレノアの気持ちを汲み取ってくれるはず。
 心臓が早鐘を打ち、気が早まって身を翻そうとするエレノアをキキミックが慌てて制した。

「お待ちを…エレノーー…っ」

 ――ドドーーンッ!!!

 その刹那のことであった。森が激しく揺れた。いや、森が激しい爆風をあげて、燃えていた。

「いやあああああ!」

 先ほどまでめでたい雰囲気が漂っていた広場は、一転して恐慌状態となった。

 何が起きたのか理解できず、呆然とする者。慄然として泣き出す者。爆発のあった方角から、躰の一部を焼失させた魔族たちが血まみれのまま逃げてくる。
 どろり、と流れる真っ赤な血。鉄のさびついた匂い。うねりをあげて燃え広がる炎。エレノアは愕然とし、己の目を疑った。

(いったい、何が起こったの?)

「敵襲だあああ!」
「女、子どもは今すぐに逃げろ!」
「――人間だ!」
「うわああああん、お父ちゃあああん!!!」
「誰か…足が…俺の、足が……」

 飛び交う悲鳴と絶望。
 ベスの母親は我が子を抱き締め、フィーネは恐れのあまりに腰をぬかしてしまっている。キキミックに至っては一つしかない目玉をぎょろりとさせ、小刻みに震えていた。

「ななななな何故、何故、人間が…里を、そんな、馬鹿な!」

 これまで、里を直接襲撃されたことはなかったのだろう。キキミックは愕然とした様子で立ち昇る煙を見つめている。

「あんたはベスを連れて、安全な場所に避難をしろ! フィーネに、エレノアもだ」

 近くにいた大柄のトカゲ型の魔族が切羽詰まった様子で指示を出す。だが、エレノアの足は後方へ向くことはなかった。

「おいエレノア! あんた何を!」

 一歩、また一歩と、煙が上がっている場所へと足を進めていく。とっさに呼びつけるフィーネの声に耳を傾けることもせずに、エレノアは惨劇の場所に立ち向かおうとしていた。

「なりませぬ! エレノア!」
「あなたはここで待っていて、キキミック」
「だめだ! エリィ、あんた――…何を考えて!」

 ふわり、熱気が立ち込める風が吹き付けてくる。

 轟轟と音を立てて燃えていく森。この里は、オズが守ってきた場所だ。

 襲っている者が本当に人間であるのか、エレノアは確認しなくてはならない。もしそれが帝国の兵士だというのなら、皇女であるエレノアが止めねばならない。

 深く被っていたマントが爆風にのって落ちてゆく。

「――…騙していて、ごめんなさい」

 エレノアの白銀の髪が流れる。オズにかけられていた魔術が溶け、魔族の民たちの前に人間の娘が浮かび上がる。
 人間だ――…と、誰もが息を飲んだ。

「ここは、私の大好きな場所よ。必ず……あなたたちを守ってみせるわ」

 傷つけさせない。己の立場が危うくなろうとも、構わない。
 エレノアは瞳に強い意思を宿し、身を翻して爆風の中を突き進んだ。